夢のつらなり★

シベリヤに来る途中、コサックに倒された『私』こと『商人様』エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。
熱にうなされながら、意識は、夢の中の子供時代と現実の自分のあいだを行き来しています。
夢のなかでも、現在の現実のなかでも、とても好みの女性を見かけたような気がするのですが。

夢の過去 1826年、シベリヤ

夢はしつこかった。

まったくそこは明るかった。
私は子供時代に戻っている。ロシヤ帝国北西部、旧首都にほど近い農園である。
夏の一日は長く、さわやかだった。
私は領主館の長椅子でうたた寝をしている。
白樺の枝が露台に張り出している。露台からは鳩小屋に出られた。
目覚めると、刺繍か繕い物をしていた小間使いが顔を上げ、あやすように言った。
『坊ちゃま、クワス【*清涼飲料】をお飲みになりますか?』

—-

ああ、夢なのだな、と私は思う。

残念ながら私は子供ではない。
見知らぬコサックが私の馬を棒で倒した。
そこから、ずっと歩いてシベリヤの街まで来たのだ。
駅舎にたどり着いたところまでは覚えている……。するとここは、おそらく、目的のリャードフ家だ。
……頭ががんがん痛い。

私はふたたび眠る。夢の中に入っていく。

—-

領主館の居間の壁には母の肖像がある。
若く、憂鬱そうで、美しい。
憂鬱そうなのは父のせいだ。

居間の隅にある聖なる祭壇に向かって誰かが祈っていた。吊り香炉が揺れ、乳香のかおりが広がる。
父はロシヤ正教の信徒だが、もちろん不真面目な正教徒で、イコンや聖像を飾った祭壇も放ったままだ。
誰か召使い女が代わりに手入れしていた。
うたた寝をしていると、いつも女が小声で祈る声がした。

—-

これも夢なのか? それとも現実なのか。
女の祈り声が生々しく聞こえる。

『……聖ニコラ様、この旦那様が良い方ならばどうぞお助けください。……悪い方ならば殺してください……』
祈っている女が見えた。知らない女だ。いや、本当に知らないのだろうか?

見覚えはある。とても似た女を知っている。
陰気な横顔が見える。頭巾からはみ出た髪は藁色で、質素な亜麻のルバーハ【*シャツ】に青いサラファン【*ジャンパースカートふうの民族衣装】を重ねている。
召使いだろう。

祈る女が近づいてきて私を覗きこんだ。
似ている女とは、どうも違う人物のようだ。
あの女のように邪悪ではない。
「……これは夢なのか?」
私は訊いた。声が出ているのかどうかわからない。
女は私の問いに答えなかった。

陰気な女で、もう若くはないが、美しかった。
私の目は熱でよく見えない。その女の美しい瞬間ばかりが集まり、私の前で移り変わっていっているように見えた。

やや面長で、薄く見えた唇は意外と肉厚である。濃い石榴の実の色をしていた。そこだけ官能的だ。
伏せた目を泣き腫らしている。藁色の睫毛の隙間に涙が溜まっている。目のまわりが赤くなっているのが鮮やかである。
女は子供のようにしゃくりあげた。ああ、可愛らしいではないか……。

何故泣いているのだろう?
私のためということはあるまい。だが、そうだったら良いのに。

額に女の手が触れた。冷たくさらさらして骨のようだ。
『……聖ニコラ様、何日も熱が下がりません。ああ、この旦那様をお助けくださいまし……良い方ならお助けください』

驚いた。この女が泣いているのは私のためなのか!
だが私は『良い方』ではないのだ。突き放されたような、寂しい気分に襲われる。

この家ではたくさん氷を保存しているのであろう。女は氷を頭巾に包んで、私の額にそっと載せる。
寝台の上に掛けてある布は毛皮の手触りがした。たぶん兎の毛だ。

こちらが現実だ、と私は思う。
ここは私の先祖からの領主館ではなく、私も子供ではない。

『魔女なんだよ、あの女は。薬草なんかいじってやがる!』
部屋の外で、野太い野蛮な声で誰かが怒鳴っている。
そうか、この女は魔女なのか。
「おまえは魔女なのか?」
女は答えず、やはりずっと泣いている。
どうも今の私は声を出せない。

私はまた、子供時代の領地に戻っている。

うたた寝から覚めると料理女が言う。
『坊っちゃま、クワスはいかがですか?』

領主館に魔女が来た。
先ほど私の顔を覗き込んでいた女だ。
私のことを泣きながら祈ってくれた女である。

いや、違う。
髪の色がもっと濃いし、涙の跡は微塵もない。
だが、肉厚の石榴の実の色の唇はそっくりではないか?
この女は魔女のフョークラだ。領地では、そう呼ばれていた。
農奴なのに農作業もせず、一人で森に住んでいた。
惚れ薬を作ったり、堕胎をさせたり、誰かを呪い殺す呪いをしたりしている。

領主館に魔女のフョークラが来るとはよほどのことだ。
母の病は篤あつく、医者も匙を投げた。
魔女は薬草に詳しい。フョークラが母に煎じ薬を飲ませている。

母がフョークラに言う。
『精がつく気がするわ……』
外で父が、燕麦を盗んだ農奴を鞭打っている。優しい母が小間使いに命じた。
『ああ、窓を閉めて。あんな音、聞きたくない』
魔女が小声で母に言う。
『奥様も鞭打たれなすれば良いのさ。死んだ後も魂が森をさまよい、秘密の小屋を覗いては苦しむだろうね』

—-

夢のなかの場所は勝手に変わる。

私は少年で、領地の白樺の森の中を歩いている。
枝を拾い、白樺の幹を叩きながら歩く。キノコや鳥、小さな蝶が私を楽しませた。
領地はすべて歩きまわり、すべて知っていると思っていた。
だが、急に樹林が開けた。見たこともない新しい小屋が建っている。

小屋の前の道で、裸足の農奴の男が(たきぎ)を拾っている。
私に言う。『坊っちゃま、あそこには魔女が住んでるんでございます。近寄ってはなりません』
農奴の身で領主の嫡男たる私に意見するとは無礼である。私は手に持った小枝で彼を打つ。
魔女の家の前につながれているのは父の栗毛の馬だ。

—-

魔女が泣きながら私を覗きこむ。
これは良い魔女のほうだな、と私は思う。
フョークラが私のために泣くはずもない。私はいくつだろう。十一歳だろうか。
良い魔女がいるほうが現実か?

『ああ、聖ニコラ様、どうかこの旦那様をお助けください……』
聖ニコラは我がロシヤの守護聖人だ。魔女が祈る相手だろうか。
薬草の匂いがする。女は泣き続けているためか、目蓋が赤い。

—-

十一歳の私は、森を切り開いて建てられた魔女の小屋を覗いた。
薬草を漬け込んだ瓶がたくさんある。
乳母が『毒キノコだから絶対に食べては駄目でございます』と口が酸っぱくなるほど言った赤い傘のキノコが笊ざるいっぱいに摘まれている。
もしかして魔女のフョークラは、母にあれを飲ませたのだろうか?

粗末な敷物だけの木の床に、父の後ろ姿が見えた。
父はひざまずいている。魔女の、大きくはだけた胸元に左手を伸ばしていた。
白く重たげな乳房を乱暴に掴んでいる。洒落者の父は、欧州から取り寄せた黒い乗馬服姿だ。
束ねた黒い長髪と黒い乗馬服が白い肌を這う影のようだった。

父の頭は下を向きながら、細かく動いている。
あれは首筋に接吻しているか、もうひとつの乳房を口に含んでいるのだ。
その光景は続き、魔女は服をすべて脱ぎ捨てる。
床に座り込み、頭を低く下げ、父の何かを咥えている。

聖人のイコンが上下逆さになり、投げ矢の的になっていた。

—-

兎の毛皮が手に触れる。
私は子供ではない。これは夢ではない。
頭が割れるように痛く、寒気がひどい。泣いている魔女はどこだろう?

魔女が近づいてきた。
「君……」
呼んでも答えない。
私の声はやはり出ていないのだろう。

魔女の薬草の匂いとともに、やわらかで冷たい唇が私の唇に触れた。温く濃い液を流し込む。
熱い茶を口の中でぬるめたのであろう。魔女は藁色のまつげを濡らし、あいかわらず泣いている。

『ああ、聖ニコラ様、この旦那様をお助けくださいまし……。良い方ならばお嬢様の花婿になってくださいますように……。悪い方でも無事に生き返られますように』

女の祈りの内容は少しずつ変わっている。
悪い方でも私は殺されなくなったのか。嬉しかった。

ぼんやり見える室内には鳥籠が吊るしてあった。
なかにいるのは三羽の鸚鵡だ。南国の鮮やかな緑や青の鳥が羽ばたきしている。

魔女の冷たい唇が私の唇に再び触れる。口内で温めた甘い薬湯を再び流し込んだ。私は薬湯を飲み込む。
『ああ、聖ニコラ様、ありがとうございます。旦那様が飲んでくださったわ……』
本当に嬉しそうに独りごとを言う。涙が私の頬に垂れてくる。
まるで恋人のようだ……。

『どうか良い方で、お嬢様の花婿になってくださいますように……』
お嬢様など知らない。私は失望する。
どうして自分の花婿にと祈ってくれないのだろう。

ああそうか、この女は若くない。とうに夫がいるに違いない。
それでも今は、私のために泣いてくれているのだ。

また夢だ。
夢が連なって、どこにいるのかわからず苦しい。

領主館には鳩小屋があり、父は時々伝書鳩を飛ばしていた。
飛ばしたその日は遠乗りに出かけ、夜遅くまで帰らない。そして母が泣くのだ。
鳩を飛ばさない日に森に行ってみようと考える。

私は裏庭で気にくわない農奴を鞭打って遊んでいた。
家庭教師がとぼとぼ歩いてきた。

『ルーシのエウゲニオス獰猛公どうもうこうよ』

イギリスから来た家庭教師は私にコイネー……古典ギリシャ語で渾名をつけてくれた。
ヘンリー・リード卿は欧州文化の母たるギリシャやローマの文芸に造詣が深い。
だが今はただの現代ロシヤ語を話す。

—-

また鸚鵡の部屋にいる。夢から覚めたのか?

私は昔の家庭教師、ヘンリー卿を探しているのだ。……

そして、あの泣いている女はどこだ?
私のために泣いていたのにどこにいったのだ。

—-

ヘンリー卿が裏庭に来る。
農奴を鞭打つ私に言う。たいそう冷たい青い目をしていた。

『エウゲニオス獰猛公、言っておかねばなりません。
農奴も召使いも決まった仕事があるのです。
将来の貴男あなたは、彼らの仕事をより易やすくし、収穫を増やし、幸せにせねばなりません。決して面白半分に鞭で打ったり傷つけたりしてはなりません』……

私は森の中の魔女の家に行く。
一ルーブル硬貨一枚で魔女は私に肌をさらしてみせた。
なんと簡単なのだろう!

そして、魔女は笑いながら私を飲み込み、絞り尽くした。


アイキャッチ画像
“Winter”
Painted by
Alexei Savrasov (1830–1897) [PublicDomain]

第1章 1826年、シベリヤ