道の途中

本編の主人公で語り手、『私』こと『商人様』のちの『領主様』はシベリヤに向かっています。 行った先で、将来の大切な女性たちにめぐり合うことなど、もちろんまだ知りません。

7月26日,1826年

1826年、ロシヤ帝国はシベリヤの入り口であった。私は凍りついた河づたいに、東へと踏みこんでいくところである。
低く垂れこめた雲はどろどろに汚れているように見えた。
夏の真昼なのに薄暗く寒い。分厚い雲からは今にも雪が散ってきそうだ。

私は灰色の凍った河を黒馬で走っていた。見えるのは東西に長く続く氷とそのまわりの灌木、影の多い分厚い雲だけである。

シベリヤは平坦な地だ。
大河川が次々現れ、船を乗り継いで比較的容易に移動できる。
私が目指す街はシベリヤのなかでも特異な気象の土地である。緯度のわりにひどく寒いのだ。
夏でもその街の近くの河は凍ったままであった。街を訪ねたければ、寒さで氷河と化した河を、騎馬なり徒歩なりで進むしかない。

そんな場所に街があり、この凍った河を街へと向かう人がいるのは、高名な修道院と監獄のふたつがあるからだった。
船の終着の河港から、修道院のある街まで、およそ二〇〇露里【* 1露里ろり=約1キロ】だ。
凍りついた河の脇には痩せてひねこびた灌木しかない。噂には聞いていたが、これほど酷い気候とは思ってもみなかった。
黒馬が滑らぬようにゆっくり走らせた。馬には小さな橇を曳かせ、トランクが二個載っている。

前方から別の馬が来る。よく手入れされた栗毛の馬である。
乗っているのは、真っ赤な長上衣を着て毛皮帽子を被った若いコサックだ。
【* 馬術に優れた軍事共同体、またはその一員】

ただ一人、凍った道を恐ろしい勢いで飛ばし、こちらに向かってくる。さすが馬の扱いが上手いものだ。私も別に下手ではないが、ああはいかぬ。
コサックは私の前で馬を停めた。
若いコサックが馬上から私を、上から下まで眺めた。彼ら流の粋な姿だ。口髭をピンと立て、清国人の弁髪に似た、編んだ前髪を垂らしている。
手には木の棒を持っていた。

「……旧首都のそばの領主、二十代後半、黒髪、中肉中背、外国かぶれの美男の洒落者、無髯むぜん……」
コサックの青年は何かぶつぶつ呟いている。
「貴男はエヴゲーニイ・パヴロヴィチ・Яヤーか?」
「ああ。何だね」
「貴男にも貴男の馬にも恨みはない。許して欲しい……。すべては神のためなのだ!」
答える暇もなく、コサックは巧みな手綱さばきで、すぐに栗毛の馬を出発させる。
出発させるまぎわに、コサックは馬を一気に跳躍させた。着地する勢いを手に持った棒に込め、私の黒馬の右前脚を強く叩いた。

激しく重い音が、垂れ込めた雲と、前後に延々と続く氷河に響いた。まったく見事な馬術だ。
黒馬が崩れるように倒れた。私も馬から落ち、橇もひっくり返る。
『外国かぶれの美男の洒落者』である私は、氷上に投げ出されながら、身につけた英国仕立ての外套の背が氷河を滑り、緻密に織られた羅紗をすり減らしていくのに慄然とした。いったいいくらしたと思っているのだ……。
しばらく痛みで動けなかった。

ようやく起き上がり、革手袋で絹の帽子を取って被る。
振り向くと、コサックは地平線のほうに遠ざかっていた。馬は骨が折れているようだ。氷河のうえを苦しみながらのたうっていた。
私はこの馬を諦めた。
すまない、と一言呟く。
猟銃を馬の首に当て、撃ち殺した。

それから、私は橇の革紐を自分の胸に掛けた。
川岸にいる船曳人夫のようだ。重い橇を引きながらなんとか歩いて進む。
私はどうしても、その修道院と監獄で名高い街に行かねばならなかった。
探している人物がいるのだ。

我がロシヤ帝国の悪路は名高いが、捨てたものでもない。
道ばたに里程標があった。
二百露里のうち、まだ六十露里の地点にいることがわかった。
あと百四十露里、この調子で氷河のうえを歩くのか!

白い手の貴族に生まれた私が何故このようなことになったのか。
一体誰が、私を名指しでコサックに狙わせたのか。
あのコサック自身の望みではあるまい。見たこともない男だったし、コサックに恨まれる覚えはなかった。

……コサック以外の者に恨まれる覚えはたくさんある。
しかし、先ほどの男は『神のため』と言った。神と私はあまり関係がない。誰が何のために?
橇は重かったが、捨てるわけにはいかない。
領地以外にはこれが私の全財産なのだから。

数日かかって、アレクサンドル・ネフスキイ公の銅像のある小さな広場に着いた。目指す街の入り口らしい。
夜中だった。
私はもうふらふらだった。
熱があるのが自分ではっきりわかる。

駅舎が見えた。馬を換える場所だ。
駅舎からこぼれる明かりに向かって、私は橇を置き、なんとか建物まで歩いていった。喜ぶ元気もない。

「リャードフ家に……」
言えたのはそれだけだ。
駅長と、駅長夫人と覚しき老夫妻が出てくる。
「リャードフ家にだって!」
駅長夫人が奥に叫んだ。
私はリャードフ家への紹介書を手渡した。知り合いに頼み込んで書いてもらったものだ。
「まあなんてこと。侯爵様からの手紙だよ! モスクワからだって!」
駅長の細君は珍しく文字が読めるらしい。我が国の民はほとんどが文盲だ。駅長のように、低いながらも官位を持っている者も大して変わらない。
駅長が厩舎に向かって叫ぶ。「賓客だ。丁重にリャードフ様のお屋敷にお送りしろ!」
駅長は私に向かって言った。
「お気の毒に。侯爵様が何故こんなお姿に。ただいま橇の用意をしておりますから、ご安心ください、侯爵様」
「……いや、私は侯爵ではない」

馬丁が集まってきて、色々言いはじめた。
「この侯爵様は病気じゃないかね」
「いい服の旦那なのに、歩いてきたのか?」
「モスクワからずっと歩いてきたなら病気になるだろうな」
「熱があるぜ」

駅長夫人が『侯爵』様の文字に舞い上がっている。
「まさかこちらの侯爵様は、リャードフ家のご令嬢の花婿様かい?
ずいぶん色男じゃないの。あの冴えない令嬢には釣りあわないわよ」
私は弱々しく繰り返した。「侯爵ではない……」
私の言葉は、もちろんその場の者たちに無視される。
「あの行き遅れの、監獄慰問ばかりしている地味な令嬢か」
「リザヴェタ様だよ」
そんな令嬢など知らぬ。それより橇のうえの荷物を失くすわけにはいかない。
私はなんとか駅長に伝える。「あの橇は私のだから……」
「へい、侯爵様」
覚えているのはそこまでだ。