第4話 8月11日 2「君と私が間違い? Vous plaisantez?」……冗談だろう?

今回は、商人様がやっと外に出てうろうろします。
前半は、ホテルのフロントで探している英国人のことを聞いたり、宝飾店で値切ったり、娘ほどの女の子にお菓子をあげたり、愚痴を言っている小間使いのマウリャにぶつかって、えらそうに説教したりします。
後半はホテルのロビーでアクリナと待ち合わせをして、妙にピリピリしている自分に気づきます。
初めて性的なシーンがない回になります。

8月11日午前11時から午後三時半過ぎ,1826年

私は街に出てしばらく歩いた。
しばらく寝込んでいたため、体が弱っており、予想以上に歩くのがつらい。
私はフロックにクラバット、毛皮外套に耳つき帽子という、じつにシベリヤのダンディらしい格好であった。
聖グレゴリイ広場は街の中心にあった。
広場のぐるりは、おそらくもっとも豪華かつ近代的な建物を並べたのだろう。市庁舎、監獄庁、銀行に取り囲まれた中央の銅像は、修道院の創建者、聖グレゴリイのものだ。

この広場から北へまっすぐ向かう道はごく緩やかな坂になっている。坂の行き止まりはのっぺりした丘になっており、そこには、建て増しに建て増しを重ねた修道院の石壁がそびえていた。壁の向こうから、聖堂の塔に載った玉葱型のキューポラの金色が覗く。
【*ロシア建築のドーム型の屋根】

また、広場を東に向かうと、『後家さん通り』と呼ばれる道に出る。通りの行く先は監獄である。
『後家さん通り』には、収監されたシベリヤ流刑囚の妻や子、まれに母親が住みついていた。
彼女たちにできる仕事は限られている。
だから『後家さん通り』に立ち並ぶ貧しい家々では、食事つきの下宿屋が営まれ、売春がひっそり行われていた。

僻地へきちの小さな街なのに行き交う人が多い。見るからに貧しい、ぼろ布をまとい杖をついた巡礼者が何人も通り過ぎる。修道院の長老が生きているうちにお会いしたいと考えているのだろう。

私はまず、聖グレゴリイ広場に面した煉瓦建ての建物のひとつ、四階建ての中央ホテルに入った。
中はまるで温室だ。一度訪れたことのある英国の植物園を思い出した。
大理石の床に、浮き彫りをしたエンタシスの柱が並び、棕櫚しゅろの植木鉢が置かれていた。中央に小さな鳥籠がある。鸚鵡が数羽、止まっていた。リャードフ家の鸚鵡の親戚だろうか?

私は宿泊係に尋ねた。
「今日、部屋に空きはあるかね」
「申し訳ありません、お客様。今、巡礼の方々でいっぱいでございます」
「全部? 三時半から夜の十時ごろまででいいのだが」
私は丸めた札を宿泊係に渡した。
「三時半から十時、はて」
宿泊係はいかにももったいぶって宿帳を広げた。「ああ、夜会に寄ってから来られるお客様がいらっしゃいます。特別室でございますが、構いませんか。それに、前払いになります」
「十時まで絶対に使わせてくれるなら構わんよ」
私は少し値切り、だが大体言い値を払った。

「お一人でございますか? ベッドはふたつございますが」
「巡礼気違いの《ねえや》が来る。体の具合があまり良くなくてね。三十半ばの、場違いで困ったような女が来たら助けてやってくれ。文字も書けない」
「ははあ、では、補助寝台を入れますか?」
「いや良い。彼女が休むためだけに部屋を使うのだからね。私は長椅子にでもいるさ」
「ずいぶん召使い思いでございますね」
「子供のころを知られていると頭が上がらないものでね」
私はこういう些細な嘘をやすやすと思いつくことができるのだった。
「召使いといえば、もうひとつ頼みたいことがある。召使いではなく、家庭教師だ。
今年の初めごろか昨年か、私の家庭教師だった人物が、この街に来たらしい。
今でも街のどこかにいる。会いたいのだが、意外とみつからないものでね。こちらのホテルに泊まったかわかるかい」
私は札を渡す。
「ヘンリー・リード卿というイギリス人だ」
「お客様がお戻りになるまでに調べておきましょう」
私は宿帳にサインして前払いした。

懐中時計を見ると十一時半だ。
アクリナは市場にいるだろう。
ホテルの宿泊係に聞いた理髪店に行く。グレゴリイ広場を東に進むと、後家さん通りの手前はささやかな商業地帯だ。食品市場や小さな商店が集まっていて、背後には、巨大な毛皮倉庫が立ち並んでいた。
さして上手くない理髪店で髪を耳の半ばまで刈り、髭を剃らせた。
昼食をとって、まだ三時半までに二時間弱ある。

宝飾店があった。宝飾店だけではやっていけないのであろう、店先では、修道院の土産のイコンだの、宝石入りの聖像だのも一緒に売っている。ふと、アクリナにはガーネットが似合いそうだと思い出す。
店内に入ると、店員が近づいてくる。
「奥方様に贈り物ですか?」
「ああ、ガーネットの首飾りはあるかね」
「ガーネットでございますか。通でございますね」
店員はいくつかケースから出した。アクリナの奥底の秘密の場所に映えそうな少々黒みがかったガーネットがある。端を小粒のダイヤが取り囲んでいる。
「お目が高いですね。首都のデザインで」
値段は三百ルーブルである。
これは、今の私には手が出せない。というより、出してはまずい。昔はこの倍以上の値の贈り物を平気でしていたものだが。
「ガーネットで一番安いのは?」
「これでございます」
鎖はメッキで、石は小さく、ひびが入っているし、色も悪い。二十ルーブルだという。
「このガラクタに二十ルーブルは高くないかね」
「では、十八ルーブルでいかがです?」
こんなものではアクリナに不釣り合いだと思った。私は店を出る。

私は《後家さん通り》に行ってみることにした。
我が国の道はどこも悪いが、ここはことに酷かった。
草原を大勢が毎日通り、踏み固めたため、草も生えづらくなったといった様子だ。半ば踏みつぶされた草原、半ば轍だらけの土である。この道は監獄に向かう道でもあるらしい。
六、七歳の痩せた女の子が、草の上で縄跳びをしていた。服は継ぎだらけで、一緒に遊ぶ友達もいないようだ。
あばら家から母親らしい女が、兵士を送って出て来る。兵士は若く貧乏そうだった。女は囲われているわけではなく、ここは売春宿なのだろう。
「下宿屋さんをやっているのかい」
私は女の子に訊いた。
「やっているよ。でも下宿人が来ない。旦那様下宿してくれる?」
「いや、私は泊まるところがあるし、もうすぐ街を出て行くから良いよ。この通りで、ほかに下宿人のいるところがあるかな」
「うん、何軒もあるよ」

「イリンカ、何を騒いでるんだい」
母親が怒鳴った。
「市場で黒パンを買っておいで!」
「はい、お母さん」
私はイリンカに訊いた。
「外国人のいる下宿はあるかな」
私はイリンカといっしょに、商業地区に引き返す。母親に見つかると面倒そうだ。客扱いされても困る。
あと二時間足らずでアクリナが来るのだ。私はアクリナの晴れ着を楽しみにしていた。どうせ脱がすのだが。
「旦那様がお客さんになってくれれば、お母さんも喜ぶのに」

「イリンカ、下宿で外国人のいるところがあると言ったね。どこの国の人がいる?」
「お母さんのお客になってくれたら教えてあげる」
「ふん、イリンカ、教えてくれたらいっしょに市場に行って、君にチョコレートを買ってあげようかと思ったのにな。じゃあやめだ」
「ほんとうに?」
「ああ、教えてくれたらね」
「あのね、旦那様。クセーニヤ・アガフォヴナのところには、ユダヤ人がいるわ。普段はまるで正教徒だけれど、金曜日になると休むの」
「ユダヤ人か。ほかには? いるかい」
「ヤドヴィガ・グジェゴジェフスカはポーランド人よ。旦那様が、せいじはんなんですって」
「政治犯とは難しい言葉を知っているね。私が知りたいのはイギリス人の男の人なんだ」
「イギリス?」
「うん、そういう国があるんだ。名前はヘンリー・リード。イリンカの知らない国の下宿人さんはいるかな?」
「わからない。ヤドヴィガ・グジェゴジェフスカのうちにいろんなポーランド人が来るけど……ヘンリーさんは黒人?」
「残念ながら違うね」
どうも収穫はなさそうだ。

私はイリンカと手をつなぎ、市場に行った。イリンカが黒パンを買うのに並んでいるあいだに、私は市場の菓子売り場に行き、チョコレートを買った。
「旦那様!」
黒パンを包んでもらったイリンカが私がほんとうにチョコレートを買っているのを見つけ、嬉しそうに客の合間をすり抜け、走って私のところに来た。

市場は迷路のようである。それぞれの店が天幕を張り、ささやかな食べ物や日用品を売っていた。日用品の奥に急に、白樺細工の額に囲まれたイコンや祈りに使う乳香が売られていたりする。
菓子屋の奥には、ごく小さな、厨房のついた屋台があり、喫茶場になっていた。
そこから今朝聞いた声が聞こえてくる。
「……それでね、あんなにお洒落で綺麗な男の人は見たことがないわ。
アクリナさんなんかよりあたしを世話係にすれば良かったのに。
身分の高い方は不愉快な本音は出さないけど、きっと面白くない気分よ。
だってわざわざ、年増の、貧弱で醜い、頭のおかしい魔女をつけるなんて」
「そりゃ、おまえさん、リザヴェタお嬢様がわざわざ心配してくださったんだよ。感謝しなきゃ。実際には酷い男かもしれないよ」
本当に、実際には酷い男である。

「イリンカ、ありがとう」
私はイリンカにチョコレートを渡した。
「お母さんのお客になってね」
「ああ。でもそれは一人で食べていいんだよ。お母さんには知らせないほうが良いな」
イリンカはチョコレートを握りしめ、走って帰った。

マウリャの早口の愚痴が続いている。
「でも、フョードル様の沽券(こけん)にかかわると思わない? あそこの家にはあんなに醜くて退屈な召使いしかいないのかって」
「マウリャ、アクリナは醜くも退屈でもないね」

屋台に座って紅茶を飲みながら甘いジャムを舐めていたマウリャが悲鳴をあげた。
屋台の老女主人が私を見た。
「この旦那様かい、素敵な首都の商人様というのは。近ごろの殿方は髪を短く刈るのねえ」

私はマウリャの隣に腰かける。
「あまり人を馬鹿にするのはやめなさい。少なくとも私は、介抱してもらうなら君よりアクリーヌシュカの方がずっと良い。リザヴェタさんは聡明な方のようだ。ありがたい選択だね」
老女主人は、後ろを向いて、小さな台所に向かった。
「どうしてそんなにアクリナさんがごひいきなんですの? アクリーヌシュカって! ただの陰気な年増なのに」
「君はくだらないことを喋りすぎるのだよ、マウリャ。今からでも直しなさい。これは私の勘だが、リザヴェタさんは君をあまりよく思っていないね」
マウリャはびくりとした。リャードフ家は街の数少ない上流の家である。
追い出されたくはあるまい。
「どうしてそんなふうに思われるんですの」私は懐中時計を見る。二時五十分。三時十分には出よう。
老女主人はちゃっかり紅茶を私の前に置く。「自家製のコケモモジャムでございますよ」

「簡単なことだよ。アクリナを年増というが、リザヴェタさんはどうかね?
若いが、とても若いわけじゃない。で、独り身でおられる。リザヴェタさんの前で、アクリナを年増呼ばわりしたら、リザヴェタさんに対して言うのと同じだと考えたほうが良い。
それにね、あの方は感情を内に秘める方のようだ。あの方専用の小間使いがいないね、奇妙じゃ無いか? 女同士の他愛もない悪口やおしゃべりがお好きでないのかもしれない」
マウリャが赤毛の束を手でいじりながらつんと不満げに答えた。
「リザヴェタ様はあたしと旦那様が間違いを起こすことを恐れてらっしゃったんですわ」
「君と私が間違い? Vous plaisantez?」……冗談だろう?
「何とおっしゃったのです? 外国語なんてずるいですわ」
「私は君が、私と間違いを犯したいのだろうと考えたのだよ。可愛いマリンカ」
「とんでもない! あたしはそんな、はしたない……」
私は優しく言った。
「いいんだよ、私も十五年前なら君と《間違い》とやらを起こす気になっただろうからね」「十五年前って、商人様おいくつでいらっしゃるのです」
「二十九だ」
「じゃあ、ええと」
「十四歳ですよ、マリーナ」
マウリャはマリーナの愛称だ。私はマウリャの唇に素早く軽い接吻をし、懐中時計を見た。三時五分だ。
「失礼、大事な《ねえや》に会いに行かないと」
私は老女主人に自分の茶代だけ払って市場を出た。

三時半より十七分はやくホテルのロビーに着いた。もちろんアクリナはまだ来ていない。
私は若干の不安を感じた。
アクリナは、リャードフ家の私に与えられた部屋では美しく見えた。だが、ここではどうだろう?
シベリヤの豊かな場所はとても豊かだ。毛皮商人たちの妻や娘が黒貂を着て洒落た住宅街を闊歩し、教養ある商人は敬愛する国民詩人に凝った毛皮外套と帽子を送った。
商人たちは手代を集め、毎日大きな取引を続けていた。清国の商人が毛皮を求めて、金だの絹だのダイヤモンドだのを持って、交易地にやってくる。
東洋語の学校【*イルクーツクには18世紀には日本語学校があった】や、豪華な官公庁、壮麗な正教会、それにカトリック教会やモスク、シナゴーグ【*ユダヤ教会】まであるという。

このホテルのロビーはそこまでのものではないが、ギリシャ彫刻のレプリカが並び、花が飾られている。
この街に花を仕入れるのは、なんという無駄遣いだろう。
パリふうの、袖の膨らんだ皇帝様式のドレスを着た令嬢がロビー中央の温室沿いにゆるゆる歩き、鸚鵡を眺めている。人を待っているようだ。
ピアノが演奏されている。
カクテルを飲みながら話す中年の男女はいかにも裕福……成金で、毛皮交易を行う商人夫婦であろう。夫人のほうは大きなルビーのついた金の指輪をはめていた。男は葉巻を吸っている。あれは新大陸からの輸入品だ。アラスカ経由で来るのかも知れない。

この程度のホテルのロビーでもアクリナは見劣りがするのではないか?
彼女は文盲の料理女で、迷信深く、私が悪魔崇拝者かどうか真剣に気にするような女なのだ。
彼女が美しく見えたのは、リャードフ家のあの部屋、鸚鵡のいる、アクリナが心を砕いた部屋であったからで、私が病みあがりでぼうっとしていたからではないか。
飽きれば捨てれば良いのだ、たかが料理女である。
とはいえ、私は失望するだろう。その失望を想像すると腹立たしくなった。
自分の身勝手さに対しても、アクリナに対してもだ。アクリナに対する腹立ちというのは煎じ詰めればつまり、彼女がサンクト=ペテルブルクの社交界の女王になれるほど洗練されていない、というまったく無茶なものなのだ。

アクリナは誰にも、私との件を話さないと言っていた。それは信用して良い。フョードルやリザヴェタに知られることはないだろう。
だが、もし来なかったら? わざわざ酷い目に遭いにくるだろうか。いや、来なかったらもっと酷い目に遭わせる。
アクリナは私をどう思っているのだろう?
貴族の旦那の気まぐれ……もちろんそのとおりだ……、若いのに威張った嫌なやつ、外国語ができるのを鼻にかけて、わがままを言い、得体の知れない目的でやってきた、商人というがまともに商売をしているのかも怪しい……。
たった一ルーブルで自分を買おうとした男。

「商人様、どうなさいましたの」
アクリナが不安そうに私を見ていた。私はロビーの長椅子に腰掛け、うつむいて考えこんでいたのだった。
アクリナは、ココシュニック【* 伝統的な大きな頭飾り】を被っていた。
驚いた。しかもやや古いがかなり良いものである。真珠や輝石こそないが、丁寧な小鳥と花の刺繍をされた濃い青のヴェルヴェットに、ヴェールのついたタイプだ。
リザヴェタが貸してやったのかも知れない。
唇に赤い紅をつけている……これは似合わない。
その下は毛皮外套を着ていた。羊革を裏返し、毛のほうを裏にしたカフタン型の外套で、シベリヤにはよくある類だ。

「ココシュニック?  驚いたな。リザヴェタさんが貸してくれたのか」
「いいえ、母に譲られたものです。商人様こそ、……髪をお切りになったのですね」
私はぼうっとココシュニックを見ていた。
「これは美しいな。貴重な品だ」
ガーネットの首飾りを買わなくてよかったと思う。三百ルーブルのほうはともかく、十八ルーブルのやつは、このココシュニックの足元にも及ばない。
私はハンカチを差しだし、アクリナの唇から紅を拭き取った。
「似合わない」
「せっかくお嬢様が貸してくださったのですけれど……」
「似合わないものをつける必要はない」
私は、受付係から部屋の鍵を受け取るために立ち上がった。
「ちょっと待っていてくれ、ああ、何か飲むか?」
「……いえ、あたしはウォトカは、」
「シャンパンと葡萄酒、どちらが良い?」
「え? あの、わかりません。両方飲んだことがありません」
「料理が仕事なのだから、味を覚えたほうがいいだろう」
私はバーに行き、グラスに二杯、シャンパンをもらう。
「先に飲んでいてくれ」

私はそのまま、受付係に行き、部屋の鍵を受け取った。
「四〇二号室です。十時までになりますので」「ああ」
受付係が声を低くした。
「今年と昨年の宿帳を調べましたところ、ヘンリー・リード様は、昨年二月に三泊なさっておられます……」
受付係はこっそり宿帳を見せた。
私はたいそう久しぶりに、左に大きく傾いだヘンリー卿の文字を見た! 住所はスモレンスク県……、これは私の領地だ。辞めてからも、通行許可書パスポルトを使っているのであろう。

「この方が来たときのことを覚えている者がいるだろうか」
受付係が答える。
「いえ、この宿帳を見ると私が応対しておりますが……昨年初めとなるとまったく……」
「それはそうだろうな。いや、役に立ったよ」私は追加のチップを渡した。しかし、ホテルからどこへ? 私の機嫌が良くなったのに気づいたらしく、受付係が馴れ馴れしく言った。
「あちらのご婦人が宗教気違いの《ねえや》でいらっしゃいますか? とてもそうは見えませんね。古風なココシュニックがお美しい」
急に私は、客の連れをどうこう言うな、と怒鳴りそうになった。ヘンリー卿の手がかりを見つけた。だが何か私はピリピリしている……。

鍵を受け取り、ロビーのアクリナのいるテーブルに戻る。アクリナはシャンパンを不思議そうに飲んでいた。「うまいかね?」
「わかりません、泡が……強いです」
私はシャンパンを一気にあおった。アクリナのためにやや甘めの銘柄にしたので、清涼飲料のようだった。
「行こう」私は立ち上がる。アクリナのシャンパンはまだ半分くらい残っている。「あの、まだお酒が」
「美味いか不味いかわからないのだろう? ならば飲む必要はない」
「え、……あ、はい」
私はアクリナの右手を握る。引っ張って長椅子から立たせる。フロントの出納係や、エンパイヤドレスの令嬢が、婚約者らしき驃騎兵【*軽装の騎兵】とともにこちらを見ている。

私は彼らに欲望を見透かされた気がする。……
オルガと来たならばこんな気分にはならなかったはずだ。つまり、他の客は家庭の絆をともにし、おそらく修道院への巡礼に来ている。
彼らにももちろん欲望はあるだろう。特に若い婚約者どうしは。しかしそれは間もなく生活のほんの些細な一部と化すだろう。
私はそうなっていない。もうとうに、そんな年齢は過ぎたと思っていたのに、いまだに役にも立たない欲望に突き動かされている。危機を凌ぐこと以外、目的もない。

私が大股でロビーを横切るのを、アクリナは駆けるようにして必死についてくる。
模様を織り込んんだ赤い毛氈の階段を上がる。ロビーの二階は教会の聖堂のように空洞で、空洞部分を欄干が取り巻いていた。鸚鵡の檻が見おろせた。アクリナが階段を登りきって私に追いついた。はあはあ息をついていた。
全身が見える。頭はココシュニクで覆っていたが、足元は雪に濡れたヴァレンキ【*フェルトのブーツ】だ。
このちぐはぐさに、やむを得ないとはいえ、私は苛立った。
私が上から下まで貴婦人のような支度を整えてやれば良いだけの話なのだ。だが、そんな余裕はない。
まともなガーネットの首飾りすら買ってやれない。
ヘンリー卿に会い、あの書物を見ることさえできれば危機は脱せる。それまでの我慢だ。今、ホテルに来ているだけで十分贅沢だ。だいたい、アクリナの服など、どうせ脱がすのだから何でも構わないではないか……。

「商人様、お願いです。待ってください。あたしはそんなに早く歩けません」
私はアクリナの手を握ったまま、歩く速度を落とした。
「急いですまない」
私はアクリナの手を引いたまま、四階までのろのろと階段を上っていく。
「商人様があたしのような女といたら、さぞお恥ずかしいでしょう。早くロビーを離れたくて……あたりまえですわ」
「そうだろうか? 私はおまえが来た時、美しいココシュニックだと思った」
「ココシュニックなんてもう、流行らないのではありませんか。しかも母の代から受け継いだ古い……」

「私が美しいと思うのだから、それで良い」
アクリナの話を遮って話しだした。
「私は目的を達したら、あるいは達することができなくとも……いつまでもリャードフ家にいるわけにはいかない。
私はおまえをどうしよう?」
アクリナは不安そうな顔をした。
「良いのです。……いつでもお捨てください」
「それはもちろん、おまえを傷つける男がいなくなるほうが良いだろうさ。いや、だが、そうはいかない。私はしつこいのだ……おまえがどう思っているのか知らないが」
「……違います」
「違うって何がかね」
「商人様がいなくなるほうが良いなんて……思っておりません」
「それは光栄だね」
「皮肉はおやめください。本当です。でもお探しの外国の方が見つかって、フョードル様の屋敷をお出になったら、ご一緒に本を……あの、お勉強(翻訳という言葉を知らないらしい)なさるのではないのですか? 街のどこかにお屋敷を借りるのでしょう?」
「いや……、本が見つかったら街を出なければならない。これは誰にも言うな」
「え……では」
四〇二号室の前に来た。渡された鍵を取り出し、厚い樫の扉を開ける。


アイキャッチ画像
“Beginning of spring”
Painted by
Alexei Savrasov (1830–1897) [PublicDomain]