第3話 8月11日 1 リザヴェタ★

やっと後半で滞在先の他の人物が登場。商人様はリャードフ家の令嬢リザヴェタと対面します。

8月11日午前,1826年

「もうあまり時間がないのだ」
朝食を運んできたアクリナに言った。
「明日、フョードル殿が内輪の晩餐会を開いて、市長に紹介してくださる。私はそろそろ本来の目的を進めなければならない。馬を潰されて、無駄な時間を取りすぎた」
「イギリスのお方を探す……ことでございますか」
「そのために来たのだよ」
アクリナは、背筋を伸ばして立ったまま、身じろぎもしない。
しかし私は、この女が、おそらく私の腕や指や唇の感触を覚えているに違いないと思った。アクリナは表情に出さない。
もっともロシヤ人は、宴席ででもない限り、にこりともしないのが常だが、感情はある。感情は皆ひどく激しかった。

「紅茶をお注ぎします」
アクリナは小さな急須から、煮出した紅茶を淹れ、盆に乗せてジャムと一緒に私に差し出す。
アクリナは、私が当初の用事にかかり、いずれ去ることに対し、特に喜んではいないようだ。うぬぼれではない。アクリナはわずかに目を伏せている。体の動きがやや遅く、投げやりであった。
とはいえ、別に悲しんでいるわけでもないのだろう。何もかも、ただ神あるいは運命のなすがままになるとでも言いたげだった。

「晩餐のメニューは今日から準備するのか」
「はい……市場で良い食材を注文しておき、明日取りにいきます」
「料理自体は明日かね」
「大体はそうです」
「ふむ」
私の体は、すっかり弱っていた。今日は散歩がてら街なかでヘンリー卿のことを聞こうと思う。
「街にホテルはあるかね」
「ええ、巡礼の方がたくさん見えますから。商人様のようなご身分の方がお泊りになるホテルから、貧しい巡礼者の泊まる木賃宿まで……たくさんございます」
「ホテルで何かわかるかもしれぬな」アクリナは私の皿を片づけ始めた。

「夕食の支度はいつ終わる?」
「三時くらいでございましょうか」
「先ほど言っていたホテルは何という名だ?」
「え……?」
「鈍い振りや馬鹿な振りは止めたまえ」
「あ、あの、聖グレゴリイ広場にある、中央ホテルでございます。聖グレゴリイ様は、修道院を創建なさった方で……」
「その話は結構だ。三時半にそこのロビーに来なさい。もし私がいなければ受付係に伝言を頼んでおく。おまえは私の名を知っているか?」
「……スモレンスクのエヴゲーニイ・パヴロヴィチ・Я様です」
おそらく、フョードルかリザヴェタの話に出たのであろう。浮世離れして見えるアクリナだが、多少は私のことを気に留めてはいるようだ。

いや、私に好意は持っておらずとも、私がどこの誰かを記憶に留めるほどには関心があったわけだ。
彼女を抱いた男は私で多分二人か三人目で、しかも十年以上の空白ののちだから、忘れようもなかろう。
だが、知りたくもない可能性が高かった。
あれは《抱いた》のではない。《辱しめた》のが正しい。
私は彼女に思慕されたいとは思わなかったが(彼女にした仕打ちを考えると到底無理である)、私のことをあれこれと思いめぐらせては欲しかった。

「……そのような立派なホテルにあたしが入って良いのですか」
「何か言われたら私の名を出せ。今日は私の供だといえばどうということはない」
「はい」
「来なかったら酷い目に遭わせるよ」
私はワゴンに朝食の皿を載せ終えたアクリナの手をきつく握った。
「痛っ」
「わかっているね、かわいいアクリーヌシュカ」

「え? 何を……なさいます……の」
ルバーハの襟元の引っ掛け金具を素早く外した。サラファンの固い布地で持ち上げられた乳房は、一番上の釦をはずしただけで右、左と順に零れ出る。
「我が国の婦人の服は少々改良したほうが良いな。簡単すぎる」
朝食の盆を持ったアクリナはさっと赤くなり、ひどく困った顔をした。

「……ああ、せめて、お盆を降ろさせてくださいませ」
ワゴンに盆を下ろした。
私はアクリナの、痩せた体のわりに、意外に重い胸に触れた。
柔らかな皮膚と脂肪の下で、網目になった腱が乳頭から張り巡らされ、アクリナの乳房を支えていた。
乳房の上部は削げていたが、石榴の実の色の乳頭は宙に張り出ている。

「もう、こんなことは……」
もっとこの女を私に反応するようにしたいと思った。あられもない姿を自ら取り、哀願するように。
だが時間がない。
私は囁く。
「接吻してくれ、唇に、深くだ」
「そういう接吻は奥方様となさるものです……」
「では今はおまえが妻だ」
「なんて無茶なことをおっしゃるのです」
私はアクリナの白い胸を両手で押し包んだ。
かすかな呻き声が聞こえる。
アクリナは寝台の脇にかがみ、私の唇に小鳥がついばむようなキスをした。
「それではただの挨拶だ。夫婦がする接吻なのだろう?
だとすれば貞淑な妻も、亭主に対しては少々淫らになっても良かろう」
「そんな……」

アクリナは寝台の横にひざまづき、私の後頭部に右手を回した。細い指が遠慮がちに私の髪に差し入れられる。
髪を切りたいと思う。肩まで伸びてしまった髪はゆるく波打ち、これでは詩人か何かだ。
アクリナは私の髪を撫でながら、顔を寄せてくる。
アクリナは目を閉じ、ぎこちなく、みずからの石榴色の唇を、私の唇になるべく密着させるよう、斜めに当てた。アクリナの舌がおずおずと私の口に潜り込む。

アクリナがやってのけた、大したものだ。
舌のやわらかさを感じる。口をすすいで来たらしく、良い匂いがする。(何か期待していたのであろうか? 朝から)
アクリナはそこで唇を離す。
「舌を入れたのは褒めてあげるが、足りないよ。ああ、まったく足りない」
アクリナが困惑している。
「これ以上どうしろとおっしゃるのです」

今度は私から、アクリナの唇に噛むような口づけをする。
私の舌は頰の内側に触れ、指で頬の外側に触れる。
温かく柔らかい、湿った上唇の裏をゆっくりと舌の先で愛撫すると、アクリナは体を硬くした。窒息するかのように、一生懸命鼻で息をする。
目も閉じたままだ。睫毛も藁色だ。私は唇から唇を離し、睫毛に口づけした。そして眼球の膨らみに。
アクリナは体を起こし、荒く息をした。

私は寝台のかたわら、ちょうど目の高さに零れた乳房を無遠慮に眺めた。
これは私のものではないか? 違うのか? 違うならどうすれば手に入る?
浮き上がった鎖骨から乳房までの線が美しい。
私はその線をそっと、乳房下部の膨らみから、削げた上部に浮かんだ肋まで、指でたどる。

「おやめくださいませ……何か、一昨日から体が変で。仕事になりません」
「どういうことだね」
「あの、貴男様が触れたところが熱く、細かく震えるのです。痛くて苦しい……息が止まりそうです」
アクリナは黙ってしまう。
「それは快楽の残り香だ。しばらくしたら消える」
「そうなのですか……」
消えるのは惜しいと言いたげだった。

「やめるよ」
乳首をひねりながらサラファンの釦をはめ、ルバーハの金具を止めてやった。たっぷり布地をとった荒い亜麻のルバーハが肌をこするのに、アクリナは溜息をつく。
「これで終わりで残念か?」
「もうあたしにはわかりません」
泣いている。
「泣くようなことかね」
「貴男様にはおわかりにならないのです。エヴゲーニイ・パヴロヴィチ」
【*この呼び方は敬意を表す。個人名+父親の名の変形。彼の父の名はパーヴェルだとわかる】
「名前で呼んでくれるのか。それは嬉しいね。おまえの父称は?」
【父称 *父の名に息子/娘を意味する語をつける】
「父はわかりません。ですから仮にニコラエヴナと」
「奇跡の成就者……我が国の守護聖人……聖ニコラからか」
「はい」
アクリナは立ち上がった。ワゴンに手をかける。「失礼いたします」

私はアクリナの腹に手を当て、出発させないように遮った、サラファンの釦と釦のあいまに右手を差し込む。
「やめるとおっしゃったではありませんか」
「アクリナ・ニコラエヴナ、私の言葉なんか信用してはいけないよ」
指先に亜麻のルバーハと、その下の太腿が触れる。
「これはちょっと工夫がいるな」
ルバーハは筒状だ。先日と同じ形ならばルバーハは膝丈である。
釦を飛ばし、あとでアクリナに繕わせるような乱暴を働くのは私の本意ではない。私はサラファンの上からアクリナの尻をつかみ、アクリナが立っているのを支える。逃げられなくするように。

「何を……」
「サラファンには、もう少し釦があったほうがいいのではないかね」
私は親指と人差し指で辛うじてルバーハをつまみ、少しずつたぐりあげていく。わずかに刺繍がある裾に届いた。私は裾をめくり指をもぐりこませた。
腿をたどって、小さな丘を覆う、柔らかな薄い繁みにたどり着く。
私はその藁色の毛がどのようにアクリナの裂け目を隠しているか知っている。かき分けて撫でた裂け目の、入口の果実が見事に膨らんでいる。
「大きく膨れて、皮が剥けている。先ほど、震えがきて痛いと言っていたのはここのことか」
「あの、普通の状態じゃないのですか」
「興奮して血が集まっているのだよ。育ち過ぎたコケモモのように皮を破って、爆ぜそうだ……私のここみたいに」
私はアクリナの手首を掴んで、硬く大きくなった部分を触らせる。アクリナの顔が赤くなる。
「普段、皮に包まれた部分が露出している。いままでと違って、最近、しょっちゅうこの状態になるのならばそれは……まあ、感じやすいのだろうね」

私は柔らかな濡れた中身にそっと触れる。実が痙攣し、呼吸するように膨れたり、やや縮んだりした。それとともに、アクリナの脚ががくがく揺れる。
「おやめくださいまし……苦しい」
この女は実に敏感で反応が早い。
慣れていない者には快楽が苦痛としてしか感じられないだろうが、しばらくすればこれが快楽だとわかるはずだ。この女は、快楽に至る門を閉じ、中に溜め込んできたのだ。アクリナの早く、大きな反応は、許婚の死よりこちら溜め込みつづけた欲望がようやく出口をみつけ、あふれ出ようとしているためではなかろうか。

「……どうすれば治るのでしょうか」
荒い息と、かすれた声で尋ねた。
「おまえの体は喜んでいるのだよ……ただ、喜びをあまり感じたことがないから、そうわからないだけだ」
私はアクリナをいじり続ける。原因を作った、そして今も作り続けている男にアクリナは対策を訊くのだった。
「飽きるほど快楽を味わえば満足して治まるよ。しばらくするとまた快楽が欲しくなるだろうが」

「……本当にもう、朝食をお下げしなければなりません」
私はアクリナの裂け目に差し込んだ中指をはずす。
太腿の内にまで透明で粘り気のある滲出液が伝わりゆっくり流れる。
「待ちなさい、これでは困るだろう」
私は寝台の上にアクリナを座らせ、寝台の横にひざまずき、足を広げさせた。石榴色の裂け目から粘液がしたたるさまが、朝の光ではっきりと見えた。完全に私を受け入れる姿勢だ。
「なんてことを……。仕事がございます」
「すまないが、おまえが期待しているようなことは、今はやってあげられない。アクリナ・ニコラエヴナ」
麻の手巾で、できるだけ優しく、溢れ出てきた透明な粘液を拭き取る。拭いても拭いてもまた新たな液で濡れていく。

「手巾が……洗います」
「今度の洗濯の時で良い。それまでおまえの匂いを嗅いでいる」
「そんな汚いこと……、貴男様のような方がなさることではございません」
「これ以上、仕事の邪魔をしてはいけないね」
私はアクリナの脚を閉じ、まくりあげたルバーハを膝まで下ろす。紺のサラファンを直した。
アクリナの顔は上気し、しばらくぼんやり座っていた。それから不意に立ち上がる。
「失礼いたします」
アクリナがワゴンを動かしはじめた。

「待ってくれ、普通の用事だ」
遠く食堂の方で婦人の声がする。
「リザヴェタお嬢さんはご在宅か。挨拶しても構わないか。フョードル殿がおいでの時まで待ったほうが良いかね。内気だという話も聞いたが」
「内気といえば内気ですし人見知りもなさいます。でも必要ならば何でもやってのける方です。瑣末な礼儀はお気になさいません」
「それは素晴らしい……アクリナ、おまえリザヴェタさんに、半時間後にご挨拶にうかがっても良いか聞いて来てくれ」

久々にまともな服装に着替えるのに時間がかかった。
私は西ヨーロッパかぶれの洒落者だったのだが、寝込んだあとの今では、初見の令嬢に失礼でない姿にするのでせいいっぱいだった。どうも、やる気が起きない。
白いクラバット【*英仏などで発展、ネクタイの元になった布】に糊がききすぎていないか、結びかたはどうするか、狩猟用上衣とチョッキの色は合っているか、そのようなことは考えるのも面倒であった。

「リザヴェタ様、商人様をご案内しました」
アクリナが居間の扉を開ける。
私はアクリナのあとをついて、広く、小さな窓しかない仄暗い居間に顔を出す。
暖炉を囲む巨大なペチカが部屋を圧迫していた。
すべての家具が古くさく、大きく、頑丈である。
壁には、びっしり唐草模様を織り込んだ濃い赤の掛け絨毯とともに、北極海で採れるという、海豹【あざらし】一匹ぶんの毛皮が掛かっている!

がっしりした広い食卓の隅で書きものをしていたリザヴェタは、令嬢というより、この家を取り仕切る主婦のように見えた。
令嬢たちの婚期は十代後半だが、リザヴェタは二十代半ばになる。
「リザヴェタ・フョードロヴナ」私は呼びかけた。「お目にかかれて光栄です」

膠【にかわ】を塗ったような濃い色の髪を地味にひっつめて結いあげ、真剣な顔で私を見上げた。リザヴェタは緊張した声で答える。わずかに狼狽しているように見える。
「……貴男様が、……商人様、エヴゲーニイ・パヴロヴィチでいらっしゃいますのね」
「そうです。リザヴェタさん」
私は作法通りひざまずき、彼女の右手の甲に軽く口づけした。

リザヴェタは、おどおどしているにも関わらず、軍人の父親と同様、目の力が強い。
ほとんど日の射さぬ土地で育ったわりには色が浅黒かった。古い家がしばしばそうであるように、わずかでもタタール人の血が入っているのかもしれない。
【* モンゴルのロシア支配の時代、貴族たちはしきりにモンゴル人と縁を結ぼうとした。また、モンゴル人をタタール人と呼んだ】

リザヴェタは美しくも醜くもない。であれば、若く裕福な令嬢ならばいくらでも美しくなれるはずなのに、その気がないということであろう。
場合によってはひどく強情になりそうな婦人だった。
中背で骨組みのがっしりした体格は健康そうだが、いざという時には骨にへばりついた堅い筋肉全体が、絶対に意思を曲げない鎧として働くだろう。

つきそっていた召使いの小娘はマウリャだと言った。
たいていは台所を手伝い、それから様々な雑用をこなす。
十六、七歳の活発で上の空のありふれた小娘だ。珍しいのは赤毛くらいか。
私はマウリャにも、いかにも無造作に軽く会釈した。この無造作な会釈ができるようになるには長い訓練がいる。この小娘はどうも驚愕したらしい。
マウリャはポカンと、リザヴェタは時折盗むように私を貪り見た。

「商人様、あの……イギリス人の家庭教師」
リザヴェタはあいかわらず緊張しているようで、言葉がおかしい。
「いえ、失礼しました。どうぞまずおかけください……貴男様の家庭教師をなさっていたイギリス人……を探していらっしゃるとか」
若い娘なのに、ドレスは暗い茶の羅紗でつくられていた。流行遅れで野暮ったいが、似合ってはいた。
「あてはございますの?」
私は食卓の、リザヴェタの向かいに軽く腰かける。
「それがないのです。手紙をもらったのですが……、自分は今、シベリヤのこの街にいると書いてあっただけで、住所を書くのは忘れたようです……そういう方なのですよ! 学問に夢中なのです」

リザヴェタが言う。少し私がいるのに慣れてきたのか、言葉がまともになっている。
「小さな街ですから……でもまさかと思いますが、父が勤める監獄……あるいは修道院にいらしたとしたら、苦労なさるでしょう。あの、……どちらも千人もの男の方がいますし、中にいる者を外に見せたがらない場所ですから」
「修道院は考えました。ですが、厳格な日課に合わせなければならないのは、翻訳に没頭するには向かない。
それに、罪を犯すような人でもありません。もちろん、何かの間違いで投獄されたというのはあり得なくも無いでしょうが……」

リザヴェタの声は低く静かだ。
「監獄を探す必要があれば……お手伝いいたします」
「ありがとうございます。リザヴェタ・フョードロヴナ。今日は体を慣らすかたわら散歩に出かけ、ホテルで尋ねてみるつもりです。
街に来て、はじめに向かうのはホテルでしょう。ただ、質素で学者肌な方です。
ホテルに居続けることはないでしょう。
どこか安い下宿屋でも見つけて、翻訳三昧に日を暮らしているのではないかと思います」

「わたくしも知り合いの方に聞いてみますわ。何というお名前ですの?」
「ヘンリー・リード卿です。お父上より少し若いぐらいの歳でしょうか」
私が十歳の時、雇われてきたヘンリー卿は三十五歳だった。背が高く薄い金髪で、ピンク色の顔の間抜けな人物に見えた。今では五十代半ばのはずだ。
「ヘンリー・リード卿ですね」
リザヴェタは藍色のインク吸い取り式ペンで、帳面にさらさらと名前を記した。

「その方が見つかったら、商人様もご一緒に下宿屋で翻訳なさるおつもりですの? 確か、貴男様は見事な語学の才をお持ちだとか……」
「奇妙なことに、言葉を覚えるのは私にはさして難しくありません。文をいくつも暗記するんです。何十か何百か。そのうちにとつぜん規則が分かるのです」
「まあ、素晴らしいですわ!」
感嘆の声をあげようとしたらしいが、どことなく陰気である。
感嘆してくれているのは別に嘘ではないのだろうが、明るく心地良く言い表わそうとして、失敗し、いよいよ声が出なくなるようだ。
損な性分の婦人に思えた。

「何ヶ国語おできになりますの?」
「さあ……今は清国語とタタールの言葉に取り組んでみていますが、これはやはり勝手が違うので難しいですね」
リザヴェタが私に向ける視線は夢と絶望が入り混じっていた。
マウリャは勝手にサモワール【*伝統的なお茶用湯沸かし器】を用意しようとして、リザヴェタに叱られた。

「私もリザヴェタさんやお父様のおかげでずいぶん体力を取り戻しました。本当に感謝しております」
「とんでもないことでございます。少しでも貴男様のお役に立てればこちらこそ嬉しゅうございますわ。
……下宿屋は……まともな家はまともですが、いかがわしい生業をしている家もございます。案内人も兼ねて馭者をつけましょう」
「お心遣いをいただいてばかりですね!
せっかくですが、一人で歩いてみたいのです。あの方がいるのならばこんなところだ、と勘が働くように。なにしろずっと寝ておりましたから」
「あれだけやつれておられたのですもの。当たり前ですわ」
私はリザヴェタにアクリナを褒めた。
「貴女がつけてくれたアクリナには助かりました。無口で献身的でね」
「ええ、病み上がりには静かな者のほうが良いかと思いまして。少し気が利かないところはありますが、命じれば何事にも丁寧な仕事をいたします」
(確かにそうだ、と私は思った)
「長く勤めている、落ち着いた召使いです……我が家に滞在中はどうぞ遠慮なく使ってくださいませ」
ご主人様のお許しが出た。
「商人様、お疲れになったらご無理なさらず辻馬車でお戻りください。監獄長官の自宅で通じますから」

「はい。実はお願いがあるのです。アクリナを今日の夕方から夜まで貸してくれませんか」
「ええ、明日の晩餐のために市場に食材の見立てに行くと申しておりましたけれど。あとは今日の夕食の下ごしらえですね。
それが終われば、あとはマウリャともう一人の小間使いで何とかなりますわ。でもアクリナが、外で何かお役に立ちますかしら」
「実は、私の病気の乳母の役をやってもらいたいのですよ。アクリナは、街に知り合いもあまりいないと申しておりましたし」
マウリャが遠慮なく笑った。
「乳母ですって!」
「まあ、乳母にしては若すぎますね。《子守のねえや》と言ったところでしょうか。私は巡礼者に見えないようですから、信心深い《ねえや》のアクリナにせがまれてここに来たということにしてみようと思うのですよ。……どうも、イギリス人を探しているというと奇異に思われるようですね。理由が理由だからでしょうか、書物の翻訳のために来たというと、狂人でも見るような目で見られます」

「まあ、そんなことでしたらいくらでもお使いくださいまし」
居間の端に気配もなく控えていたアクリナに、リザヴェタが言う。
「アクリナ、おまえは一番良い服を着て行くといいわね。いかにも張りきって巡礼に来たというふうになさい」
マウリャが笑う。
「ご主人をひっぱりまわす迷信深い《ねえや》なんて! ああ、商人様は何て面白いことをお考えになるんでしょう。アクリナさんにぴったりですわ!」

私は見かねてマウリャに注意した。アクリナはまったく気にしていないようだ。
「マウリャ、君はどうも先輩に対して敬意が欠けているようですね。アクリナのおかげで、私はゆっくり休めました。良い先輩がいて君は幸せですよ」
「まあ、商人様、あたくしそんなつもりでは。……アクリナさんのことは尊敬しておりますわ」
「君は実に素直で良い娘ですね」
マウリャは嬉しそうな表情を取り戻した。皮肉は通じないようだ。

私は女たちに挨拶して、出かけることにした。
ふと、居間の前の控え室で毛皮外套を着るべきか考えていた。八月だが、この街はシベリヤとはいえ異常に寒いのだ。
居間から、マウリャがひそひそ声で女主人に耳打ちしているのが聞こえた。
「ああ、あたしにお世話係をさせていただきたかったですわ」
リザヴェタが冷静に答える。落ち着いていると、かなり理知的な婦人である。
「馬鹿ね、何か間違いがあったら泣き寝入りするのはおまえよ」
「ああ、間違い? 間違いでございますか? あの方なら構いません」

「すぐに飽きてお捨てになるわ。
大体おまえみたいな土臭い娘を相手になさるような方じゃない。旧都の近くでお生れになり、外国にも何度も行かれて、……あの方の奥様になるような貴婦人は、素晴らしい家柄で教養があって……女神みたいに美しいことでしょうね」
リザヴェタは、ひどく寂しそうに溜息をついた。
リザヴェタがアクリナに訊く。
「おまえに苦労させたかしら?」
「……、普通の旦那様でございました……」
私はアクリナの返事におかしくなった。マウリャがさらに訊こうとする。
「さっきはずいぶん気さくな方に見えましたけれども。じっさいは怖い方? 気難しい?」
「マウリャ、くだらないことを詮索するのはおやめ。商人様にも叱られたでしょう。お客様の噂などするものではないわ」
「怖い方ですわ」アクリナが呟いた。

この一日は三つのパートに分けてご紹介させていただく予定です。


アイキャッチ画像
“Beginning of spring”
Painted by
Alexei Savrasov (1830–1897) [PublicDomain]