第10話 「なんて不誠実な……」

前半は、『私』こと『商人様』エヴゲーニイ・パヴロヴィチが令嬢リザヴェタに送った、かなりひどい求婚の書簡です。(これで、喜んで承諾してくれる女性はかなりまれではないかと思います)
後半は、商人様、リザヴェタ嬢、アクリナの三人が居間で紅茶を飲みながら、この求婚について、どろどろの三角関係のなか話し合います。商人様が勝手なことを言っています。
今回は性描写も残酷描写もありません。

8月14日、日中,1826年

私がリザヴェタに送った求婚の書簡は以下のようなものである。
このうんざりするような書簡を、辛抱強く読んでくださる令嬢といえば、我が求婚相手の聡明なるリザヴェタ嬢をおいて他にいるまい。
破り捨てられそうな気はするのだが……。

求婚の書簡

「リザヴェタ・フョードロヴナ、

私は貴女に恋をしておりません。恋などいったい何になるでしょう? 恋も情熱も、生涯を有意義かつ幸福に暮らすためには邪魔にしかなりません。
私は貴女の気丈さや気高さ、誠実さ、智恵、決断の力、理性のお力、すべてを尊敬申し上げております。
貴女とともに暮らし、生涯友情を温めていけたならばどれほど幸せでしょうか。それはやがて、夫婦の愛情と呼ばれるものになるでしょう! 
どうかお願いです。私と結婚してください。スモレンスクの領地の主婦となり、私と農奴たちを貴女の思慮深さと大胆さで導いてください。

さて、私は貴女にいくつかの告白しなければなりません。
貴女はきっとお怒りになるでしょう……恥知らずと罵ることでしょう。
ですが、やがて持ち前の寛容さと慈悲心で受け入れ、私が、落ち着いた、一人前の人間となる手助けをしてくださることと信じています。

もし貴女が私の身の丈を心得ぬ申し出を受け入れてくださったとしても、晴れて夫婦となるまでには時間が必要です。半年か一年は待っていただかなければなりますまい。
すべて、貴女に住んでいただく領地を取り戻すためです。領地は私の名義ですが、抵当に入っております。住むことはできます。
しかしその状態で今後住み続けるのは無理です。

貧しさとの闘いは辛いものです。ことに毎月、利子の支払いが必要となれば。そして債権者たちは大量の利子をむしりとり、少しずつ農場を破壊していきます。
有能な家令がなんとか対応してくれておりますが、農場を保つためには、負債を一気に返さねばなりません。

私は以前、結婚しておりました。元妻は貧しさに耐えられず、自死に至りました。子供がいなかったのは幸いです。可哀相なことをいたしました。
この苦い経験から、私が貴女のように、心の強い婦人に、どれほどの憧憬を抱いているかおわかりいただけると存じます。

ああ、呆れ果てる貴女のお姿が目に見えるようです……誓って申し上げますが、債務は事業上の私の見識不足によるものです。
私は葡萄酒の利益だけに飽き足りず、別のものに手を出そうとしました。オランダ商人から新しい貴重な薬品だと紹介され、(薬の効果をじっさいに見ました。素晴らしいものです)さて、大量に買い付けて届いた荷物は、ただの小麦粉でした。……彼の行方は杳ようとして知れません!

少なくとも、賭博やいかがわしい婦人たち、我がロシヤ帝国の最大の悪習たるウォトカが原因ではありません。
二度とこのような間違いを繰り返すことはないでしょう。

しかし、返済の当てがあります。
私が稀覯書の翻訳のためにこちらにうかがったのを覚えていらっしゃるでしょうか。
翻訳の対象は非常に珍しい古文書です。
私の家庭教師であったイギリス人、ヘンリー卿が現在、手にしているはずです。
これは知る人ぞ知る本です。内容は……

—【注意:著者より】—
下記のうち
==
に挟まれた内容は、いかにその古文書が貴重か、どういう内容かについて延々と書いているので、面倒な方はどうぞ飛ばしてください。

===
この貴重な本は、古スラヴ語の明らかになっていない一方言による年代記です。翻訳と言うより、解読に近いものになるでしょう。
ヘンリー卿に理解できたのはほんの一部ですが、その中にも非常に興味深い記述があります。
著者あるいは著者たちによる『前書き』があり、それによると、原始キリスト教の時代、まだ我々がスラブ民族という意識のなかった頃の口承伝承を、ヘロドトスの『歴史』に倣ってまとめたもののようです。
スラヴの雷神ペルーンを我々に想像させたシベリヤへの隕石衝突のこと、シベリヤのシャーマンがロシヤ正教に与えた影響を表す佯狂者ユーロヂニイの行動の記録、ギリシア人の奴隷としてスラヴ民族がキリスト教の運び手になり、アトス聖山で行われる修行を発明する元となったと思われる記述もあるそうなのです。

ああ、なんと興味深いことでしょう!

この古文書のスラヴ語方言はもう消えてしまったものです。
ヘンリー卿一人では解読は遅々として進まず、スラヴ民族出身者で、語学が得意な者を探していました。
首都の大学教授などにも当たったそうですが、あまりの難解さに尻込みしたとか。
そこでヘンリー卿が思いだしたのはかつての教え子で、語学に奇妙な才を持っていた私のことです。

===

この本の翻訳に対し、アメリカ合衆国の東海岸にある或る大学が、購入の打診をしてきております。
かの大学には、我が国の歴史を研究する学科があるのです。おそらく、先々、我がロシヤ帝国が、米国の脅威となることを見越してのことでしょう。

提示された値は、ヘンリー卿と分割しても、元妻の実家の男爵家、××県の商人殿、サンクト=ペテルブルグの銀行へ返済してもじゅうぶんな額が残る値です。
完全な姿を残すことはできませんが、土地は四分の三、農奴も五百人は残ります。
ですから、来年の暮れか、再来年初春には貴女を晴れて領主館の花嫁として迎えることができると期待しているのです。

そうしてまた一点、慈悲深い貴女におすがりし、お許しいただきたいことがございます。これも貴女の心を痛めるに違いありません。
私には身分の低い情婦がおります。彼女あれを領地の一隅に住まわせたい。けっして母屋に顔は出させません。悪事を働くような女でないことは、聡明な貴女ならばご存知でしょう。
健気にリャードフ家で働き、貴女に仕え慎ましく幸せに暮らしていたこの女を不幸のどん底に突き落としたのは私であり、罪を償わねばなりません。
この厳然たる義務を私が背負っているのは、貴女もうなずかれることでしょう。

私は二人ともそれぞれのやり方で幸福にしたい。
もちろん、私の妻は貴女しかおりません。フョードル・イヴァノヴィチに抱いていただく孫、この世に私の子として生まれ出るのは貴女との子だけです。
私は世の中のご婦人のなかでもっとも貴女を敬慕しております。どうぞ寛恕の心を持って、未熟者への優しい目で私を眺めてください。
お怒りはいくらでも私にぶつけてください。
私は貴女の足下にならば喜んで身を投げ出すでしょう。

心よりの尊敬をこめて
Е.П.Я. 」

ーーー

二人の女の声で目が覚めた。
一人の声はヴェルヴェットのように滑らかな低い声で整然と語り、もう一人の声もやや低いかすれ声である。ぽつぽつとゆっくり喋り、時々口ごもる。感情が感じられない。
どこかでリザヴェタとアクリナが喋っている。おそらくあの、海豹の皮のかかった居間だろう。
私は盥に溜めた水で顔を洗い、髪をとかし服を着る。部屋の外に出た。
珍しく晴れた日で、広い居間には光があふれていた。何本も立った柱が輝き、朝の仕事に熱心な女たちの優しい曲線が鮮やかに照らされている。
二人の女は食卓の隅にいた。まだ私に気づいていない。
リザヴェタは帳面を広げ、アクリナは席の隣で腰をかがめている。リザヴェタは今日の仕事と、食事の内容を指示している。
女たちの仕事ぶりは流れるように見事だった。私はしばらくうっとり眺めていた。

仕事の指図が終わり、二人は軽い雑談をはじめた。
私は声をかけ、居間に入っていく。
「おはようございます、リザヴェタ・フョードロヴナ。体調はよろしいのですか?」
リザヴェタは冷たく私を見た。背筋を伸ばす。地味なドレスを着たリザヴェタは、まるで住み込みの女家庭教師のようだった。
「おはようございます」
二人の女はそれだけ言った。何か紙を見ている。
「いつもらったの?」リザヴェタが訊いている。
「昨夜、紅茶をお運びした時ですわ」
「ナディジェダというのは?」
「商人様のお母様のお名前です」
「フョークラ? 民衆に多い名ですね。これは?」
「あの、領地に住んでいた魔女だとか。あたしに似ていたそうです」
それは正直に喋ることではない。とっさに乳母だの子守りだのという言葉を出すのは、アクリナには無理なのはわかるが。

「自分の名前が書けるようになったのですね。素晴らしいわ。そのお手本は大切にしないとね」
「はい」
食卓にはサモワールがあった。私は、いくらでも厚顔無恥になることができた。「私もご一緒にいただいて構いませんか?」
「どうぞ」
短くリザヴェタが言った。
「朝食はどうなさいますか」
「簡単なもので構わない」
「粥を持って参りますわ」
アクリナは台所に向かう。昨夜と同じ、釦のないサラファンだ。目覚めてから『朝のお支度』に取りかかるまで、たいそう急いでいたのだろう。階下に着替えに戻る時間もなかったらしい。可哀相に、眠そうだった!

リザヴェタは素っ気ない。
アクリナが食卓に置いていったお手本をちらりと見た。
「素敵なお手本を書いてあげたのですね。昨日いただいたお手紙と同じ便箋で」
「手元不如意で、便箋代も節約しています。お恥ずかしい」
「昨夜、紅茶を運んだ時に書いていただいたお手本だそうですね。アクリナなら、さっそく階下の自分の部屋に持って帰って、聖ニコラ様のイコンにお見せしそうなものですけど。
何故、今朝まで貴男様の部屋のある二階に残しているのでしょう」
「置き忘れたのでしょうね」
「あんなに喜んで大事にしているのに? まあ結構です。昨夜はかすかに女の悲鳴が聞こえた気がしましたけれど、気のせいでしょう!
ああ、……貴男様は、あの可哀相な人に、一度だけではなく、何度も何度も言うことを聞かせているのですか」
「まあ、そうです」
「むごいことを」
リザヴェタはうつむく。

「お手紙はお読みいただけましたか?」
「ええ」
「お返事をお聞かせ願えますか。もちろん、今すぐでなくても構いません。考えるお時間も必要でしょう」
「……つまり、貴男様は、女を二人手元に置いておきたいと言うことなのですね。貴男様に対してアクリナがどう思っているのかわたくしは聞いておりません。
とにかくご要望としては、一人は愛玩用の囲い者として、もう一人は妻とは名ばかりの家事の総元締め役として。しかも、領地はこれから取り戻すつもり……と」
「ところどころ間違っていますが、まあそうです」
「なんて不誠実な……」

「お待たせしました」
アクリナが銀の盆に粥とキノコの漬物、紅茶茶碗、それに苺のジャムを載せてくる。
アクリナは一礼して下がろうとする。リザヴェタが、アクリナを呼び止めた。
「おまえも座って。三人でお茶を飲みながら、少しお話しない? 紅茶茶碗を持っていらっしゃい」
「え、……はい。では失礼いたします」
アクリナが席に着く。私は窓の光を背に浴び、食卓の角に座っていた。右側にリザヴェタ、左側にアクリナがいる。
新しい茶碗をリザヴェタが取り、サモワールからアクリナの分の紅茶を注いだ。
「ありがとうございます」
私は粥を食べながら、リザヴェタが何を話すのか待った。私に対する糾弾、それ以外に何があるだろう?
なんだか私はそれでも構わなかった。女たちが私の悪口を言い合うならば、その間、私は彼女たちの思いを独占しているも同然ではないか。

「アクリナ」リザヴェタが言う。
「はい、お嬢様」
「昨日、エヴゲーニイ・パヴロヴィチから求婚されました」
「え? あ……」
アクリナは私を見た。
「アクリナ、ああ、そうだ。私は昨日、リザヴェタ・フョードロヴナに求婚したのだよ」
アクリナの目から涙が落ちる。
「あの、……おめでとうございます。リザヴェタ様、それに商人様」
私に昨夜から今朝までのアクリナの感触が残っているように、アクリナにも私の感触が残っているだろう。
年より若く美しく見えていたアクリナが、急に老けたようだった。
「何故泣くの?」
リザヴェタが訊く。
「ああ、おめでとうございます……」
「まだお返事はさしあげてないわ」
アクリナは目を見開いたまま、涙を流し続ける。

「アクリナ、大丈夫?」
リザヴェタが立ち上がって、食卓の正面のアクリナに手巾を渡す。
私は訊く。「アクリナはよく泣くのですか?」
「いえ、まさか。わたくしは泣いている姿など初めて見たのですけれど」
「すみません……」
「お返事をおうかがいしてもかまいませんか? リザヴェタさん」
「その前にアクリナに訊きたいのですわ」
「……何でございましょう」
「わたくしはおまえに申し訳ないことをしました……。おまえは、こちらのエヴゲーニイ・パヴロヴィチに無理矢理、体を奪われたと聞きました。
わたくしがお世話係になどしたばかりに。地位と経歴をうかがい、紳士だと思ったわたくしが愚かだったわ」

「え……?」
泣きながら訊き返す。
「リザヴェタ様、どうしてそれを」
「色々あって、結局最後は本人が話してくれました」
「あの、でも、求婚なすったのでは」
「条件におまえも入っている。母屋に顔を出させないし、子も為さないが、領地の隅に住まわせてくれと」
「あ、あの。そんな無茶な条件でリザヴェタ様に求婚なすったのですか」

リザヴェタがアクリナに説明すると同時に、私を責めている。
「求婚の具体的な内容は書面でした。字で書いてくださったのです。
内容は……、ああ、信じられないわ!
半分以上は領地のお金の状態と、イギリス人の方と翻訳する予定の本のお話でした。わたくしに、妻と言いつつ、要するに家事の采配さいはいをしろということです。
愛しているとすら書いてありませんでした」
「私が貴女と育みたいのは、浮かれた恋愛などではなく、一家を経営していくものどうしの友情です。そういった種類の愛情のほうがよほど重要ではないでしょうか」
「前の奥様は愛していらしたのですか」
「前の奥様……」
アクリナは呆然としている。
私はアクリナに言った。
「二年ほど結婚していた。相手は亡くなったが」
それからリザヴェタに向かう。
「ええ、話すほどのことではありません。前の妻は、オルガと言いました。ある古くからの男爵家の令嬢で……、まあ、愛情はもっておりました。ええ、たぶんそう思います。
オルガはフランスの恋愛小説が好きで、どうも、私を、恋愛小説の男性主人公と考えていました。普通の恋愛小説の男は、詐欺にひっかかって借金まみれなどにはなりません。
おそらくあの人は私に失望したのでしょうね」
「……みずから死を選ぶほどでございますか」
アクリナは泣き続けている。

リザヴェタが私に尋ねた。
「マリーナは、自分から貴男様に迫ったのを断り、アクリナは無理矢理ご自分のものにする、どこが違っているのですか?」
「好みというのは、自分でも如何ともしがたいものです」
「では、家政婦頭のわたくしは、貴男様の妻と言われながら空閨を守るのですね」
「いや、貴女には私の子を産んでいただきたいのです。それに貴女に、恍惚を教えて差しあげる。貴女が淫らになればなるほど、私は閨でも貴女を大切にするでしょう」
「un homme infidèle」……信用できない男 
リザヴェタが呟いた。
私の喋り方はどんどん無愛想に、商用のようになってきている。
「少なくとも、誠実ではあります。何故かというと、こっそり囲うことだってできたのですから。
率直に申し上げて、かなりの割合の領主は秘密の家庭を持っていますし、女農奴に手をつけています……私は、もう猟色には飽きました。お二人だけを守ろうと思います」
アクリナはただ泣いている。

「アクリナ、もし良かったら……、父に良い人を紹介してもらう?」
きた、と私は思う。
「父の部下で、もしかしたら後添いになってしまうかもしれないけれど、信用のできる、誠実な人柄の軍人か衛兵を」
「アクリナは祖国戦争【*ナポレオンのロシヤ侵攻に対する、ロシヤ側の呼び名】で許婚を亡くしているのですよ。もちろん、我がロシヤ帝国の防衛は尊い仕事です。しかし、二度も同じ目に遭わせたくはありませんね」
「次の戦争の相手がトルコだか、プロイセンだか、スウェーデンだか私は知りません。ただ、結婚相手はアクリナより年上の方を紹介してもらえば、そうそう前線に行かされることもありますまい。
機知に富んだりはしていないでしょうし、外国語も話せないでしょうけれど、とにかく誠実で人柄の良い方を」
私に対する当てつけであるが、リザヴェタがそんな当てつけなどを言えるとは知らなかった。なかなか興味深い。
「どう? あなたは家内奴隷では無く、自由な奥さんになって、優しい夫と仲良く暮らすの。子供もできるかもしれないし、もう子供のいる方のところに行く方法もあるわね。鸚鵡を飼えるくらいの俸給をいただいている方を紹介するわ。アクリナ」
「え……ああ……リザヴェタ様。すごく、良いお話なのでしょうけれど……」
アクリナは私を見る。どうか何か言ってくれと言わんばかりだ。つまり、私に、お前は私のものだから断れと言って欲しいのだ。
「おまえの好きにしなさい」

私はリザヴェタに尋ねる。
「逆にリザヴェタさんにおうかがいしたいのですが、もし、アクリナがいなければ、この話を受けてもらえますか?」
「わたくしはすでに、アクリナのことを書いた書簡を受け取ったのです。もう、彼女が貴男を拒否しようと父の部下と結婚して幸せに暮らそうと……、アクリナと貴男を分けて考えるのはとうてい無理です。
貴男はどうなのです。アクリナがいなくてもわたくしを使ってくださいますの?」
「使用人ではなく、妻だと言ったでしょう。もちろんです。わたくしが見込んだお方なのですから。私は領地を取り戻し、前のように栄えさせたいのです」
「ああ、結局それが貴男の願いなのですね」
「そうです」
私が答えるさまは、非常に傲然としたものであったに違いない。
アクリナもリザヴェタも急に押し黙り、動かなくなった。リザヴェタもだ。かすかに唇が震えている。
アクリナは泣くこともできず、ただ驚き、恐ろしそうにうなだれた。
私は思いだした。かつて私は、何百人もの人間を隷属させていたことを。生殺与奪の権を握り、裁判権も持ち、売買も、罰を与えることもできた。
農奴たちは私を恐れ、恐怖とともに裸足で厳しい労働に向かった。『私』が動かしているのではない。私自身は意志の弱い、凡庸で卑怯な男にすぎない。
だが、父パーヴェルをはじめとして、何代もの父祖たちが積みあげてきた、他人を隷属させる力は、私にも受け継がれていた。

私は冷淡に、ただし口調は丁寧に、リザヴェタに言った。
「フョードル・イヴァノヴィチが世話をなすっている、上品なご婦人はアクリナと同い年だそうですね。正式にご夫人になっていただいたらいかがです。リザヴェタさん、貴女の弟か妹ができるかもしれません。それに、リャードフ家の跡継ぎも」
「……身分違いですわ」
「再婚できないほどではありませんよ。町人階級出身の、しっかりしたご婦人だそうですね。流刑囚だったご夫君が、病で獄死するまで見送って。
ここで貴女が懸命に家を守らなくとも、他にもやってくださるご婦人はいるということです」

「わたくしが父の再婚の邪魔をしているというのですか?」
「はい。貴女がここにいても、ダニイル君以外の求婚者が現れますか?
お仕事をなさって暮らしますか?
たとえば宮廷の侍女に? 失礼ながら貴女のように、先代で世襲貴族になられた方の御娘では無理でしょう。
家庭教師? シベリヤの成金あたりのご家庭ならおできになりそうですね。貴女の先ほどのフランス語の発音は酷いものですが。
せっかくのリャードフ家の血も残らず、世襲貴族の身分も消えてしまう。だったら、私の話を受けたほうが良いのではありませんか?
少なくとも、貴女の働きを期待しつつも、大切にしますが。貴女はシベリヤなどではなく、大ロシヤで、領主夫人と呼ばれたくないのですか?」

不意にアクリナが口を出した。
「……リザヴェタお嬢様、あたしが悪いのです」
「え?」
「商人様の看護をしているあいだずっと、あたしは聖ニコラ様にお祈りしておりました。この旦那様が、お嬢様の花婿になりますように、と」
「お祈りが効いたわけじゃないわ」
私はサモワールから紅茶を注ぐ。食後の紅茶を楽しみながら、アクリナに尋ねた。
「軍曹(軍曹と決まったわけではないが)と結婚の話はどうするんだね?」
「お話はありがたいですが、いたしません。あたしは、……破産していようと、エヴゲーニイ・パヴロヴィチについていくしかありません。あたしはもう、この方のものです」
リザヴェタは、それをアクリナの信心深さとの関連で解釈した。
「結婚の儀を経ているわけでもない。
無理矢理に貞操を奪われたなら、ついていく必要などないわ。神様も許してくださいます」
「いいえ、好きでついていくのです」
「どうして?」
「あたしが……淫らな女だからです」

私は思わず小声で笑った。リザヴェタはよくわからないながらも、理解しようとしていた。
「ひどく抗ったのではなかったの」
「はい、でも……でも」
アクリナはどう説明していいかわからないらしい。愛しているとか、お慕いしています、などとは決して言わないのだ。
言葉は知っているだろうが、そんな感情が自分に関係があるとは思ってもみないのだろう。
アクリナの答えはたいそう彼女らしいものだった。
「あたしは……商人様がおられないと、寂しいのです」
リザヴェタはなんとか自分なりに解釈して、言い換えた。
「つまり、最初は無理矢理だったけれど、今ではすっかり、エヴゲーニイ・パヴロヴィチに……手なづけられてしまった。欲望のことはわたくしにはよくわかりませんけれど……そういうことなの?」
ええ、とアクリナが言った。

「あの、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ」
「なんです、リザヴェタ・フョードロヴナ」
「貴男様は、嫉妬のことを考えていませんね」
「確かにそうですね」
「わたくしはアクリナが好きでした。無口な働き者で、良い使用人なのに少しぼんやりしていて、歳上だけれどなんだか危なっかしくて。ごくたまに、失敗して大騒ぎしていたわね。おかしかったわ。
でも、どうでしょう。もう、そういうふうには戻りません……とても悲しいことです」
リザヴェタが、アクリナに言う。
「このままだと、わたくしは耐えられない。おまえには何の落ち度もないけれど、わたくしはおまえにひどいことをしてしまいたいという気持ちを毎日抑えて暮らさなければなりません。
おまえにちくちく嫌みやお小言を言って憂さ晴らしをするなどわたくしの誇りが許しません。
なのに、ああ、でもそんな状態がずっと続けば、いつかこの人になにか無体な行いをしてしまいそうで、……わたくしは怖いのです」
「リザヴェタ様になら、怒られても構いません……」
リザヴェタはアクリナに返事をしなかった。アクリナはただ、悲しそうにうつむいた。私は言う。
「ですから、母屋には来させません」
「会わなければもっと想像が募りますわ。それに、アクリナのほうだとて、飾りものでも」
私がまたも否定したのを、リザヴェタは言い換えた。
「飾りものではない家政婦頭であろうと、貴男に妻がいるのは面白くないでしょう。貴男は二人の女を不幸にしようとなさっているのだわ」

「リザヴェタ、リーザ。貴女はご存知ですか。
お怒りになるでしょうが……ご自分が私を、痛々しいほど悲しそうに、物欲しげに眺めていたことを。私自身が欲しかったのではありますまい。
私が連れていってくれるかもしれない、他の土地や他の暮らしをお考えだったのではありませんか。
貴女は、一生、この寒い街を出ず、自分には何も起こらず、性愛も知らず、家事をしながら生涯を過ごしていくと信じていたのでしょう?
フョードル殿が亡くなったら、ずっと一人で、もしかすると姪か、いとこの娘か何かを預かるかもしれませんね。その娘の成長を唯一の楽しみにするのですか?
信用できるのはヒローシャだけ! しかし無口で言葉の足りない彼は、話し相手には向かない……。ヒローシャも結婚しているでしょうね。同族の娘か、もしかするとタユータと。
そして、貴女が監獄に慰問に行くのを恭しく送り迎えしたあと、奥方や子供の待つ楽しい部屋に帰るのです」
「商人様、お嬢様になんてことをおっしゃるのです」
「アクリナ、貴女は黙っていて」
リザヴェタはアクリナを『おまえ』ではなく、『貴女』と呼んだ。もう召使いではないと言うことなのだろうか。
「貴男のおっしゃるとおりかもしれません。そう、性愛は謎でした。先々には孤独しか待っていないかもしれません。
でも、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、求婚するつもりならせめて領地を取り戻してからにしてください! 貴男はまったく信用できない。こんな状態では父に話すこともできません。
万一貴男が本気ならば、領地を取り戻して、土地の登記書と一緒にもう一度求婚なさって。それから考えます!」
私は席を立った。
「性愛が謎ならいつでもお教えします」
「貴男は余計な一言が多過ぎますわ」


アイキャッチ画像
“Beginning of spring”
Painted by
Alexei Savrasov (1830–1897) [PublicDomain]