第7話 惨憺たる晩餐会★*

リャードフ家のささやかな晩餐会です。市長と市長の息子ダニイルが来ます。
ダニイルは令嬢リザヴェタの元・婚約者で、婚約解消されたことを恨んでいました。
マリーナ(マウリャ)と一緒に、商人様やリザヴェタ、アクリナにしつこく絡んできます。

*★若い娘に対する若干性的かつ残酷な描写があります。
多少は時代考証をしているのですが、シベリヤ料理と称してグロ料理を書きました。これは結構、嘘を混ぜました。

8月12日午後8時より,1826年

この街では、晩餐会だの夜会だのも早く始まり早く終わる。
マリーナが居間の食卓に布を掛け、燭台やナイフやフォークを並べていた。
アクリナが暖炉のチョウザメ料理の煮込み加減をみている。
そのあいだ、私は部屋で再び髭を剃り、髪をとかす。アクリナに細かく指図して糊づけさせたクラバットを結んだ。
もっとも、出席する婦人はリザヴェタだけであるが、昨日の夜の状態はあまりにお互い酷かった。礼儀上も、まともな服装をしていきたかった。
リザヴェタの話だと、元・許婚が来るという……父どうしが親友なのだそうだ……その男より魅力的でなければならないという妙な義務を感じた。

訪れたのは市長のウラジミールと息子のダニイルである。
市長ウラジミールも、息子のダニイルも非常に大柄であった。
特にダニイルは長身で、中背の私より頭ひとつぶん背が高い。太っているわけではないのだが、胴回りも大きい。長い顔で明るい金髪で、妙に屈託のない無邪気な表情をしていた。大きな唇は厚く、少女のように赤い。リザヴェタが、『少し足りない』と言っていた男である。
逆に市長は、大柄な体をぱんぱんに太らせた、やたらに人を持ち上げて喋る、ぬるぬるととぼけるのが得意そうな文官だ。
市長はどうも、息子をリザヴェタに会わせるのが嫌でたまらないらしい。
ダニイルはリザヴェタより三つ年下、つまり二十二歳らしい。
ダニイルが生まれたとき、自分の娘と息子を結婚させることにした。まったく合わない組み合わせに育つとは考えなかった。
考えたのかもしれない。
だが、その場合は、お互いどうしで婚約を解消するであろう。自分の息子や娘ならば、当然その程度の能力はあるだろうと、この名士で有能な父親たちは考えたのだ。

客が、玄関から二階の客間へと階段を登ってくる。リザヴェタが客を迎えた。
「いらっしゃいませ、市長様、ダニイルさん。こちらは首都の交易商人様です」
リザヴェタは、『商人』ときいてダニイルの顔にさっそく浮かんだ侮蔑の表情を素早く見て取ったようだ。
「商人と申されても事業を兼ねていらして……、首都の近郊に農奴七〇〇人の領地をお持ちだそうですわ」
これは効果があったようだ。ダニイルの態度がわずかに丁寧になる。
(十二月党員の又従兄よ。農奴解放だの立憲君主制だのはいらぬ。私は貴男のように志が高くないのだ)

私たちは席に着く。一応紹介にあずかる私が真ん中に座り、正面にリザヴェタ、私の右隣にダニイル、左隣に市長、左前にフョードルという具合だった。
市長が座った席は、壁のそばで、すぐ隣に海豹の毛皮丸ごと一匹分がかかっていた。海豹の顔まで残している。フョードルが海豹を指さして私に言う。
「どうだね商人殿、市長とよく似ているだろう!」
「あいつはお客が見えるたびにこれをやるのだよ」
市長が海豹とフョードルを交互に見ながら、私に話しかける。
「領地を経営しながら、交易商人とは大したものですな。荷は何を?」

「元々旅をしてみたかったのですよ。領地で採れた小麦粉をイギリスやプロイセンに持っていき、イタリヤかギリシャで葡萄酒を仕入れて来ることにしました。黒海のオデッサで売ります。自由貿易港ですから、税金がかかりません。
買い手はたいてい××県の商人ですが、その方が来られなくても、誰かが引き取りたがります。ポーランド人やチェルケス人、シベリヤの方が仕入れてくれたこともありますね。
ついでといってはなんですが、好事家の喜びそうなビザンツ帝国の骨董なども買いつけてきます。これはまあ、まったくの趣味ですね。首都の骨董品競売に出品いたします。家令がしっかりしているからできることです」
つい二、三年前まで、私は本当にそのような生活を送っていた。十九歳から二十七歳までだっただろうか? それならば永久に続けられると思っても不思議ではないだろう。

「これが商人殿の土産の赤葡萄酒だ。飲んでみようじゃないか」
フョードルがイタリヤの酒を開ける。チョウザメ料理だと赤葡萄酒は合わないのではないかと思うが、シベリヤふうなのだろう、知ったことではない。
「いや、お若いのに大したものだ……」
市長が言った。お世辞ではなく、妙な、すさまじく切実な響きがあった。
「失礼だがおひとりですかな?」
「ええ、残念ながら」
「それはいけないですね。早く花嫁を連れて帰れば、ご両親も領地の方々も安心するだろうに」
「いえ、両親は亡くなりました」
「だったら尚更だね」
正面のリザヴェタとふと目が合った。
恐ろしく寂しそうな、しかも飢えたような目つきで私を眺めていた。恐らく、本人もこれほど惨めな表情をしているとは夢にも思っていないだろう。

私は用意していた小箱を取り出す。
「もっと早くお渡しするつもりだったのですが、リザヴェタさんにお近づきの印に。我々の魂の祖先たる国、ビザンツ帝国のものです。十三世紀ごろでしょうか」
リザヴェタが小箱を開ける。柔らかい絹の布を広げると、モザイク細工の宝石箱が出てくる。
「まあ……」
リザヴェタの表情は暗いが、それでもほのかな喜びのようなものが浮かんだ。私たちが、春に雪を割って初めて出てきた芽を見つけた時のようであった。
アクリナが大きな盆を持ち、前菜を配っていた。表情はわからない。少なくとも泣いてはいない。

「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、まあ、どうも……ありがとうございます。こんな貴重なものを。とてもきれい……」
アクリナは黙って前菜を配っている。
市長も箱を手にとってひっくり返したり斜めにしたりして見ていた。
「ほう、これは美しい。シベリヤのような新しい土地に住んでいると、骨董品だの美術品だのとはまったく縁がありませんからね。我々は良いが、リザヴェタさんのような若く美しいお嬢さんは、このようなものを手にして美の感覚を涵養かんようしなければなりませんなあ」
「市長様、何をおっしゃっているのです。私たちの街には聖なる美しい修道院があるではありませんか」
「いえいえ、聖なるものと比べてはいけません。ただ美しいだけ、これも重要ですよ。「軍務一筋の君にはわからぬだろうがね」
市長は親友のフョードルに言った。

右側のダニイルが私に話しかけてきた。
「商人殿、僕も西ヨーロッパに留学する予定だったのですよ。プロイセンです。aber(しかし)」ダニイルはドイツ語を混ぜた。「色々手違いがありましてね」
「ほう、霧深きドイツですか……プロイセンのどちらに行かれる予定だったのですか?」
「ミュンヒェンです」
市長とリザヴェタがびくりとして聞かないふりをしている。
私はあまりに自信たっぷりに言われたので驚く。言うまでもなく、ミュンヒェンはバイエルン王国にある。
市長が深い溜息をついた。
私はダニイルに答える。「ああ、ミュンヒェン……ビールが美味いらしいですね。素晴らしい」
私の空虚な返事に、市長はほっとしているようだった。市長とフョードルと、修道院の長老が亡くなった時の対策を話し始める。
「監獄では警備を増やさないと暴動でも起こるかもしれない……」

ダニイルは本当に少し足りないらしいので、私は適当に話を合わせることにした。
無邪気そうなのが救いだと思ったが、そうではなかった。
彼は自分が何か人より足りず、市長の息子に生まれ、プロイセンのミュンヒェン、に留学できるはずの身でありながら、どうしてか他人に侮られ、集まりでは話に入れず、時々クスクス笑いがこぼれ、婚約者がわけのわからない理由で婚約を解消する……他の男がいるわけでもなく婚期を逃して今も一人だ、ならばどうして自分と結婚したがらないのか? ダニイルはこういった不条理に怒りを溜めていたのだ。

急にダニイルの怒りの声が響いた。
「これは、何が入っているんだ? この葉っぱは?」
ダニイルがアクリナのサラファンの背を掴んだ。
「ダニイル君、アクリナに手をかけるのはやめてくれませんか。彼女は仕事中なのですよ」
リザヴェタが私を頼もしそうに見つめているのに気づく。
アクリナがダニイルに答えた。
「……ただの前菜です。苺のソースをかけたキャビアとザリガニのサラダ……で、ございます」
「サラダに入っているこの葉っぱは薬草か? 僕にはたくさん入っているが、商人殿には一枚もない。リザヴェタさんにも入っている」
ああ、いつぞやのマヨランだ……。
【第3話 『薬湯と罰』参照】

それにしても、ダニイルのアクリナへの突っかかり方は異常だ。アクリナがどもりながら話し始める。
「あの、ダニイル様、それは、……血の巡りが……」
こういう時には、アクリナは泣かないようだ。
冒涜されると泣くのか? それとも仕事中は気が張っているのだろうか。
「ええと……商人様に、その薬草が入っていないのは……あまり……」
アクリナはぽつぽつとだが、何とかダニイルに答えている。見かねた私は、アクリナに変わって説明した。
「これはマヨランあるいはマジョラムと言って、イタリヤ料理では香辛料に使われる野菜ですよ。私はこいつの癖が少々苦手でね、アクリナに頼んで取り除いてもらったのです」
マリーナが台所からこちらを睨んでいる。
「ダニイルさん」
リザヴェタが毅然と言う。
「わたくしには別にちくちくと嫌味を言い続ければよろしいですわ。でもアクリナは関係ありません。うちの大事な……何にも落ち度のない召使いを侮辱するのはやめてくださいませ」

市長は気にしてこちらをチラチラ見るが、フョードルは市長相手に話を続ける。
「なあに、リザヴェタに任せておけば良いのさ。商人殿も味方してくれるようだしな。
そうだな、ひとつだけ惜しいのは、リザヴェタが男に生まれなかったことだ。あいつなら、軍で出世できると思わんかね? 近衛大将軍リザヴェタだ」
リザヴェタがアクリナに囁く。
「おまえは今日は給仕しなくていいわ。マリーナにやらせて。台所を頼みます」
「はい、お嬢様」
アクリナが台所に引っ込むと、ダニイルは話を続けた。
「アクリナは魔女ですよ、商人殿。サバトに出ていくのを見たことがあります。僕が雪道を歩いていたら、あの女が巨大な鸚鵡に半裸で乗って、すっ飛んで行くではありませんか……」
「ああ、それはぜひ見てみたいですね。プロイセンでは二世紀も前に魔女狩りは終わったそうですがね」
「見てみたいでしょう!」
とてつもない大声で笑う。どうもダニイルは都合の良い部分しか頭に入らないようだ。笑顔は邪気がない。悪気はまったくなさそうだった。
私はようやく気づいた。寝込んでいたときに何度も聞いた『アクリナは魔女だ』という野太い声は、ダニイルのものだった。

マリーナがワゴンに銀の盆を乗せてくる。盆に載っているのはチョウザメの煮物である。恐ろしく生臭かった。他の人々はうまそうに食べている。
「……これはどういう料理でしょう? シベリヤふうなのですか?」
リザヴェタが答えた。
「お口に合わないかもしれませんね。チョウザメを煮込むのですけれど、キャビアを取った後に、他の魚の内臓や血や蕎麦の実をすりつぶして詰めるのですわ。卵とか、ヤツメウナギも。イェルマークがシベリア遠征の時部下に作らせたとか……」
イェルマークはコサックで、シベリアの名の元となったシビル・カン国を滅ぼした。
「はあ……ええと、ずいぶん大きなチョウザメですね。二メートルくらいありそうだ」
しかし、なんと退屈で、そのくせ疲れる晩餐会だろう……。昼間話した時のリザヴェタの率直さすらない。彼女のすべてが表面的だ。

ダニイルが、マリーナに話しかけている。「アクリナは今日はもう出てこないのか」
「ええ、お客様がご不快のようでしたから」
「おまえの名前は?」
「マウリャですわ」
「何故いつもおまえが出てこないんだね? 知ってるか、アクリナは魔女だ」
「え? 魔女?」
「リザヴェタさんが魔女のアクリナを使って、僕に術をかけているのだ」
私は椅子から腰を浮かせ、リザヴェタに囁いた。
「ちょっと話を聞いていてみます」
リザヴェタがうなずいた。すっかり食欲をなくしているようだ。私はこのチョウザメ料理は申し訳ないが避けることにした。

食卓には、いつの間にかマリーナが運んできたウォトカが載っている。
「マリーナ、ウォトカは片づけて。ダニイルさんに飲ませては駄目なのよ」
「僕が頼んだのです、リザヴェタさん」
「マウリャ、アクリナが止めたでしょう」
マウリャは平然と主人に言う。「あら、お客様優先だと思っておりました。だって昨夜だって、商人様の言うことばかり聞いて、私の操なぞ歯牙にもかけて下さらなかったじゃありませんか」
「あれはおまえの狂言でしょう……」
「おまえの操? それはどういうことかい、マウリャ」
チョウザメの内臓煮を頬張りながら、ダニイルが訊く。
「昨夜、商人様があたしに、夜中に部屋に来るように命じたのです。来なければリザヴェタお嬢さんの部屋に連れて行けというから仕方ありません。入った途端あたしの手を握って、ルバーハをむしり取って」
「ほお、商人殿がリザヴェタさんの部屋に?」
ダニイルは自分の興味の範囲でしか話を聞けない。

私はフョードルと市長を見た。
フョードルは、市長に向かい、ある県の将軍の話を熱心にしていた。将軍は、部下に軍の金を使い込んだふりをさせ、かなりの額をプロイセンに送っていたのだという。
「つまりあいつはプロイセンのスパイだったのだ、神聖同盟など信用できるか。あの県にどれほどスパイがいるのか……」
「プロテスタントが正教徒に化けているようじゃないか。第二北ドイツ騎士団と名乗っている」
「ポーランド人もいるのか?」
「プロイセンも分割したいものだな」
確かにそちらのほうがよほど重要である。

赤毛の小間使いマリーナが、市長の息子のダニイルに言った。
「違いますわ。商人様はあたくしに夜中に自分の部屋に来いとおっしゃったのです。
ルバーハを剥ぎ取り、あたくしの胸を愛撫して、……おやめくださいと繰り返したらお怒りになって……ええ、ご自分に靡かない女はいないとおっしゃるのです。
リザヴェタお嬢様だって、少々口説けば簡単に手に入れられると……それでも、あたしが抵抗したら思いきりお打ちになったんですわ。ほら、」
マリーナが昨夜私が平手で打った左頬を見せた。かなり薄れたが、紫と黄色の混じった大きな痣が頬に残っていた。
リザヴェタがきつい声を出した。「マリーナ、許すのはあと一回だけと言ったはずよ」
「ダニイルさん、この娘は少々虚言癖がある。信じないでください」
ダニイルの返事は、彼がいかに、元婚約者のリザヴェタに執着しているかを示すばかりである。
「貴男がリザヴェタさんの部屋に行こうと無駄ですね。そのころ、リザヴェタさんの魂はアクリナの鸚鵡に乗って僕の部屋の窓を叩いていたんですから」
私は虚しくなった。決して彼には言葉が届かない。本人はそれを理解してはいないだろう。知らずに一人だけの世界に住んでいる。

マリーナは機転がきく。
「あら、ダニイル様、そういえば商人様のお部屋に行った時、窓が開いて、ペチカの上の鳥籠を見ました。籠の中は空っぽでした」
私は葡萄酒を飲む。「君たちは良い組み合わせじゃないか。ダニイル君とマリーナで結婚したらどうです。毎日賑やかで楽しいことでしょう。身分差なんて、マリーナがリャードフ家の養女になればよろしい」
リザヴェタがかすかに笑った。
「とんでもない、リザヴェタさんの魂が今までにも増して僕に攻撃を仕掛けてくるでしょう。本当は、リザヴェタさんは悪くないのです。アクリナがリザヴェタさんの内に秘めた欲望を魔術に使っているのです」
「内に秘めた欲望はたくさんありますけれど」
リザヴェタが、みずからのグラスに赤葡萄酒を注ごうとしながら呟いた。私は慌ててリザヴェタの手から瓶を取り上げ、彼女のグラスに注いだ。
「でもダニイルさん、あなたに向いているものはひとつもありません」
こういう言葉はダニイルの耳に入らないのだ。入って、どこかにぎっしり積もっているのかもしれないが、分厚い蓋をしている。
「証拠はあるでしょう、マウリャが目撃した空っぽの鳥籠と、開いた窓」
マウリャは機嫌良く後を続ける。
「商人様は最初にあたしが入っていくとアクリナと呼びました。それで、いきなり手を握って、『寂しいのか』って訊きました。すごく優しい声で。
最初は何をおっしゃっているのかわかりませんでしたけど、なんですの、あれ」
私はぎくりとした。ろくに覚えていないが、アクリナだと思っていたら、それくらいのことは言いそうだ。
「アクリナしか入れる人間はいない。誰かいたら彼女と間違える」
「それで、『寂しいのか』なんてお訊きになるんですの? 中年の召使いに? 商人様はお優しいのですね」
リザヴェタが奇妙な表情をしている。
「よく覚えていないが訊いたかもしれない……修道院の長老様が危篤だというので、ずっと不安そうだったからね」
アクリナが、台所からマリーナを呼んだ。「マウリャ、ワゴンを戻して。次のウハー【*魚のスープ】をお運びして」
「あら、呼ばれてしまいましたわ。アクリナさんは寂しかったのかしら」
「商人殿、あんたはアクリナの仲間か? 魔術士……?」

何故このような気違いじみた会話をしなければならないのだろう。リザヴェタの顔色はひどい。私は言った。
「リザヴェタさん、マリーナはもう駄目だという判断でよろしいでしょうか」
「はい、残念ながら。貴男様がおっしゃるとおりでしたわね」
リザヴェタは、市長と話し込むフョードルに声をかけた。
「お父様……小間使いのマリーナを処分します。昨夜うかがったように、処分の方法は私にお任せくださいますか」
「ああ、頼むよ、リザヴェタ近衛大将軍」
「その呼び方はおやめください……商人様、どういたしましょう」
「私のうちと同じ方法でよろしいでしょうか。リザヴェタさん、態度不良の召使いを罰したことは?」
「ありません」
「では参考になさってください。外から鍵がかかり、閉じ込めて置ける部屋はありますか?」
「三階に物置がございます。中からは鍵をかけられませんが、外の鍵はあります」

私はリザヴェタとともに、台所に入る。アクリナが台所の奥にいた。うつむいて、ウハーを皿に盛っている。不思議そうに、私とリザヴェタを見る。ああ、なんと可愛いのだろうか。
「……どうなさいましたの?」
「いや、アクリナ、おまえは関係ない。マリーナ、来なさい」
私はマリーナの右腕を掴んだ。そのままぐっと引く。マリーナの表情はただ、凄まじい驚愕だった。
「アクリナ、マリーナはもう戻ってこない。あとを頼む」
「え、……は、はい」

私はマリーナを引きずったまま、私の滞在している部屋に行った。リザヴェタがついてくる。マリーナが大げさに叫ぶ。
「痛い、痛いですわ! 商人様、なんて乱暴でいらっしゃるの!」
「リザヴェタさんに、召使いへの罰の与え方の見本をお見せする」
ダニイルも見物にくる。
私はマリーナの手を引いたまま、旅行鞄から縄束と乗馬鞭を取り出す。
「……商人様、何を……」
マリーナがさすがに震えだした。
私は答えず、窓際に作りつけられたベンチの前に、マリーナを引きずっていく。両肩を窓のほうを向かせる。
「その場に膝をつきなさい。そして両手をあげて」
私はマリーナの両手首を手早く縛りあげ、ベンチの脚が本当に作りつけなのか、揺すって調べた。強度は十分なようだ。
縄の途中から、ベンチの脚に結びつける。
マリーナとベンチを結んだ結び方は私の家では代々『領主結び』と呼ばれていた。ひっぱればひっぱるほど結び目はきつくなり、縛られている者に食い込む。解けることはまずない。
「どうしてこんな目に遭うの……ああ、お許しください……」
震えてカチカチいう歯の音が聞こえる。私は言う。
「何度も警告したね、マリーナ」
リザヴェタは青ざめながらもじっと見ている。

私は布切れを探す。ペチカの前に置いてあった炭だらけのボロ切れが目に入ったが、私の服が汚れる。
私はマリーナの前掛けを外し、腰紐を中心にくるくると丸めた。
私はリザヴェタに説明した。
「舌を噛むかもしれませんからね。うるさいですし」
「舌を噛むとは、マリーナが自殺を選ぶかもしれないと思っていらっしゃるのですか?」
「いや、この娘はそんなことはしない。ほら、歯の根が合っていないでしょう。間違って噛むかもしれないということです」
家畜の取り扱いを説明しているようだ。

私はマリーナに言う。
「舌を噛み切りたくなかったら口を開けて」
マリーナはガチガチ震えながら口を開ける。
私はマリーナの頭を押さえる。
ひとつに縛った三つ編みを、頭の上にあげるとともに、口に前掛けを強く噛ませた。三つ編みをあげた状態で、前掛けの紐を後頭部で結ぶ。
「来客中に主人や客を侮辱……騒ぎを起こす、と。まあ、鞭打ち三十でしょう」
私はマリーナの頭を押さえたまま、サラファンの打ち合わせ部分をつかむ。釦を飛ばしながら、腹まで引き裂くように開けた。
そのあと、ルバーハの胸元の釦をはずし、いっきにずりおろして腰まで背中を剥き出しにする。赤毛の娘らしく、そばかすのある細い背だった。

リザヴェタはペチカのそばのベンチに座って、青ざめながら私の処理を眺めている。先日、アクリナが座って兎の皮の敷物を縫っていた席だ。
ダニイルはもっと近くで見てみたいがアクリナの鸚鵡が怖くて近寄れないらしい。見物人は増えている……例のスパイの話をし続けながら市長と監獄長官が室内にやってきくる。扉の入口にはアクリナがいる。
アクリナはいつぞや自分がやられたように警告で済むのではないかと期待していたようだ。
だが、どうも駄目だと気づいたらしかった。十字をかいてから、目を強くつぶる。
【*正教では十字は「切る」ではなく「かく」】

「少し横を向きたまえ、左右どちらでも良い……」
私は頭を押さえ、ベンチにマリーナの左頬を密着させる。
私は二、三度、乗馬用の鞭をうならせ、感覚を取り戻す。ああ、鞭打ちは結構やったものだ。はじめのうちは面白かったが、あとはただの義務になった。
「では三十回……、一」
私は鞭をあげ、最初は少し速度をつけ、あとは重力にまかせて振り下ろした。
軽い鞭だが、速度は出る。ふだん農奴を打つ時と変わらない強さだ。しかし、観客たちには意外と強力な一撃と映ったようだ。リザヴェタが瞬間的に目をそらし、ダニイルはへたりこんでいる。
「ふむ、監獄の笞刑ちけいよりは、ましな一発だな」
フョードルが市長に話している。
「いや、商人殿のあれだって寝込むくらい痛いよ。どちらも勘弁願いたいね」

マリーナの背に赤く長い跡がつき、血が滲んでくる。マリーナが呻いている。さっさと終わらせるのが親切というものだろう。
「二」
私はまた乗馬鞭を振り上げた。

三十回目を打ち終えるころには、マリーナの小さな背には均等に鞭の跡がついていた。
満遍なく赤く染まり、背の大部分がきれいに出血していた。マリーナはぐったりして動かない。時折、びくりと震える。本当に家畜のようだ。
私はリザヴェタに言った。「明日、後家さん通りに連れて行きましょう」
青ざめたリザヴェタが私を見あげた。すぐに消えたが、その瞬間の表情には確かに恐怖が宿っていた。
「リザヴェタさん、大丈夫でしょうか? お加減が悪ければ、あとは私がやりますので」
「いいえ、商人様、主人の義務です。最後までお教え願います」
「消毒だけしましょう。アルコールの安くて純度の高いものと、それからできるだけきれいな布を持ってきてもらえますか」
「アクリナ、あるかしら?」
フョードルと市長が話しながら出ていく。フョードルが言った。
「『飯炊き婆さん』は動けんよ。座りこんで震えておる」
まあ、当然そうなるであろう。そして、自分が鞭打たれる時を考えているのだろう。
「わたくしが取ってまいります」
リザヴェタは気丈だ、というよりも、慰問に行った監獄では、何度も笞刑の痕を見たと言っていた。
マリーナの傷は、囚人が負う傷に比べればどうということはない。囚人たちの笞刑は五百回や千五百回なのだから。
ただ、自宅で、自分の召使いの女が、知り合いの男の鞭を受けるというのはまた別だろう。

「酷い」
ダニイルがぶつぶつ言っていた。
「ダニイル君、君はアクリナを魔女だと言っていましたね。行き着く先はこういうことなのですよ。
誰かが貴男の言葉を本気にして、魔女だから叩きのめさなければならない、ということになったらどうなります。アクリナは引き裂かれてしまいます」
どれほど理解しているのかわからない。
ダニイルが出した結論はアクリナに似ていた。
「あんたは悪魔だ」
「悪魔? 冗談じゃない、そんなものがいるわけがない。プロイセンのミュンヒェン並みにこの世に存在しないよ。君がやるべきことはね、リザヴェタさんの足下にひざまずいて求婚することだ」
まあ、受けてもらえないだろうが、と私は思う。
「あんたがアクリナを操り、アクリナがリザヴェタを操っているんだ……」

リザヴェタが戻ってきた。新しい亜麻布を数枚と、ウォトカの瓶を持っている。ダニイルがぶつぶつ呟き続けている。
「商人とかいって、あんたは本当はアクリナに地獄から召喚されたんだろう。
契約の印に……山羊並みのあれで、アクリナを後ろから犯した。さぞ血が出るだろうなあ。媚薬で穴が開き放題に開くのかもしれない……」
リザヴェタは通りすがりにダニイルを見て、無視する。
「この悪魔は、リザヴェタさんの清らかな体を祭壇にしろと言うんだろう。腹に蝋燭を何本も立てて、山羊の頭や、片輪の赤ん坊の死骸を捧げられて……」

「これでよろしいでしょうか」
「ええ、ありがとうございます」
私はリザヴェタから受け取った亜麻の一枚に、ウォトカを掛け、マリーナの血まみれの背に貼った。アルコール分が染みたらしく、マリーナは引き攣りながら背をそらした。
前掛けを猿轡さるぐつわにしているので、悲鳴もあげられない。
「では、物置に閉じ込めておきましょう」
私はベンチの脚に結びつけた縄を外した。手のほうは外さない。口に嵌めた猿轡も同様だ。
よろけるマリーナを無理やり立たせる。顔色は真っ青で、涙や鼻水で汚れきっていた。時々しゃくりあげている。自分に何が起きたかわかっていないような感じである。私は彼女を、熊使い芸人が熊をひくように歩かせた。
二、三歩でマリーナは座り込んでしまう。私はマリーナのサラファンをたくしあげる。
釦を腹の部分まで飛ばしてしまったので、前当ての布がひらめいて私の手に当たり、不愉快である。
私はフロックを脱いだ。シャツの両腕をたくし上げ、剥き出しにした腕に亜麻布を巻きつけた。それから、小柄なマリーナを抱きあげる。乳房はあらわなままだが、私の好みではない。
サラファンを戻したのは、抱きあげた拍子に血が私の服につくのが嫌だからだ。
「リザヴェタさん、物置に案内してください」
「はい」
私たちが部屋を出ようとすると、アクリナが座りこんで震えていた。
「無理しないで座っていなさい」と私は言う。ダニイルが奇声をあげた。
「あー! あああー!」

物置に入り、ジャガイモ袋のようにマリーナを床に落とした。幸い、私のシャツの腕部分には血もつかず、真っ白なままであった。縛ったままの両手首の縄を柱に結びつける。
リザヴェタが尋ねた。
「まだ縄を解かないのですか」
「はい、後家さん通りの女衒に渡すまでは安心できません」
マリーナは縛られ、猿轡を咬まされたまま、柱にもたれかかって横たわる形になる。
リザヴェタは、私がいい加減にたくしあげたサラファンをいったんおろし、腰までずり落ちたルバーハを引き揚げ、サラファンの位置を戻した。
私は物置の窓の鍵を確かめ、鎧戸を降ろす。私とリザヴェタは物置を出て鍵をかけた。


アイキャッチ画像
“Beginning of spring”
Painted by
Alexei Savrasov (1830–1897) [PublicDomain]