第11話 修道院

修道院を訪ねる回になります。
前半では『私』こと商人様、エヴゲーニイ・パヴロヴィチは料理女の愛人アクリナを連れてやっと修道院の長老様に面会していただきます。
後半で、ずっと探していたイギリス人に会います。
ごくふつうに、アクリナを連れ歩く商人様が、書いていて新鮮でした。

8月15日,1826年

私はアクリナを連れ、修道院に出かけた。
修道院は古く、街ができるずっと前、シベリヤがロシヤ帝国のものとなる以前から存在していた。
丘に囲まれたこの地は気象が異常である。雲が集まりやすく、夏でも冬に近いほどの寒さが続く。日光不足で森林も弱々しい。

最初は一人の修道士だった。この厳しい地をみつけ、修行をはじめた。
彼の徳を慕った修道士が集まってきた。あまりにも過酷な気候だったので、当時この地を支配していた遊牧民の国、タタール人の末裔であるシビル・カン国からも見逃された。
修道院は少しずつ規模を広げていった。
いまでは北側の丘の頂上をすっかり取り囲み、石壁がそびえていた。
壁の向こうに聖堂の塔の先端である、玉葱型のドームが見える。

私はアクリナの手を引っ張り、修道院の建つ丘を登っていた。じぐざぐになった坂は、傾斜が緩い代わりに、長い。
巡礼者が多かった。なかには、私たちを見て、怪訝そうに振り返る者もいる。
確かに妙な光景だろう。絹の帽子を被った洒落者の旦那が、汚れた羊の外套の召使い女の手を引いて修道院の坂を登っているのだから。
あんなに長老の危篤について祈っていたのだ。生きているうちに会わせてやりたかった。私はリザヴェタにそう言い、無理に連れ出した。夕食の支度があるから、午後三時までに帰さねばならない。
また、マリーナが抜けてからの細かい仕事がたくさんある。タユータはまだ大して役に立たない。その辺りは見逃してもらった。いや、見逃させた。

「ここに来るのは二度目だ」
私はアクリナに言う。
「え、そうですの?」
「ああ、ヘンリー卿を探し始めた八月十一日から二日目に来たのだよ。晩餐会のあった日の昼間だ。
古い書物のありそうな場所といえば、修道院ではないか?」
文盲のアクリナには書物のことなどわからない。寂しそうな、申し訳なさそうな表情で私を見上げた。ほつれた藁色の髪が丘から吹き下ろす風に揺れて、頬にあたっていた。彼女はしばしば私をまっすぐ見る。
「いや、すまない。ただ、ヘンリー卿は、信仰心などない人でね。
ロシヤで暮らすためにロシヤ正教に改宗したらしいが、そのまえは、イタリヤで遺跡を発掘するとかでカトリックになっていた。回教だろうと拝火教だろうと必要だと思えば平気で改宗する。
そういう人だから、私には、修道院にいるヘンリー卿というのがピンと来ない。前回来た時も、あまり熱心に調べなかったように思う。本そのものは元々修道院にあったとしても、持ち出してどこかの下宿屋にいそうな気がしていた」
「この前いらした時はどうだったのですか」
「鐘楼の門番に、修道士は千人もいる、俗界の国籍など修道には関係ないと言われてね。
図書係の修道士に面会させろと言ったら、『そのような者はおりません』の一言だ。賄賂も通じないし」
「修道院に賄賂なんて……」
「結構使えるものだよ」

丘の頂上にたどり着いた。私はアクリナを連れ、門番に言う。
「長老様に最後の祝福をしていただきたい」
「そういう方が既にたくさんお並びです」
門番が言った。
「それにもう、長老様はお疲れなのです。今日、お会いになるのは無理でしょう。このままずっと並んでいれば、明日の昼頃にはご挨拶くらいはできるでしょう」
私は通行許可書パスポルトを見せ、某県のЯという領主だ、と言った。
「貴族の方も見えられますが……そう、すぐというわけには……」
「私は、おまえのことを首都の総主教様にお伝えすることができる」
私は言った。
「二度と聖なる場で働けなくすることもできる」
アクリナが怖がっている。私の手を強く握るが、手が震えている。
「お取り次ぎを頼む」

修道院の中庭には、大量の巡礼者がいた。
彼らの大部分はほんとうにぼろぼろだった。着ている布切れはジャガイモ袋よりひどく、ラプチを履いている者すら半分もいない。裸足だ。
凍傷で足をなくした者も多い。
悲痛な祈り声は、歪んで響いてくるようだった。
『奇跡の成就者、聖ニコラよ。何故願いを聞いてくれないのですか……』

門の裏に、利発そうな見習い修道士が来た。まだ少年である。
「貴男様がЯ様ですか?」
「そうだ」私は答えた。
「ご案内します。召使いはここで待たせてください」
「いや、この人も連れて行かねばならない」

私とアクリナは、長老の居室に案内された。
質素な建物だ。石造りで、扉と小さな窓があるだけで、ただの箱型である。
ここにも、たくさんの巡礼者が並び、居室を拝んでいた。
ずっと並んでいるのだろうか。聖ニコラのイコンを抱え、へたり込んでいる者がいる。皆、寒さでもうろうとした顔をしている。姑につきそわれた、農家の嫁らしき『悪魔憑き女』【*日本の狐憑きに似た状態になるらしい】が奇声を上げていた。
私の横を通り過ぎた男が、咳き込み、いきなり血を吐いて丸太のように倒れた。

私とアクリナは、見習い修道士の少年に連れられ、居室に入った。
中は乳香の匂いでいっぱいだった。固い寝台と、壁に掛けられた十字架と、乳香を焚く吊り香炉以外、何もない部屋である。イコンすらなかった。
寝台に横たわっているのは、子供の骨のように小さく痩せた長老であった。黄ばんだ顎髭だけが目立つ。
修道士のある者は穀物を断っていく。そして朝から晩まで乳香の中で祈り三昧に暮らす。余計な脂肪や肉は消え、腐るようなものは体から抜けていく。
だから聖なる遺骸は腐らず、芳香がするようになるという。

私とアクリナは、見習い修道士に言われるまま、寝台のかたわらにひざまずいた。
「ああ、……」
長老は目を開けた。アクリナに言う。小さな、体中から水が失われたらしい、ざらついた声だ。
「……おまえは前にも来たことがあるね」
「はい」
アクリナが驚いている。

長老は、私に言う。
「……領主殿、貴殿のような方が来るのはわかっていた。しかしもう少し遅く、わしがいなくなってからにして欲しかった……。『あれ』のことを知っているのは、わしだけだから……」
「どういうことでございますか」
「……そなたがくるのを邪魔してみた。それでも間に合ったならば、それは神のご意志だろう」
私はしばらく考える。「……まさか、コサックが馬の脚を折ったことですか?」
私がこの街に来る途中、二〇〇露里くらい手前で向かいから来たコサックが、私の馬の脚をすれ違いざまに棒で叩いた。
馬はくずおれて脚を折り、おかげで馬を撃ち殺す羽目になった。私は荷車を引きながら、歩いて来た。三日で到着する予定が一週間以上かかった。疲労から倒れ、さらに一週間寝込んだ。

「そう、彼は信心深い……貴殿の命に手をかける罪を犯そうとすら言ってくれた。が、止めた。何故かというと、『あれ』のじっさいの結果が、わしには判断がつかないからだ」
アクリナはきょとんとしている。私もだ。
「貴殿は私たちの住むロシヤを裏切ろうとしている。わしはロシヤの民衆に不幸をもたらしたくはない。
それとも、単に学問の進歩になるのやもしれぬ。
『あれ』……『あれ』を譲った、結果が出るのは遅いだろう。恐らく一〇〇年も二〇〇年も後だろう……」
ああ、恐らく、あの古文書の売却のことを言っているのだ。アメリカの大学がロシヤ帝国を恐れて研究しようとしているのならば、確かに私は売国奴だ……。

長老はしばらく黙って休み、ふたたび口を開いた。声は前より小さくなっていた。
「召使い女よ。おまえは辛い目に遭ってきたね。前に来たときは、許婚を亡くして街に売られてきたときだった。そして今は、幸福を手に入れる最後の機会をみずから捨て去ろうとしている。……」
長老はぜいぜい息をした。見習い修道士が、水を入れた杯を口元に近づける。自分で杯も手に取れないらしい。
「……長老様、どうしておわかりになるのです」
長老は苦しげな中にも、小声で優しく、アクリナに注意を与えた。
「おまえの好きなようにしなさい。おまえの暮らしは、わしとはまったく違うが……生涯じたいが長い致命【*殉教】であることには変わらない。
毎日イコンに祈りなさい。日々あらたに、自分は致命しつつあるのだと思いなさい。それが神を感じる道になろう」
「は、はい。長老様、お願いです。祝福なすってください」
アクリナは弓のように腰をかがめ、掌を重ね、寝台の長老のまえに差しだした。
長老が痩せた指で震えながら、イイスス・ハリストス【*イエス・キリストのこと】を表すかたちに組んだ手を、アクリナの掌に載せる。アクリナは目を潤ませ、長老の手の甲に接吻した。

アクリナは伏して言った。「長老様、どうぞこちらの旦那様にも祝福をお与えくださいまし」
私は作法通り腰をかがめようとしたが、長老に遮られた。
「いや、貴殿には祝福は与えない。ただの礼儀としてしか受け取れない者には。……わしには、もうそんな余計な力はない」
見習い修道士に言った。「ここから出たら、この領主殿をイギリスのお方のところに案内してあげなさい」
「はい」

外に出ると、アクリナは激しく泣きだした。私は手巾を与え(アクリナといると大量の手巾が必要だ)、彼女の背を抱いた。長老の痩せようは激しい。意識ははっきりしていたが、長くはないであろう。
私はアクリナに訊く。
「もう長老様といっしょに行きたいなどとは思わないね」
「は……、はい」
見習い修道士が私を呼んでいる。「ちょっと待ってくれ」
私はアクリナの涙を拭きとる。
「アクリナ、先に戻ってくれ。私はイギリス人に会ってくる」
「あの、すぐに新大陸に行ってしまわれるのですか」
泣きじゃくりだした。ああ、これも原因だ。
「まだ行かない。今日はリャードフ家に戻るから。食事を期待している」
「今日は戻っていらっしゃるのですね……」
少しほっとしたようだ。
「歩いて帰っては駄目だ。ここからリャードフ家まで四露里くらいある。どんな無頼漢がいるかわからない。辻馬車に乗りなさい」
私は他の巡礼者に見えないように、数ルーブル渡そうとした。
「商人様、……お困りではないのですか」
「いや、この程度なら大丈夫だ。イギリス人にも会えそうだしね。受け取りなさい」
アクリナは素直に受けとり、大事そうに外套の隠しに仕舞った。
「商人様、ああ、長老様にお目にかからせてくださって、ありがとうございました」
アクリナは私に深々と礼をし、門のほうへ戻っていく。時々、私の手巾で涙を拭き、こちらを振り返り振り返りしていた。

それにしても凄まじい巡礼の人数だった。
長老が亡くなったら、いったいこの連中はどうするのだろう?
私は見習い修道士の少年に案内されていく。近道を通っているらしく、比較的、人がいない。
「あの痩せようでは、もうすぐ……」
私が呟くと、見習い修道士の少年が言う。
「不朽です。お体は聖なる不朽体(ふきゅうたい)【*聖人などの遺骸】として聖堂の地下に安置いたしますし、魂は滅びることはありません」
「魂は滅びることはありません、……か」
見習い修道士はまったく信じきっていた。曇りかけてきた空をまっすぐ見上げる。青い目は瞬きすらせず、神の作った世界を眺めている。こんな子供なのに、宗教狂人の目だ。
私は、魂がどうなるのか知らないが、というより魂がどのようなもので、どのように在るのかもわからないが……『最後の審判』が盛大に行われるとはどうも信じられなかった。
まあそれでも、今までアクリナが、神や聖人のことを考えて、その際いっしゅんでも幸福に浸れたならば、それはそれで宗教の意義もあるのだろう。

見習い修道士は修道院の北東の隅にある、すっかり石もすり減った小さな小屋に案内した。
さらに北の石壁を越えると修道院の敷地ではない。丘や森が連なっていた。森からは霧が出て、空にはどす黒い雲が湧きつつある。

「古い小屋だね。聖堂よりもそうとう古いのではないかね?」
「はじめに聖グレゴリイ様が当修道院を創建なさったとき、最初に作られた建物はここだと聞いております」
聖グレゴリイの名は聞いた。アクリナが話していたし、街の中心広場や大通りの名前になっている。
「それは貴重だ」
見習い修道士の少年は返事もしない。この世の建物などより、神の国のほうが重要なのかもしれない。

見習い修道士が鉄の扉を開けた。
ランタンがぽつぽつついていた。中はただの物置きのようだった。いや、棚があって、書物が詰まっている。
ギリシャ語、古スラヴ語、ラテン語、ヘブライ語が雑多に並んでいた。
私は息を飲んだ。
「すごい書物だ……」
ビザンツ帝国の東方教会の研究書、聖書、聖人伝、何世紀も前の修道士の日記、カトリック神父との論争の記録……このような貴重な本が埃にまみれ、何十年も、下手すると何百年も誰も手を触れていない! 
ただ、真新しい指の跡が散見される。これは、あの人のものに違いない。

「こんな貴重な本が……」
「そうなのでございますか?」
少年は素っ気なく言った。
「見習いとはいえ修道士なのだろう? 興味はないのかね」
「僕は文字が読めません。カトリックの悪魔たちのように賢しらに研究などするよりも、神を感じることのほうが大切でございます」
私は絶句した。これほど神にのめりこんだ少年が、聖書すら読めない! 
「他にも字が読めない人はいるのかね」
「事務方の修道士を除き、大部分の者が、文字など読みません。師から受け継いだ祈りを唱えます」
……それではまるで、アクリナの鸚鵡だと私は思う。

少年は私に手招きした。「気をつけてください」
書棚の裏にまわる。床には、元からあったらしき洞窟がぽっかり開いていた。斜めに階段が降ろされ、三、四サージェン【* 1サージェンは約2.1メートル】下は、ぼんやり明るい。
「ゲンリフ殿」ヘンリーのロシヤ語表記だ。
「領主殿をご案内しました」
少年はそのまま去って行く。

階段を降りると薄暗い洞窟は広場のようになっていた。書棚があちこちにある。
洞窟の中央にランタンをいくつも置いて、痩せた高い背をまるめて、机に向かっている老人がいる。修道服ではない。橙色の羅紗の上衣は、私が子供のころにも見たことがある。
「ヘンリー卿ですか」

老人は私を振り向いた。老人ではない。髪も髭も、伸び放題で真っ白だったが、頬は桃色で、顔だけとても若く見えた。浮世の代わりに、どこか別の次元で時を過ごしていた人に特有の若さだ。
目がよく見えないらしい。こんな暗い場所で翻訳をしていたらそうなるだろう。ヘンリー卿はじっと目を細めて私を見る。私は近づいた。
ヘンリー卿が気づいた。
「ルーシの獰猛公(どうもうこう)! エウゲニオス獰猛公じゃないかね!」
子供時代につけてくれたギリシャふうの渾名で私を呼んだ。
「本当に来てくれるとは。返事もよこさなかったのに」
「貴男が住所を書いてくださらなかったのですよ。探しだすのにずいぶん苦労しました」
ヘンリー卿は立ち上がり、私と握手した。

「ヘンリー卿、本当にお久しぶりです。お会いできて嬉しい」
ふつうはここで、思い出話をしたり、共通の知人の消息を交換したり、会っていなかったあいだに自分が何をやっていたか等を話しあうのだろう。十五年ぶりに会ったのだ。
だがヘンリー卿はいきなり本を見せた。やはり彼はヘンリー・リード卿だった。恐ろしい集中力の持ち主で、いったん学問にのめりこむと他は目にも入らない。

「これですよ、『母なる大地の年代記』……」
私はぼろぼろの皮で包まれた、大判の本を受け取る。なかなか重い。
中は羊皮紙で、文字はキリル文字ではもちろんない。古代スラブ語の、あの奇妙な絵のような文字ですらない。
「見たこともない文字だ」
「ああ、だいたいはアルファベットの役割を果たしているのですが、どうも一部は違うようなのですよ。清国で使われているような表意文字なのか、とも思うのですが……どうもわからない」
ヘンリー卿は、さらに説明しようとする。
「ちょっと待ってください」
「何ですか? 鳩小屋を覗きに行きたいのですか? 狐を撃って、生きたまま皮を剥ぎに行くのですか? 農奴の子供たちを障害物がわりにして馬で飛び越える? それとも台所のシチー【*シチュー】に生きた蛇を突っ込んで料理女を泣かせるのですか?」
私は思わず笑う。「いや、いくらなんでも、もうそんなことはしませんよ……」
料理女を泣かせるのだけは今でもやっているのだから妙なものだ。

「ヘンリー卿、私にその翻訳を手伝って欲しいということでしたね。この修道院の人たちはどれくらい協力してくださるのです?」
「駄目ですね」
ヘンリー卿は雑然とした机から立ち上がり、ぼろぼろの応接セットの前に座った。
「紅茶は?」
「ああ、いただきます」
「この修道院の人たちは、書物に何の興味もありません。貴重な本がごろごろしているのに、目録すらない。
知的な好奇心というのがまったくないようです……現世か、さもなくば、いきなり神の世界です。
その中間の、この世を動かす仕組みにはまったく興味がないのです。
過去の我々がどう暮らしていたのか、雨はなぜ降るのか、かたつむりは何をどうやって食べるか、天体は何故動くか……」
「ニュートンの国の方には、我が国民はさぞ蒙昧(もうまい)たる蛮族に見えるでしょうね」
「僕には貴男方も興味深い謎のひとつですよ。それにサモワールは素晴らしい」

私はサモワールから紅茶を受け取った。
「ふむ、どういう条件で翻訳を許されたのですか?」
「病気の長老が辛うじて許してくれました。事務方が、住むところと食べもの、多少の生活費を与えてくれますよ。
長老以外の修道士は、興味もないようです。知りもしないのではないでしょうか。
事務方に助手を呼ぶと言ったら嫌そうでしたが、貴男にも修道院の一室を与えてもらえるようにします」
「いや、修道院の部屋は……」
祈りのためにある部屋など御免こうむる。アクリナを引っ張りこんだら本人も大騒ぎするだろうし、修道院でもひどい問題になるに違いない。

私はヘンリー卿に訊いた。「……ところで、先ほどの見習いの少年は、何と言うのですか?」
「彼はコーリャ【* ニコライの愛称】と呼ばれています」
「聖ニコラからですね。そのコーリャに、ここの修道士はほとんど文盲だと聞いたのですが、まさか?」
「本当ですよ。僕の知る限り確実に文字が読めるのは事務方の三人だけですね」
ヘンリー卿は不思議に思っている様子がまったくない。しょせん他国のことであり、しかもそこは、いくら取り(つくろ)うと野蛮な後進国なのだ。
「まあ、翻訳しておけば、研究を受け継ぐ人も出てくるでしょう。僕はね、獰猛公。とにかくこの本の中身を早く読みたくてしかたがないのですよ!」

私は、身の回りの整理をして明後日の朝から翻訳に通うとヘンリー卿に言った。
事務方の修道士から、『奉仕に対していくばくかの金銭を与える』との有り難い知らせをもらった。

私は修道院を出た。これから下宿先を探すつもりだった。
門の外には土産物屋もある。比較的裕福な巡礼者がたむろしていた。
イコンの横に、粗末だが色刷りの、挿絵がたくさん入った聖人伝があった。下手くそな絵だがまあ良い。私は聖ニコラの本を買った。
聖ニコラが、貧しさのために売られる予定の娘の家に金を投げ込んでいるところ、冤罪の男たちが危うく処刑されるのを助けるところ……アクリナが喜ぶだろう。
文字の勉強もできる。

なるべく早く、リャードフ家を出なければならない。


アイキャッチ画像
“Beginning of spring”
Painted by
Alexei Savrasov (1830–1897) [PublicDomain]