第20話 身代わりの鞭*★

降誕祭を前に、忙しくなりだしたЯヤー家。領主様のまえに、隣家から使者が来ます。隣家の領地に入り込んだ農奴がいて、当主がたいそう怒っているとのこと。その農奴を鞭打つと息巻いていること。……隣家に捕まった農奴はアクリナでした。
*★女性に対する、やや性的な暴力の描写があります。
*男性に対する、露骨な暴力の描写があります。ご注意ください。

11月25日,1827年

領地を接する地主貴族から使者が来たのは、寒いくせに天気の良い昼過ぎであった。
昼食後のリザヴェタは、裁縫の得意な小間使いたちを引き連れて家事室に向かった。布巾をたくさん作るのだそうだ。降誕祭の期間に、農奴の家一軒一軒に刺繍入りの布巾を配るのだという。
さすが監獄長官の令嬢で、しょっちゅう恐れることなく監獄に慰問に行っていた人である。
配るのについていけば、農奴の住環境や家庭環境が少しはわかる。確かに得がたい妻だった。

玄関番の少年が、私の書斎に、まっすぐ使者を連れてきた。擦り切れた服を着た、五十がらみの痩せた陰気な男だ。
「ポポフ家の家令でございます」
ポポフ家は西南の隣家ではあったが、行き来は無かった。
「それは……珍しい。ポポフ家のご当主は今でもアレクサンドル殿ですか」
「はい……貴男様はパーヴェル様……?」
「いや、違いますよ。息子です。ご用件は? まあ、お座りください」
「いえ、急ぎの用件なので結構です。実は、不愉快な件で申し訳ないのですが……貴男様の御宅の農奴が当家の土地に入り込み、雪の中でキノコを摘んでおりまして……」

「え? それは……」
家令は言いづらそうに続けた。
「はい。主は大変な怒りようでございまして、農奴を鞭打ったうえ、貴男様に賠償を求めると……」
「ああ、それはまずいね。……農奴はひとりですか? 組織的にやっていたのですか?」
「いえ、女人が一人で……本人は当地に来たばかりで土地の境界がよくわからなかったと申しております。確かにこのあたりの訛りではありません」
嫌な予感がした。「黒い服の婦人かね」
「はい、農奴だと言っておりますが、その割に着ているものが上等で。アクリナ・ニコラエヴナと名乗って……」
ああ、冗談ではない!
「ポポフ殿はその女を鞭打つと言っているのだね」
「はい……」
「まだ打ってはいないのか?」
「はい。貴男様がいらしてからと申しております」
「案内してくれ、すぐ行く」
私は玄関番の少年に言った。「少し出てくる。誰が来たか言うな」

アレクサンドル・ポポフの領地は西南にあった。確かに、アクリナの住む森と境を接しているが、アクリナの家からだとずいぶんな距離がある。
私は、彼女が徒歩で一人で、しかも雪の中、境界を超えることなど考えもしなかった!

ポポフ家の母屋は荒れていた。人影も少ない。ずいぶん前に訪ねた覚えはある。おそらく十歳になるやならずやのころだ。
その時は、優しげな奥方や、私よりいくつか年長の早熟な娘がいた。
小間使いが忙しく走りまわり、シチーの香りがし、遠くから農奴の歌声がし、賑やかだったように記憶していた。娘は、かなり若く、十四歳くらいで結婚して出て行った。ここにいたくなかったのではなかろうか。

今現在のポポフ家は悲惨だった。広い領主館はろくに掃除もされていない。雨漏りがするらしく、天井と床は染みだらけだった。壁の掛け絨毯が外れていたが、ずっとそのままらしい。雨漏りの水を含んで変色している。
家令が叫んだ。「Я家ご当主がおいでになりました」
アレクサンドル・ポポフが、二階の階段から玄関の間を見下ろしていた。この領主は隠棲し、まったく周囲とのつきあいがない。
ポポフは屋敷同様、荒んでいるようだった。櫛を入れていない伸び放題の髪をし、太った体に着ているのは毛皮でできたカフタンの上衣だ。長年にわたる飲酒のせいか、顔が赤く、目の下も赤い。
ポポフは私を見て、はっとしたように言った。「パーヴェル殿?」
「いえ、息子のエヴゲーニイ・パヴロヴィチです。父は亡くなりました」
「ああ……」
ポポフは、時間の感覚がおかしくなっているのだろうか。本人も六十、私の父も生きていればそれくらいになるはずなのだが。
「私の農奴が貴男の領地に入ってキノコを採っていたとのことですが」
私は二階への階段を駆け登りながら訊く。
「そうだ」

二階に登ると待合間、その奥はペチカが焚かれた居間だ。二十人は座れる食卓には埃が積もっていた。おまけに細身のボルゾイ犬が何頭も平気で家の中を走り回っている。犬の糞尿の匂いがする。
「パーヴェル、いや、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、この農奴が、わしの……領地に」
アクリナが木の床に転がされていた。両腕をあげた状態で、手首どうしが縛られている。黒いドレスが床に落ちていた。それに黒く染めたシュミーズも。
ペチコートだけの姿だ。鞭打ちの準備か……?
白い肌と乳房が剥き出しであった。肌は、白い釉薬(うわぐすり)をかけた磁器のように見えた。唇と乳頭にだけ、細い筆でさっと石榴色をかけた、女の形をした磁器だ。
全身に、勝手に摘んだというキノコがぶちまけられていた。こんな姿にしたのはアレクサンドル・ポポフか? キノコをぶつけて罵ったのか?
私は、重く固まった怒りや悲しみやで息が止まりそうだった。

ボルゾイ犬が、はあはあ言いながら、長い舌を出し、時々、アクリナを威嚇して吠える。彼女は犬が怖いのに。
「領主様……」
アクリナが私を見て、言った。泣いている。
「あたしは、境界のことなど知らなくて……、申し訳ありません」
「いや、説明しなかった私が悪い」
私は外套を脱ぎ、アクリナの半裸の体にかけた。
「ポポフ殿、……この女も反省しているし、二度とさせません。キノコの代金は色をつけて支払わせていただくので、このまま連れ帰らせてくださいませんか」
ポポフが突然、重々しく正論を語り出す。「農奴を正しい道に導くのは領主の務めだ。たとえ、他家の農奴であろうと、我らはひとしく皇帝陛下を支える身、民衆を導く義務がある」
まったく信じていないことは確実だ。

「……パーヴェル、その女によく似た女を囲っていたな。あいつ……魔女のフョークラの娘か?」
「違う。罰は私が与えますから、このまま連れ帰ります。あとでキノコの請求書を送ってください」
私はアクリナを立たせる。靴まで脱がせていやがる!
まだこの家に残っている小間使いが私とアクリナを見ている。それにやけに巨体の逞しい男の使用人だ。用心棒かもしれない。
「駄目だね、パーヴェル、いやエヴゲーニイ。その女が大切ならちゃんと躾けないと。被害を受けた領主が、……崇高なる義務……として、罰を与える」
ポポフは鞭……乗馬鞭などではなく、恐らく農奴を打つためだけに作らせた鞭で地面を叩いた。まったく、呆れるほどみごとな鞭さばきだ。三枚の薄い革を三つ編み状に編んだものだ。編み込みの隙間が皮膚をえぐるであろう。アクリナは真っ青になっている。

「ポポフ殿、……貴男は、単に鞭打ちたいだけではありませんか? この女が美しいから……嗜虐趣味で」
「この女は美しくない。ただ、農奴にしてはいやに高価な服を着ている。農作業もしていないようだな。パーヴェル、いや、エヴゲーニイ、おまえの情婦か」
「貴男には関係ありません。失礼します」
私はアクリナを歩かせる。
用心棒か、巨体の逞しい召使いが私を突き飛ばした。
男がアクリナを取り戻す。アクリナが羽織っていた外套を剥ぎ取り、ふたたび白い肌も乳房も露わにする。こんな連中の前で!
「あ……」アクリナは縛られた両手で乳房を隠そうとし、床に膝をついてしまう。
用心棒が私の二の腕を掴んだ。
「お隣の……領主様……すみません……ねえ」
凄まじい握力で、熊に掴まれているようだ。声は低すぎて割れて聞こえる。
何故、猟銃を持ってこなかったのだろう?

ポポフが、私のアクリナを、窓際の白木の台に結びつけている。
高さはちょうど人間の腰のあたりだ。アクリナはちょうどこの台に合わせて腰を屈めさせられた。
台の上にうつぶせにされ、華奢な背中が無防備な的まととして晒される。
乱れた藁色の髪を割って覗くうなじから、折れそうな肩甲骨、腰の窪みまで、私のアクリナの背中が、ポポフと他の下司な連中の前に広げられていた。
白い肋の上に、先ほど、用心棒の巨大なてのひらに掴まれた痕が赤く浮き出ていた。
用心棒が呟く。ボルゾイと同じように息をはあはあさせていた。「ああ……なんで……領主様は……あの女の服を……全部引っ剥がさねえんだ……尻と……あそこを……見てえ……やりてえ」
台上には、腕を伸ばしきった先に木の杭が突き出ていた。ポポフはそこに縄を縛りつけた。アクリナの両手首を結んだ縄だ。
台の先端は、煉瓦と煉瓦に挟まれ、窓枠に漆喰で固められていた。屈強な農奴が暴れても、この板は動きはしまい。完全に鞭打ち専用の台だ。居間にこのような物を置くのか。
この精神の荒廃……。

家令は、玄関の間に出て行ってしまった。広い居間にパラパラ散らばっているのは、恐らく古参の召使いばかりなのだろう。
無感動に掃除を続ける老いた婢女、幽霊のように銀器を磨く料理人。
馬丁と庭師がにやにやしながら、これから始まる鞭打ちを待っている。
ボルゾイが三頭、台に縛りつけられたアクリナを取り囲んで吠えた。アクリナは悲鳴をあげる元気もないらしい。ただ横を向き、涙を流している。

ポポフはふたたびアクリナの顔をじっと覗いて、訊く。「本当にフョークラの娘ではないのか? おまえはフョークラとパーヴェルの子だろう? パーヴェルなら自分の娘を平気で農奴にするだろうさ」
「違います……。あたしは……白海のそばで生まれました。こちらに参ったのはごく最近……で、ございます」
「パーヴェルとフョークラの娘ならば嘘も平気だろうな!」
何故、ポポフは父とフョークラに拘るのか?

私は大声を出して尋ねた。「ポポフ殿、貴男は私の父に恨みでもあるのか?」
「ああ、わしはあの男が大嫌いだったよ。そっくりのおまえも嫌いだね」
「それなら、その女ではなく、私を鞭打ちたまえ」
無表情であった召使いたちが、急にひどく驚き、そわそわしだした。それはそうだろう、農奴の代わりに鞭打たれる領主など聞いたことがない。
「本気かね?」
「ああ、鞭打ち何回かね。怪我で済んだら黙っていてやる。ただ、私を殺したらまずいことになるね」
「ふん、四十だ」
「その、いかつい鞭でか……あの痩せた女を打ったら死にかねないな」
ポポフは鞭を鳴らし、私を捕まえていた用心棒に言う。「お隣の領主殿が打たれるぞ。離してやれ」

アレクサンドル・ポポフが庭に向かって大声で叫んだ。「お隣の領主様、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ・Я殿が自分の農奴の代わりに鞭打たれるそうだ! 興味がある者は見に来い!」

「領主様、おやめください……」アクリナが言う。
「気にするな」
ボルゾイが私のまわりに集まり、いっせいに唸る。私は犬たちに『黙れ』と命じた。ボルゾイは大人しくなる。
階段を登って、見物人が来る。飼い犬係らしき者が、さらにボルゾイを連れて来る。奥の台所からも人が出て来るし、薪を割っていたらしい斧を持った青年も来る。生気のない若い小間使いが現れ、家令も戻って来る。
私は立ち上がり、アクリナのほうに向かう。食卓の横で、帽子を取り、フロックと胴衣を脱いで、卓に載せる。
クラバットを外し、シャツの釦を外していく。ここにいる十数名が静まり返って私を見ている。ズボンの上部までシャツをはだけ、上半身裸体になる。
思いついて、胴衣の隠しから手巾を取りだす。

「本気なのか……本気か、パーヴェル」
ポポフは舌なめずりするほど嬉しそうだった。
私は腰にシャツを巻きつける。
「……ああ、ポポフ殿。私も、さんざん農奴を鞭打ったから、たまには良いだろう」
「おやめくださいまし、あたしが鞭打たれるはずなのです。ああ領主様!」
「ポポフ殿、少し待ってくれ」
私は鞭打ち台の杭からアクリナの縄を外す。両手首どうしを結んだ部分はほどかない。私はアクリナの縄を持ったまま、居間を横切っていき、奥の間に繋がるらしき扉の握りに結んだ。
「領主様、どうして……」
「おまえは飛び出てきて、私をかばおうとしたりしそうだ」
食卓に置いたフロックを取って、アクリナに掛けた。

私は鞭打ち台に横たわり、ポポフに言った。「逃げないから、縛らなくて良い。ああ、早く終わらせよう。面倒だ。私のついでに、あの女を鞭打ったりはしないね」
「君を鞭打つほうがずっと面白いからね」
「おやめください……隣の領主様……、あたしが悪いのですから……あたしを打ってください」
「健気なことを言っているぞ。君の情婦だね。それとも腹違いの姉か」
「姉ではない。恋人だ」
「パーヴェルも『いかもの喰い』だったわい。美しい妻がいながら……」
「『いかもの』だと? あれほどきれいで可愛い女はいない。審美眼がないというのは悲惨なものだ」
「パーヴェルの言いそうなことだよ。では、鞭打ち四十回の罰を、アクリナ何某(なにがし)の代わりに、彼女の領主殿が受ける」
私は手巾を自らの口に入れ、噛んだ。

背に一発目が来た。ポポフの鞭打ち技能は熟練していた。
……ああ、滅茶苦茶痛いじゃないか。皮膚を剥がされているようだ。鉄柱が重く背に当たるようで、ざっくりと鋭利な刃物で切り裂かれているようでもある……。これを四十回とは。俺は保つのだろうか、と思う。
「ああ、ああ!」アクリナの泣き声と悲鳴が聞こえる。
大丈夫だよ、と私は囁く……聞こえるわけがないのだが。
次の一発が来る。鞭は重い。私の乗馬鞭での鞭打ちなどこれにくらべれば随分軽かった。
「三発」誰かが数えている。

「二十一発」
家令か誰かがポポフを諌める声が聞こえる。
「もうおやめください。隣の領主殿を鞭打ちで殺したなどということになれば……貴男様でも罪は免れません」
「パーヴェル・アレクセイエヴィチ・Яを鞭打てるならかまわぬ」
「その方はご子息です」
「同じだ!」
背中は焼けるようだ。私は台を掴んでいるのだが、握り締めすぎて、いま、てのひらの皮膚がぱりんと破れた。
私の目の前で、小さな光がちろちろ輝いている。失血しすぎなのか?
アクリナがすすり泣く声が聞こえる。ああ、泣かなくて良いのに……。

「四十発」
私は台からずり落ち、床に膝をついた。血と唾液に汚れた手巾を吐きだす。
腰に巻いたシャツには血が染み、ズボンの裾まで血が垂れている! 英国にシャツを仕立てに行きたい。
背中は燃えるようで、まともに考えることができなかった。
「ふん、手当てしてやれ。キノコ代はいらない。パーヴェルの息子よ。二度とその魔女の淫売を近づかせるな」
ポポフは居間から出て行った。

この女は魔女でも淫売でもない。
アクリナが叫んでいる。「あたしの縄を解いて! 犬をどこかにやって! 血の匂いが!」
アクリナの言葉に、ハッとしたように、飼い犬係と馬丁、庭師がボルゾイを追い立て、外に出す。
生気がなかった若い小間使いが、急に動き出した。痩せて青白い、怯えた野良猫のような娘だ。アクリナの腕の縄を外した。
「ああ、お隣の領主様、お背中(せな)が血だらけ……、布を持って参ります」

アクリナは私の掛けたフロックを食卓の上に置く。傷を見た。「肉までえぐれています……申し訳ありません……」
小間使いが戻って来た。「君、この人に服を着せてやってくれ……」
「は、はい」小間使いがアクリナのドレスを拾う。
「そんなことはあとで良いわ」
アクリナが家令に尋ねはじめた。「なるべく度の高いウォトカに……ひまわりの油はありますか。ロマシュカは?」
彼女がこれほど早く話せるとは知らなかった。
【*ロマシュカはカモミール。抗炎症作用があるとのことだがキク科アレルギーの人には危険】

「ロマシュカはございませんが、ひまわりの油とウォトカならば」
家令が答える。
私は言う。声は自分でも哀れなほど弱々しい。「……この人は薬草に詳しいから……」
アクリナは私をウォトカで消毒した。強烈に染みた。私は思わず悲鳴をあげる。
「我慢なすってくださいませ」
油が塗られ、油紙が貼られた。アクリナが布を割き、私に包帯する。
「……アクリナ、服を着てくれ。気になる……」
ポポフ家の小間使いが、アクリナに手早くシュミーズを着せる。薄いシュミーズは無理に引っ張られたらしく、歪に伸びていた。
黒いドレスの釦をはめ、胸の下に飾り帯を巻く。
「ああ、おきれいです」

「申し訳ございません。主が……とんだことを」
家令が謝った。「どうか、訴え出るのだけは……」
「しない」
「御宅までお送りいたします」
「いや……」
リザヴェタにこんな話はしたくなかった。私の有様も見せたくない。それに館まで六露里もある。そんな距離を、雪道で揺れる馬車に乗り続けるのはまっぴらだった。
「……隣はバシュキロフ家だね」
「はい。主が狷介(けんかい)なため、おつきあいはほとんどありませんが」
「バシュキロフ家に、レオニードという三十近いぼんくら息子がいる。……ご両親には知らせず、その男にだけ、迎えに来るように伝えてもらえないだろうか」
「わかりました」
「あの、その方に、ロマシュカがなければ、ヒローシャに取ってこさせるように伝えて。ヒローシャというのは、Я家の召使いです。これが鍵だと」
家令に鍵を渡す。

—-

私は座り込んだアクリナの脚にうつぶせにもたれていた。
「ああ、……聖ニコラ様。領主様をお助けください……」
アクリナが何度も繰り返している。
「アクリナ」私は言った。「人前で十字を書くな」
「どうしてでございますか……」
……おまえの親たちが、正教徒といっても弾圧された『分離派』だからだよ。今のロシヤ正教会では異端者扱いだ。……それをどうアクリナに説明しようか迷っているうちに、たった今、考えていたのは夢の中でのことだったと気づいた。

レオニード・バシュキロフがひざまずいて私の隣にいた。「ひどい有様だな、エヴゲーニイ。こんな時にばかり僕を呼ぶのだね」
「……うん、すまないね」

記憶は途切れ途切れだ。
私は次の瞬間には、レオニードの馬車に乗っていた。日がゆっくり暮れている最中だった。斜めに馬車に差し込む夕日はすさまじく赤い。
「リザヴェタに知らせたくないんだ」
「まあ、そうだろうね」
私の頭はアクリナに子猫のように抱かれていた。背中の激痛はやまない。まだ血が流れ出している感覚がある。
レオニードが言う。
「ポポフは様子がおかしいと思っていたが、まさかこんなことをするとは。領主が隣の領主を鞭打つなんて聞いたことがない」
「申し訳ありません。あたしが悪いのです」
レオニードにアクリナが謝る。
「貴女が謝ることじゃない」

レオニードは続いて私に訊いた。
「この人が? 噂になっているが」
「ああ、私の恋人(リュボーブニツァ)のアクリナ・ニコラエヴナだ」
「君は本当に、花嫁と一緒に囲い者(ノーアジニツァ)を連れてきたのか……」
「アクリナ、この男は私の幼なじみだ。レオニード・バシュキロフという」
「……はい、バシュキロフ様。アクリナと申します」
「初めまして、アクリナさん」
レオニード・バシュキロフはそう言ったきりで、きちんと挨拶もしない。
「レオニード君……彼女の手の甲にキスしろ。私のご婦人に敬意を表せ」
「駄目です。あたしはただの……」

レオニードの表情は硬い。
「うん、アクリナさんのせいではないが、このまえ、君の結婚式で付添人をやった身としてはね。どうもね。リザヴェタ・フョードロヴナに申し訳なくてね」
「まあ理解されないのは仕方がない。アクリーヌ、気にするな」
「は、はい……」
「エヴゲーニイ。僕はアクリナさんにではなく、君に言ってるんだがね」
レオニードはアクリナに訊く。
「何発打たれたとおっしゃってましたっけ?」
「あの、四〇発です。ポポフ様の鞭は、……特製なのでしょうか、強くて……」
「こいつは、自分で、貴女の代わりに打たれると言ったのですか」
「はい……」
「言うほうも言うほうだし、やるほうもどうかしている。君はポポフの恨みを買っていたのか?」
「……知らない。多分、父が何かやったんだろう……」

馬車はバシュキロフの館の手前、レオニードたちが農場の事務所にしている、小さな煉瓦の建物の前に停まった。
いちおうペチカはある。召使いが火を入れておいてくれたらしく、部屋は暖かかった。
私は木の床に横たわり、アクリナの細い胴を抱き、太腿にもたれかかる。アクリナが苦しそうな沈痛な表情で私を見下ろしていた。
レオニードは立ったままうろうろ歩き、私たちから目を逸らした。

窓の外に我が家の馬車がやってくるのが見えた。
まだ夕焼けの途中である。緯度の高いこのあたりは、イタリヤなどと比べると、夕焼けの時間が恐ろしく長い。
馭者台からヒローシャが飛び降り、馬車の扉をうやうやしく開ける。
ヒローシャに右手を預け、背を伸ばしたリザヴェタが降りてきた。あからさまに怒りに満ちている……。

リザヴェタは扉を開けてこの事務所に入ってくると、まっすぐアクリナのところに歩いて来た。私の頭の下でアクリナの体が急に硬くなるのを感じた。
リザヴェタがアクリナの頬を平手で打つ。
私もレオニードもヒローシャも驚愕しながら見守っていた。
リザヴェタはきつい口調でアクリナを難じた。
「アクリナ、貴女はもうただの召使いや農奴じゃないのよ。この馬鹿な(ひと)を支えないと駄目なの。少なくとも足を引っ張らないようにして!」
「……リザヴェタ様、申し訳ありません」

アクリナは私の枕になるのをやめ、私の頭をそっと床におろした。
私は痛みに耐えながらリザヴェタに文句を言った。「……殴らないでくれ。可哀相ではないか」
「強く打ってはいません。ただ自覚をもって欲しかったの。いつまでも恋人リュボーブニツァみたいに貴男に甘えているだけでどうするのです!
それより貴男の怪我のほうがずっとお悪いではありませんか。何なんですの、その血だらけのシャツに上半身じゅうを覆った包帯! ズボンの裾まで血が垂れています」
「アクリナを殴るのはやめてくれ。殴るなら私を殴ってくれ」
「そう言って、お隣の領主様にそれだけ打たれたのですね。ああ、もう! 信じられない! 結婚してまだ一ヶ月と少ししか経っていないのに、こんな目に遭ってくる夫なんて」

「……リーザ、どうして気づいたのです。レオニードがばらしたのですか」
「ステパン・テレージンは母屋の書庫をうろうろしていて、いっこうに見張りに行く様子もない。ヒローシャはこっそり出かけようとしている。
貴男は誰かに呼び出されて、どこかに行って帰ってこない。アクリナさん絡みで何かがあったとわかるでしょう」
リザヴェタの言うことはすべて正しい。
「ヒローシャに訊いたら」(というより問い詰めたのだろう)「アクリナさんの代わりに隣の領主様に鞭打たれた、と……なんて馬鹿馬鹿しいことをしたのです!」

「アクリナなら鞭打たれても構わない、と言うのですか?」
「そんなことは言っていませんわ。
ポポフ家とは、先代の領主様のとき、しょっちゅう境界争いをしていたそうですね。家令のテレージンに聞いてきました。
Я家の魔女と言われていた女農奴が、ポポフ家に動物の死体を投げ込んだり、魔方陣を描いて送ったり、色々嫌がらせをしたのだとか。それでポポフ様の奥様は病気になられた。
エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、知らなかったの?
十代のころ、この農場で過ごしていたのでしょう?」
当時の私は外国の書物や女たちや情熱や夢やそんなものに夢中で、領地のことなどまったく考えていなかった……。

「アクリナさんにお隣に近づかないようにあらかじめ注意できたはずです。
アクリナさんも、農場にいたことがあるなら、土地の境界がどんなに大切かわかるはずでしょう」
「……あの、アクリナさん、これです」ヒローシャがアクリナにロマシュカと家の鍵を渡した。
リザヴェタが苛立たしげに言った。
「薬草? 医者を呼ぶわ。ヒローシャ、たびたびで済まないけれど、セミョーノフ医師(せんせい)を呼んできてちょうだい」
「はい、リザヴェタ奥様」
この状況は、もうリザヴェタが仕切る領分に入った。

私はアクリナに言う。「すまない。アクリナ、先に戻っていてくれ。レオニード、馬車を出してもらっても良いか」
レオニードは冷淡だった。
「ああいいよ。アクリナさんには帰ってもらったほうが良いだろうね」
「はい……」アクリナの声は消え入るようだった。
これならまっすぐ屋敷に戻ったほうがましだった。農奴の恋人はこれほど嫌がられるのか、と改めて思う。
ああ、私たちはさぞかし不潔に見えるのだろう!
確かに大部分の農奴は鈍重だ。動物に近いような者もいる。希望も教育もなく、重い労働のなか荒んだ暮らしを続けているのだから当たり前ではある。
……私が、白痴の、動物のような女を着飾らせ、交わっているとでも言うのか?
アクリナは教育がないだけで痴愚ではない。文字まで覚えたし、感情も考えもはっきりしている。
驚くほど的確に考えを表現できる……私が泣かせ、上手く誘導できれば。

私はアクリナに言う。「……ヒローシャが戻り次第、おまえのところに見張りに行かせる。いいか、戸締まりはきちんとするんだよ」
「はい。領主様、リザヴェタ様、それにバシュキロフ様、申し訳ございませんでした」
アクリナは農奴が領主にする通りの、地面に伏せるお辞儀をした。
「アクーリャ、そんなお辞儀はやめてくれ」
「いいえ。ほんとうにご迷惑をおかけしました。失礼いたします」
レオニードが厩舎に行った。間もなく馭者が呼びに来る。

アクリナを乗せるために、一頭立ての小さい、古びた馬車がやって来た。


アイキャッチ画像
“Spring2”
Painted by
Alexei Savrasov (1830–1897) [PublicDomain]