第29話 グロテスクな昼餐会★*

隣家の領主から昼餐会の招待状が届きます。
招待主は、昨年『領主様』を鞭打った人物です。領主様が昼餐会に行くと他の客は幼なじみのレオニード・バシュキロフだけ。
食卓の白いテーブルクロスを剥がすと裸体にされた農奴の娘が横たわっています。悪趣味でグロテスクな昼餐会が始まりました。
★*性的な描写と残酷な描写とグロテスクな描写があります。
フランス料理と称して、少々嘘レシピを書きました。本物レシピも混ざっています。

11月21日,1828年

隣家の主人、アレクサンドル・ポポフから昼餐会の招待状が届いた。
招待状の宛名は以下のようなものだ。

 

エヴゲーニイ・パヴロヴィチ・Я様
 並びに令夫人
    アクリナ・ニコラエヴナ様

アクリナは『令夫人』ではない。分かった上でアクリナを連れてこいと言っているのだろう。

それにしてもどうしたものか。
一度捕まって鞭打たれかけた屋敷に、アクリナを連れていくわけにはいかない。本物の妻であるリザヴェタだってあそこに足を踏み入れさせたくない。

結局私は一人で行くことにした。ヒローシャに万一の時の護衛として馬車の中で待っていてもらう。ポポフとはいずれ話をつけなければならない。
待っているのがポポフだと思うと、髭を剃る気も起きない。他にもどこかの家の令嬢か令夫人が来られるのかもしれないが、私を裏切るはずもない妻と恋人がいるとそれもどうでも良くなる。かくの如くして、生半可な洒落者は家庭に飲み込まれていくのか。感慨深い。
クラバットの代わりに、清国の土産にもらった黒地に金糸の龍の刺繍をした絹の布を巻いた。似合うような気もする。あとはトルコ土産の白いカフタンだ。
これで十分だ。

待ち合間から玄関間に降りる階段で、ミハイルを抱いたリザヴェタに会った。
「出かけてきます」
「え……?どういう格好をなさっているの? こんな昼間から仮装舞踏会ですの?」
「ああ、リーザ、商用でね……」
「そのお姿で商用ですか……どういう商用……」
「まだ秘密だ。ええ、ああ、妻にも喋れないこともあるのですよ」
「まあ、そうでしょうけれど……ミーシャ、この変なお父様に行ってらっしゃいのご挨拶をしなさい」
ミハイルを抱いたら、割れるような大声で泣きだした。轟くようだ。
小さな手を握り力の限り私を叩き、足をばたつかせる。もう眉が濃くなってきている。ずいぶん早熟なのではないだろうか。正直なところ、自分に似ているとは思えない。
(まわりの者によるとたいそう似ているらしいのだが)
目の前の赤ん坊が、自分と関係のある存在だというのがとても奇妙に思えた。父のパーヴェル・アレクセイエヴィチが、私にほとんど話しかけなかったのは、単に、何を話して良いかわからなかったためではなかろうか。
「嫌われていますね」
「まだそんな段階ではありませんわ」
あたかもこれから嫌われると言われているようだ。
乳母をつとめてくれるヴィラ……オクサーナの娘だ……に、何度も抱き方を習ったのだが、どうもうまくいかない。
「ああ……、ミーシャよ、立派な領主になりなさい。お母様の言うことをよく聞いて」
私はミハイルをリザヴェタの腕に戻した。

リザヴェタがうつむき、無心にミハイルを抱き直す様子はたいそう美しかった。
「ええと、……あの、リーザ、愛しています」
「は……はい」
リザヴェタは当惑したように私を見上げた。ミハイルはリザヴェタにもたれると、いちおう落ち着いたらしく泣きやんでくる。
私は少年のように妙に高揚し、照れていた。耳元で囁く。
「可愛いリーザ、……今夜、貴女と夫婦の交わりをしたいのですが」
「……は、はい、わかりましたわ。でも……今までそんなこと全然おっしゃらなかったではありませんか……いつも突然、思いついたみたいに」
「ええ、……私のためにあそこまで曝け出してくださると、可愛くて仕方がありません」
リザヴェタが顔を赤らめた。なんだか新婚のようだ。
「……曝け出したのではなく、あ、貴男が無理矢理、曝け出させたのではありませんか……もう、思い出すだけで……恥ずかしくて悔しくて……倒れそう」
「すみません。ですが、私はあの時のお姿を思い出すたびに貴女が愛おしくなるのですよ」
「もうお許しください……」
私はリザヴェタに軽く口づけし、階段を降りる。

—-

外套を着て、外に出た。雪は積もっているが空は晴れていた。
二十八日からは四十日間の『フィリップの斎』の期間に入る。
十二月四日は生神女進堂祭、十二月六日は聖ニコラの日で鯉を食べ、十二月二十五日からは一月七日の降誕祭までは『神聖な期間(スヴャートキ)』だ。
新年には娘たちが鏡で占いをし、将来の結婚相手を知ろうとする。娘たちだけではなく、誰も彼もが占いをする。
気が狂いそうな時期だ!
領主としては、せめてこの時期に、農奴たちをねぎらう宴や贈り物を用意するつもりではあるが……いったい何故、我が民族はこれほど祭りが好きなのだ。
ただ休むだけで良いではないか。

私は厩舎に向かい、ヒローシャを呼んだ。
「馬車を出してくれ。……念のために猟銃を持っていてくれないか」
「はい、大切な領主様」
ヒローシャが馬車を出す。「行く先は、お隣のポポフ家でよろしゅうございますか」
「ああ、いちおう昼餐会のご招待なのだが、あそこの家とは揉め事続きでね。何とかしないと」
ヒローシャは無口で口下手だが、記憶すべきことははっきり記憶している。「いつぞやアクリナ様に鞭を持ち出した方でございますね」
「どうも、私の父の代にこちらが色々やったらしい」
「え、当家のほうがでございますか?」
「父がなんというか……残酷な人でね、愛人がまた父を後ろ盾に傍若無人に振る舞っていて……
そのツケが私にきている。父と混同されて恨まれているようだ。心配するからポポフの名はリザヴェタには言わないでくれ。テレージンにも。ああ、もちろんアクリナにも」
「はい、わかりました。何か異変を感じましたら、猟銃を持って建物内にまいります」
「いつもこんな用事ばかりですまないね」

ポポフ家の屋敷前には、馬車が一台しか停まっていなかった。
もう、昼餐会の開始予定時間をとうに過ぎているのだが。
玄関の間で外套を預け、二階の階段まで登っていくと、待合間に三十歳くらいの背の高い男が一人ポツンと立っていた。
神がもし本当に土塊から人間を作ったのならば、長身の美男を作ろうとして途中で飽きてやめたような、美男子とジャガイモを掛け合わせたような男だった。
「おお、我が友レオニード・バシュキロフではないか」

「ああ、エヴゲーニイ、君か……」
「ミハイルの代父を引き受けてくれてありがとう」
「君にとって、僕はそういうことのためにいるのだろう……なんだね、そのカフタンは」
興味なさそうに訊く。
「誰かに土産にもらったトルコのイェニチェリ【*オスマン帝国の軍隊。1826年廃止】の上着だ」
「ひどい服装だな。君は洒落者だった気がするのだが」
「ポポフ家に来るなら、これで十分だ。お宅で呼ばれたのは君だけか?」
レオニードのバシュキロフ家の領地は、ポポフ家の北にあたる。
「招待状には両親の名もあったよ。まあ、でも二人とも彼を嫌っていてね。
いちおう招待してくれたのだから、僕だけが来た。君のところはどうだ? リザヴェタさんは?」
「呼ばれていない。代わりに『令夫人』として、私の農奴の恋人の名前があってね」
「ああ、アクリナさんか……。わざわざ『令夫人』?」
「たぶん、なにか嫌がらせだと思う」

ポポフ家の家令が現れた。去年と同じ人物だ。五十がらみの痩せた陰気な男だ。卑屈なくらい丁寧に頭を下げる。
「本日のお客様はお二人になります。どうぞ居間においでください」
「二人なのか」
家令は私に気づいて、さらに頭を下げた。家令は比較的まともな人物のようなのに、気の毒なことだ。
「お隣のЯ様……昨年はたいへん申し訳ありませんでした」
「いや、君のせいではない。二人しか招待しなかったのかね」
「二十名くらいお呼びしたのですが、応じてくださったのは貴男様方お二方だけでございます」

昨年も来た居間だ。
ガランと広く、なんの飾りもなく、殺風景なのは相変わらずだが、昨年よりはずいぶんましだった。
剥がれかかっていた掛け絨毯の代わりに、新しい壁紙が貼られている。ボルゾイ犬がうろついていることもない。
昨年、捕まったアクリナが転がされていたあたりには、深い青の絨毯が敷かれている。私が鞭打たれた窓際の台はそのままで、新たに誰かの血がついていた。
居間からさらに奥に向かう階段に、小間使いが控えている。

アレクサンドル・ポポフが私たちを居間のなかで出迎えた。
ポポフも家と同じように多少こざっぱりしていた。
六十歳くらいであるが、屋敷には妻も子も孫もいない。
だらしなく太り、飲酒で顔が赤いのは相変わらずだが、髪も髭も手入れしている。

私とレオニードはいちおう、招待の礼を述べる。
「エヴゲーニイ君、レオニード君。
フランス人の料理人を雇ったのですよ。まあ、料理だけは良いのでお二方とも楽しんで行ってください」
フランスの料理人は、近くの湖で採れた魚介類を使った料理を出すという。
ポポフが言った。「エヴゲーニイ君、令夫人は来られないのですか? じつに残念だ!」
「アクリナ・ニコラエヴナのことですか? あの人は私の恋人で、妻ではありません」

「君の奥方が猟銃と乗馬に凝っていると聞きましてね」
「ええ、それは妻です。男まさりの人なのですよ」
「おや、失礼。そんな野蛮なことに凝るのは農奴のほうだとばかり」
会ったとたんに嫌味である。
貴族出身のリザヴェタに対しては農奴のように野蛮だと、農奴出身のアクリナには着飾ってもしょせん農奴のくせに、という意味だろう。
私に対しての皮肉でもある。農奴などを情婦にしているということだ。嫌味を言い返すのも面倒だった。

居間を縦に割るように置かれた長い食卓には、二、三十人は座れる。白いテーブルクロスが掛かっているが、食器の類はまだ用意されていない。燭台もない。
アレクサンドル・ポポフが一人、一番奥の席に座る。私とレオニードは、家令に案内されるまま、左右に分かれ、向き合った。
「エヴゲーニイ君、レオニード君、食事を楽しんでくれたまえ」
ポポフは食卓の長いテーブルクロスを勢いよく剥ぎ取った。
下にはもう一枚テーブルクロスが敷かれている。
そして、藁色の髪をした、十六、七のすんなりした裸体の娘が、仰向けに横たわっていた。
私とレオニードはしばらく何が置いてあるのかよくわからなかった。
じっさい、まったくの裸形であった。イチジクの葉すらない。私の目の前にある藁色の繁みと、うっすら見える薄桃色の局所が生々しく、痛々しい。娘は恐怖を感じているらしく、ぎゅっと目をつぶり、微かに震えている。

「え? 何だ? ……本物の人間か?」
レオニードが間の抜けた声を出した。
「食卓の飾りですよ。ただの農奴の娘です。エヴゲーニイ君の好きそうな娘を」
「……悪趣味だ」
腹が立つというより、まったく性と関係ない状況で、性の対象の『物体』として差し出された娘を見ると、……彼女の咎ではないのだが、私は露骨に嫌悪を感じた。
私は食卓から裸の娘を抱きおろした。娘が小さく悲鳴をあげる。どうせ何をされても抵抗するな、とでも命じられているのだろう。
裸体にテーブルクロスを巻きつけ、家令を呼んだ。
「この娘に服を着せて、しかるべきところに返してやってくれ。それからテーブルクロスを換えてくれ」

ポポフが言った。
「エヴゲーニイ君はああいう娘がお好きなのではないですか? 色白ですんなりした、……髪の色も、貴男の恋人と同じ娘を探しました」
「食卓に似合うものではありませんね」
「若すぎるのかね? あの子の母親を呼んで来させようか」
「いや、遠慮しておきます」
レオニード・バシュキロフは何が起きていたのか、今ごろ気づいたようだ。
「農奴の娘を裸にして、昼餐の食卓に……? 何でそんな妙なことを?」
「今日の客人はお若い紳士お二人ですからな。ご婦人がいらしてはできないことをいたしましょう。
君たち、特にエヴゲーニイ君が喜んでくれると思ったのですよ。
さて、白ワインはいかがです」
小間使いが来て、テーブルクロスを換えた。家令も戻って来て、ワインやグラスを持って来た。
あれで腹を立てて帰っても仕方がない。
レオニードがようやく義憤に駆られ、ポポフに文句を言っている。「農奴の娘にあんなことをさせるべきではありませんね! 領主ならば、農奴は大事にすべきです」
ポポフは正論を振りかざすレオニードを小馬鹿にしている。
「いやまったく、レオニード君のおっしゃるとおりですよ。
しかし、領主としては、客人へのもてなしも重要です。
エヴゲーニイ君がお好きそうな趣向だと思ったのですよ!」
「……そんな趣向は結構です」
興が乗ってアクリナを食卓に寝かせ、蜂蜜を塗ってみたりしたことはあるが……、
ポポフの家で何故昼間から突然、哀れな農奴の娘の体など見せられねばならぬのだ。悪趣味すぎて官能とはほど遠い。
むしろフランス語でいう ”grotesque” だ。

前菜が出た。
給仕がヨーロッパカワヤツメの赤ワイン煮込みに、血を掛けたものを持って来た。いつぞやアクリナと釣りに出かけ、釣ったヤツメウナギと同種だ。濃厚で旨い。
カタツムリにチーズと香辛料を掛けて焼いたもの、それに、さっぱりした赤蕪とスグリのサラダが来る。
次にポポフが何を仕掛けてくるのか知らないが、私は自動的に社交儀礼を続けた。
とりあえず料理は良い。
「裸の農奴の娘より、フランス料理のほうが良いですね。ああ、いや、うちの料理人にも、彼にいくつか料理を教えていただきたいものです」

ポポフが私に声を掛ける。喉に水分が足りないのかざらざらとひっかかるような声である。
「エヴゲーニイ君、この前、近隣の貴婦人を集めて何か催しをしたとか。私を嘘つきに仕立て上げたようですね」
「ああ、ポポフ殿、じっさい嘘つきでしょう」
「娼館の女を買収したね」

「……何の話だ?」
夢中で食べていたレオニードが私に訊く。
「県で一番の娼館はわかるだろう。『レダと白鳥』館だ。あそこにポポフ殿の馴染みのご婦人がいるという話だ」
私はポポフに言った。
「買収されたとお思いならば、買収し返せば良いのですよ」
「買収以外の方法か……あれ以来、娼館に出入り禁止になってね。ふん、馴染みの女にはもう会えないよ。人恋しい年寄りにずいぶんと残酷なことをするものだね」
「新しい恋を探す時期なのではありませんか?」
「農奴の恋人でも探せというのかね」
「身分にこだわっては恋はできません」

「……貴男方が何を話しておられるのかまったくわからないのだが」
レオニードが再び言った。
「Я家の者たちがわしから何もかも奪っていくのだよ。
家に帰って来たら、パーヴェルが妻をかき抱いて口づけしているのだからな」
「パーヴェル……?」
「私の父だ。私の父称はパヴロヴィチだろうが」
父がポポフの奥方にまで手を出していたとは初めて聞いた。
「ああ……」
レオニードがうんざりしたように返答した。
まったく、子供のころに幼なじみのレオニードと妹君が遊びに来ると、母は泣いて伏せているし、父は見知らぬ派手な女を連れ込んでいたものだった。
『おまえたちは外で遊んでいなさい』
そればかり言われていた気がする。
領主館を追い出されたレオニードと妹君はぶつぶつ文句を言ったものだ。

「それでな、レオニード君。ポポワ夫人がパーヴェルに思われていると逆恨みした女がいてな。……こいつの情婦だが」
ポポフは私を指差した。
「私は息子です。しかるべき身分も立場もあります。『こいつ』呼ばわりはやめていただきたい」
「パーヴェルの情婦の魔女が馬の死骸を投げ込んだり、滅茶苦茶なことをして……妻は病んでしまった」
「は、はあ……」
レオニードは当惑している。せっかくの素晴らしい食事が台無しだ。
まあ元々、楽しい昼餐会は期待していない。

私はナイフでヤツメウナギを切った。
「……父の件はお気の毒ですが、私は無関係です。
私の代で貴男にかけた迷惑は、農奴がキノコを間違って摘みに行き、お宅との境界を超えたことだけではありませんか。そのことに対する清算も済んでいると思いますが」
「そっくりな顔をして……しかも息子だけではなく、情婦までそっくりで……」
「しかし、私と父は別人です。私の恋人だって、実におとなしく慎ましい女だ。フョークラとはまったく違う」
「おとなしくて慎ましい女があんなに善よがるのかね。見物人に取り囲まれて」
この話を持ち出したくて堪らなかったのだろう。
「その件に関しては、近所の方の前で、娼館の……ええと、セレネー(ギリシャの月の女神の名だ。商売用の名だろう)という美しいご婦人が証言してくれましたよ。
私は近所の貴婦人たちの前で背中を晒して見せなければなりませんでした」
「ふん、そうやって、婦人たちを喜ばせて……」
「全然話がわからないのだが」
レオニードが三度言った。

給仕が鱒とキノコのテリーヌを持って来る。
ポポフがレオニードに説明を始めた。

「モスクワにクラブがあってな。レオニード君。そこには夫婦で行くのだ。本物の夫婦でなくても良い。わしは、あの娼館のセレネーを連れてそのクラブに行くのが楽しみだった」
「クラブって、何のですか」
「夫婦で行って、相手を取り替えたり、覗き見をしたり、逞しいエチオピアの若者に妻を犯させたり……」
「はあ……なるほど……そういうのは僕はあまり……」
「君の好みなど聞いていない。説明しろというから説明しているだけだ」
「ああ、はい、……ええと、モスクワにいかがわしいクラブがあり、ポポフ殿は娼館のセレネーなるご婦人を連れて行っていた。それが楽しみだったと」
「そう、そこでパーヴェルを見かけたのだ」

まったくひどい昼餐会だ。私はポポフにまた同じ言葉を繰り返す。何度目だかわからない。
「私はパーヴェルではありませんよ。
……それで、セレネーがご近所の貴婦人方を前に明言してくれました。モスクワのクラブにいた紳士と私はどうも違うようだと。彼の背中の傷は、刃物の傷に似ていたそうですよ」

ポポフは、わざとなのか本当に区別をつける気がないのか、ごく最近の出来事にもパーヴェルの名を使い続けた。
「モスクワのクラブで、パーヴェルがフョークラを檻の中で犯していた。フョークラは喜んで……見物人の前で腰を振って」
「え……」
鈍感極まりないレオニードでも気づいたらしい。
「ええと、ポポフ殿、貴男はこのエヴゲーニイと、アクリナさんがそこで……まあ、しているのを見た気がすると」

私はレオニードに言う。今度はザリガニとタニシのクリームスープだ。まったく器用に作るものだ。
「うん、そういうふうにポポフ殿は思い込んでいる。
レオニード、私はそんなクラブのことは今回初めて知った。たまたま似た人がいるのを見間違えたのだろう。
そんなところはどうせ薄暗いのではありませんか。失礼だがポポフ殿はもうお歳だ。目も弱っておられるだろう」
「いや、柄つき眼鏡でよく見たよ。君の尻の穴から『ふぐり』の裏まで」
「やめてくれ」レオニードがげんなりしている。
「その紳士はご婦人を連れていたのに、貴男は男のほうばかり覗いておられたのですか。素敵なご趣味ですね!」

「あの女は美しくないからな」
「そのご婦人が美しいかどうか、私が知るわけがありません。
……ですが、私が聞いた話では、『仮面をつけていてもそれとわかる美男美女のご夫婦』でした。
では、少なくともポポフ殿の見る限り、女のほうは私の農奴の恋人ではありません。
貴男から見ると、あの人は美しくないのでしょう!」
「『いかもの喰い』め。わしはセレネーのような豊満な美女以外、美しいとは認めぬ。セレネーをどうやって奪った」

「奪っていませんよ。セレネーさんが貴男を嫌になったのでしょう! 私は彼女に話を聞きました。
誇り高い高級娼婦を、無理矢理、絹の鞭で打ったり、そのクラブとやらの男二人に犯させたりすれば、それはそうなるでしょう。
……セレネーさんのことを、もっと有力な方がお気に入りとなれば、なおさらです」
「パーヴェル、おまえは……」
「パーヴェルではありません」

次の料理は『蛙のゼリー寄せクロワッサン包み』だ。
レオニードが私に訊く。
「結局、その男女はエヴゲーニイとアクリナさんなのかい」
「違う。そんな場所のことは知らない」
「いいや、あれはパーヴェル、いやエヴゲーニイ・パヴロヴィチだ。気の毒な細君は『ここ半年、夫は泊りがけで出かけたことはない』と言っていたそうだが……。
わしはモスクワにまで行って調べて来た」
「それはお暇なことですね」

蛙はグロテスクだが食べられなくもない。
というより胡椒がよくきいていて美味い。レオニードが脚をしゃぶっている。
元々フランスでは料理を一度に食卓へと運んで来たらしい。
我が国が、珍しく彼の国に影響を与えた。
寒さと雪で、いつ客が揃うかわからず、料理が冷える我が国では食卓に少しずつ皿を出していった。それがフランスにも伝わりつつあるそうだ。

ポポフはゼリー寄せになった蛙の首をナイフで切断した。
そのまま美味そうに頭を舐める。
「調べてみると、十月二十日のモスクワ行きの官用郵便橇に、Я家のご夫妻が予約していたよ。
エヴゲーニイ・Я、とアクリナ・Яのご夫婦だそうだ」
ポポフは賄賂ででも手に入れたのだろう、私たちの名前の入った橇の切符と、予約料金の受け取り証を出して見せた。
受け取りには私のサインまである……。どう見ても私の字だ。
これは難しい。

レオニードは素っ気なく私に言った。
「ああ、やっぱり君なのか。リザヴェタさんはまったくお気の毒だね」
私は矯ためつ眇すがめつ切符を見る。
「本物ですか? ……貴男の執念深さを見るにつけ、偽造くらいなさりかねないように思えますが」
「まあ、もし偽造だとしても、近所の方にお見せできるくらい良くできているね」

「ふうん……だからなんだというのです」
私は言った。
「ポポフ殿、近隣の貴婦人はもう満足されたのではないでしょうかね」
「どういうことだ」
「まず、彼女たちのお茶会で事件が話題になります。わかりますね」
私は白ワインをあおった。

「『こんな噂がある』『宅の主人がポポフ様から聞いてきた』……、で、私の妻の反応を確かめる。……そのクラブの有り様を想像する……、私と農奴の恋人の交わりを想像する……楽しそうですね」
ポポフが苦笑する。「楽しいだろうね」

「で、第二弾を私がパンとサーカスの贈り物として差し上げました。
先日、我が家でも昼餐会を開きました。そこに、ポポフ殿の馴染みのセレネーさんにも来ていただきました。
美しい娼婦が涙ながらにポポフ殿の野蛮な振る舞いを語ります。
高級娼婦など、あまり貴婦人のお目に触れることもありますまい。
……魔女のようなものだと思っていた娼婦なのに、意外と同情できる女だと見て、貴婦人たちは感激します。
セレネーは、おっしゃる通り豊満で、優しげで家庭的に見える方ですしね」

ポポフは腕を組み、湖の底に厚く溜まった泥濘のようなどろりとした目で私を見つめ、話を聞いている。
レオニードはつまらなそうに食事を続けていた。

「そして、パンの次は見世物です。私は奥様方に背中を見せました。
……はい、貞淑な貴婦人たちには、私が……まあ、少々薹とうが立っていますが……フロックを脱ぎ、上半身裸になるのを眺めるのは、それなりに心躍る出来事なのではありませんか?
で、鞭打ちの痕を見ていただいて、セレネーに『この痕は違う』と言ってもらう……。
もう、十分でしょう!
貴婦人たちはこの出来事から受け取れる甘い果実を十分堪能しました。
じっさいにその男が私だったかどうか、厳密に追及したがる者など、どれだけいますか?
ポポフ殿が今から証拠立てて、『じつはその男は私だった』とおっしゃっても、最初にその話を聞いた時の驚きや時めきはもうありません」

ポポフが話に気をとられているうちに、私はポポフの手から官用郵便橇の切符を取りあげ、びりびりに破いた。
食卓から立ち上がり、暖炉に投げ込んで戻ってくる。
奥に行く階段には、石灰の匂いがする。奥の部屋を消毒しているようだ。ボルゾイの唸り声がする。
「お隣の領主様」
階段の前に立っていた小間使いが、私に小声で呼びかけた。黄土色の髪の、動きの素早さを隠した猫のような娘であった。
「昨年は、大丈夫でございましたでしょうか。奥様も?」
「君は去年、傷の手当てをしてくれた人か。ああ、妻も元気だ」

「あいかわらずじつに卑怯だ」
席に戻ると、ポポフではなく、私の友人のはずのレオニードが呟いていた。
「エヴゲーニイの『パンとサーカス』も、利口な婦人ならうさんくさく思うでしょうね!
ポポフ殿、ところで今日は、まさかその官用郵便橇の切符を見せるために昼餐会を開いたのですか?
で、来たのが僕と当人だけ?」
ポポフが不機嫌そうになる。まあそのとおりだったのだろう。

「レオニード君、君はよく来てくれたね。君のお父上やお母上とも派手に敷地争いをやったのに」
「母と奥様は仲が良かったそうですね」
給仕が、今日の中心となる大皿を持ってくる。
巨大なヨーロッパオオナマズのオレンジソースがけだ。切り分けて皿に盛ってくれる。
「白ワインが美味いね」
「ありがとうございます」

「妻が元気な時は、バシュキロワ夫人も遊びに来てくれたものだ。
君も来てくれたな」
「……そのころ、貴男はまったく普通の……優しい父上で家長だった気がします。
娘さんと僕と妹に、凧を作ってくれませんでしたっけ」
「ポポフ殿が凧……」
私は笑いそうになった。

「妻がいなくなると、領主館の『時』がまともに動かなくなってしまった。
わしはどれほど自分を制するために妻を必要としていたのか初めて気づいたのだ……」
ポポフが私を再び指差す。
「この二世代揃っての色情魔とて結婚しているのだ。
どうせ、領地のためだろうが。領主夫人の良識と子供たちの成長が領地に秩序をもたらすのだよ。レオニード君、君も妻を持ったほうが良い」
「はあ……まあ、そうでしょうが……」
「ああ、レオニード君、それだけは私もポポフ殿と同じ意見だ。リザヴェタがいなかったら……」
「なるほど。そう言われると実に身に染みるね。
……リザヴェタさんがいなければ、君は農奴の恋人に溺れて……あとは、釣りをしたり英国から本を買ったりしているだけじゃないのか?
で、突然イタリヤに行くとかインドに行くとか言いだすのだ」
「うん。よくわかっているではないか」
「僕は君ほど自堕落ではない。いかがわしい場所にアクリナさんを連れて行って、それをリザヴェタ・フョードロヴナの耳に入れるのなど最低だね」
「まあ……そうだね」

レオニード・バシュキロフは精神の半ばは善良な人間だが、半ばは泥人形でジャガイモのように凡庸である。
その極めつけの泥人形性を駆使して、余計なことを言う。
「アクリナさんと別れてはどうかね? これからミハイルも大きくなるのに、父上が堂々と領地のなかに婦人を囲っているのは良くないよ。
もちろん、アクリナさんも君に大いに献身してくれたのだろうから、年金を払うようにするなり結婚相手を探すなりして……」

「ぜったいに嫌だね」

「まあ、身分の低い愚かな女が懸命に尽くしてくれる可愛らしさというのは、僕にもわからなくもないが……」
「レオニード君、わからなくもないのか、ふん。
私にはわからないね。愚かな女は嫌いだ。私のアクリーヌは愚かではない。
文盲だったのに、短期間で読み書きができるようになったのだ。
私に毎日手紙を書いてくるのだぞ。綴りや文法の間違いもあまりない」
(まあ、おかしいのは内容なのだが)

コーヒーと食後の菓子が出た。レオニードが驚き、叫び声をあげた。
銀の盆を運んできたのは、先ほどよりも年上の、やはり素裸の女だった。
腹に妊娠線が見える。すんなりした体つきでアクリナと同じ色の髪だ。女は無理に命じられたらしく、ずっと俯いている。涙が流れているのが見えた。

私は苛立ちながら抗議した。
「ポポフ殿、いい加減にしてください。
こんなところで働かされる農奴は悲惨なうえにも悲惨だし、悪趣味も良いところだ」
「エヴゲーニイ君、君のところでは、農奴は着飾ってモスクワ見物にまで連れて行ってもらえるからな。
その女はどうだね。屋内労働が多かったから肌は白いぞ。君の趣味か。好きなようにして良いぞ」

二十代だろう。
いっしゅん私は、彼女をじっと眺めてしまった。眺めてしまうと目が離せない。
私より歳上のアクリナと比べ、全身がつややかで弾力があり、張り切っている。乳房も持ちあがり、はねるようだ。確かに悪くない……。
私は立ちあがり、彼女にトルコ土産のカフタンを着せかけた。
女が驚いたように私を見上げた。顔立ちは丸く素朴だ。掘りたての赤蕪のようで、美女ではない。美女ではないが、可愛らしくはある。

「家令!」
私は家令を呼び、女を引き渡した。
「この人をどこかに連れて行け。そのカフタンは返さなくて良い」

「少し興味を持ったね」ポポフが嬉しげに言った。
私は女が持ってきたコーヒーを飲んだ。
「……バシュキロフの好きそうな女も用意してやってください。私は今晩、妻と約束がある」
だが、アクリナを思わせる女ばかり見せられ、アクリナに触れたくて堪らなくなってきた。困るではないか。

「レオニード君の好きそうな婦人かね。それは用意してもつまらん。閨ではじつに退屈そうではないか!」
レオニードが見るからに憤然としている。
「ポポフ殿、貴男はおかしい。昼間から、下劣なことばかりだ! 気違いじみている。何故、僕を侮辱するのか」
私はレオニードにコーヒーを薦めた。
「決闘ならやめておきたまえ。理由が『閨で退屈そうだと言われた』では、馬鹿らしすぎる」

「ポポフ殿、ところで何故、私の農奴の恋人を招待してくださったのです。
あのような姿で給仕をさせたかったのですか。そんなことはさせませんよ」
ポポフはワインをかなり飲んでいるようだ。
ふらふらと立ち上がって窓のところに行く。ポポフは物入れの扉を開け、猟銃を出した。雪の積もった庭に向かって撃つ。

「おい!」
私とレオニードの双方が同時に叫んだ。
私たちは窓に駆け寄り、外を見た。雪かきをしていた農奴が赤い血を出して倒れていた。
ポポフが言う。
「農奴は財産だ。殺しはしない。銃弾のかわりに、柔らかい容器に赤い顔料をつめてある」
「何故そんな悪趣味なことを……」
「君の農奴の恋人に撃たせてやろうと思ったのだよ。フョークラはそういう遊びが好きだろう」
「アクリナはフョークラとは全然違うと言っただろう」
確かにしばらくして農奴は起き上がり、また雪かきを始める。

まもなく銃声を聞きつけ、ヒローシャが飛んで来てくれた。
家令が止めるのも聞かず、玄関間から階段を駆け上がってくる。
厨房ではフランスの料理人が、料理を小箱に詰めている。
小間使いが受け取って、奥の階段を登っていった。
ヒローシャが猟銃を構えて真剣な面持ちでポポフを狙っていた。いざとなったら、完全に撃つ構えだ。
「ヒローシャ、撃つな!」
私はポポフと猟銃を指差す。
「顔料入りの弾丸で害はないのだ。まあ、悪趣味だが」
「え……顔料?」

ポポフは妙だ。
私、というよりパーヴェルを憎悪しているのは確かなのだろうが、憎悪の発露にしては、やることが子供の遊びじみている。
「また、アクリナ某とあのクラブに行くのかね」
「いや、行きませんよ」
ポポフにとっては過去も現在もさして変わりがないらしい。急に昔の、父の話に戻る。
「パーヴェルは、わしが帰って来たことを知りながら、立ったまま妻に口づけをし続けたのだ」
ずいぶん昔に招待されてポポフ家を訪れたとき、もてなしてくれた奥方はセレネーのように豊満で優しい夫人だった気がする。

「……わしは怒鳴り込むこともできなかった。
前の部屋の壁に隠れて見守っていた。
パーヴェルは妻の体に触れだした。妻が拒否することを期待していたのだが……。
わしが足元の花台に触れて大きな音を立てると、妻は言ったのだ。
『旦那様は犬をたくさん飼っているから、その一匹ですわ』とね。
パーヴェルはそのまま、妻を長椅子に押し倒した」

私はうんざりしながら口を出した。
「二人を止めれば良かったではありませんか。何故止めないのです」
「は? 止める? はじめ、わしはまさかパーヴェルと妻が本当に関係を持つとは思わなかった。
覗いていて……ある地点を超えると見たくて堪らなくなった。パーヴェルがどう妻を抱くか、妻はどう反応するか……」
「はあ……」
「あんなのに適うものか……おまえもだいぶん負けているぞ。息子のエヴゲーニイ・パヴロヴィチ」
「はあ、そうですか……」

ポポフが昔の繰り言をつづける。
「だから……もう一度見たかったのだよ」
何が『だから』なのかさっぱりわからぬのだが。
「パーヴェルが女を抱くところを。妻をわしなどには決してできないやり方で喜ばせるところを。
何度でも屈辱を味わいたいのだ」

ポポフの感情や欲望がどうなっているのか、私には理解できそうにない。
「例えば万一、同じ時点に戻ることができたとしたら、今度は奥様を取り戻そうとはお考えにならないのですか」
「……わしの人生はあそこで終わった。だが、性の喜びはあの時初めて覚えたのだ。
……お願いだエヴゲーニイ、君で我慢する。またあのクラブに行ってくれ……」
「君で我慢する、ですか……」
何なのだろう。窃視と屈辱への願望にくわえ、パーヴェルへの男色めいた欲望があるのか?
しょせん他人の心持ちである。解釈しても仕方がないのだが。

ポポフが言った。
「さっきの農奴の娘はどうかね? 部屋を貸すから覗かせてくれないか?」
「そういう理由で裸の娘が配置されていたのですか。冗談ではない。
何故そんな訳のわからない奉仕を貴男にしなければならないのだ」
「おまえはパーヴェルの息子ではないか。わしはパーヴェルのおかげで麗しい家庭と世間の良い評判、節度の効いた生活、それらすべてを失ったのだぞ」
「きっかけは父だし、貴男だって立ち直る機会はいくらでもあったはずだ。
私の知ったことではありません。今日は妻と質素に仲良く夜を過ごすのです!
貴男がアクリナを招待したのも……もしや何かで……覗けるのではないかと……」
「もちろんだ」

一番気の毒なのは、ポポフの奥方だ。ふとその後が気になった。
どうせパーヴェルはしばらくしてポポフの奥方を捨てただろう。
そのとき、ポポフはどうしたのだろう?
「奥様はどうして亡くなったのです? 貴男が鞭で殴り殺したのですか?」
私が訊くと、ポポフもレオニードも奇妙な顔をした。

小間使いが階段から降りて来た。昇ったときとは別の箱を持っており、厨房の者に渡している。
階段の上から、あらたに石灰の匂いが流れてきた。
「君、今来た部屋に案内してくれ」
私は小間使いに呼びかけた。
「はい」
階段を駆け上がる小間使いについて行く。塔になっているのだろうか。最上階にひとつだけ扉がある。
小間使いが扉を開けた。

部屋には大きな窓があり、明るかった。
街の聖堂のココシュニックや、高い松の木が見えた。
もう冬に入ったと言うのに、室内にはたくさんの生花が飾られている。床はタイルだ。濡れても汚れても良いようにであろう。タイルは異様なほど濃い紅色である。
石灰の匂いが、排泄物の匂いを押し殺していた。

広い部屋の中央に大きな寝台があった。すっかり痩せてしまった老夫人が寝ている。
看護婦がどろどろにした料理を匙ですくい、食べさせていた。

私はどうしたわけか、ポポワ夫人が死んだものだと思っていたのだが……。
そういえばフョークラのせいでおかしくなったとか弱ったとしか聞いていない。
後をついてきたポポフが言った。
「神経衰弱で寝たきりになって、そのままなのだ。
意識はほとんどない。時々うわ言を言う。わしのこともわからぬ」

ポポフが膝をついた。伏し拝むように言った。領主が領主にこのような姿を取ることなどあってしかるべきではない。
「頼む。エヴゲーニイ、パーヴェル、君が一度声をかけてやってくれぬか」
「……夫人はなんというお名前なんです」
「リュボヴ」
「Love【*リュボヴは愛の意味】ですか……」

私は夫人の耳元で、「リュボヴ、パーヴェルだよ」と囁いてみた。
もちろん返事はない。
レオニードとヒローシャが追いついて来た。
私とポポフ夫妻の異様な光景を不思議そうに見守っている。
ポポフはもっとやってくれと言う。

「可愛いリュボヴ、アレクサンドルは留守だね。
パーヴェルだ。おまえを抱きに来た。……リュボヴ、パーヴェルだ……」
今朝、リザヴェタに興奮のあまり口走ったのはどんな言葉だったか……。
「リュボヴ、私のためにあれだけ何もかも曝け出してくれたおまえが愛おしくて可愛くて……」
私はつい、ポポワ夫人の胸に触れ、「失礼」と謝った。

「……ーヴェル様」
一言だけ言って、夫人はまた夢うつつの間に飲み込まれて行った。
たぶんポポフもこれで、多少はふたたび屈辱の喜びを味わえたのだろう……よくわからないが。

*19世紀前半の貴族の男性同士の呼び方について
よほど仲が良くない限り、友人でも名字か官職で呼び合ったそうです。ずっと年上の人には、『パーヴェル・アレクセイエヴィチ』のように名前+父称で。

この作では、領主様とレオニードは幼なじみということで一応名前だけで呼びあっています。
また、領主様の名字は何故かЯ《ヤー》というキリル文字の頭文字だけにしてしまったので、登場人物の皆様には、あまり名字で呼んでいただかないようにしています。


アイキャッチ画像
“Landscape with a Rainbow”
Painted by
Alexei Savrasov (1830–1897) [PublicDomain]