第29.5話(長いおまけ)カエル★

領主様32歳。穏やかな春の日に、領主様はアクリナと領地の端の湖に釣りに出かけます。
湖にはカエルが大発生していました。そしてさらに、宿敵? 隣家の当主アレクサンドル・ポポフの一行が船でカエルをかき分け突撃してきました。
『第29話 グロテスクな昼餐会』のおまけのような話で、バカ展開です。
★性描写が妄想や話にちょっと出てきます。

4月19日,1829年

農耕が始まるのは四月二十三日の聖ゲオルギウスの祭りの日からだ。
忙しくなる前に、私はアクリナを連れて我が領地の南はじにある湖に釣りに出かけた。
(私の趣味は釣りと読書と外国語だ。嫌いなのは舞踏会と社交である)

湖はほぼ円形で、直径は半露里ほどだ。
もう氷はかなり溶けていた。北側に当たる我が領地の岸辺がわを三日月型に覆う程度だ。
艀はしけの周囲は氷を砕いてある。私はボートにアクリナを乗せ、湖の奥に漕ぎ出した。
天気は良かった。芽生え出した木々の新緑が、微風で藻のようにゆっくり動き、葉の裏の生白い面が現れたり消えたりした。

岸辺から離れると、私は釣り糸を垂らした。
すっかり文字の読めるアクリナは、『世界のさかな』という図鑑を開く。狭いボートに互いに後ろむきに座り、アクリナは私の背に寄りかかっていた。
「領主様、この魚を釣っていただけないでしょうか。一サージェン近くもあるそうだし、肉も白身で美味しいそうですわ」
アクリナが私に色摺りの簡単な図鑑の一頁を開いて見せる。白い大きな魚の絵と簡単な説明が載っていた。
「ナイルパーチ……これはアフリカにいる魚だよ。ナイルはエジプトのナイル川だ」
「……え、アフリカの魚だと釣れないのですか? だって……この湖はドニエプル川【* ロシアからウクライナ、ベラルーシを通り黒海へ流れ込む】につながっていますでしょう?」
なんだか難しいことを覚えたものだ。だが、ドニエプル川とナイル川に何か関係があるだろうか。
アクリナが続ける。
「ドニエプル川は海に繋がっています」
「まあ、そうだが……ドニエプル川は黒海に流れ込んで、ボスポラス海峡から地中海に出る」
アクリナは自信たっぷりに言った。
「海はどこにでも繋がっているから、この湖にアフリカの魚が来ても不思議ではないと思いますわ」

私は釣り糸に餌を結び、ふたたび湖に投げ込みながら言う。
「う……む、私はナイルパーチの生態を知らないが、来ないのではないかね……。黒海からスモレンスクまでずっと川を遡ってくるか? 黒海に来る前に、地中海を越えねばならないし」
アクリナはさらに自信満々である。
「鮭は川を遡ってきます」
アクリナが知っているのはシベリヤの魚ばかりだ。
「鮭は産卵という目的があるがね……それに気候が違いすぎる。確か、ナイルパーチは熱帯の魚だろう。苦労して寒い土地に川を遡っては来ないだろうよ」
「え……そうなのですか」
がっかりしている。
「黒海につながっているのに……」
アクリナは妙なところで、考える事柄のスケールが大きい。

「アクリーヌ、まさか、海につながっているから、この湖で、世界中の海の魚が獲れると思っているのではないだろうね……」
私は背中にもたれたアクリナのほうへと上半身を向け、黒貂で縁取られた外套の、薄い腹に腕をまわした。
「え……あ、ち、違うのですか……?」
自信たっぷりであったぶん、うろたえている。
「そうなら面白いけれどね。鳥や獣、植物と同じで、魚にもそれぞれ住みやすいところがあるのだ」
「エ、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……ああ、……シベリヤとスモレンスクでは生えている木が違いますわ……それと同じでしょうか」
「そうだ。よく気づいたね。おまえは賢いね」
一応褒めたのだが、恥ずかしそうだ。

「キリーナ、おまえは文字が読めるようになってまだ二、三年だろう。色々間違えて当然だ。間違っていたら直せば良いだけなのだから、思いついたり不思議な事があったら、どんどん私に話しなさい」
「は、はい。領主様……」
アクリナは頬を赤くし、目の周りも赤い。
ああ、こんなことで泣きかけている!
「ナイルパーチか……。黒海に行ったら、輸入品で入っているかもしれないな。いつか料理してくれ」
「はい……」
私はアクリナに素早く口づけする。
「こんなことでどうして落ち込む?」
「あ、貴男様に呆れられたのではないかと……」
「知識なんか覚えたり調べたりすれば良いだけだ。わからないことがあれば私に訊きなさい。私も知らなければいっしょに調べよう」
「はい……ありがとうございます。貴男様は、本当にあたしを導いてくださるのですね……」

「導くというほどでは……」
ふつうの答えをしそうになり、言い換えた。
「ああ、愚かなおまえを善導するのは私の義務だからやむを得ない」
『善導』などという言葉を使ったのは生まれて初めてかもしれない……アクリナより私のほうがよほど『ろくでなし』なのに……。

アクリナが望んでいるのは対等な関係ではない。
もちろん私が領主で、彼女を囲っているのだから、もともと対等とはほど遠い。
ただアクリナが私に夢見ているのは、すべての面で巨大で優れた力の持ち主であることだ。力というのは腕力だけでなく、権力、資力、世間知や体力や受けた教育、身分、教養、さまざまな能力、とにかくなんでもである。私がアクリナより劣っていて良いのは料理の腕だけらしい。
アクリナから見た私は、じっさいの私と彼女の差など馬鹿馬鹿しくなるほど、輝かしい力や才を持っている。
倫理的にも優れている……ようだ。
(ああ、専制君主に慣れたロシヤの民よ! 代々の皇帝陛下が常に良きツァーリであるように!)

例えていうならば、彼女がふつうの人間であれば、私は聖人とか神とか、そういったものであって欲しいのだ。彼女が子ネズミならば、私はアムール虎で……。
ようするに、私に神のごとく振る舞えということだ。いったい私のどこが……。
アクリナは母親と、あの腹立たしい許婚殿を亡くしてからは、聖ニコラがすぐそばにいると信じながら孤独に耐えてきたらしい。
だから、私という恋人……保護者? が現れても、聖ニコラの役を期待する以外、どうしていいのかわからないのかもしれない。(許婚にはどうしていたのだ?)
彼女が私に神のごとく振舞われるほうが安心するというのならば、しばらくそうして、おいおい言い聞かせよう。
[……300年後に追記 : 甘かった……。]

私自身は、ふだんはアクリナに、もっと気楽に振舞って欲しいと思うようになっていた。ふつうの恋人どうしのように甘えたり甘えられたりして、ときどきは私をからかったり、すねたり、そんなふうに接してもらいたいのだ。
エヴゲーニイの愛称の『ゲーニャ』と呼び、『ゲーニャ、他の女の人を見ちゃ駄目!』とか……。『ああ、大切なゲーニャ、あたしは貴男に首ったけよ』とか……。(『首ったけ』は死語かもしれないが私は十九世紀の人間である)
『まあゲーニャ、領主様のくせに甘えん坊さんね』とか……。
まったくアクリナに似合わない……。
何かたいそう無理な願いをしている気がする。

「アクリーヌシュカ、この湖では、鯉が釣れたら上出来だ。もし釣れたら料理してくれ」
「……はい、あ、貴男様に喜んでいただけるならば……嬉しゅうございます……」
私は声を低め、耳元で囁く。
「それともボートの上で抱かれるか?」
アクリナのウシャンカからはみ出た、頬に垂れた乱れた髪を、湖面を渡る風が揺らす。暖かいせいか頬が赤い。細面で、眉をしかめていると妙に悲しげに見えた。
「え……ま、まだ昼間ですし、……」
こういう淫らな申し出と、私の『神聖さ』が、アクリナの心のうちでどう重なっているのかわからない。まったく謎だ!

良い天気だ。羅紗の外套では暑いくらいだった。
この春のうららかな日の下で、彼女の白い裸体をボートの上に広げることを考えると、何か思春期のころのような、残虐な甘さとでもいうべきときめきを覚える。
私は釣竿をボートの縁に置いて、ふたたびアクリナを振り向いた。細い肩を掴み、石榴色の冷たくふっくらした唇に、私の大きく貪欲な唇をつける。アクリナは今さら驚いている。

「……ここでおまえの体が見たい」
「そ……そんな、他にも舟が出ていますわ」
西のほうにある艀から、小舟が何艘か出ている。ポポフ家の者がやはり釣りでもしているのであろう。
「ボートの上に寝た姿勢ならば、見えないのではないかね」
「だ……駄目です……」
「舟底に仰向けに寝そべって欲しい」
白い体を仰向けにして、色も密度も薄い、緑がかって見える柔らかなくさむらの先端だけをそっと撫でたかった。わずかに湿って心地良いだろう。私が本気で望めば、断ってはならないことはアクリナも知っている。
「昼日中、誰もいない森や湖を、素裸のおまえと腕を組んで歩きたい……。おまえの白い体に木の葉の影が落ちてさぞかしきれいだろう」
「そ、そんな……本気でございますか……」
「うん……」

軽く釣り糸が引いた。私は間合いを図り、釣り上げる。
「カエル?」
「カエルだと何かおかしいのですか?」
「いや、この湖にもカエルは住んでいるが、ずいぶん大人になるのが早い。最近暖かかったからか? どうするアクリーヌ、カエル料理を作るか」
「いえ、自信がありません……」
私はカエルから針を外し、湖に戻そうとした。

妙だ。湖の色が変わっている。緑色になり、ところどころ泡が立っている。藻が増えたのか?
「……何だこれは!」
私は叫んでいた。
湖面いっぱいに、カエルが浮き、泳いでいた。泳ぐどころではない。カエルどうしがびっしり折り重なり、カエルの層が湖面にできている!
アクリナの白い体をボートで鑑賞どころではない。

「何かありましたの?」
「カエルが大発生している」
「え……」
アクリナが湖を覗いている。
「……産卵の時の鮭みたいですわ……」
カエルは苔の緑色に黒い模様が入っている。飛び出た目玉が、仲間に押され、時折本当に飛び出ている。
ボートのオールを漕ぐと、水面のカエルが押されて何匹も飛び出した。カエルはなかば浮き、手脚を動かし、他のカエルによじ登っている。カエルは共食いするから、手脚が欠けたものも多い。
アクリナはボートの縁から腕を伸ばし、カエルを一匹捕まえ、じっと眺めている。
……私はカエルを手づかみしている淑女(の服装をした婦人)を初めて見た。

「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、この湖で、こういうことはよくあるのですか?」
「いや、私が知る限り初めてだ」
アクリナはもう一匹カエルをすくいとり、両手に一匹ずつ鷲掴みして、やはりじっと眺めている。一匹は湖面のカエル層に戻し、またもう一匹捕まえ、見比べる。
「手づかみで平気なのかね?」
「え? 何がですの?」
ああ……私のアクリーヌは。

「あ……あの、カエルが何種類かいますわ」
「そうなのか? みんな似て見えるが」
「これが一番多いようですけれど……」
アクリナは私の目の前に緑のカエルを差し出した。アクリナのてのひらより小さい。背中にうっすらと黒い筋が入っている。
「これはフランス語の『グルヌイユ』というやつではないかな……。ヨーロッパトノサマガエルといって、フランスでは脚を料理に使う」
「え……、では本当に食べられるのですか?」
「ああ、たぶん」
「他の種類もいますわ。オスメスの差かと思いましたけれど、大きさもずいぶん違いますし、……」
私はアクリナが差し出したカエルを見る。
一匹は『グルヌイユ』よりかなり大きい。『グルヌイユ』は背中に黒い筋だが、もう一匹のカエルは、背中に濃く膨らんだ黒い斑点がある。
アクリナはまたもう一匹、ボートの縁から手を伸ばし、胴体を持ち、一匹捕まえた。(もちろん直に手をつけて。あの勝ち気なリザヴェタでさえ、カエルに悲鳴を上げていたことがあるのに)

三匹目は小さい。やはり背中に薄い斑点がある。
私は気づいた。「『グルヌイユ』はフランスで食べるカエルだ。確か繁殖方法が珍しい」
「まあ、どういうものでしょう?」
アクリナは嬉しそうだ。生き物や生き物の知識が好きなのだ。
「その前に手を拭いて。カエルにかぶれることもあるのだよ」
私は持ってきた井戸水で手巾を絞り、アクリナに手を出させ、拭いた。
「……あ、あの。もったいのうございます」
「おまえは自分のことは雑に済ませるね。駄目だよ。拭かせなさい。で、『グルヌイユ』だがね……」
「はい……」
「他の大きい一匹……ワライガエルと、小さなコガタガエルの混血なのだ。
『グルヌイユ』どうしで増やそうとすると、何故か卵が育たない。だから、グルヌイユを増やすためにはワライガエルかコガタガエルといっしょに飼って、交配させなければならないのだ」
「そんなことがあるのですか! なんて……珍しくて、……霊妙なのでしょう……」
アクリナは私に手を拭かれながら、感激で潤んだ目で私を見あげた。まるで祭壇の聖ニコラに対するときの目だ!

「しかし何故、こんなところでグルヌイユが……? アクリーヌ、おまえが言うように、ほんとうにフランスから遡ってきたのだろうか?」
「ええ? あ、貴男様でもご存知ないことを、あたしなんかが知っているはずありませんわ」
私はアクリナの手を拭き終え、細くさらさらした、手仕事をよくする婦人らしい、爪の短い指先に接吻した。

—-

食用ガエルの『グルヌイユ』や仲間たちがいる理由は間もなくわかった。
アクリナが悲鳴を上げた。正直なところ、ここでこんな馬鹿げたものを見るとは思わなかった。
ボートというには大きな、長さ二サージェンか三サージェンもある小船が、私たちのささやかなボートのそばに現れたのだ。
小船には、日よけの天幕がつき……キプチャク・ハン国の黄金の天幕国(オルド)とはこのようなものか? いや、黄金のオルドはもっとずっとマシだろう。
【* 黄金のオルドは、モンゴルのロシア支配のあいだの宮殿。騎馬民族の首都であるから、巨大で豪華な天幕でできていた】

船は五人の下男が漕いでいる。

天幕には毛皮が貼ってあり、恐らく狐かウサギだが、染めて、虎の模様にしている。
天幕の端からは金色の房が黄金の葡萄のようにどっさり垂れていた。
中心の柄に掴まって船の後尾に立ち、あたりを見まわしているのは我が隣人、アレクサンドル・ポポフだ。まったく彼こそカエルに似ていた。カエルのように太り、目をぎょろつかせている。カエルの帝王と言って良い。
天幕の柄の上方には、虎の牙のつもりなのか、金色の牙の形の金属が、鱗のように、びっしり貼りつけられていた。

……何なのだ。この馬鹿な物体は!
まあ我が国では、寺院の装飾から農民の作った素人彫刻まで、装飾しすぎの馬鹿げたものはよく見るが……。
西南の隣家の当主アレクサンドル・ポポフ(たぶん六十歳くらい)が仁王立ちになって、小さなボートに座った私とアクリナを見下ろす。
アムール虎の毛皮の縁取りがついたマントを羽織っている。もう、どこの民族の人間だかよくわからない。

一年半ほど前のことだ。アクリナがスモレンスクに来たばかりのころである。ポポフ家の敷地にキノコを採るために迷い込み、ポポフに捕まり、鞭打たれそうになった。結局、私が代わりに鞭打たれた。領主が領主を鞭打つなんてと、おかげで今でもあちこちで語りぐさになっている。
アクリナはポポフの姿を覚えているのだろう。震えながら私の腕にしがみついた。

「パーヴェル」とアレクサンドル・ポポフが言った。
「パーヴェルではない。息子だ」
ポポフの両隣には、折りたたみの小さな椅子があり、いつもの、長く伸びた猫のような小間使いと、それにフランス人のシェフがいた。
「ポポフ殿、グルヌイユを放したのは貴殿か……」
フランス人の料理人にカエル料理を作らせようというのだろう。
「放しすぎだ! これだけ増えたら、他の魚も食われてしまう」
「ここまで増えるとは思わなかった。パーヴェル、君はうちの領地に入っているぞ」
「はあ? 確か、父の代に取り決めをしたのだろう。湖の岸から二十サージェンが敷地で、あとはどちらのものでもないと」
「父か。ああ、君はパーヴェルではなくエヴゲーニイ・パヴロヴィチだったね。ふん、代が変われば約束も変わる! 君とは交渉していない」
「決まったから交渉していないのだ」
我が国には遵法(じゅんぽう)精神がないのだ。すべて賄賂で何とかなるためか、遵法という概念自体がわからないのか。
ただ、アレクサンドル・ポポフは愚か者ではない。(愚か者でなくても、遵法という概念が理解できない人物が多数いるのが我が国の恐ろしいところではある)
……わざと嫌がらせでやっているのかもしれない。

船を漕いでいた下男たちがいっせいに網を打った。
「トレビアン!」とフランス人のシェフが言った……。私を見て陽気に言う。笑い声はホンホンホンと聞こえる。「ムッシュー、また貴男にご馳走したいです」
アクリナが私とフランス人のシェフの顔を見比べた。「え? あの方をご存じですの」
「ポポフ家の料理人だ。うまいフランス料理を作る」
「領主様、あの後もポポフ家をお訪ねになったのですか……?」
「う……ん、まあ、呼ばれたからね。心配しなくても、また鞭打たれたりはしていない。近所づきあいも仕事のうちなのだよ」
呼ばれたのには事情がありアクリナも絡んでいるのだが、その事情はアクリナに話したくない。【*『グロテスクな昼餐会』】

「戻ろう……」
ああ、……まだ一匹も魚を釣っていない!
春の日の下で、羞恥と官能にうち震えるアクリナの体をじっくりと、舐めるように眺めてもいない!
私は、我が領地の艀に向かってボートを漕ぎ出す。
何も釣れていないが、仕方がない。

「フョークラ!」
と、ポポフが叫んだ。フョークラは、私の父パーヴェルの愛人だった女だ。
私は父のパーヴェル、アクリナは父の愛人のフョークラに外見が似ている。二人に恨みのあるポポフは、私とアクリナを父と愛人の名で呼ぶ。
アクリナは怖そうに体を硬くした。

下男たちが網を打つたびに、網の中はカエルでいっぱいになる。あんなに食べきれるのか? 農奴全員に配れば良いのか……。
「あ、アクリナですわ。ポポフ様……」
「アクーリャ、返事はしないで良い。行こう」
私はカエルを搔き分け、オールを漕いだ。オールを漕ぐたびに数十匹のカエルが跳ね飛び、いっこうに進まない。
「フョークラ、昨年の秋、パーヴェルとモスクワに行っただろう?」
ポポフはニヤニヤ笑っている。【*『三人』参照】
私は怒鳴った。
「うるさい。あれはただの似た人だろうが」
「フョークラ、聖ヴァシリー寺院は素晴らしかっただろうね」
まともなことを訊いた。
私はとっさに言う。「アクリナ、答えるな!」
老獪(ろうかい)なポポフには、人の良いアクリナを引っかけるのなど、じつにたやすいことであろう。アクリナは私の言葉の意味がよくわからなかったようだ。
単に無難なことを聞かれたから、無難に答えている。
「え? あ、はい。イコンがほんとうに美しくて、神聖で……。あんなに聖なる場所がこの世にあるなんて……」

小間使いは少しばかり申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。ポポフがアクリナに言う。
「ほらやはり、モスクワに行っているね」
「ええ……あの、それが何か……?」
「フョークラ、わしはね、おまえとパーヴェルがモスクワのクラブにいるのを見たのだよ。ほら、あの夫婦でいく秘密クラブだ。素晴らしい見世物だったね」
アクリナはしばらく考えている。
「気にするな。帰るんだ」
湖の上にはカエルの膜が張っているようだった。漕いでも漕いでもカエルが跳ね飛ぶばかりである。

急にアクリナが気づいた。つまり、アレクサンドル・ポポフが言っている言葉の意味をだ。
「ええ、あ……そ、そんなまさか……」
「フョークラ、おまえのギリシャ風衣装も似合ったな。檻の中で皆に見せつけながらパーヴェルにしがみついて」
「い、いやああ! どうしてそんな……」
「その場にいたのだ。ふん、偶然だが。まったくあんなところで君たちを見るとはね」
私はうんざりしながら答えた。
「あれは偶然似た人がいただけですよ。だいたい、もう皆、興味をなくしています。半年も前のことでしょう?」
私は震えるアクリナを抱きしめた。「あれは、ポポフ殿が似た人を見て、先走って言いふらしたことになっている。気にするな」
「……ご覧になったのは事実なのですね……あたしと、貴男様の……あ、ああ……」

「フョークラ、じつに気持ちが良さそうだったな。腰を振って……喘ぎまくって」
アクリナは失神しそうだ。が、社交界で失神が流行っていても、アクリナは社交界の貴婦人ではないから失神しない。

ポポフが下男たちに号令をかけた。「進め! バルト海艦隊!」
ポポフは歳を取るにつれ小児性が増している。
小間使いが申し訳なさそうに頭を下げた。どうして彼女が頭を下げる?
不思議に思った途端、ポポフの下男たちが笑いながら、全力で漕ぎ始めた。私一人の力で勝てる訳が無い。
舳先が、私たちの乗るボートの左舷にぶつかった。
「ウラー! バルト海艦隊がスウェーデンを破ったぞ!!」
私のボートはスウェーデン海軍ではない。
まあポポフも寂しいのだろう……。

—-
手づかみにするのは平気でもさすがにカエルの湖に落ちるのはアクリナでも辛いらしい。私だってこんなのはまっぴらだ。全身がぬるぬるする!
ポポフ船に助けられた時は、私もアクリナもぐったりしていた。外套の隠しにカエルが入っている……。
「マダム、エ、ムッシュー。『グルヌイユ』ご馳走いたしますね。ホンホンホン」
フランス人のシェフが呑気に言う。
ポポフが言った。
「出帆! リュボヴ号よ」……六十過ぎて海戦ごっこか!
「帆なんか張ってないではないか……」

—-

「申し訳ありません。お隣の領主様、奥様」
いつもの小間使いが言った。黄土色の髪を三つ編みにした、長く延びた黄色い猫のような娘だ。
奥様でないなどと言う気力もない。
私とアクリナは客用寝室らしい部屋に案内され、濡れた外套のまま床のタール塗りの敷き布に座っている。
「……お召替えを」
いつもの小間使いと、その助手らしい下女が男女一人分ずつの洋服を持ってくる。私はいつもの小間使いに言う。
「……ああ……君もよくここに勤めているな」
「アレクサンドル様はあたくしには優しいご主人です。どうぞ、お召替えを。お隣の領主様、奥方様」
「着替えるのは結構だが、どこかでポポフ殿が覗いているのだろう」

アクリナが呆然としている。
「覗くって……」
「ああ、ポポフ殿はそういう趣味なのだ」
「ええ……?」どうもモスクワのクラブでの痴態を思い出したらしい。「あ……ではあれも」
「覗けて嬉しかったようだ」
「い、いや……」
「ああ、何故かポポフ殿は私のほうを熱心に眺めていたらしいので、アクリーヌ、おまえは気にしなくていい」
「ええ?」
「そうだったね、君」
私は小間使いに言った。

「はい。アレクサンドル様は男色趣味ではないのですが、お隣の領主様のことをたいへんお気に入りでございます。いつもパーヴェル、パーヴェルと」
「私は息子なのだが……」
「そういうわけでございますので、奥方様が別室でお着替えになれば、覗かれるのはパーヴェル様おひとりで済むかと存じます」
「滅茶苦茶なことを言ってるな……着替えなくて良いから、うちの馬車を呼んでくれないかね」
「あたくしにはそんな権限はございません」

私は叫んだ。どうせどこかで覗いているのだ。
「ポポフ殿! ふざけるな。もうすぐ聖ゲオルギウスの日だ。農耕が始まる前の、束の間の暇な日々なのは貴殿もよくご存知だろう。この期間くらい恋人と釣りを楽しませてくれ」

ペチカから声がする。「パーヴェル、フョークラ」
アクリナが愕然としている。ついでに私も呆れ返っている。
「本物のフョークラなら、わしに見せつけるようにパーヴェルに絡みついていったであろうに……」
「本物のフョークラって……あたしは本物のアクリナです……」
「本物のアクリナよ。おまえの体は貧相で美しくないが、あの谷間の色は石榴の実のようで良かったぞ」
アクリナが凍りついたように動かなくなった。

ものすごく腹が立ってきた。私があんなところに連れていったのが悪いといえばそれまでだが、私のアクリーヌだとわかる者が来るとは……来ても良い。同好の士ならば黙っているのが礼儀なのだ。斯界(しかい)の暗黙の掟である。ああ! 遵法精神がない!

私は考えた。こんなとき、父のパーヴェルならどうするか? もちろん決闘なぞしまい。
「ああ、アレクサンドル! 私がリュボヴに初めて恍惚を教えた時のことを知っているか? もう蕩けるようでな。こんな状態があるなど想像もしていなかったと言っていたぞ」
「リュボヴって、どなた……」
アクリナが呟いているのを、小間使いが服を抱え、そっと引っ張っていく。とりあえず、アクリナだけは別室で着替えさせてくれるらしい。
小間使いがアクリナに教えている。気転が利く娘のようだ。
「リュボヴ様はパーヴェル様の恋人ですわ。ご子息は関係ありません」
「ああ、……はい。良かった……」
私はアクリナに小間使いについていくよう、手で指し示した。

「エ、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、何で知っている」
ペチカからポポフの声がする。パーヴェルと混乱したふりをしていたが、はっきり私の名を覚えているではないか。
何か体が痒い。私は外套を脱いだ。裏にカエルがペタペタ張り付いている!
「ああ。父が日記を遺していてね。十二歳から四十八歳までに褥を共にした二百数十人の記録があってな」
(全部でまかせだ)

「パーヴェルはリュボヴ様を愛してはいなかったが、少なくとも性愛の喜びだけは教えて差し上げたようだぞ。
ああ、お気の毒に! リュボヴ様はご夫君にはそんなことはまったく望むべくもなく……夫の行為はカエル並みで農奴の鞭打ちだけが得意で、鞭はあのものの代わりだとこぼしていたそうだ」
【* カエルは哺乳類のような交尾はしない。メスが排出した卵子にオスが精子をかける種もいる】

いったいどうやって入っていたのかわからないが、ペチカの暖炉からポポフが這い出してきた。肘を床につけて、腹ばいになっている。太りきった巨大蛇だ。
「エヴゲーニイ……わしは六十二歳だ。最近体調がおかしい。もうあと何年も生きられないだろう。わしは怖いのだよ。死ぬのが……。天国も最後の審判もあるものか。一人でどこか寂しいところに消えるだけだ」
「どうして私にそんな話を……もっと歳の近い友人に言え」

アクリナと小間使いが、部屋を覗いていた。
アクリナは着替えている。皇帝様式のドレスだが、珍しくラヴェンダー色だ。黒のほうがずっと似合うが、これはこれで新鮮である。
「わしには友などおらん。君も同じだろう。この前のバシュキロフの(せがれ)など、路傍の便利な知り合いに過ぎぬであろう」
「友はいないが妻と恋人がいる。貴殿にはフランス人のシェフがいてカエル食べ放題ではないか」
「エヴゲーニイ、君は妻に見放されているだろう!」
「そんなことはない! アレクサンドル、貴男とは違う。私は妻にちゃんと恍惚を教えた」
「愛人といかがわしいクラブに行ったり、カエルまみれになっている夫なぞ、多少床上手だろうとうんざりだろう。ああ、気の毒な細君! だいたい、愛人と全然違う様子のご婦人だったな。おまえの好みはあのフョークラのほうだ。違うか? 細君と閨の営みをしているか」
「ああ、もちろんしているとも。妻を愛しているからな。妻が月二で、恋人が月六か七だ。農耕が始まったら、やれる日が減る。貴重な夜を貴男の屋敷でなど費やしたくない!」

「ほら、恋人のほうが多い」
「いや、抱擁やら口づけやらは妻とのほうがしている」
「それはただ、近くにいるからであろう!」
ポポフはそんなことを叫びながら、カエルの落ちた床を這って、私に近づいて来る。
「……エヴゲーニイ、わしはやはり死ぬのが怖くてな……だからせめて領主どうしの情けだ。最後に見せろ」
「まだ死なないだろう」
「いや、パーヴェル。今日はシェフのフランス料理を楽しみながら、じっくり友情を温めようではないか。そのあと、あちらの美しい恋人とゆっくり泊まって行きたまえ。最上の部屋を用意する」
「目的が見え透きすぎだね」
「人生のはかなさと情熱の奥深さについて語り合おう、年若い友よ!」

アクリナが私を見ていた。
私はアクリナを善導する神聖な存在でなければならないのに……体が痒い。濡れて肌にへばりついたシャツの中をカエルが歩いている!
アクリナが言った。
アクリナは今はまだ知識は足りないが、知恵はある。
「……あの、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、ポポフ様……ほんとうは仲がおよろしいのですか?」

でも、これは間違いだ……。


アイキャッチ画像
“Landscape with a Rainbow”
Painted by
Alexei Savrasov (1830–1897) [PublicDomain]

第4章 1830年、スモレンスク