第26話 妻と小間使いたち★

妊娠三ヶ月になるリザヴェタ奥様。階段に蝋を塗られ、転倒してしまいます。奥様はずっと小間使いたちに嫌がらせを受けていたことが明らかに。領主様が、愛する妻のため、酷い捜査方法で蝋を塗った犯人を捜します。
今回登場するЯ家の奉公人です。
◇ アファナシー・テレージン 48歳 家令(召使いの中で一番偉い)
◇ ヒローシャ 20歳 馭者・馬丁・警護人ほか 東洋系異民族 シベリヤからリザヴェタとともに来る。
◇ エレナ・ネクルィロヴァ 44歳 女中頭 領主様の前妻・オルガの実家からついて来た。細身の厳しい婦人。
◇ ウリャーナ 17歳 小間使い 背が高くすんなりしている。容貌が自慢。
◇ イヴァンカ 17歳 小間使い 栗色の髪で小柄。歩くのが速い。
◇ ドロシダ 23歳 小間使い オルガについて来た。
◇ オクサーナ 42歳 料理女

1月23日~24日,1828年

身籠もって三ヶ月になり、私の妻であるリザヴェタ・フョードロヴナは気分の悪さに苦しんでいる。
彼女の生家であるシベリヤのリャードフ家からは、父と新夫人から心のこもった手紙をもらった。帰るにはあまりに遠い。子が生まれたら、一度来ていただこうと話す。
リザヴェタの義母である、新夫人は子がいない。これから作るのかもしれないが。
リザヴェタの実の母も亡くなり、私の母もとうにいない。
つまり、リザヴェタに妊娠期間がどういうものか教えてくれる身内はいないのだった。
西北の隣村の地主であるバシュキロワ夫人は私の代母だった。
結婚前の一時、リザヴェタを預かってくれた関係で、しょっちゅう訪問してくれるが、やはり別の家に住んでいる方である。
弱みを見せるのが嫌いなリザヴェタは私の言うことも聞かない。
いくら『無理をするな』と言っても、毎朝必ず家事の指図に居間に出て行く。

妊娠を家の者たちに触れてから数日後、リザヴェタが階段で転んだ。玄関間に通じる下り階段だ。幸い下の方の段だったが、下腹部から出血していた。慌てて医師を呼びにやらせた。
真っ黒な口髭を生やしたプロイセン帰りのセミョーノフ医師が来て、脈を取り、お疲れですね、とだけ言う。
「ご心労をなくすようにお心がけください」

私は医師が帰ったあと、ぐっすり寝ているリザヴェタを寝室に残して部屋を出た。私は彼女が転んだ階段を調べた。木製の段に蝋が塗ってある……。
家令のテレージンを連れて書斎に行った。
「蝋が塗ってあった? 本当でございますか」
テレージンもさすがに驚いていた。
「ああ。玄関番に聞いたら、最後に小間使いの制服を着ている者を見たそうだが。確か、小間使いを仕切る女中頭とリザヴェタは仲が悪かったな」
「それくらいはお気づきですか」
テレージンは一応雇い主である私にも、きつい言葉を平気で言う。
「え、まだ何かあるのか」
「女中頭のエレナ・ネクルィロヴァは小間使いに圧倒的な力を持っています」
「ああ、そうなのか」
「ですから、小間使いたちは好むと好まざるとに関わらず、リザヴェタ奥様に忠義を尽くすわけには参りません」
「……なるほど。奥方より女中頭を優先しないと我が身が危ないわけだね」私は溜息をついた。「オルガについてきた女だったな。ネクルィロヴァは」
「ええ、ですから最初からリザヴェタ奥様に思うところがあったのでしょう。
エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、貴男様が怒鳴りつけても駄目でしょうね。婦人どうしの関係はいったん恨みが入ると非常に面倒です」
「そうだな……」
「せっかくですから、恋の探求者たる貴男様の、ご婦人たちをあしらう腕を拝見したいのですが」
テレージンの言葉は嫌みだか本気だかわからない。ステパンの父親だから、ただ思いついたままを口に出しているのかもしれない。
「……いや、そういうのは止めたから……。婦人は可愛いが、群れなしてこじれると狼の争いのようだ。掃除女や洗濯女は?」
「私の見るところ、特にリザヴェタ奥様と問題はありません。料理女もそうです。むしろ慕っているようですね」
「ふん、ああ、テレージン、おまえにはかなわないな。問題は女中頭とその下の小間使いか」

リザヴェタは夜になってようやく目覚めた。主寝室で眠り続けていたのだ。
私は傍らでペチカに火を入れつつ、『キノコの育て方』と、新大陸に渡ったドミニコ会士のラス・カサスの十五世紀の告発書『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を興味本位で読んでいた。
(私は語学に妙な才能があった。スペイン語もいける)
そして女たちへの対策を考えていたところだった。

リザヴェタの弱々しい声がした。いつも落ち着いた、ヴェルヴェットのような声をしているというのに。
「……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、申し訳ありません。ご心配をおかけして」
目覚めたリザヴェタは、青白かった顔色も少しはましになっていた。
「何か飲むかね」
「はい」
私は台所に行って、料理女のオクサーナにつわりのときに食べられそうなものを運んでくるように頼んだ。
オクサーナは私が子供のころに料理女として勤めていたのだが、最近になって戻ってきた。だからオルガのことはまったく知らない。亡き妻オルガを介した争いには無関係だ。

白いパンのようにふっくらしたオクサーナが、クワスだの、檸檬の入った水だのを運んできた。
「オクサーナ、おまえは何人か子を産んでいるね。リザヴェタの相談に乗ってやってくれないか。私の母もリザヴェタの母も亡くなっている。些細なことすらよくわからないのだよ」
「まあ、はい。とにかく軽いものでも食べないとなりませんわ。大丈夫です、今が一番ひどいときです。リザヴェタ奥様、食べられそうなものを何でもおっしゃってください」
「あ、ありがとう……オクサーナ」

オクサーナはリザヴェタの横にひざまずき、背を支え、檸檬汁を飲ませる。そして感慨深そうに言った。「ルーシのエウゲニオス獰猛公がお父様になるだなんて……」
リザヴェタが不思議そうに訊く。「オクサーナ……獰猛公のことを知っているの?」
「ええ、第一の犠牲者でしたから」
「まあ、面白そう。ひょっとして、シチーに生きた蛇を投げ込まれた料理女って、おまえなの?」
「そうでございますよ、奥様」
リザヴェタは少しほっとしたようだ。微笑する。「明日から獰猛公の話を教えてちょうだい」
「はい、ひどい話ばかりですわ!」
オクサーナは、何を食べたいかあれこれ訊いてから、出て行った。

「リーザ、明日はオクサーナが食事を運んでくれます。休んでいてください」
「いいえ、そうはいきませんわ……。母屋のなかのことはわたくしがやらなければ」
「しばらくのあいだ、掃除が行き届いていなくても、食料の買い方が杜撰でも構いませんよ。貴女の体のほうが大事なのです」
「でも……小間使いたちはわたくしが指図しないと……女中頭が勝手な流儀で動かしてしまいますから」
「女中頭……ネクルィロヴァですね」
「はい」
リザヴェタは疲れきった、陰鬱な表情をした。
どうもリザヴェタは非常に無理をしていたらしい。
「……それに、わたくしが役立たずだとわかったら、貴男に見捨てられる。離縁はなさらなくても、失望なさるでしょう……」
「何を馬鹿なことをおっしゃっているのですか。ネクルィロヴァのことは私が何とかします。心労がいけないと医者も言っていたではありませんか」

「そんな……、『あの人』に『貴男に甘えてばかりいるな』と言ったのに、わたくしが貴男に甘えられるわけがないではありませんか!」
「ああ……あの時の……」
私が隣家の領主のアレクサンドル・ポポフに、アクリナの代わりに鞭打たれ、リザヴェタがアクリナを叱りつけたときだ。
【*『第20話 身代わりの鞭』】

「明日は一日中、寝台で休んでいなさい。リーザ、甘える甘えないなんてどうでもよろしい。
貴女の中にいる子は、Я家の子なのですよ。男子だったら後継です。
くだらぬ女中頭のことなどで我が家の子を傷つけるわけにはいけません。貴女もです」
「はい……すみません」
「いろいろお一人で溜め込んでいたのですね。察することができなかった私が悪いのです。……私は、貴女が、エレナ・ネクルィロヴァと戦うのを楽しんでらっしゃるのかと」
「まさか。なごやかにやれるのならばそのほうがずっと良いですわ。
いえ、あの人自身はどうでも良いのです。
ネクルィロヴァの背後にいるオルガ様が……ええ……屋根裏に片づけられた肖像画を見ました……なんて脆くて儚げで、妖精みたいに美しい方なの。
『あの人』だって浮世離れして、儚げです。そういう方がお好きなのでしょう?」
『あの人』はアクリナだ。
「いや、別にそういうわけでは……」
「シベリヤの野卑な育ちとしては、せめて実務くらいできないと……」
リザヴェタは思い詰めた表情で爪を嚙む。私は嚙むのを止めさせ、指に接吻した。白絹に包まれた腹を撫でる。ここに子が入っているとは未だに信じられない……。

私はリザヴェタに訊いた。「シベリヤの野卑な育ちとは、誰かが貴女にそう言ったのですか?」
「小間使いたちが聞こえよがしに噂して、わたくしが近づくとすっと去っていくのです。
領主様は妻と称して『召使い頭』を連れてきたと。だって全然好みじゃないって。貴男様はご婦人の好みがたいそううるさいのに、と」
ポポフの館や農奴の家では『いかもの喰い』扱いされたというのに妙なものだ。
「好みがたいそううるさい。そうです。だから貴女を選んだのに?
私が貴女を大切にし……婦人として可愛がってもいることは明らかではないですか」
「あの人たちはそう見ないのですわ。ほんとうに下品な噂をいたします。無礼なことも淫らなことも……」

「え? 貴女にですか。私の妻の貴女に、たかが小間使いが」
「シベリヤ育ちだから、猟をして駆け回って育って、農奴の女のように体が良いのだとか……、
わたくしの父が貴男様の負債を立て替えて、代わりにわたくしを娶らせたのだとか。
ヒローシャのことまで。あんな『猿みたいな馬丁』と毛皮猟に行っていたって」
「ふむ、想像以上にひどいですね。……口に出すのもお嫌でしょうが、勇気を持って先を続けてください」
「はい……。ヒローシャのことはさすがに叱りました。あんなに忠実で、黙々と働く良い召使いはいないと……またそれがあの人たちの誇りを傷つけたのですわ」
リザヴェタは枕に背を当て、斜めに寝台に座っている。
量の多い髪が広がっていた。私は寝台のリザヴェタの横に小さな椅子を持ってきて座っている。

私はリザヴェタに言った。
「家の内が乱れていたら、最後には主人が出るべきなのです。彼女たちは、私が放っておくだろうと思って、貴女を侮辱している。
そう思わせたのは私が悪い。オルガのことを放り出して、まったく心に掛けていなかった。
……ネクルィロヴァはわかりました。他に特にひどい小間使いは?」
「そうですね……ウリャーナとイヴァンカですわ」
「誰が誰やらわからぬな……ウリャーナ? ……濃い金髪の?」
「ええ、背が高くてすんなりした、そばかすの多い娘です。
イヴァンカは、小柄で栗色の髪。目が悪いのか、たまに目をすがめています」
「ウリャーナはあれかな。たまに書斎に紅茶を持って来る娘か。私にこっそり色目を使ってきます」
「まあ……」
「確かに、まあまあの容色きりょうの娘だから……我こそはというのがあるのかもしれません。金目当てか、囲い者の座でも狙っているのか」
「何をおっしゃっているのです。この母屋の娘たちの半分以上は、貴男に片思いしていますわ」
「そんなことはないでしょう。貴女に会った一年半前には、私は美男の洒落者でしたが、残念ながらもう違います」
「まあ、謙虚になられたこと!」
リザヴェタはおかしそうに笑った。ようやく笑ってくれた。

翌朝、母屋の召使いを居間に集めた。私が話す。
「昨日、妻のリザヴェタが、玄関間と待合間のあいだにある階段から落ちた。出血はしたが、幸い妻も子供も無事だった。
気をつけてやってくれ」
二十名あまりの召使いがざわついた。
「それで、しばらくリザヴェタは大事を取って休ませる。家事は見られない。
いつもと同じように仕事をしてくれ。
料理女頭のゼルノヴァ、掃除女頭のソコロワ、洗濯女頭のカリンスカヤ、女中頭のネクルィロヴァ、よろしく頼む。
相談があったら私かテレージンに。
今日はだいたい書斎か、母屋のまわりにいる」

今日も雪だった。私は長靴を履いて雪を蹈み、母屋の横の厩舎に行った。
ヒローシャも他の馬丁らに混じって雪かきをしている。
「ヒローシャ」私はヒローシャを母屋の軒下に呼ぶ。
「はい、大切な領主様。リザヴェタ奥様がお倒れになったとのことですが、お加減はいかがでございましょうか」
「大丈夫だ。軽い疲れだそうだよ」
「ああ、良うございました。……それで、ご用は何でございましょう。リザヴェタ奥様に必要なものなどがありましたら、市場にでもどこにでも参ります」

「妙なことを訊いて悪いが、ヒローシャ、君は今でも清浄な身か」
「え? はい。もちろんです。正式な婚姻の機密を経ないでご婦人に近づくつもりはございません」
「ふん、結婚の予定はあるのか」
「……ありません」
小柄なヒローシャは大きな黒い目をきらきらさせて私を見ているが、不思議そうだ。まあそれはそうだろう。
「どうしてそのようなつまらぬことをお訊きになるのですか?」
「結婚したいか? 誰か紹介したら……」
「……い、いえ。まだ。特定のご婦人のことなど考えられません。領主様とリザヴェタ奥様にお仕えできればそれで……」

「どうもね、リザヴェタ奥様は敵を作りやすい。今は小間使いたちが嫌がらせをしている」
「なんですって! 召使いが奥様に嫌がらせ?」
「ああ、それは私が何とかする。……で、もし私が死んだら、君がリザヴェタを助けてやってくれ」
「あ、あの領主様……」
「別に死ぬ予定はない。もしもの時の話だ」
「領主様とリザヴェタ奥様には最後まで忠実に仕えます」
「それだけではなくてね。……あの人は気が強いが、意外と脆いところがある。抱きしめてくれる生身の男が必要だ。……だから、もし私が死んだら、やれ」

「やれって……」ヒローシャは一応意味がわかるらしい。困っている。
「やれ、やってしまえ。あの人は強く押すと結構弱いぞ」
「それは貴男様だからでございます……」
「領主命令だ。いいか私の葬式が終わったら、抱きしめてそのまま寝台に連れ込め」
「あの……畏れ多いです。私は異民族ですし……」
「今までリザヴェタが気にしたかね? 夫で領主の私が許可しているんだ。遺言にも書いておく」
「そんなことをお書きにならないでください……」
ヒローシャは泣きそうだ。「私はリザヴェタ奥様を生神女マリヤのように慕っていますが、劣情を持った目で拝見したことはただの一度もございません!」
(ステパン・テレージンとずいぶんな違いだ)
「君がどう思っているか知らない。単にリザヴェタのために命じている。承諾してくれるね」
ヒローシャはしばらく悩んだ後、とても小さな声で返事をした。「……、…………はい」

「では、雪がやんだら娼館に連れて行ってやる」
「は? え、お断りさせてくださいませ」
「清浄な身では、やり方がわからないだろうが。リザヴェタに訊くのか」
「あ、あの娼館って、大切な領主様……貴男様がそのようなところに行くと、リザヴェタ奥様が悲しみます」
「君を案内して、すぐに戻る。母屋のほうが手が離せなくてね。君は辻馬車で戻ってきたまえ」
「は……はい」
「では、頼んだぞ」
呆然としているヒローシャを置いて、私は急いで雪の中を母屋に戻った。


誰かが罠にかかるだろうか。
私は混沌たる書斎の応接用の長椅子に腰かけ、郵便物を整理し、今年の農奴たちに地代をいつものように農産物で納めさせ、若干を現金で戻すことの利点と欠点を考える。
ラマルクの『無脊椎動物誌』を読みながら作戦を立てた。リザヴェタは推理が得意なことを思い出す。しかし今はとにかく休ませたかった。
ノックの音がした。
「領主様、紅茶はいかがでございましょうか」
「ああ……もらうよ」
「はい、では失礼いたします」
やや背の高い、すんなりした娘が小間使いのお仕着せで入ってきた。銀の盆に濃い紅茶とジャムを載せている。
私は本を読みながら、ふと気づいたように、小間使いの顔を見上げた。
濃い金髪を三つ編みにして垂らしている。十七、八か。わりと整った容貌で、そばかすが散っているのも愛嬌がある。使用人の男たちにはずいぶん人気があるだろう。

「……ウリャーナだっけ?」
「領主様、あたくしの名前を覚えていてくださったのですか」
「うん……」
私は長椅子の前のテーブルに雑多に並んだ郵便物やら書類やら本を重ね、隅に置く。
苺のジャムとともに紅茶を一口すする。私はほとんど顔をあげずに言う。こういうほうが効果がある……あった。今は知らない。
「ウリャーナ、隣に座らないか」
「……は、はい」
小間使いのお仕着せは黒い羅紗の膨らんだスカートのドレスに、白いレースの襟と前掛けだ。

「絹の手巾が欲しくないかね。フランス製で、花柄の刺繍がしてある」
「え……」
「確かこのあたりにあったな」私は立ち上がり、書き物机の引き出しをさぐる。
婦人用の新しい手巾が出てきた。薄桃色の地に薔薇の刺繍がある。アクリナ用に買いだめしてあるのだ。
「触り心地が良いだろう?」私はウリャーナに手巾を触らせる。
「は、はい。すごく素敵ですわ……」
ウリャーナは私の隣で縮こまり、だが、酔ったように顔を赤らめ、うっとりと私を見上げている。単に金目当てではなさそうだ。ああ、まだ私にはこんな力があったのかと思う。

「ウリャーナ、私には囲い者がいて……」
「聞いております……奥様のご実家で働いていた方だとか」
「そう、たいそう美しい女で、前の妻のオルガによく似ている。少し背が高く、すんなりして。
妻の父の愛人だったのを無理に譲り受けた。代わりに縁遠い一人娘を娶るのが条件だった」
「え、そうだったのでございますか」
「本当はあの女を妻にしたかったが、岳父に申し訳が立たなくてね」
「……どうしてあたくしにそんなお話をなさるのですか」

私はウリャーナの手を取り、甲に口づけする。
「あ……あ、あの」
「私は背が高めで、すんなりした婦人が好みなのだよ。言っている意味がわかるね」
「え……あたくしの体型が……」
私は小間使いの服の白い前掛けの上から、左の乳房にてのひらを当てる。軽くだが。ああ、薄い乳房の乳首が尖っている。こんな程度で。たやすすぎる。
私はウリャーナの胸から手を離し、うつむいた。「午後にまた、紅茶を持ってきてくれ」
「はい……」
「手巾を持って行きなさい」
「はい、領主様」
ウリャーナは手巾を受け取る。銀の盆を抱え、書斎を出ていった。

ウリャーナはわかりやすい。
イヴァンカはどうだろう? というより、イヴァンカ本人に、どこに行けば会えるのかよくわからない。
一応、小間使いの名簿を見る。ウリャーナもイヴァンカも十七歳だ。小間使いの中でもっとも若く、同年代の娘はあと二人ほどだ。
小柄で、栗色の髪で目をすがめている小間使い……。
朝、そういう女は見当たらなかった。遅番なのかもしれない。

私は書斎を出て、台所に行く。オクサーナに話をした。リザヴェタが蕎麦の実の挽き割りを牛乳で煮たカーシャを食べたという話を聞き、ほっとする。
「ところでオクサーナ、何か噂を聞いたかい?」
「料理女だった『あの方』が、オルガ様にそっくりだという噂を聞きましたわ」
「ずいぶん早いな」
「嘘なんですの?」
「うん。別に似ていない。今、試しに噂を流している。リザヴェタには聞かせないようにしてくれ。失礼なことも流すから」
「ああ、そうなんですの……良かった。いえ、あと、もっとひどい噂も聞きましたから。貴男様が『あの方』にご執心なさって、もともとの持ち主であったリザヴェタ様のお父上から買い取った。その代わり、しかたなくリザヴェタ様を奥様にしたとも」
「ああ、それも私が流した」
ウリャーナはずいぶんお喋りなようだ。
「獰猛公様は何をたくらんでいらっしゃるのかしら……」
「おまえは小間使いのイヴァンカを知っているかい」
「はい。でもほとんど口をきいたこともありませんわ。小間使いたちは料理女や洗濯女、掃除女を軽蔑していますから」
「それはひどい傲慢だ。参ったね。……イヴァンカがどこにいるか知らないか」
「よく食器室でグラスを磨いています」

食器室に行くと、エレナ・ネクルィロヴァがグラスを磨いていた。
「やあ、ネクルィロヴァ」
ネクルィロヴァは四十がらみで、オルガが実家にいたころから、彼女付きの召使いだった。オルガを娘のように可愛がっていた。
「領主様。リザヴェタ奥様はもうよろしいんですの」
「転んだのは大丈夫だ。つわりはひどいがね」
「そうでございますか……お丈夫な方でございますね」
「おまえはリザヴェタが嫌いなんだね」
「……いいえ、衝突はいたしますけれど、正直なところ良い奥様が来られたと思っております。……ただオルガ様がお気の毒なだけです。順当なら、今頃お子様にも恵まれていらしたでしょうに」
「オルガには申し訳ないことをした」
(ついでに私はオルガの兄で近衛の将校を、清国との小競り合いの前線たるネルチンスクに送り込み、まあ色々小細工をした。本当に申し訳ない)
【*『第十四話 十ヶ月後』参照】

「ええ、まったくそうでございますわね!」
ネクルィロヴァはグラスを磨き続ける。
「今でも思い出しますわ。どこぞの夜会から帰っていらして……、オルガ様が青白い頬を赤らめて、まるっきり眠ることもお忘れになり、一晩中お嬢様づきのわたくしにお話を続けるのです。
……素敵な男ひとにお会いしてしまった、あの方こそわたくしの運命の方に違いないと……泣いたり笑ったり憂いに沈んだりしながら」
「ああ」

「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、『あの方』がオルガ様とそっくりだというのは本当ですの?」
「あの方か。うん。髪の色は違うが、かなり似ている。似た女を捜したんだ」
『あの方』はアクリナである。オルガに似ているなど、もちろん嘘だ。
「領主様、あたくしもお目もじいたしとうございます」
もう一人、古参の小間使いが食器棚の裏から飛び出してきた。
確かドロシダといい、二十歳をとうにすぎている。この女もオルガと一緒に来たはずだ。
ナプキンを揃え、食卓の準備をしようとしている。
「そうか……どうしようか。あの人は人見知りをするんだ」
「いえ、オルガ様に似ておられるのならば、遠くから拝するだけで構いません」

ああ、エレナ・ネクルィロヴァもドロシダも、ほんとうにオルガが好きだったのだなと思う。私自身のオルガの記憶ははるか彼方に霞んでいる。
「ちょっと待っていてくれ。雪がやんでいたら、案内させよう。
ただ、会えるかどうかわからんよ。森の中を歩き回ったりしているかもしれない」
私は居間に出て、窓の外を見た。雪はやんでいた。
この女たちとて馬鹿ではない。
いかに自分たちがオルガを愛していても、彼女はもうおらず、私がЯ家の当主であるかぎり、できれば再び結婚したほうが良いことくらいはわかるはずだ。いくらリザヴェタが気にくわなくても。

テレージンを呼んで、私は二頭立ての橇を出すように言いつけた。
ついでに策略も。
ネクルィロヴァとドロシダを橇に乗せる。
「そっくりのお方を拝見できるなんて……ああ、領主様、ありがとうございます!」
ネクルィロヴァの満面の笑みなど見たことがあっただろうか。可愛らしいくらいだ!
「ああ、いや……オルガのことはほんとうにすまなかった。
ネクルィロヴァ、いや、エレナ、ドロシダ。ついでに、テレージンの家で紅茶でもいただいてきなさい」
テレージンの家は領地内にある。小さな庭もあり、なかなかこざっぱりとした良い家だ。
「はい、領主様」
テレージンが橇を出す。

さて、これからが忙しい。
私は主寝室にいく。リザヴェタは寝台で丸まっている。
「あ……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。すみません、昼間から寝ていて……」
「リザヴェタ、リーザ、寝ていてください」
私は寝台に近づき、頬にキスする。「具合はどうですか?」
「はい、……食欲はありませんけれど、調子はずいぶん良くなりました。オクサーナが気を配ってくれますし……明日には動けますわ」
「駄目です。貴女はこれから少なくとも一週間、仕事をしてはいけません」
「でも……」
「ああ……たまには夫として妻に命令しますよ。リザヴェタ、貴女は明日から一週間、家事をしてはなりません。昼間から寝台でうたた寝したり、本を読んだりしていなさい」
「……はい、旦那様……」

リザヴェタは、私の手に触れる。
「あの。口づけしてくださいませ……」
「貴女からそんなことをおっしゃるとは珍しいですね」
私はリザヴェタに口づけする。舌でやさしく口のなかを舐める。リザヴェタの舌が私に応えた。
私はリザヴェタに言う。「少し、嫌な噂を流します。もし耳に入ってきても、私の悪巧みだと思ってください」
「わかりましたわ。ほんとうにそういうことがお得意ですわね」
私は腹を撫で、そして心なしか大きくなった乳房に触れる。
「乳が出るようになったら、私にも飲ませてください……」
「ああ、貴男という方は……もう」
リザヴェタは私の頬を軽く叩いた。

書斎に戻る。私は長椅子に座り、懐中時計を見る。三時だ。
果たしてノックの音がした。
「お入り」
「失礼いたします」
ウリャーナが銀の盆に入った紅茶を持ってきた。今度はコケモモのジャムといっしょだ。
ウリャーナは緊張しているようだ。「紅茶は卓の上に」
「は、はい領主様」
私は立ち上がり、書斎の錠をおろす。
「あ……」驚いたウリャーナの、小さな声がする。
振り向いてウリャーナを見た。十七、八……、肌は粉を吹いたようだ。
目が合うとびくりとする。私に色目を使っていたくせに、いざとなると怖くもあるらしい。
「ウリャーナ、長椅子に掛けなさい」
「は……はい」
私が隣に座ると、ウリャーナはますます堅くなっている。
「……領主様、どういうことでしょう……。錠をおろすなんて」
「ああ」
私はウリャーナの濃い金髪のお下げを手に取った。ゆっくりほどいていく。
「領主様、あたくしはそんな軽薄な娘ではありません……」

「午後はコケモモのジャムなのだね」
「はい。……え、あ。や……えええ……?」
私は匙でジャムを取り、ウリャーナの頬に塗っていた。
ジャムはたっぷり漆器の皿に盛られている。もうひと塗りした。ジャムが垂れ落ちそうなところを、舐める。
「領主様……こ、こんなの……こんなのってありません」
「震えているね」
私はウリャーナの肩に手を回した。
「こ、怖いです……それにあたくしは、ふ、ふしだらな娘では」
「ふしだらな娘だろう? 紅茶を運んでくるたびに思わせぶりに私を見ていた」
私はそのまま、まぶたを舐め、耳を舐める。
「金が目当てかい?」私は耳元で囁く。
「と、とんでもない……あ、あたくしは……領主様のことを……」
「私を何だって? はっきり言いなさい」
「……こんな方がおいでなんて……あ、憧れておりました」
……さて、このまま続きをやっても悪くない気分になってきた。
「いつもおまえが紅茶を持ってくるね。朋輩は私が嫌いなのかい」
「いえ……あ、あたくしが一番領主様のお好みではないかと……だから皆、譲ってくれます……」
「ふん、朋輩たちに応援されているのか? 君の意思ではないのか……。がっかりしたよ」
「いいえ、いいえ、あたくしの意思です。あたくしが領主様をお慕いしていることは皆知っています。だから紅茶係を譲ってくれるのですわ」
「嬉しいね」

私は漆器の匙にたっぷりジャムを取る。ウリャーナの唇の直前に差しだす。
「舌を出して舐めてごらん。うちの自家製ジャムは美味いよ」
「あ……領主様……はい」
細い両脚を持ち上げて、私の太腿の上に乗せた。
ウリャーナは舌を突き出した。伸ばした舌に匙のジャムを絡みつかせ、口の中に舐めとる。舌が震えていた。アクリナが見たらどれほど『やきもち』を焼くだろうか?
「ウリャーナ、ジャムを舐めながら聞いてくれ」
「は、はい領主様……」
「なかなか可愛い姿だ」
「あ……ああ。こんな……」
「ウリャンカ、おまえはジャムを舐めているだけだろう? 身持ちの悪い子はあまり好きではないな」
「み、身持ちが悪いなんて……た、ただ領主様、貴男様なら……何でも差し上げます」
「軽々しくそういうことを言ってはいけないよ。私がどんな酷い男か知らないだろうに」

私はジャムをウリャーナの唇に塗りつける。ジャムで艶やかな桃色になった薄い唇から、ジャムを舐めとる。
私は呟く。「……このままやってしまおうかな……」
「え? 何ておっしゃいましたの」
左手でお仕着せの上から乳房に触れる。ああ、まったく私の好みではない。おかげで私の女たちを裏切らずに済むのだが……。
「『あの人』も身ごもっていてね……」
「あの人って……あの、領主様が囲って……オルガ様にそっくりだと言う」
「ああ。私はあの人が可愛いから、子供ごと母屋に引き取りたい。この家の主婦になって欲しい。
でも、邪魔な人がいてね……。だけど、もしそうなれば空いた家には、ウリャーナ、わかるね?」
「え……あの、あたくしを?」
私は服の上からウリャーナの軽い胸を撫で続ける。乳首が尖りきっている。摘んで転がす。
「あ……ひっ……や、やああ……りょ、領主様あ……」
「服を撫でているだけなのに、ずいぶん大げさな……芝居かい?」
「芝居だなんて……」
私は反対側の乳首も摘まみ揺らす。
「……あ……い、……もっと……」

私は懐中時計を見る。「三時半か……。ウリャーナ、私は出かけなければならない。また後で来られるか?」
「え……い、いやあ、こんな状態で……あ、あたくしを焦らすのですか……ああ領主様……ほ、欲しいです。領主様が……」
「まだ一緒にジャムを舐めただけだろう? 八時にここに。来たくなければ来なくて良い」
「参ります……」
私はすっかり冷めた紅茶を飲み干した。ウリャーナの手を引いて起き上がらせる。
「居間に行く前に、どこかで顔を洗いなさい。髪も直して」
「はい……」
ウリャーナは「失礼いたします」と一礼し、茶器の乗った盆を持って書斎を出た。
ふわふわと雲の上でも歩いているようだった。

リザヴェタに私が帰るまで、誰が来ても絶対に出るなといい残し、主寝室に鍵を掛けた。
居間から待合間まで行く。すれ違った小間使いに言う。
「出かけてくる」
「はい、領主様。行ってらっしゃいませ」
小間使いが頭を下げた。小柄で栗色の髪だ。すっと去る。
あんな調子ですっと去られては、リザヴェタも叱りつける暇もあるまい。

ヒローシャとは別の馬丁に辻馬車を呼んでこさせた。ヒローシャは一番良い服を着ていた。がちがちに緊張している。
「色男だな」
「お、おやめください……リザヴェタ奥様のご様子はいかがですか?」
「料理女のオクサーナを知っているか?」
「いいえ」
「子だくさんで親切な女だ。彼女に頼んだら、何くれとなく世話を焼いてくれている。料理女だから、食べられるものをさっと作ってくれる」
「ああ、……それは良かった。安心いたしました」
安心したのかもしれないが、緊張はそのままだ。
馬車は市街の中心部まで行く。
馭者に言いつけた。「一本裏通りだ」

辻馬車が止まった。凝った作りだが、一見、ただの住宅である。ただし、厩舎は大きい。また路傍には、馬車に座って主人の帰りを待つ馭者がいる。庭はよく手入れされ、温室には熱帯植物がある。
私の階級の者しか行けない店だ。
一番、胸と腰の豊かな女をつけさせる。優しそうな女だった。
ヒローシャが異民族でも、……実際はどう思っているにせよ……、どこぞの貴公子を相手にするのと同じ態度である。
ヒローシャは青ざめていたが何か覚悟を決めているらしい。女の手を引いて、個室のある二階に消える。

私は金を支払っておく。
内部にはシャンデリアがある。シベリヤの『後家さん通り』の店とはたいそうな違いだ。
娼館のマダムは、十五年前、初めて来たときは現役だった。
そのときとあまり変わらなく見える。黒いレースのヴェールをかぶり、硬く結った髷とともに鼈甲のスペイン櫛で留めている。
処女の生き血でもすすっているのでは無いかと思うくらい若く見えた。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、貴男様は?」
「いい。すぐ帰らないとまずいのでね」
「せっかくお久しぶりですのに。お宅の小間使いなんかに手をつけるより、こちらのほうが罪がないですわよ」
「まったくそうだね……。新しく来たご婦人たちも皆それぞれに美しいね」
「今日は休みですが、イタリヤの子も来ましたの」
ああ、確かにラテンの女たちはコケティッシュだ。食後の菓子のような魅惑がある。

「マダム、相談がある。あのご婦人たちのうち、一人貸してくれないか。本来の仕事はさせない。遅くとも朝までには無事に送り届ける」
「まあ……。本来の仕事をさせないって本当ですの?」
「少ししてもらうかもしれないが、罪のない程度だ。うちに来てもらって、紅茶と菓子でもてなすだけだよ。一人選ばせてくれ」
「まあ、お宅にでございますか! ご結婚なさったのではなかったの?」
マダムの心中では、恐らく私はもうすでに結婚の危機を迎えたことになったのかもしれない。まあ口は堅い。誰だか知らないが彼女のパトロンには筒抜けなのかもしれないが。

「ご婦人たち、予約などが入っていない子は並んでもらえるかな」
女たちはきゃあきゃあ言いながら楽しげに並ぶ。
まったく色とりどりだ。花をたくさんつけたロマンティックドレスの女、皇帝様式のドレスの女、デコルテが大きく開いた赤いドレスの女、女は七人いる。私は一番背が高くすんなりと細い女を選んだ。
「名前は?」
「ダフネーですわ」
偽名だろう。
ダフネーはほんとうに長身だった。リザヴェタやアクリナよりもかなり高く、中背の男である私……ほぼ1基準サージェン【* 約176.4cm。古くからの単位で、平均身長を元にしている】……ともさして変わらない。
ドレスは白く、軟らかい布で襞を取った皇帝様式で流れるようだった。白鳥のように優美だ。髪は黒い。ちょうど良い、オルガと同じ色だ。
こういう体型の女は皇帝様式のドレスが似合うと思う。私はダフネーの手を取った。
「ではダフネー。我が家でもてなしを受けていただけますか?」
「喜んで、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ」

ダフネーを連れて家に戻った。「ちょっと懲らしめたい子がいてね。君に協力してもらいたいんだよ」
「まあ、面白そうですわね」
久々に見る玄人の女は信じられないほど美しい。
今のЯ家の母屋には、私もテレージンもいない。
女中頭のネクルィロヴァも、古参の小間使いのドロシダもいない。……テレージンには夜九時まで帰って来ないように伝えてある。
リザヴェタは閉じこもっている。洗濯女と掃除女たちは仕事を終え、帰った。
つまり、今、母屋では、台所以外、秩序を保つ側の人間は誰もいない。厩舎で見ているヒローシャもいない。
噂は広がりまくっているだろう。

私はダフネーに腕を貸し、中にはいる。
「もし誰かに名前を訊かれたら、……そうだな、フョークラと答えてくれたまえ」
「わかりましたわ」
玄関番の少年がぼうっとダフネーに見とれている。まったく蘭の花のようであった。私とダフネーは階段にさしかかる。
「むさ苦しいけれど、とりあえず書斎にご案内するよ」
「はい」
そのときだった。
ダフネーの足が滑り、転びそうになった。幸い腕を組んでいたので、支えることができた。
「ダフ、……フョークラ、ちょっと待ってくれ」
私は木製の段を見る。新たに蝋が塗られていた。

「君、この方にお茶と菓子を。一番良いものを」
私はそのあたりにいた小間使いに言う。「は、はい」
書斎に入ってダフネーと長椅子に腰掛ける。
「何を企んでいらっしゃるんですの?」
「いや、器量自慢の娘に、本当に美しい方というのを見せてやりたくてね」
「わたくしは玄人ですもの。美しいのが仕事です。素人の方と比べてはお気の毒ですわ」
「いや、まったくそのとおりだね。
ところで今はどんな服が流行っている? 仕立屋は?
貴女のような体型の婦人に贈るならどんなのがいいかな……背はもう少し低いのだが。色が白くて、黒が似合う婦人だ」
「ボンネットが流行っておりますけれど、あれは豊かな体型の方のほうがお似合いではないかしら。
むしろ、裾に大きく模様を入れたほうが……」
そんな他愛もない話をしばらく続けた。
懐中時計を見ると八時少し前だ。
「少々芝居を頼みたい。ノックの音がしたら……」

ノックの音がした。ワゴンに乗せて紅茶とケーキが運ばれてくる。
入ってきたのはウリャーナだ。
ノックの音とともに、頼んだとおり、ダフネーが接吻してくる。なるべく官能的に見えるように、という望みにも答えてくれた。
扉が開いた。「領主様……」
ウリャーナがダフネーを見たとたんに凍りつく気配がする。
「あ、あの……紅茶と自家製のプリャーニク【*香辛料などを加えた焼き菓子】でございます」
「ああ、ありがとう」
私はダフネーから顔を離し、小間使いを見もせず言った。ダフネーはそのまま私の首筋まで接吻をつづける。(このまま押し倒したらまずい……)

ウリャーナがワゴンから銀の盆を取る。指先が震えている。「痛っ」と小さく叫んだ。
一人分のプリャーニクと紅茶の載った盆をガシャンと落とした。
「ああ、……申し訳ございません」
片付けようとしゃがみ込み、間違えてプリャーニクを踏んだ。
「まあ……」
ダフネーが呆れたように言った。
「すみません、フョークラ、躾がなっていなくて。後ろのイヴァンカ、片付けを手伝ってくれ」
扉の裏にイヴァンカがいる。
すたすたと出てくる。足が早い。小柄で栗色の髪の娘だ。
イヴァンカは目をすがめてウリャーナを見下ろしている。焦って背を丸め、皿の破片を拾い集めるウリャーナを、小馬鹿にするようだった。

「ウリャーナ、こちらのフョークラをようやく口説き落とせたから……君のさっきの話はなしだ」
「え、ええ……」
フョークラことダフネーがいう。「さっきのお話というのは何ですの?」
「いや、絹の手巾をあげたら、もっと欲しいと言うからね」
「欲張っては駄目ですわ」
イヴァンカが笑いだした。
「ウリャーナ、嘘だったじゃない! あんたなんかを領主様が相手になさるわけがないわ!」
「ウリャーナ、イヴァンカ、お客様のまえで何だね。おまえたちはずいぶん行儀が悪い」
私は立ち上がり、本来私のぶんであった菓子と紅茶を取ろうとした。
銀の盆ごと掴んで、触り心地が妙なことに気づく。
とにかく、菓子と紅茶の皿をダフネーの前に置いた。
「フョークラ、私のぶんの紅茶とプリャーニクを召し上がっていてください。ちょっとこの二人を叱ってきます」
「ええ。お待ちしております」

私は銀の盆を脇に抱え、二人の手首を掴んで、応接間に連れて行く。
「昨日は誰が階段に蝋を塗ったのだろうね。また新しく塗ってあったな。さっきの美しい方が転びそうになった」
イヴァンカが言った。
「あら、領主様はご自分のものだとさんざん自慢した方がいましたわ。
その方がリザヴェタ奥様を狙っておやりになったのではないのかしら」
ウリャーナは泣きそうになりながら言う。
「違うわよ! きっとネクルィロヴァさんよ。いつもリザヴェタ奥様でなく、オルガ様がいればとおっしゃってたから」

……ネクルィロヴァが『オルガ奥様がいればいいのに』と言ったから、この娘たちは、リザヴェタ奥様を虐めても良いと思った。
そうしてだんだん遊びが拡大していったのではなかろうか。

私は少女たちに言う。
「エレナ・ネクルィロヴァは今、テレージンのところに遊びに行っている。ドロシダもね。九時ごろ帰ってくると言っていた。
蝋は塗れないよ。……君たちは仲良しではなかったのかね」
「な……仲良しですわ」ウリャーナが言った。
「そのわりに非道なことをするね」
銀の盆の裏に、鋲がいくつも貼ってある。鋲は垂らした蝋で留められていた。
「イヴァンカがやったのかい」
イヴァンカは素直に答えた。「はい」
「八時に私に呼ばれたとウリャーナが自慢したんだね」
「ええ。腹が立ちました。
いつもいつも、領主様はすんなりした女がお好きだとさんざん自慢して、あたくしを見下していました。
もともと、リザヴェタ奥様を嫌な目に遭わせたかったのです。
あたくしたちが何を言っても、偉そうに軽蔑したように黙っているのが腹立たしいのですわ。
だから、領主様が他の女にお手をおつけになればいいのにと皆で話しました。
それならば、領主様に女をけしかければいいのだと。
……それで、すんなりした体型の女がお好きだと聞いたので、いつもウリャーナが紅茶を持って行くことになったのです」

「おまえたちは私がそれほど単純だと思っているのか。呆れるね。
……それでいつも同じ娘が紅茶を持ってきたのだね。皆というのは?」
「あたくしとウリャーナとマリヤとダリヤです」
小間使いの中でも若い……子供ばかりだ。
「ふむ。イヴァンカ、蝋の扱いがうまいね」
「蝋燭を配る担当です」
「なるほど。ところで、リザヴェタ奥様への攻撃は、Я家自体への攻撃と見做す。
身籠もっていればなおさらだ。
下手したら何が起きていたか、ぐらいはわかるね。
イヴァンカ、売られるのと結婚させられるのとどちらが良い」
「結婚相手は誰ですか」
「うちの農奴のニキータ・ザレスキイ。まあ彼にも選ぶ権利はあるがね。ザレスキイは悪い男ではない。労働はきついが」
「売られる先はどちらですか」
「場末の娼館かシベリヤ」
「それならば結婚いたします」

「ウリャーナ、君は洗濯女に配置換えだ。洗濯女頭のカリンスカヤは厳しいから、鍛えてもらえ」
「い……いやです、領主様。洗濯女なんて」
「別に紅茶を運んでくるのなんて君じゃなくて良い。だいたい、私が自分で運べる」
「あ、あんなに可愛がってくださったじゃないですか……すんなりした女がお好きだって……」
「可愛がった? ジャムを舐めさせただけだ。
……まあ、服の上から胸に触れたが……いや、ああ、すんなりした女が好きという噂は誰が広めた?
私が最初に見るのは乳房の形だ。リザヴェタみたいな……」
「え……」

イヴァンカがクスクス笑った。
これから自分がどんな目に遭うかもわからず、恐らくあまり面白くない状況に向かうと知っているのに、たいしたものだ。


アイキャッチ画像
“Landscape with a Rainbow”
Painted by
Alexei Savrasov (1830–1897) [PublicDomain]