第46話 秘密の妻たち 3 夏至の魔女

少しシリアスに、引退したあとの望みを語る領主様。
いっぽう、夏至の前夜には魔力が高まるといわれています。
夏至は過ぎましたが、深夜の領主館に叫び声が響き渡り、アクリナが消えてしまいました。 マドモワゼルによると、本物の奥方は『魔性のもの』だとのこと。
領主様は必死でアクリナを探しに行きます。

夕方から深夜、6月24日〜25日,1835年

正面玄関からティリン家に戻る。窓が少ないから、せっかくの夏至なのにほとんど日が入らず薄暗い。
窓はあったのだろうが、棟を建てましして潰さざるを得なかったのだろう。
大理石の階段を登る。待合間は長椅子や卓が置かれただけの四角い部屋だが、妙な雰囲気だ。階段をのぞき、壁三面が扉だらけなのだ。十だか十一だかある棟に繋がっているのだろう。奥のひときわ大きな、観音開きの扉だけが開いている。
私は開いている扉をくぐり、客間らしい部屋に入った。

ここも皇帝様式だ。ティリンはこの地の皇帝も同然だからそれが良いのかもしれない。
大きな円卓を、曲げ木の優雅な椅子が何脚も取り囲んでいる。
ティリンのマドモワゼルたちの色とりどりのドレスに混じって、黒いドレスのすんなりした背中が見えた。他の婦人たちの背中より、何故かとりわけ美しい。いったい何故なのであろう。背骨の骨と隙間の微妙な比率や肩甲骨の高さや形が人類にとって黄金律とでもいうべき美しさで作られているのだろうか……。
それともただの私の贔屓目……?

皆のまえには黄色い紙が広がり、鉛筆が転がっている。
が、紙には何も書かれていない。マドモワゼルはそれぞれ黙って、つんとすまして茶を飲んだり、刺繍をしたりしていた。
アクリナが途方に暮れたように私を見た。アクリナの紙には、アガーフィヤだのクセニアだのといった、農民に多い女の名前が並んでいる。アクリナの字だ。セルゲイ・ティリン殿の名もある。
どうも、ティリンのマドモワゼルたちは自分の名前を書いてみようという気にならなかったらしい。

「スモレンスクの領主様」
マドモワゼルたちのひとりが言った。少し年嵩の、薄紫のドレスの女だ。
皆似た顔だが、この婦人ひとりは髪が黒い。慣れるまでは髪の色とドレスの色で区別をつけるしかない……。彼女の声は、わずかに険しい。
「ほんとうに貴賤結婚をなさったのですか」
喧嘩をしたというわけでもなさそうだが、丸くて愛らしい顔だちの女たちは、何か複雑な表情をしている。
アクリナはうなだれ、困ったように言った。
「……はい。領主様……エヴゲーニイ・パヴロヴィチは農奴のあたしと結婚してくださったのですわ」
つまりたぶん……アクリナは私の妻である(三日間だけ)、だから貴族の出だと思われ、ついアクリナは自分は皆さんと同じように農奴だと言い、だが、三日間は『私と夫婦だと言う』という約束をしつこくしたから、私に背くこともできず、あげく、ほんとうに貴族の旦那様と農奴のアクリナが貴賤結婚をしたのかどうか尋ねられて困っている……あたりだろうか。
貴族の令嬢のふりもできまいし、アクリナなら困り果てるしかなかろう。

「貴賤結婚? ああ。しましたよ。アクリナ・ニコラエヴナは私の妻です。通行許可証をご覧に入れましょうか」
マドモワゼルたちがざわめいた。
マドモワゼルのひとりが言う。「では、アクリナ様は農奴だったのに、ほんとうにこんなに上手な文字を書けるようになったのですか?」
全然上手ではない。

私は将来、アクリナを黒海につれていったときのことを考えた。
居心地の良い小さな家を買って二人で住むのだ。……。信用できる小間使いと従僕をひとりずつ雇って、庭にキノコ小屋を建てる。
時々、領地に連絡をして馬鹿息子のステンカの相談に乗ってやる。
リザヴェタには申し訳ないが、ヒローシャがついているし、彼女はいつまでも領主夫人として領地に君臨する。そんなことをしている間に、イヴァンが後継者として独り立ちするだろう。
……私の両親は長寿とは言えなかった。父は四十八、母は三十二で亡くなった。私は父にたいそう似ている。体質も似て、自分の寿命もそのくらいではないかと怖れている。あと十年だ。
もちろん違うかも知れない。祖父は七十まで生きた。母の命が短かったのは、父の暴虐で心を痛めすぎたせいだ。
違えば幸運だ。最期くらいは領主ではない『ただの私』として、アクリナと黒海に行かせてくれ。

……黒海で釣りと読書と農学関連の執筆、キノコ栽培といった、そんな生活をし、社交などほとんどしないつもりだが、現地で、アクリナが貴族の奥方のなかに混じる事態が起きないとも限らない。そうしたら、さらに辛い目に遭わせてしまうかも知れない。
昨日聞いた、前領主と女農奴のあいだに生まれたアルテム・スィムチコ先生が苦労した話が浮かんだ。

「スモレンスクの領主様」
マドモワゼルたちが、丸いあどけない顔で、私を泣きそうに見ていた。マドモワゼルたちは二十代から四十代までいそうだが、先ほど苺を摘んでいた娘たちとたいして変わらなく見える。
「スモレンスクの領主様……ほんとうに?」
「ええ。そうです」
私は下男に椅子をもってこさせて、客間の円卓の、アクリナの隣に座った。サモワールが中央に置かれている。隣に座っていたマドモワゼルが素早く紅茶をいれてくれる。
私は卓の下でアクリナの手を握った。
「マドモワゼルの皆さん。いったいどうしたのです? 私の妻が何かしましたか」

「貴族の令嬢なのに、あたしたちに合わせてくださって、農奴だと言ってくださっているのだとばかり……それで、哀れまれるのなんか嫌で、文字も書きたくなかったから。ろくに話しかけもしなかったんです。
まさか本当だなんて。悪いことをしました」
マドモワゼルのひとりが言った。さきほどの年嵩の、黒い髪で薄紫のドレスの女だ。確かプラスコヴィヤだ。マドモワゼルたちを率いる役なのだろう。
「令嬢ではありませんが、私には大事な人です」
「お子様は? 後継ぎは」
「前の妻の子が二人います(リザヴェタ、ただの方便だ)」
「前の奥様はどうなさったのです」
「ああ……、若い男と恋に落ちました。今はリャザンというところで、領主夫人として思うさま腕を振るっているようです」
言いたい放題に嘘をついているが、知ったことではない。ティリン殿との交際が続いてリザヴェタを紹介する日が来るかも知れないが、このマドモワゼルたちとは関係ないだろう。

「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……あの、」
アクリナがリザヴェタ奥様への罪悪感に駆られている。
「この方たちは悪くないのですわ。なんだかギクシャクしてしまっただけです。……あたしが上手く喋れないから」
「違います。あたしは貴女が羨ましかったの。それに文字を覚えるのなんて嫌でした。アクリナ・ニコラエヴナ、ごめんなさい」
プラスコヴィヤがほんとうに申し訳なさそうに謝った。確かに優しい女なのだろう。
「謝らないでください。プラスコヴィヤさん」
アクリナが慌てて答える。
薄桃色のドレスの若い女が言う。濃いめの金髪で、確かクセニアだ。丸い顔の優しい女たちもだんだん個性が見えてくる。クセニアは少々、このなかでは気が強そうだ。
「アクリナ様は上品だし字も書けるし、難しいことをご存じだってセルゲイ様がおっしゃっていたし。絶対に貴族だと思ったんですもの。
でも、農奴出身なのに、こんな立派な貴族の旦那様がほんとうに結婚してくださるなんて……人ごとながら夢みたい」

女たちがいっせいにしゃべりだした。情夫に似て声が大きく、かまびすしいことこの上ない。こうなると、農奴のおかみさんたちが井戸端で赤蕪なんぞを洗いながら、お喋りしているのと変わりない。
「でもセルゲイ様が一番だわ」
「こちらの旦那様は美男子ですけど、やっぱり殿方は逞しくないとねえ」
「畑を上手に耕せない殿方なんて、娘っ子みたいだわね」
「セルゲイ様よりずいぶん痩せておられるし、お力もなさそう。お若いのに」
(何故いきなり品定めをされているのだ。うるさい。ふつうの力はある。ティリン殿が異常なだけだ)

「あ、あの……。エヴゲーニイ・パヴロヴィチは世界一素敵で、神聖で、難しいことをたくさんご存知で……厳しくて、お考えが深くて……」
アクリナの言葉は誰も聞いていない。

「あら、でもセルゲイ様、夜は前よりお弱くなったわ」
「だって早口で何を決めるのもお早くて、あれもお早いのがあたしたちの領主様ですもの」
ああ、下品な話をしてどっと笑っている。……早いのか……少し勝ったかもしれない。しかし、早いと言うことは五十八歳で十一人相手に現役か……。

……農奴出身とはいっても、アクリナはこういう話にも入れないのだった。
アクリナは不思議そうにじっと私の手を握っている。マドモワゼルたちに聞く。「あの、早いというのは……?」
「アクリーヌ、そういうことは尋ねなくてよろしい。ああ、ええと。マドモワゼルの皆さん、セルゲイ殿の本物の奥方はどなたなのですか?」
いままで笑いさざめいていた彼女らが静まりかえった。このなかにはいないようだ。間違いなく奥方のほうが身分は上だし、家のなかの立場も上なのだ。答えられないのかも知れない。
「失礼。余計なことをお伺いしました。晩餐のときにご紹介いただけるでしょう」
「いえ。スモレンスクの領主様。たぶん奥方様は出ておいでになりませんわ」
濃い金髪で薄桃色のドレスのクセニアが言った。「あたしたちは汚らわしいんだそうです」
「お客様にそんな、うちのなかのことを言っては駄目よ」
「でも、プラスコヴィヤ。構わないんじゃない? この旦那様は農奴のアクリナさんと結婚するような珍しい方なのよ!」
ほかの女が言う。
「さあ、子供たちを呼んできて晩餐の準備をしましょう。ご馳走にするんだから! ふん。奥方様にはぜったいに作れないわ」
ティリンが十人もの女たちをただ遊ばせておくのはおかしいと思っていた。彼女たちは母親で乳母で料理女を兼ねているようであった。

—-

初めてアクリナと蒸し風呂に入った。我が国では白樺の枝で肌を打って発汗を促す。……興奮した。
晩餐会のまえに、まず二十五人の子供たちが出てきて、頌歌を歌って歓迎してくれた。もちろん子供たちは全員ティリンの子女だ。もう驚かない。
晩餐が始まると、ティリンが大いに語り、マドモワゼルが笑いさざめいた。デザートは名物のプリャーニクで、ふつうに終わった。私たちはなごやかに部屋に引き取った。
ティリンの正式の奥方はやはり出てこなかった。

アクリナと他の方の館に泊まるのなど初めてだ。
だいたい、我が領主館すらほとんど見せたことがない。隣家の反乱のときの一時避難といった緊急の場合だけで、半日以上いたことはない。
リザヴェタとの約束でやむを得ないのだが、一度くらい私が育った館をじっくり見せてみたかった。

「貴男様の領主館もやはりこんなに豪華なのですか? 聖ヴァシリー大聖堂みたいです……」
客用寝室の広い部屋を見回し、圧倒されたようにアクリナは私に聞く。
「この棟は新しいね。私の領主館はこんなに棟などないし、新築もしていないから、もっと古い。天井の高さは同じくらいかな」
天井は高い。いくらなんでも我が国を代表する建築たる聖ヴァシリー大聖堂とはいかないが、皇帝様式でやたらに豪華に見える。輸入品らしい壁紙が部屋中に貼ってあった。白と金色の縦の縞でまばゆいことこの上ない。
金色のものがやたらにある。暖炉の端の彫刻だとか、長椅子の脚だとか。かなり良い客室を提供してくれたのであろう。
アクリナは化粧台の使い方がよくわからないらしく、『鏡を見ながら手紙を書くのですか?』と訊いた。
森の家に、化粧台を作ってやるのを忘れていた。八年経ってから気づいた……。
(『やっぱり殿方は駄目ですわね!』とリザヴェタなら言いそうだ)

「……ティリン様の本物の奥方様はやはりお出になりづらいのでしょうか。あんなに、マドモワゼルがいらっしゃれば当然でしょうか」
「そうだろうが、じつは複雑な事情がおありなのかもしれない。ご病気かもしれないし、もしかしたら、単におまえみたいに内気なだけかもしれない。
表面に現れていることだけで決めつけては駄目だ」
「はい。……おっしゃるとおりです。ほんとうは、ティリン様はフォマみたいなお好みで、奥様は山羊がドレスを着た方かもしれませんし……」
……そういう可能性も皆無ではなかろうが……アクリナの思考はいきなり飛躍する。

私は寝台に腰かけ、アクリナを見た。私から数サージェン離れた部屋の入り口あたりにいる。まだ晩餐のドレス姿だ。所在なげに、昼間もらった石鹸の匂いを嗅いだり、化粧机の引き出しを開けたり閉めたりしている。
「アクリーヌ。来なさい」
アクリナがびくりと震えた。いまさらなぜ震えるのかわからないが、昨日、鉄の鎖で縛られたことでも思いだしているのだろうか。
私は目の前に立ったアクリナの手を引き、私の膝に座らせる。
「おまえはいつまでもきれいだな」
「あの、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……」
私は皇帝様式の、胸のすぐ下で結ぶ飾り帯を解いた。私の腕と膝に柔らかな黒い絹が広がり、水のように襞が流れる。アクリナの半身に絹が貼りつき、体のかたちが浮かび上がる。
「こんな部屋でおまえを抱きたいが、昨日の今日では無理だ。疲れた」
そう言いながらも、私は彼女の背を支え、乳房にやわらかく触れる。
アクリナは、潤んだ目で私を見あげている。
「ほんとうに黒海に行きますの? あの、貴男様の大切な領地を置いてでございますか……半年か一年くらいではなく?」
「うん。もちろんまったく連絡を絶やすわけではないし、ステパンやイヴァンではわからないことがあれば、たまに戻るが。父上のほうのテレージンも引退したいだろう」
「あの……あたしは貴男様の領地が大好きです……。隅に置いていただけるだけで嬉しいのですわ」
「行きたくないのかね。毎日、いや三日に一度は生牡蠣を食べるのだ」

「そんな理由なのですか!」
「私は若いころあちこちを回って放蕩をしたから……、元々怠け者だし……。領地も落ち着いてきたし、また温かいところに行きたい。異国的なものも好きだ。オデッサの港ならば色々な国の商人が来る」
「あ、あの。放蕩なさるんですの……」
「五年後だぞ。そんな元気はない。おまえだけで十分だ。色々な国の商人が来るといっただろう。おまえにトルコのドレスや清国の絹の服を着せてみたい」

たぶんアクリナは何かかんづいているのだろう。だが言葉にはならないようだ。いや、気づいてもただ黙っているだけなのかも知れない。ぼうっとしているが、心の深い、賢い女だ。
私の首にかじりつく。アクリナの藁色の髪が私の頬をこすり、彼女の目元があたる、鼻のあたりが濡れる。また泣いているらしい。
「黒海に行ったら、貴男様は領主様ではなくなるのですか。あ、あたしを導くのが貴男様の領主としての義務だって……」
「……ああ導く。どこに行ってもおまえにだけは領主だ。……黒海に行くまえに、おまえを解放して『農奴』ではなくす。農奴身分だと移動するのに不自由だ。
だがな、おまえは私の『領地』だからな。つぎは淑女らしくフランス語か、キノコの論文を書けるようにドイツ語か英語を覚えてもらう」
「ええ……?」
「暖かいからブドウなんぞも育てられるかも知れないぞ。葡萄酒をつくるか? 鸚鵡と兎もつれていくし……他にも何か飼いたければ飼おう」

「領地なのですか……あたしが」
アクリナは呆気にとられている。
「ああ。おまえの体の地図は、私の頭とてのひらに刻み込まれている」
ああ、好色な中年男性が言いそうなことだ。
私はアクリナのドレスの後ろの留め金を外す。ドレスを引き下ろし、薄い麻のシュミーズ一枚にする。
接吻する。アクリナの弱い、口の中の天井部分を舐めた。アクリナが私の首にかじりついていた。
「領主様……あ、ありがとうございます……」
「どうして礼など言うのだ」
「だって、まさかシベリヤから……黒海まで連れていってくださる……なんて。思いもしませんでした。とうに飽きてお捨てになっていてもおかしくないのに」
「義務だと言っただろう。私だとて我が国や学問に寄与したい。だから、おまえのキノコの記録を残すのが私の義務だ……それに」
「難しいことをおっしゃっていらして、あたしにはよくわかりません……。それに、何ですの」
昼間、ティリン殿がご婦人たちに自分を朗らかにしてくれるのを求めていると聞き、批判めいたことを考えたが、自分はどうだ。私はアクリナにもっとたくさん求めている。
「……おまえがいないとつまらない」
「つまらないって……貴男様はよく、あたしを見てお笑いになっていらっしゃって……ええ? あ、あの見世物みたいなものですか。そんな……」
「確かに見世物として楽しめるときもあるね」
「ありませんわ……」
「淫らで奇妙な姿が似合う」
何度か接吻をくり返していると、急に悲しいような愛おしさに襲われ、激しい口づけをした。

「私はもう寝る。英語とドイツ語とフランス語、どれをやりたいか考えておきなさい。私が丁寧に教えるからね」
「ど、どれもいやです……」
「我がアクリーヌは『導かれたい』と言いながら、自助努力もしないと……」
「違います、違います。ああ……。ドイツ語? フランス語……? あたしは『飯炊き婆さん』のアクルカだったのに……」
「『マドモワゼル』がわかったではないか。おまえは黒海一の貴婦人になるか、世界的なキノコ栽培学者になるか、どちらか選べ」
「どちらも無理です……」
シュミーズ姿にしたアクリナを寝台に寝かせ、立ち上がる。
鏡も見ずにクラバットを解いていると、アクリナが上掛けに半ば隠れながら、涙に濡れた目でじっとこちらを眺めているのに気づいた。彼女は私のこの動作が好きらしい。
淫らなアクリーヌシュカはこの動作のあとに私が彼女にすることが好きなのだろう。だが今日は、そんな元気はない。

—-

深夜に遠くで音がした。
一瞬私は、どこで誰と寝ているかわからなくなる。領主館の主寝室でオルガと、それとも南欧の娼館の名も知らぬ女とだろうか。鉛の白粉で荒れた肌を抱いていると故国を思いだした。娼館のある建物では、イタリア語の怒鳴り合いが遠くから聞こえてきた。

暖炉の上に、小さなランタンが置いてあり、そこだけぼうっと光っている。灯りは金色のピョートル大帝の像に反射していた。
私は二十五歳ではなく、若さも失い疲れきっているが、代わりにもっと大切な女たちを手に入れた……ここは、私の婦人の才気のおかげで知り合えた、我が国の同じ階級のまっとうな人物の館だ。根無し草の生活から、もう、完全に無くしたと思っていた立場に戻れるとは……。

トゥーラ県のティリン家の領主館だと思いだす。
急に目が覚めた。隣に寝ているはずのアクリナがいない。浴室にでもいるのならば、ランタンを持って行くだろう。
再び遠くで高い音や、物がぶつかる音がする。女たちの争う声も混じっているように聞こえる。私は裸体で寝台から這いだし、借りたローブを引っ掛ける。

ローブに長靴、手にはランタンという姿で部屋を出た。棟の廊下を歩き、扉を開けるとほかの棟につながる扉が開き、マドモワゼルが二人出てきた。濃い金髪で二十代のクセニアと黒髪で年嵩のプラスコヴィヤだ。
「スモレンスクの領主様!」
ふたりとも農奴出身だからか、私や自分たちがローブ姿だろうと別に気にしないようだ。
「アクリナを知りませんか? それにあの声は……悪魔憑き女クリクーシャ?【* おそらくストレスによる神経症?】」
女の太い叫び声がする。
「悪魔憑き女ではありません。奥方様です」
「奥方様が悪魔憑き女なんですか。アクリナは」
プラスコヴィヤが叫んだ。
「夏至の前後だから、魔性のものの力が激しくなるんです!」

「アクリナは奥方様のところなのですか」
「奥方様は悪魔憑き女ではありません……悪魔そのものと話していますわ」
「悪魔の本を集めているのよ!」
プラスコヴィヤも、少し気の強そうなクセニアもとにかく恐ろしそうであった。
「奥方様が魔性のものだとでも?」
ふたりは黙ってうなずいた。本当に『魔性のもの』がいるとは思えないが、とにかくアクリナがいないのだ。
「奥方様の居場所を教えてください」
ふたりとも震えている。貴族だろうと農奴だろうと我が国のほとんどの者は分厚い迷信のなかに住んでいる。悪魔は熊や狼と同じくらい実際にいるものだと感じられていた。
クセニアが恐慌状態で叫んだ。「ああ、あたしも子供たちも呪われるんだわ!」

「クセニア、プラスコヴィヤ、聖ニコラ様に十字を描いて!」
私が怒鳴ると、ふたりははっとしたように十字を描く動作をした。
急に落ち着いたようだ。
「奥方様はどこにおられるのです」
「まっすぐ、客間と居間の奥に、奥方様の居間が……ありますわ」
「わかりました。貴女方は、なるべくろうそくやランタンに灯りを入れてください」
「はい」
「スモレンスクの領主様、お気をつけて!」

私は客間から居間へと歩いて行った。小さなランタンだけで暗い。子供が二十五人、マドモワゼルが十一人、ほかに召使いがいるはずなのに人気がない。
皆、棟にいて、本館にはいないのか?
女の叫び声だけがする。中年の女だ。ティリンの妻なら、五十前後だろうか。それより、くそ、アクリナはどこだ……。
猟銃もないから、私は棚にあった鉄製のサモワールを取った。さすが鉄工の街だ。

奥の扉を開けると、皇帝様式などでは全くない。部屋のなかは広いが、たいそう古い丸太小屋、そのままである。
早口の大声の怒鳴り声がする。太い男の声だ。「馬鹿げたことはやめるんだ!」
ティリンの声のようだ。
それから、中年から老年にかかった、しわがれた女の声がする。
「やっと魔女を手に入れたんだ。これで薬ができる。売女たちを本性の姿に変えるのさ」
『魔女』というのはアクリナか?
鉄のサモワールを持って、私は部屋に入った。

白くぼんやりした、幽霊のような女が水平に宙に浮いている。薬草の匂いがする。むしろ落ち着いた。これは、アクリナの森の家と同じ匂いだ。
夏至なのにペチカが焚かれていた。調理用の窯ではなく、暖炉の中に鍋が置かれている。
プラスコヴィヤとクセニアが、ランタンを持って入ってきた。

皺だらけの洋服の塊のような老婦人が、暖炉の炎に赤く照らされていた。ヴェルヴェットのドレスは古い。髪の結い方もずいぶん古い、我が母上の肖像画の髪型に似ている。
これがティリンの本物の奥方なのか?  十代で結婚して、それからほとんど外と交際することもなく、昔の服装でいたのであろうか。がっしりして目つきの鋭い、きつい顔だちだ。そして小柄で太り肉じし……ああ、奥方はティリンの好みとまったくかけ離れている。
奥方が金切り声で叫ぶ。奥方のほうもティリンに負けずに地声が大きい。
「魔女の指をよこしなさい!」

私は部屋の奥を見た。白く宙に浮いているのはアクリナのシュミーズだった。すんなりした腕が白く宙に垂れている。ほどいた藁色の髪に暖炉の赤い火が映る。
「魔女の指が必要なの!」
奥方はアクリナの指を切りたがっているのか……? 何のために? 宙に浮いた白い腕を見ると、指は無事なようだ。

アクリナはがっしりした腕に支えられている。
ローブ姿のセルゲイ・ティリンが、赤ん坊でも持ち上げるようにアクリナを軽々と抱き上げていた。
ローブから突き出た腕は細かい傷があり、日焼けし、実に逞しい。胸板の厚さはどうだ。熊みたいだ。あれなら、片手で簡単にアクリナの体を好きなようにできる。
そしてアクリナは支配されるのが大好きだ。
……ぞっとした。

「何をやっているのだ!」
私は煤のたまった木の床に、鉄のサモワールを叩きつけた。「ティリン殿、アクリナを離せ!」
アクリナは目覚めているらしい。目覚めているのならば何故私以外の男の腕から降りない!

「え……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、ティリン様はあたしを助けてくださったのですわ……。指を切られそうになっていたのを……」
暖炉の炎のせいかもしれないが、アクリナは頬を染めているように見える。どうして良いかわからなかった。私のアクリナが盗られる、しかも自らの意志で……などということがあり得るのか?

私はティリンに怒鳴った。
「あれだけマドモワゼルがいて、まだ足りないのか。ついでにキノコ栽培をさせるつもりなのか。奥方を可愛がれ!」
奥方が私に続いて怒鳴った。
「そうよ、あのマドモワゼルどもは一匹残らず本性は雌豚なの。セルゲイ、あんたは騙されているのよ! あの雌豚たちにこのシチーを飲ませれば正体を現すわ」
奥方が煮込んでいるのは実に怪しげな液体で、とにかく薬草が色々入っているのだけはわかった。奥方は、昨日の昼間、アクリナがモスクワ商人にもらったラヴェンダー入り石鹸を放りこんだ。
「奥方殿、何をつくっておいでだ」
「汚れた女の正体を現す薬草鍋よ。……十五世紀にカトリックの堕落した僧が書いた『魔女が与える鉄槌』という高名な魔法書があって、その本に書いてあるの」
「そんな書物は聞いたことがない……十五世紀にカトリックの僧が書いた『魔女に与える鉄槌』なら魔女狩りのバイブルだが」(実はうちの書庫にも一冊ある。アラビヤの狂える詩人の書いた暗黒年代記のビザンティン帝国版とかもある)
「ここにあるわよ」
奥方が見せてくれた本は、十五世紀のカトリック僧の手になるはずが、なぜか最近のロシア語で書かれている。……あからさまに偽書だ。
「あとは魔女の経血か指を一本……今は月のものの期間ではないようだから、指を切ってシチーに入れるのよ」
アクリナの指にそんな効果があるものか! だいたい、いま月のものかどうかなどどうやって調べたのだ。奥方がシュミーズに手を突っ込んだのか?

ティリンが怒鳴る。
「スモレンスクの領主殿、気をつけろ。彼女は包丁を持っている!」
「ああ、それもみんな貴男のせいだろう。奥方が好みでないのに何故結婚した! それで他に恋人をつくって、奥方は放りっぱなしか! それは、どんなによくできた奥方とておかしくなるだろうよ」
(今、私は唐突に、最近、完全に英国の植民地になったオーストラリア大陸と、その先住民族が持っていた『ブーメラン』という武器のことを思いだした)

奥方は私が味方だと思ったらしい。「この旦那様みたいな人もいるのに、あんたは! 魔女の指をおよこし」
私は奥方に言う。
「それは駄目だ。痛くて可哀相だ。だいたいあの婦人は魔女ではない。薬草に詳しいだけだ」

「魔女と呼んだら返事をしたよ」奥方はアクリナを指差す。「魔女じゃない女がそんなふうに答えるものか」
「ああ、奥方殿。そういう人なのだ……ティリン殿、アクリナを返せ」
奥方が包丁を振っている。暖炉の火に包丁がギラギラ光った。これもトゥーラの名産品か!

「い、……いや」
アクリナはティリンの首にしがみついた。
アクリナに罰を与えてやる、想像もできないきつい罰だ! ……彼女が私のところに戻ってきたらだが……。そんなことが……。

私は鉄のサモワールを奥方の右腕に叩きつけた。包丁が飛んで、木の床に刺さった。
「痛いじゃないの!」
奥方が早口で叫んだ。「あんたはわたくしの味方じゃないの!」
奥方はずいぶんと丈夫なようだ。私は床に刺さった包丁を抜いた。

「ティリン殿、貴男が悪いのだ。今日、これから奥方を抱いてさしあげたらどうだ。とにかくアクリナを離せ」
アクリナがティリンに抱き上げられながら弁明する。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、違います。あの、ほんとうにティリン様はあたしを助けてくださっただけで……。奥方様が指を欲しいとおっしゃるので、差し上げたかったのですけれど……貴男様にうかがってからでないと」
「アクリーヌ、とにかくティリン殿にしがみつくな!」
泣きたくなってきた。「おまえがティリン殿のマドモワゼルになったら、私はすぐさま一人で黒海に行って二度と帰ってこない。領地がどうなろうと知るか……」
「何を……おっしゃっていますの」

「スモレンスクの領主殿、誤解なさらないでいただきたい」
ティリンがようやくアクリナを離した。そっと下ろして床に立たせる。ああ! あの、アクリナの触り心地を味わって、このままあの男が彼女を放っておくだろうか?
そして、床に立たされたアクリナはやはり転ぶのだった。
「ああ、もう……」
私はアクリナを抱き起こし、抱きしめる。あのままティリンがその気になったらどうするのだ!

クセニアとプラスコヴィヤが鍋掴みを両手にはめ、熱い鍋を暖炉から取り出し、窓から放り投げた。薬草と得体の知れない緑の液体が窓枠に残る。

私はティリンを指さしながら、彼の非倫理性をあげつらった。
千人の農奴のいる五十八歳の領主が、私のような若造に説教されることなどそうそうないであろう。
「奥方は許せないが同情はする。愛らしくて気立てが良くて、こちらを朗らかにしてくれる『だけ』のご婦人が良いだの、ティリン殿、貴男はずいぶん身勝手だ。
この、私のアクリーヌがどれだけ面倒で扱いづらくて困った人で、だから可愛いのか、十人もマドモワゼルを抱えている男になどわかるものか。ああ、いくら領主として有能だろうと無理だ。
彼女たちの一人ずつと本気でつきあえば、おそらく朗らかなだけではないだろうよ。……どうして三人ぐらいにしておかないのだ」

……ティリン殿はやはり度量が広いらしい。冷静沈着に、かつ青二才の私を気遣うように答えるのだった。
「……スモレンスクの領主殿、やはり誤解しておられるようだ。
アクリナさんには申し訳のないことをいたしました。あの人は」
ティリンは奥方に目をやった。
「……アクリナさんが黒い服を着ているから、魔女だと考えたようです。
こちらの貴婦人は、妻ではない。私の母だ。つまり父の妻なのです。
父が農奴の女と遊びすぎて、最初はそれを止めようと魔女と呼ばれる農奴の女に相談していたのですよ。
母は、だんだん自分自身が魔法の研究を始めましてね、おかしくなった……。
父は、私など比べものにならないほど『秘密の妻』を囲っておりました」

「え……ああ? パーヴェルか」
「パーヴェル?」
ティリン殿が、不思議そうに聞いた。
アクリナが答えた。「あの、エヴゲーニイ・パヴロヴィチのお父様です。……あの、あ……たいへん女の方に、あの、人気が……」
「ああ、漁色家でいらしたのですか。
それなのに、ご子息はごく少数のご婦人にだけ愛情を注いでおられるとは、不思議なものですな!
スモレンスクの領主殿。いや、貴男がアクリナさんを熱愛されているごようすを拝見して、私ももっと自分のマドモワゼルを大切にしなければと思いましたよ!」

(……あまり……ティリン殿がアクリナを狙っている様子はない……何故だ? こんなに魅力的な女なのに。
いまは、十一人相手にして満足している?
あるいは、私に気を遣って、欲望を制御しているのかも……。
いや、ティリン殿は教養はあるのかもしれないが、農学に偏りすぎて審美眼がおかしい。あるいは、若く見えても眼病にかかっておられるのか……?
やはり顔が丸くないと興味がないのか。
助けたのはただの良心的な領主というか、紳士としての行為か? それだけ?
どうかしているのではないか!)

「四十年くらい前には、私にも本物の妻がいましたが、私やら母やら父やらに呆れて、すぐに実家に戻ってしまいましてね」
ティリンはそれでも母上は大事らしく、抱きあげた。重そうなのに。
「母上、今度誰かの指を切るなどとおっしゃったら、お客様が来るときには外に出しません。さあ、もうお休みになった方が良いですよ。プラスコヴィヤ、クセニア。手伝ってくれ」
マドモワゼルたちが飛んでいく。

私は包丁を台の上に載せ、軽く頭を下げた。
「……ティリン殿。申し訳ない。アクリナを助けてくださって感謝します」
「いや。もとはと言えば、我が母上の成した悪行です。さぞかしお気が揉めたでしょう!
どうぞご夫婦で水風呂にでも入ってご気分を変えて、紅茶でも飲んでからお休みください。朝は遅くいたしましょう。
明日はおふたりを鉄工所にご案内します。それから晩餐は私の異母弟で中等神学校の農学教師のアルテム・スィムチコを呼んでいましてな。今日、使いをやったら、まだアクリナさんがおいでだとたいそう喜んでいたそうです。是非ともキノコ談義をいたしましょう」
もう下男の名を呼んで水風呂の準備をするように言いつけている。
ティリンは明日の夜まで仕切っているのであった。

私はアクリナの背から二の腕へと、腕をまわし、しっかり抱きながら、とりあえず部屋に戻る。
「アクリナ、どうして魔女扱いされた?」
「……え、あの。貴男様がお眠りになったあと、さっきの奥方様が……部屋の外で『黒い服の女は出て来なさい』と呼んでおられて……廊下に出たら『魔女だ魔女だ』と言われて……あとは、薬草鍋を作るのを手伝って、それから包丁で指を切らせろと……」
「何故そんな呼び声なんかで出ていくのだ。せめて私がいるのだから起こせ」
「でもあの、女の方の声でしたし……」
「婦人の声だろうと、男が一緒にいるかもしれないし、斧なんぞを持っている女強盗かも知れない。知らない場所で夜中にひとりで外に出るな」
「……はい」アクリナは泣きそうになっている。

「どうしていっしょに薬草鍋を作った?」
「魔女だと言われて……あとは……あの……よくわかりません」
「……覚えていないのか」
「はい……」
魔女だと言われて魔女だと思ったのだろう。今までそうとうひどい目に遭ってきたはずなのに、他人の言葉をいともたやすく信じる。自らを辱める言葉をそのまま信じれば、自らが残酷な扱いを受けるのもやむを得ないと思えるのであろうか。
暗示にかかりやすすぎる。

「おまえは魔女ではない。何度言ったらわかる。私が言うこと以外信用するな」
「だってあたしは『面倒で扱いづらくて困った人』なのでしょう……」
「そんなことだけ覚えていなくて良い。ティリン殿は『早い』らしいから淫らなアクリーヌには私のほうが向いているぞ」
「早いって何が早いのですか? そういえば、ティリン様のお話は早口すぎて、意味がわからないことがありますわ」
下男が呼びに来た。水風呂の用意ができたそうだ。
私はアクリナの手を乱暴に引いた。
「来い。ティリン殿に抱き上げられたところを洗い落としてやる」

トゥーラだらだら寄り道編、終わりです。


アイキャッチ画像
“By the end of the summer on the Volga”
Painted by
Alexei Savrasov (1830–1897) [PublicDomain]