領主様と学ぼう『ロシアの歴史』最初のツァーリ様 その1

エゾノウワミゾザクラ
Prunus padus (syn. Padus racemosa (Lam.) Gilib.). Flowering. Russia, Ukhta
Author :Borealis55 /Wikimedia [PublicDomain]

領主様は幅広い教養のある方です。農学や語学から、ギリシアの古典、魔女狩り、特殊な趣味に至るまで色々なことをご存じです。
まあ、多少偏っていますが……。そして今回はまだロシアの歴史に達していませんが……。
【実際の知識は中の人のものなので、間違い勘違いなど多数あります。お気付きの方はご指摘くださると幸いです】

5月ごろ,1831年

 

導入部

我が恋人アクリナ・ニコラエヴナはあまり若くない。
若くはないが、知識欲は旺盛だ。スモレンスクに移って落ち着いて来ると、簡単な書物をむさぼるように読み始めた。初めに知りたがったのは、まず敬虔な正教徒らしく聖書や聖人のことだ。
文字を覚えるのが遅かったため、堰を切ったように知りたいことが溢れてきているらしい。それから、もともと好きなキノコや植物、魚や動物の生態や繁殖について詳しく知りたがった。

色々な本に熱中した。
フランス料理の作り方や外国の刺繍の仕方といった婦人らしい実用に熱中したこともある。
植生の分布にも興味を抱いた。私と森のなかを歩きながら、この木や羊歯はシベリヤにあったとかなかったとかなどと話し続けた。そして私を質問攻めにする。
ほんとうに真剣に夢中になるので、覚えが速い。
最近はロシア帝国の地理を知りたがり、地図を居間に貼っている。
……物事を学んで、それで出す結論が妙だったりするのだが。
美しいだけの婦人より、こういう婦人のほうが興味深いものだ。

五月の午後だ。やることはあるといえば山のようにあるのだが、もう疲れた。それとも、これも長い目で見れば仕事かもしれない……?
私はかねてからの計画を実行に移すことにした。

「大切な領主様、お出かけでございますか」
私は領主館の裏庭に行く。泥沼になった地面には砂利を敷かせて多少ましになった。領主館の周りだけだが。
厩舎の脇のベンチで、猟銃を分解掃除し、油を塗っていたヒローシャが言う。
「いや。西の森に行く」
西の森はアクリナの住居があるところだ。リザヴェタ奥様に忠義を誓うヒローシャである。奥様は何もおっしゃらず泰然としているのに、何故かこいつのほうが微妙に恨めしげな表情をする。
(実は私に抱かれたいのか。こんな組み合わせには誰も『萌えない』と思う)

「……畏まりました」
「おまえも馬を出せ」
「アクリナ様のところでございましょう? 何か運ぶ物でもあるのですか」
「いや。おまえにこれをやる」
私は新しい帳面と鉛筆を渡した。
「え?」とヒローシャが言う。「どういうことでございますか?」

「ああ、ヒローシャ君……」私は藁くさい厩舎の入り口で、愛馬のイグルーシュカの首を撫でながら言った。
「まあ、君には期待しているのだよ」
こいつは勘が良い。いっしゅん、ものすごく嫌そうな顔をした。

「アクリーヌ、領主だ」
アクリナ様の森の家に着く。兎を肩によじ登らせたアクリナが、ヒローシャを怪訝そうに見た。彼が来るのは、たいてい何か、母屋から荷物を持ってくるか、アクリナ様が一人で寂しくないか困っていないか見回るときである。私と連れだって、何も持たずにくる、ということはまずない。

「アクリナ様、お邪魔いたします……領主様が何か私にもご用があるとのことでございます」
「は、はい……」
昔の同僚で五年も一緒に働いていたくせに、アクリナとヒローシャは私を介して向き合い、緊張して固くなっている。
何故だかよくわからないが!

私たちは春の日差しが入る、明るい居間兼食堂に向かう。あちこちに飾られた、今が盛りのエゾノウワミズザクラの花瓶どころか、寄木の床まで輝いている。
「あの、どうなさったんですの。エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。ヒローシャと一休みされますの?
紅茶をお出しましょうか。それともクワスがよろしいですか」
「アクリーヌ、貴女にも帳面をあげましょう。インク吸い取り式のペンを持っていらっしゃいますね。二階から取ってきていただけますか」
「え、では、はい」
「ついでに紅茶も頼む」

私はこの森の家の、一階の居間兼食堂の卓にアクリナとヒローシャを並んで座らせた。
こういう席順で座ることは非常に珍しい。いつも私とアクリナが並んで座るか、あるいは男女別に座った。
サモワールを前に、ふたりとも何が起きるのかと不安げに顔を見合わせている。
サモワールから湯を出し、領主様が自ら、我が女農奴と我が馭者に紅茶をいれてやる。
「……別に、緊張しなくても良い」

「アクリナ・ニコラエヴナとヒローシャ君、君たちは成人するまえにあまり教育を受けられなかった。だが、文字も覚えたし、向上心がある」
「そ、そんなのありませんわ」
とアクリナは言うのだった。それから尋ねる。「『向上心』って何ですの」
「ああ……もっと学びたいとか、もっと善人になりたいといった意欲のことだ」
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。あたしはもっと善人にならなりたいですわ」
「私もです」
この二人はどう考えてもこれ以上善人にならなくても良いのだが、そう答える。
「だから、おまえたち二人にだね。この私が、みずから我が国の歴史を教えようではないか」

アクリナは嬉しそうにした。というより陶然としている。「ええ? 貴男様が御みずから……聖なるロシヤ帝国の歴史を……」
ヒローシャは何か微妙な表情だ。
「領主様。アクリナ様は賢いお方ですが、私は文字はなんとか覚えましたが、もう……」
「うるさい。馭者が簡単な歴史を覚えると便利だ。
英国人が来るだろう、そいつを馬車に乗せて案内するときもあるであろう。その時に、ここはスモレンスク戦争の跡だとか、ここはナポレオンが通った跡でどうしたとか説明してさしあげろ」
「英語ででございますか……。絶対に無理です。我が友のステパンならば……」
「あんないつ帰ってくるかわからない馬鹿息子を待っていられるか。だいたいヒローシャ君、君はな、民族は違えど、自分のことを忠実なロシヤ帝国臣民だとしょっちゅう言っているではないか。祖国の歴史を知らなくても良いのか。
『歴史を忘れた民族に未来はない』【* 俚諺(りげん)】とも言うぞ。おまえの民族の歴史はどうだ」

 

1.ヒローシャの民族の歴史(架空ですが、同じような目に遭った民族もいたかもしれません)

ヒローシャがつっかえつっかえ話す。
「私の民族は……、もともとは中華(キタイ)の領のはずれ、西北遠くに住んでおりました。
遙か昔には、巨大な山の中腹に王国を持ち、実に壮麗な大都市を築いていたそうでございます……。モスクワとまではいきませんが、スモレンスクの中心部くらいの都市で、丹塗りの門があって、大きな図書館や、もう失われてしまった文字の印刷所、風を使って脱穀する機械までもあったそうでございます」

(……怪しい)

「それにもかかわらず、同族たちは未だ愚かで基督教の恩恵にあずかっておりませんでした。
仏教という邪教を信じ、あちこちにある仏の偶像に祈っていまして……」

(今もイコンの偶像に祈っているではないか……)

「代々のキタイ王朝【* 現在の中国の辺り】に忠節を誓い、朝貢をしていたらしいのですが……、虎よりも猛々しい苛政により略奪のように税を取られました。
その後、タタール人が攻めて来ました。
我が祖先たちはたいそう勇敢で、皮と鉄で作った見事な鎧や大砲を持っておりました。
強敵と見たらしく、タタール軍の総司令官バトゥ・カーンが自ら刀を取り一万人の精鋭な騎馬部隊を率いて攻撃してきました。山が崩れるほどの勢いだったそうです。
圧倒的な武力に勝てるわけがなく、王族をお守りして皆で逃げました。
美しい山城は永遠に破壊されてしまいました。そして我が民族はタタール人に服従を誓い、毛皮でダーニ【* 税】を支払うようになりました。
シベリヤをさまよううちに、今度はロシヤ民族やコサックの皆様に捕まりました。正教に改宗して、またヤサク【* 税。毛皮など】を払うようになりまして、せっせと毛皮を獲るように……」

「……たいへんでしたのね」
アクリナが同情し、涙ぐんでいる。私はウェストコートの隠しに入っているアクリナ用の手巾を渡す。
「ですがアクリナ様、おかげで聖ニコラ様や生神女マリヤ様のお話をうかがい、温かい慈愛と庇護にすがることができるようになりました。私は、自分が正教徒だと言えることを誇りに思っております。
我が祖たちの山城の王国は、翡翠と金の彫刻で飾られていたそうでございます。
おそらく仏とやらの恩寵によってでございましょうか。
地面を掘れば、砂金とジャガイモがいくらでも出てくる状態でございました。それは豊かで美しい都市だったとのことですが……」
「見事だったのですね。では動物園もあったのですか? 釣り堀も?」
「……そこまではどうでしょう。釣り堀はなかったかもしれませんが、広場には噴水があったそうです。豊かではありました。しかし、魂の救いに比べれば、……豊かさなど」

だんだん妄想が入った話になってきた。
私は真面目に話を続けようとするヒローシャに聞く。
「誰に聞いたのかね」
「曾祖母でございます。曾祖母はやはり曾祖母に聞いたそうで、」
「ジャガイモがこちらに渡ってきたのはスペイン人たちが新大陸にたどり着いてからだぞ」
「え?」
「コロンブスが新大陸にたどり着いたのは1500年前後。15世紀の終わりだ。
ジャガイモが旧大陸やロシヤ帝国に来たのはその後だ。
おまえの民族はタタール人に攻められて移動したのだろう?
タタール人が攻めてきたのは13世紀だ。ジャガイモより早い。それに、バトゥ・カーンはヨーロッパ……我が国やポーランドのほうに来た司令官で、おまえの民族の王国がキタイのほうにあったのならば、別のカーンが行ったはずだが……」

アクリナが愕然としている。
「え……ヒローシャが嘘を……? ヒローシャが嘘つきだなんて。そんな」
アクリナもヒローシャも、この二人はすさまじく馬鹿正直だ。
「ア、アクリナ様。嘘など……ついておりません……」
ヒローシャはキラキラした大きな黒い目を見開き、泣きだしそうだ。

「ヒローシャは良い若者ですわ。エ、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。嘘つきだなんて、そんなことが……ヒローシャが嘘つき?! 嘘つきだとおっしゃるのですか? ああ……」
アクリナもショックを受けたようにヒローシャを見つつ『嘘つき』と繰り返し、余計に滅いらせている。
「嘘つき……私が」

「いや、アクリナ。多分、嘘ではなくてな……伝説を伝えているうちに多少のでたらめや美化が入り込んだだけだろう。翡翠の宮殿だのは嘘かもしれないが、ああ」
「嘘つきではありません。曽祖母が確かにそう申しておりました……」
ヒローシャは弱々しい声でつぶやく。自信がなさそうだ。それは実際に見たことがないのだから、そうだろう。
「まあヒローシャの民族の歴史はいつかわかるだろう。
伝説は大げさになって間違った事柄もたくさん含むが、何か元になる話だとてあるのだろうよ。翡翠の宮殿で言えば、丸太小屋に翡翠の人形がひとつ転がっていたとかな」

(もう少し立派かもしれない? 知るか)

アクリナが真剣な表情で帳面に書いている。

ヒローシャの民族のれきし
だいたい嘘で、すこし本当

 

2.アクリナの知りたい歴史

私は、アクリナと、しゅんとしているヒローシャに聞く。
「何か特に知りたいことはあるかね。なければ、わかっている限り昔のことから行くが」
嬉しそうにアクリナが言った。低い小さな掠れ声だが、軽やかだ。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。最初のツァーリ様はどのような方でしたのでしょう」

私はいっしゅんうろたえた。

ヒローシャもアクリナの言葉を聞いて、ほんの少し元気を取り戻す。
「最初のツァーリ様でございますか! 私も知りとうございます」
「聖ニコラ様が世界を作られたのは、7300年くらい前だと聞いたことがありますわ。最初のツァーリ様はそのころの方でございましょうか」
「アクリナ様、そんな昔なのでございますか!」

……困った。
私は紅茶ポットから紅茶茶碗に煮詰まった紅茶を入れ、サモワールの湯で割った。アクリナの作ったエゾノウワミズザクラの実のジャムを入れる。この花は枝に緑の葉とともにヒヤシンスか円筒形のブラシのように咲く。英語ではbird cherryと呼ばれている。苦くて鳥しか食べないからだ。
我が国ではもちろん食べる。

「……アクリーヌ、よく知っているな。17世紀まで我が国は『世界創造紀元』といって、『神が世界を作った時』からの年を使って年代を数えていた」

(神がいるか怪しい、だの、『世界の初め』は実はよくわからないなどとは、この敬虔な二人には言えない。二人して失神するのではないか?)

「最初のツァーリ様はなんとおっしゃったのでしょう」
アクリナとヒローシャの目が輝いている。何故か、我が国の民衆は『良きツァーリ』を夢見ている。直接に農作物を搾取する、私以外の貴族や領主は憎まれることも多かったが、ツァーリはあまりに遠いからか、逆に、夢のような尊敬を受けていた。
高貴な血筋を何の疑問も抱かず、ただ単に崇高だと感じる素朴な心性もあるようだ。
もっともツァーリは古い呼び方である。ローマのカエサルから来た。だが今でも使われた。

私は何を話せば良いのか迷いはじめた。床を見て、兎が跳ねているなと思う。でまかせは得意だが、歴史の勉強ででまかせを喋っても仕方がない。

「う……、最初のツァーリ? ツァーリから『皇帝』と名を改めたピョートル大帝陛下のことではどうだ」
「ピョートル大帝陛下のことは、貴男様が時々お話ししてくださいましたわ。ほんとうに尊敬なさっておられますのね。
あの、もしかして、最初のツァーリ様のことは古すぎてよくわからないのでしょうか」

純真無垢な二人は、子熊のように目を輝かして私を見ていた。アクリナの藁色のまつげは大きく見開かれ、灰青色の目の瞳孔が開き、私をまっすぐ見上げている。伸ばした白い喉がなまめかしい。
柘榴石の耳飾りと首飾りが、窓から漏れる日に暗く輝いていた。どちらかといえば陰気な顔立ちは、薄い藁色の髪をひと束にして頭の上に束ね、露わになっているのだが、知識欲に静かに燃えていて、私を惹きつけた。だが。

ヒローシャとアクリナが話している。
「アクリナ様、始めのツァーリ様は、全能の聖ニコラ様とともに世界を創造された方なのではないでしょうか」
「ほんとうに、とても素晴らしい方に違いないですね。威厳と慈悲が一緒になった領主様のような方で……」

「領主様……? え、まさか」と、我が馭者のヒローシャが小声で呟いた。
優しく気弱なアクリナが、おそらく本人も気づかず、背教者や異端者に対する、凄まじい非難の目つきでちらりとヒローシャを見た。じつは怖い女だったのか……?

ヒローシャが誤魔化している。
「……い、いえ、あの……、世界を創造なさったのだから、背丈が五十サージェンもおありの巨大な方かもしれません」
これほど彼らが初めのツァーリに憧れを抱いているとは想像もしなかった。
なおいっそう、私は困る。

私は弱々しく言った。
「……ああ、聖人になったボリスとグレープの兄弟の話はどうだ。
あるいは、カトリックの北方十字軍を『氷上の戦い』で撃ち破ったアレクサンドル・ネフスキイ公。公のおかげでルーシ【* ロシアの古名】はカトリックにならずに済んだのだ。
そうだ、アクリーヌ。我が国には偉大な婦人もいる。ビザンティン帝国に行かれた『賢いオルガ』様の話も……」

私が話しているのに、アクリナはヒローシャのほうを向いて喋っている!
「ツァーリ様は、きっと動物も可愛がってくださる慈悲深い方ではないでしょうか。聖書の『ノアの方舟』のノアかも……」
アクリナが私の話を聞いていない! 常日頃、『あたしは何もかも貴男様のもの』だのなんだのと、言ったり書いたりしているくせに!!
何かに夢中になったアクリナは、私でも元へと引き離せない。
「アクーリャ、聞く気がないならやめる」

薄い肩がびくりと震えた。食卓の上にかかった麻の布に、恐怖か何かの涙が垂れる。
「あ……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。申し訳ございません……。
ボリスとグレープのご兄弟も、アレクサンドル・ネフスキイ公様も、どの方のお話も面白そうですが、

(いちおう聞いていたらしい)

でもまず、やはり、初めのツァーリ様のことからうかがいとうございます」
泣いていたくせに、アクリナの声はますますうっとりしてくる。
「聖ニコラ様ご本人かもしれない……あ、でも、今の皇帝陛下がニコライ一世様ですから、ニコラやニコライというお名前ではないのですね」
ヒローシャが軽く叫んだ。
「ニコライ一世様と申されるのですか! アクリナ様はさすがによくご存知でございますね」
ヒローシャは現陛下のお名前も知らなかったらしい。私のような温情ある啓蒙領主のそばに仕えながら!
アクリナは少し自慢げにする。「領主様のおかげですわ」

「ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ皇帝陛下だ」
「パヴロヴィチ? ……え、そのご父称は。あの、まさか」
「……皇帝陛下の父上は、私の父ではない」
「あ、ああそうなのでございますか」
アクリナは少し残念そうだ。
「私が現皇帝陛下の兄弟だったら、中規模の在地地主などやっているか」

私は食卓に肘をつき、考えた。
さすがにリザヴェタとイアは皇帝陛下の御名くらい知っているだろうが、あとはどうだ? 家令のテレージンや女中頭で読み書きもできるエレナは……
……いや、まさかと思うが農学校を出た家令様のテレージンさえ怪しい。我が国の学校のレベルはほんとうに低いのだ。(そして、私はその学校のテレージンの後輩だ)
使用人全員に現皇帝陛下の名前を教えようと決める。
ああ……そしてきっと、何故か農奴のボリス・クズネツォフだけが皇帝陛下のお名前を存じあげているのだ。

「それで、さいしょのツァーリ様はどういう方ですの」と、またアクリナが聞くのであった。しつこい!
……またアクリナとヒローシャの目が輝いている!

「ああ、最初のツァーリ様は、……7300年も昔の方ではない……」
私は諦めて話し始めた。「このまえ、馬鹿息子から手紙が来てな」
「え、我が友のステパンでございますか」
シベリア流刑中のステパン・アファナシエヴィチ・テレージンだ。『馬鹿息子』は彼を指す固有名詞となった。

「まあ、お元気でいらっしゃいますの」
「愚痴っぽいが生きているようだ。それで、アクリナ様とヒローシャ君によろしくとのことだ」
「あの……、ステンカのご無事は祈っておりますけれど……それより、初めのツァーリ様のお話は?」
と、アクリナ様は言うのだった。馬鹿息子とはいえ、これではあまりに気の毒である。

「……いや、アクリーヌ。関係があるのだ。
あいつはシベリヤの監獄で煉瓦を焼きつつ、ヤキチ・ハンゾウノヴィチという東洋の異族民と知り合ったそうだ。船が難破してたどり着いたらしい」
「珍しい名前でございますね」
ヒローシャが言う。「我が民族にはない名前です」
「おまえの民族の名前か。どんな名前だ?」
「ヒロートリーですとか、ヒロニードですとか、ご婦人ならヒローリナやヒローナ、変わったところではヒロニスラフ、これはポーランド系の我が民族の民ですが、カトリックではなく立派な正教徒で……」

「ああ、よくわかった。でな、そのヤキチ・ハンゾウノヴィチによると、最初のツァーリ様がお生まれになったのは、そのヤキチの国では戦乱の世であったころだそうだ。のちに『戦国時代』というらしい」
「……え、では最初のツァーリ様は、そのヤキチ様の国と戦争をなさったのですか?」

「いや、していない。(19世紀前半現在)
最初のツァーリ様は1530年8月25日にお生まれになった。世界創造紀元ではなく、単なる西暦だ。16世紀」
そういえば、我が嫡男のミハイルと同じ誕生日だと思う。
「お名前はイヴァン・ヴァシリエヴィチ。で、イヴァン四世と呼ばれておられる。さらに通称はイヴァン雷帝」

アクリナもヒローシャも呆然としている。
「今年は1831年で……そんなに最近の方ですの? 千年も経っていないではありませんか。最初のツァーリ様なのに。
最初のツァーリ様なのにどうして四世なのですか……」
「よく気づいたね。アクリーヌ」
私はアクリナの知恵の片鱗が見えれば、ささやかなことでも褒める。
さらさらした右手の上に、軽く手を重ねる。
「で、最初のツァーリ様のお名前を帳面に書いておけ。年代も」
「は、はい」
もたもたと二人が書く。

Иван IV Васильевич

「元々我が国は……いまからは驚くほど小さく、しかも、さまざまな公国に分かれていた。スモレンスク公国もあった。……そのうち、モスクワ公国が力を持って、他の公国を()べた。統一したモスクワ大公がイヴァン三世で、イヴァン雷帝の祖父君に当たる」
「え、では? 『公』はいらしたのですか」
「ああ、初めて『ツァーリ』として戴冠されたのが、雷帝陛下なのだ。1547年だ」

ヒローシャが食卓から目をそらしている。私はアクリナの右手に手を重ねたままであった。
私は手を放しながら言う。
「……では今日はここまで」
「え……」
アクリナとヒローシャが呆然としていた。話し始めてから15分経つか経たないかくらいであろうか。

 

3.イヴァン雷帝の誕生

イヴァン4世の肖像
Ivan IV. European etching Wood engraving by H.Waigel [PublicDomain]

ヒローシャが言った。
「あの、大切な領主様……私をわざわざアクリナ様のところまで連れて来て、これで終わりでございますか。
それならば、ついでに野菜を運んで差し上げたかったです……。
エレナ様から、用がなければジャムの大樽を運ぶのを手伝ってほしいと頼まれましたし……領主様の御用だとお伝えしたら、エレナ様はきっぱりと『お行きなさい』とおっしゃってくださいました。まさかエレナ様がお一人で樽を、と思いますと申し訳なく……」
「……あのな。おまえの主人は私(よりむしろリザヴェタ奥様)だ。それに、仮にもエレナは女中頭だ。馬鹿ではない。誰か他の者に手伝わせるだろうよ」
……ヒローシャはこんなに愚痴っぽかったか? 無口が取り柄ではなかったのか?
畳み掛けるようにアクリナが言う。
「あの、でも領主様。それに! そのイヴァン・ヴァシリエヴィチ! ツァーリ様がどんな方だかうかがっていません! きっとたくさん奇跡を起こされて……」
どうも『ツァーリ』と『聖人』の区別がついていないらしい。

私は諦めて説明することにした。……。
「……歴史には、どの国の歴史にも暗い面がある。我が国の歴史は、他国に負けず劣らず(さらに酷く)暗い面だらけだ。……ええ、覚悟して聞くように」

「イヴァン雷帝は、前モスクワ大公ヴァシリー三世の長男として生まれた。
ヴァシリー三世はなかなか子ができなくてな、二度目の結婚でようやく二人の子を授かった。すでに四十を過ぎており、五十近かった。
奥方は二十も若いリトアニアの貴族の娘で、エレーナ・グリンスカヤという。気丈なご婦人だったようだ」

「晩年にできた子だから、父大公は雷帝が三つの時にお亡くなりになった。大貴族(ボヤール)たちに後を頼んで。イヴァン様は三歳でモスクワ大公になった」
「お気の毒ですわ……」と、アクリナはハンカチで涙を拭く。自分の父とはもっと早く別れたくせに覚えていないのだ。

「でも、大公様になられたのですか? ツァーリ様ではなく」
「うん。ツァーリ様になったのはイヴァン様が17歳の時だ。3歳で大公になっても子供だ。ヴァシリー三世の遺言で、大貴族たちが揃って政務を執るはずだったが、母上のエレーナが操った」
アクリナもヒローシャもぽかんとしている。

わかりやすく説明しないと駄目だ。……この二人は愚かではないのだが、私と受けた教育の差がありすぎる。噛み砕き、例えを使って説明する。
「ああ、我がЯ家に例えるとだね、私が今すぐ死ぬが遺言を残してあるとしよう」
「……そんなの嫌です」アクリナが潤んだ声で抗議する。
「ただの例えだよ。遺言で、跡継にミハイル(3歳)を指名し、テレージンに後見人になれと書いた。にも関わらず、奥様が全部仕切るようになったようなものだ」
「それは当然ではないでしょうか……」と、ヒローシャが言った。

「だから例えだ。現代の我が家のリザヴェタ奥様ならば、全部仕切れるだろうさ。
だが16世紀のロシヤはな、身分の高いご婦人は外に出られなかった。ほぼ女部屋(テーレム)に閉じ込められて暮らしていたのだ。皆、閉じ込もっているからたいそう腹が出ていたそうだ!
……いくら才がある婦人でも、活躍できるのはごくごく少数の、そのエレーナ・グリンスカヤ様のような方だけだ。
だいたい、前の大公陛下の遺言状には、エレーナ様に後見人をしろなどと書いていない」
「大公様の遺言状を無視なさったわけですか」
アクリナがぽつぽつと呟く。「それは……やはり、まずうございますよね……」
我がアクリーヌは賢い……ときは賢い。

「それからは大貴族どうしの陰謀が続いた。母上のエレーナも、イヴァンが七歳の時に亡くなった。毒殺されたという噂もある。弟君は知恵が足りない方であったらしい。大貴族たちは子供の大公殿下を(ないがし)ろにして、殿下のまえで机に足を載せて寝そべったりしていた」
「ええ!」
ヒローシャもアクリナも驚きの声をあげる。

「お子様とはいえ、大公殿下にそのようなことをするのは、いくら大貴族の皆様とはいえ……」
「……まあ、そうなのだが。大貴族のうちには私の先祖もいて、うちは分家の分家の分家くらいだから、ほとんど関係ないといえば関係ないが」

「では、領主様、ツァーリ・イヴァン様のお話は、あなた様のЯ家に語り継がれたお話なのでございますか」
私は、ヒローシャの祖先が彼の民族の歴史を語り継いで、下手をすると途中で聞き間違いや思い込みや願望が混じり、その結果、事実より華やかに、悪意なく歴史改変をしていることを思い出した。

「いや、年代記がある。各時代、各公国に年代記記者がいた」
「……やはり、文字が書けるのは素晴らしいことですのね。事実がはっきりと書かれて」

下働きのグリンカが裏口の扉を開け、なかに入ってきた。「あ、領主様! ……それにヒローシャさん」と言う。
力がある娘だ。大きな天秤棒を肩から下ろし、両端のふたつの桶いっぱいに汲んだ水を(かめ)に移している。
「グリンカ。やあ……」
私の挨拶はとても元気がなかった。

……だんだん話すのが重荷になって来た。

「……ああ、それがな。年代記か。年代記はどうもかなり改竄(かいざん)されているらしいのだ。
改竄というのは、嘘に書き換えることだ。
特に最初のツァーリ様、イヴァン雷帝は自らペンを取って書き直しを命じるし、気にくわない大貴族の悪口を入れるし、反乱を起こそうとしたなどとまで書き入れる」

「ええ! エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、貴男様があたしに文字を教えてくださった時、文に嘘を書いては駄目だとおっしゃったではありませんか」
「おまえが私に書く文は、絶対に嘘は駄目だ。……とはいえ最初のツァーリに私がそう言いに行くわけにもいかないし……まあ、近隣の他国の年代記や、当時モスクワを訪れた外国人の日記などと照らし合わせれば、……何が起きたかはわかる……。多少は」
他国の年代記も怪しいものだ。どっと疲れてきた。何故だ。

話してはいるが、なんだか舌がもつれる。
「……ええと、イヴァン4世はそのようにして成人された。【* 当時のロシアの成人年齢は15歳】
英明な方でね。17歳になり、今度は改めて『ツァーリ』として総主教様から冠を戴き、花嫁を迎えた。当時の花嫁選びは全国の貴族1200人ほどから年頃の娘の身上書を出させ、それから選ぶというものであった」
「華やかでございますね」
ヒローシャもアクリナもうっとり聞いている。

「そして親政を始められた。親政というのは、ツァーリ様が自ら政治を行うことだ。
雷帝は身分の高低を無視して、アレクセイ・アダーシェフという有能な小領主を取りたてた。若きツァーリは颯爽と改革に取りかかった。赤黒い髪の、威厳のある方だったそうだ。美男子でもあったらしい。

(後世の想像図は……まあ、想像だ)

1551年には、教会関係者の前で『ツァーリの質疑書』を提出して……ああ、堕落した教会を改革するよう求めた」
「素晴らしい方ですのね……」

それは、増えすぎた教会の領地が目当てでもあったのだが、当時のツァーリは実際に敬虔であった。ツァーリは神によってその座を与えられていると信じておられたし、他の者もそうだった。……信仰が深いか否かにかかわらず、16世紀の我が国で神の実在を疑う者などいない。神の実在は、冬に雪が積もるのと同じくらい当然だった。時代や文化によって人々の意識は全く異なる。
とはいえ、19世紀の今も、神か聖ニコラの実在を疑う者は非常に稀である。

無駄に記憶力の良い私は、二人の生徒に歴史講義を続けた。
私は住み込みの家庭教師だったこともあるのだ! その時の生徒たちに比べると、我が女農奴と馭者は、なんと熱心に聞いていることか!

「ツァーリは信心深くもあられた。シリヴェーストルという老司祭がツァーリの教師となった。
口やかましい方だったが、司祭は教養もあったし、それにほんとうに敬虔で清貧で『天の声』まで聞こえたらしい」
ヒローシャがうつむいている。ひまわり油で撫でつけた前髪が東洋の、張り切った太鼓の革のような額に垂れている。両てのひらを膝に置き、あまり長くない頑丈な腕を支えに前のめりになり、黒いフロックの肩が震えている。御者のくせに私のフロックと同じくらい仕立てが良い。

「ヒローシャ。大丈夫ですか?」
アクリナが心配そうに、形の良い、少し寂しげな眉を寄せる。ヒローシャの顔をのぞき込むようにして聞く。やめろ!
「どうせ感激でもしているのだろう。放っておけば良い。猟銃を持たせるとあれほど冷静なのに妙なものだ」
涙声で鼻をすする音がする。

私は無視して話を続ける。
「……司祭に合わせてツァーリも何時間も祈るようになり、教会の幻の鐘の音が聞こえるようになった」
アクリナも感激している。私を見上げる頬が紅潮し、青みがかった灰色の瞳が潤んで、涙が滲み始めた。「ああ……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、」

アクリナが感激の言葉を言おうとしているのをヒローシャが邪魔をした。非常に真面目に口を出す。「大切な領主様。私たちの民族はロシア民族の皆様に征服していただいてなんと幸福なのでしょう……」

と、ヒローシャは彼の民族を代表して言った。

「本気で言っているのか? ……何なのだ、その奴隷根性は……」

ヒローシャはあくまで真剣に続ける。「我らのようにか弱き民族にはこのスモレンスクから極東まで広がる国土を治めるのなど、とうてい無理でございます。世界一広い国だとうかがいました。
この神聖な地を統べるのは、やはり偉大な貴男様方でなければ! ああ、大胆で、力強い貴男様方の行いには、何度驚いたことでしょう。……同じ民族を平気で奴隷にし、少し変わったことを考えただけでシベリヤに流刑にし、皇帝陛下は検閲に検閲をなさって、 民衆はすぐにウォトカに浸り、ふらっと流人になり、祝日に娯楽で、死ぬまで殴り合ったり、私刑(リンチ)をしたり……」
ヒローシャが感謝を込めた声で言う。「ほんとうにありがとうございます。聖なるロシア帝国の末席に連なることができる、これこそ我が民族に神が与えた輝かしい試練でございましょう……私は、死ぬまでこの試練を耐え抜き、頌歌(しょうか)を歌いながら天国へと……」

まだ何か『ほざいて』いる。私は話を続けることにした。

「……司祭に合わせてツァーリも何時間も祈るようになり、教会の幻の鐘の音が聞こえるようになった」
アクリナも感激している。……私がそれくらい敬虔だと良いとでも思っているのではないか?

 

4.ヤギ

「グリンカ! サモワールに水を入れてくれ」
私はグリンカを呼んだ。よく肥えた少女である。なんとなくいつも嬉しそうだ。
「あ、はい。領主様」
「それから何かジャムか蜂蜜か、甘いものを持ってきてくれ」

「おやつでしたら、あたしが用意いたしますわ」アクリナが食卓から立とうとする。
「いや、グリンカに瓶ごとジャムを持ってきて貰えば良い。
なんだか頭がぼんやりしてきた。きちんと作った菓子など要らない。ただ、甘いものを口に入れれば、ましになるかと思う」
「お疲れですの……?」
「別に大したことはしていないはずなのだがね」
「滋養があって、精のつく薬草を煎じましょうか」
アクリナはたくさんの小引き出しがある薬戸棚を、目を細めて見つめている。この家とともに特別に菩提樹で作らせた自慢の棚だ。
引き出しは五十杯以上ある。引き手は陶器で、白地に青で、鳥や花や木の実の模様が描かれている。
ひとつひとつに乾燥させた薬草や、得体の知れない粉などが入っている。ラベルなどはなく、中身をすべて知っているのはアクリナだけだ。何が良いか考えているらしい。

「精のつく薬草ってなあ……。おまえはこのまえジプシーの占い女にもらった媚薬を全部ヤギとウサギとマッシュルームにやってしまったではないか。……試してみたかったのに」
「駄目でございます。……あの薬は媚薬といっても、むしろ子を作るためのものですわ。……あ、あの。奥様とお使いになったほうが、と申しあげたではありませんか」
「奥様はしばらく身籠りたくないと言っている。あの薬のおかげでヤギたちが発情して、5ヶ月のシロちゃんまで季節外れなのに交尾していた。【*ヤギの繁殖期は秋から冬。また雌ヤギの性成熟は大きさによるが、生後4ヶ月から15ヶ月。シロちゃんは恐らく6から7ヶ月の予定であった】
フォマがショックを受けていたぞ」
「キノコも胞子をつけました」
「すごい効果だ。……だから、身籠もらせないための工夫や道具は色々ある。おまえと使ってみたかったのに……。
学習熱心なのは結構だが、『本来の用途』ではなく、歴史を教えるために精力剤を使えと言うとはな」

グリンカが食卓にどすんと瓶を三本置いた。振動で我に帰ると、ヒローシャもアクリナも困って、うつむいている。ヒローシャの帳面にはこうあった。

イヴァン四世さま、敬けん、天のこえ、び薬?

そういえば、ヒローシャを連れてきたのは真面目に教えようというためでもあったのだ!
アクリナが、グリンカが持ってきた瓶から、ジャムを皿に取り分ける。
「松かさのジャムとタンポポのジャム、それに蜂蜜でございますわ……」
「ああ、すまない」
「ヒローシャもどうですか」
アクリナがヒローシャの皿に赤茶の液と黄色と緑の混じった液、それに蜂蜜を入れた。匙を持った手が震えている。

「……あの、領主様。『び薬』とはなんでございましょうか……」
ヒローシャが私に向かって恐る恐る尋ねた。「い、いや!」
途端にアクリナが松かさとタンポポのジャムの瓶を倒した! 麻の清潔な食卓布と、ヒローシャにやった新しい帳面がジャムだらけになる。
「あああ!」アクリナが悲鳴をあげる。私はヒローシャに教える。
「……ヤギの繁殖に必要な薬だ」

いつの日か、次回に続きます……?

 

今回のポイント
最初のツァーリ様はイヴァン四世 ことイヴァン・ヴァシリエヴィチ。別名 イヴァン雷帝で、16世紀の人物。ロシア語では Иван Грозный(イヴァン・グロズヌゥイ) 、直訳系の英語では Ivan the terrible つまり、『イヴァン・ひどい帝』がロシア語から日本語への訳。Грозныйの原義には雷の意味もあるから、『雷帝』は昔の日本人の名訳である。
イヴァン雷帝は父君を三歳で亡くし、すぐさまモスクワ大公に即位。母上と大貴族どうしが争う。母上も七つの時に亡くなる。
ツァーリとして戴冠するのは17歳の時。(1547年)
ロシアの年代記はけっこう嘘も混じっている。
改革派の若きツァーリは、身分の低いアレクセイ・アダーシェフを取りたてる。
ツァーリは、敬虔である。
今(1831年)のツァーリ様(皇帝陛下)のお名前は、ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ様
雌ヤギの性成熟は生後4ヶ月から15ヶ月。大型ほど遅い。繁殖期は秋から冬。
ヒローシャの民族はフィクション。