第1話 黒い海から白い海へ 1.語り手から挨拶

1.語り手から挨拶


なんとすばらしい夜だろう!  凍てつく厳寒期(マロース)
空には一片の雲もない
刺繍模様のとばりのように 蒼弯(そうきゅう)には
降るように星がまたたいている。 

A.S.Pushkin”What a night! The ringing frost”『本邦初訳 プーシキン詩集』 1990草鹿外吉他訳 (著) 青磁社

なんと素晴らしい夜 前置き

語り手から挨拶


親愛なる読者諸姉よ。
男もいるのかもしれないがどうでも良い。
貴女のお目を汚すことをお許し願いたい。
これから語るのは、世界創造紀元7069年から数年にわたる、かつての我が国宮廷の物語である。

250年も前、我がロシア帝国がルーシと呼ばれた時代のできごとだ。弱小国の王女クシェネイ・グキが、我が国宮廷に、帝妃(ツァリーツァ)として輿入れした。

クシェネイ王女は、北コーカサスの一地方の小さな王国に生まれた。黒海とカスピ海に挟まれた、古くから交易の盛んな地域で、豊かな黒土がオリーヴや葡萄を育てた。馬の放牧も盛んであった。

クシェネイ王女の故国は、コーカサス山脈の中腹にあった。チェルケス人に、タタール人【*モンゴル人】の血が混ざった民を擁する、人口二千人あまりの小国である。

コーカサスの中央にそびえる山脈は実に峻厳だ。
もっとも高いエルブレス山は高さが5露里(ろり)【* ロシアの距離単位、1露里=約1キロメートル】もある。東の黒海から西のカスピ海にいたる、東西に延びる山脈は1200露里にわたる。 山々が重なる複雑な地形のなかで、少しでも良い地、敵に見つかりにくい地を探し、数多くの民族が散らばり、時に争い、講和を繰り返しながら、共存しているのだった。

クシェネイ王女の父は、国王テムリュ・グキ、母は王の第三夫人である。
クシェネイは第三夫人の一人娘であった。王女なのに、無口で気が弱い。

チェルケス人の婦人は総じて美しく、チェルケス美人は『妾』の代名詞として知られていた。

クシェネイもやはり、まあ美しいといえば美しかった。……私の趣味では無いのでよくわからないが……、一般的には若く美しいのであろう。
黒い髪に白い肌の映える、肉感的になりかけた、手足の長い少女だった。毎日ケフィアヨーグルトを食べていたので、白い肌はヨーグルトのようにみずみずしく、滑らかである。

物語は北コーカサスからはじまる。 ……このコーカサスの地理・民族・宗教・利害関係は正直ひじょうにわかりづらい。興味のない方はどうぞ読み飛ばしていただきたい。【* フィクションも混ざっている】

まあ、当時黒海を取り巻く大国といえば、まず南のオスマン帝国、ついで北側のクリミア・ハン国である。

クリミア・ハン国はタタール人の国である。

クシェネイ王女の一族にもタタールの血が流れているのだが、彼らはそんなことは少しも斟酌(しんしゃく)せず、ばんばん略奪に来た。

タタールの民は遊牧民族であるとともに、略奪と戦闘にも優れている。

馬を走らせたまま、何日も飲まず食わずで過ごし、走り続けてパンパンに腫れあがった愛馬の脚をナイフで切り裂き、その血をすすってまた走り続ける。

獰猛な鷹を腕に止まらせ、あるいは弓矢、さもなくば、すさまじく重い銅の刀を持ち、老若男女かまわず襲った。 作物や家畜を奪い、家に火をつける。わずか数十騎のタタールの民に不意を突かれて滅んだ小国が近隣にいくつもある。

クシェネイ王女が育ったのはそのような土地であった。