第1話 黒い海から白い海へ 2.王女と奴隷

世界創造紀元7059年,北コーカサス


クシェネイ王女が気が弱くなったのは、もともとの性格もあるのだが、5歳のときにあったささやかなできごとのせいでもある。

父王のテムリュ・グキはイスラム教徒だ。妃は第四夫人までいた。高潔な人物で、どの夫人も愛し、大切にした。

クシェネイが5歳の時のことである。

コーカサスをめぐる地域や民族の対立が複雑を極めていることは前にもお知らせした。

父王は、黒海に注ぐ川沿いのコサック【* 馬術に優れた軍事共同体】たちの元まで出かけ、話し合いを続けた。そして、対クリミア・ハン国の同盟を結んできたのだった。

テムリュ・グキ王の交渉は大きな成果であった。

父王が無事に国に帰ると、国じゅうが歓待した。山の中腹の盆地に抱かれた、両の腕で囲えそうな、ほんとうに小さな国だ。
王宮の広さは、モスクワのクレムリンにある宮殿の端の、召し使い用宿舎にも満たない。
回教の寺院と、それに付属するように、煉瓦積みの簡素な四角い館がある。2階建てで、露台のあった。建物は傾いていた。
近くには、煉瓦塀と丸太の扉に閉ざされた離れがいくつかある。
それぞれ四人の夫人たちと子供たちの住居だ。

王と廷臣たちの宴の翌夕は、王の四人の妻と子供たちがそろって祝いをした。
外見はそっけなく四角い王宮であるが、中はそれなりに豪華だ。
象牙を使った長い机が置かれていた。四方の壁には、南コーカサスの赤い地の織物が吊り下げられている。燭台には豊穣を司るザクロが彫られ、卓に一列に並んでいた。
たくさんの燭台のろうそくに火がともされた。闇に慣れた彼らには昼間のように見えた。
テムリュ・グキ国王が一番奥の席、そのまわりを第一夫人から第四夫人まで、美しい奥方たちが取り囲む。
そのさらに下座に子供たちが並んだ。男の子たちの列と女の子の列で分かれる。
第一夫人が夫の金の杯に、名物の葡萄酒を注いだ。

「テムリュ・グキ国王様の御国に栄えあれ」

テムリュ・グキ王は杯を上げた。三〇をすぎたばかりの、若い父王の黒い口ひげはつややかである。常よりもゆったりとした絹の、アルハリクと呼ばれる長上着を着ている。材質はさまざまだが、体に沿って作られ、腹で巻いた帯には二本も長刀をぶらさげる。動きやすく、武闘に適した服だ。
コーカサス・サーベルは『シャシュカ』と呼ばれる。
ろうそくに照らされた王は、愛用の鋭いシャシュカを外し、杯を飲み干した。
彼の下座に固まった四人の奥方は、夫をうっとり眺めあげている。結婚後十年も経っているのに。
だいたいコーカサスは美男美女の産地だ。髪は濃く深みのある金髪から黒髪で、白い肌は『半透明』であると言われた。
熊か頭陀袋(ずだぶくろ)のようなものが過半数を占める、我が国の男性とは違う。
国王も細長い顔は甘く整っているのだが、猛禽類の厳しさを含んでいる。

「美しい妻たちよ、可愛い子供たちよ。コサックと同盟を結んだにせよ、我らは大国のはざまの小国。我が息子たちよ、強くあれ! 娘たちは美しく賢くあれ! おまえたちの手で絶対に国を守るのだ……」

それからくつろいだ酒宴が始まった。
子供は15歳を頭に、王子が七人、王女が九人である。
クシェネイ王女は第三夫人の一人娘でまだ5歳だ。祝いの席だから、幼いながら一番高価な晴れ着を着ている。
のばした黒い髪は紗で隠し、婦人用の上等なアルハリク……これは男性用とは違い、袖を細め、手先は装飾用に大きく膨らみ、華やかな蝶のようだ。胸には凝った飾り紐を縫いつけている。ビロードの赤い布地のウェストをしっかり縛っていた。
席順は、下座から2番目である。もっとも下座は第四夫人が生んだばかりの双子の赤ん坊である。

クシェネイは卓のまえのベンチに腰掛けながら、ごちそうを食べていた。母が夫人たちの席にいて一人なのが不安だった。ほかの異母きょうだいたちとは年に一、二度しか会わないのだ。
左隣の赤ん坊は泣きわめくだけだし、右隣の王女ジェネト・グキ……第二夫人の三女で、7歳、生意気ざかりで自分の美しさを自覚しだした少女は、気の弱い5歳の子供など相手にしたくなかった。
だが、ジェネト・グキの姉たちはもう十歳を過ぎていて大人に近い。
第一夫人の娘たちとおしゃべりに夢中だ。王子たちは王子たちで男の子の話をしたり、長剣(シャシュカ)を自慢しあったりしている。

「あんたとなんか話したくないの」
ジェネト・グキ王女は言った。
「でもね、でも、ジェネト。あのお魚はわたくしと母上が釣ったの……。美味しいよ。……」
テーブルにのった魚の揚げ物を、幼いクシェネイは指さした。
「王妃と王女が釣りをするなんて変だわ。じゃなきゃ嘘つきだわ。だいたい、どこで釣りをするのよ!」
「庭に、釣り堀があるの……お母様が、お父様に頼んで作っていただいたの……」
「わたくしのお母様はそんなものお頼みしないわ! 信じられない。お忙しいお父様の邪魔をしては駄目でしょう」
……と、この早熟なジェネト王女は自分の母に散々言われた言葉で、異母妹を叱った。

「あのね、あのね。庭の釣り堀の工事はお父様がしたのではないの。下男たちがやったの……。それでね、黒海から魚を運んできて放すの」
「あんた魚くさいわ。あんたみたいな子とは口をきかない」
とはいえ、ジェネト王女はほかに話し相手もおらず退屈であった。
子供は可愛くもあるらしいのだが、残酷で卑怯である。そして退屈に耐えられない。

コーカサス・チーズとザクロのつけ合わせが運ばれてきた。奴隷の少女が運んできた皿だ。
「ねえねえ、このチーズは山羊のお乳から……」
「話しかけないで」

奴隷の少女は第二夫人房から来たらしい。少女とジェネト王女は目を合わせた。チーズの皿が卓に置かれた途端、クシェネイの背に鋭い痛みが走った。
クシェネイはこの痛みは幻かと思った。奴隷の少女……ジェネト王女と同じくらいの歳だ。彼女が背後にいて、自分に何かしている。

「どうしたの」ジェネト王女がニヤニヤ笑っている。
振り向くと、奴隷の少女はどんよりとした無表情のまま、アルハリク越しに、焼き肉の、油のついたままの長い串を、クシェネイの背にちくちくと刺しては抜いているのだ!
「……やめさせてよ」
クシェネイ王女はジェネト王女に頼んだ。
ジェネト王女はチーズを食べながら含み笑いをした。「あら、何のことかしら」

奴隷の少女は、あるいは中世人は加減を知らない。ヴェルヴェットの真紅のアルハリクが破れる音が、耳元で聞こえた!
クシェネイは叫んだ。「奴隷のくせに! 王女のわたくしに何をするの! 奴隷のくせに!」
クシェネイは突っ伏して泣き出した。
さすがに騒ぎに気づいたらしい。父王や妃、王子たちがクシェネイを見た。

「どうしたのです」
第二夫人が言った。「ジェネトや、何が起きたか話してご覧」
「わかりません、お父様、お母様。いきなりクシェネイ王女が大騒ぎを始めたのです」
クシェネイは涙に濡れた顔をあげ、ジェネト王女に文句を言おうとしたが、5歳の子供には抗議の言葉が浮かんでこなかった。第三夫人房はきょうだいもなく、『意地悪をする』という行為自体がなかった。『意地悪』という言葉を使ったこともない。

「我が娘クシェネイよ。その奴隷の娘がそなたに何かしたのか」
ついに父王が問う。
『意地悪』という行為の存在を初めて知り、また初めて受けたのだ。しかも王女が奴隷にそのような行為を受けた。
クシェネイはこの不条理に息が詰まって、父王の問いにも答えられない。
「子供同士のいさかいでございましょう」奥方たちは言う。

「ジェネトや。クシェネイ王女を慰めてさしあげなさい」第二夫人が娘に言った。
「はい、お母様」
と、ジェネト王女はしとやかに答える。

第三夫人が席を立って、娘のようすを見に来た。奴隷の少女はとうに走って逃げていった。
「お母様……」
泣いていると、いつもは優しいお母様の声が背後から降ってきた。

焼き肉の串を何度も刺され、背中に血が滲んでいた。
だが、クシェネイの上着は真紅だったし、あたりはろうそくの薄明かりだけであったから、血は誰にも気づかれなかった。

母上の声は神女の宣託のようだ。

母は20歳をいくつか過ぎたばかりで、すんなりして、黒髪はまっすぐで細い天蚕糸(てぐす)の束のようであった。

チェルケスの肉感的で愛嬌に満ちた婦人とは少し違う。チェルケス美女が色とりどりの大輪の薔薇ならば、王妃は白いラヴェンダーのような美女であった。

(私はこの母のほうが好みだ。いや、どうでもいいのだが)

「クシェネイ。おまえもいつかはどこかに()す身です。行く先は他国。誰も味方はいません。つらい目にも遭うでしょう。泣いていてどうするのです……」
「でも、奴隷が……」
「わたくしも奴隷でした」
第三夫人があっさりそう言ったので、一座の人々は呆気にとられた。

父王が言う。「第三夫人よ。そのようなことは別に申すことでは無い」
「いいえ。わたくしは奴隷なのに貴男様のご寵愛を受け、王妃の地位まで昇らせていただいたのです。誇りでございます。
いいですか、クシェネイ。奴隷も何かを感じます。
『人』と同じ。
甘く見てはいけませんし、冷たく扱ってもいけません! よく覚えておきなさい」

「奴隷……?」
「クリミア・ハン国の高官の親戚の娘だと聞いていたのに……」
宴席はざわついた。
「あんた奴隷の娘だったの! どうりで『釣り』くらいで大喜びするはずだわ!」
ジェネト王女がクシェネイを指さして笑った。

「我が第三夫人とその娘は王族である。侮辱する者はそれなりの処罰をくだす」
父王が一喝して宴席を黙らせた。「良いか。奴隷なのに王族にまで引き上げたのは、余が第三夫人への寵愛深きため。ゆめ忘れるなかれ」
語り手の私は、この王になんとなく親近感がわいてきた。……

衝撃と痛みでクシェネイはふらつき、食卓に突っ伏した。クシェネイの背後にいた母上が、ようやくクシェネイの傷に気づいた。
「ああ! クシェネイ。何なの、その背中の傷は! それにどうして焼き肉の串なんかくっつけているの」

クシェネイはようやく言う。
「くっつけているのではありません……刺さっているのです……」
母王妃が慌てて傷の手当てをしようとする。「誰か、葡萄酒を持ってきて! 消毒しなければ! クシェネイ! 痛かったでしょう、かわいそうに!」
(だから泣いていたのに……)
クシェネイはそう思いながら気を失った。