第1話 黒い海から白い海へ 3.気の弱い美姫

世界創造紀元7062年,北コーカサス


奴隷に『意地悪』された事件はクシェネイを微妙に気弱にした。母上は、もう奴隷だったことは語らないし、クシェネイも聞けない。……母上はたいそう正直な方であったから、聞けばあっさりと恐ろしいことを語りそうで怖かったというのもある。
母の出自に関して、いろいろと、悪夢のような想像が浮かんだ。放浪の民であったのではないか、母の母が恐ろしい病気で故郷から追い出されたのではないか、賤視される仕事をしていたのではないか、あるいは破戒した女僧ではないか、魔女なのではないか……。
クシェネイは無口なぶん、想像力がたくましい。
だが、母の出自などまったくかまわないほど、父王は、母王妃と王女を愛してくれていた。第三夫人房に釣り用の池を作ってくれるくらいなのだ!

王宮の小さな第三夫人房の庭園は、北コーカサス地方の豊かな黒土である。この庭園の踏み固まれた黒土の温かさが、彼女のはじめの記憶だ。

後年、クシェネイは我が国に来て以来、心の中でいつも繰り返す。
『ねえ、あの庭の黒土と、黒土に当たるお陽さまをまた見られるのならば、わたくしは何でもいたしますのに。何故、わたくしは風雪に閉じ込められているのでしょう……』

子供のクシェネイは、庭の東屋(あずまや)で、刺繍をする母や乳母や女奴隷たちに見守られ、花を摘んだり、鶏を追いかけたりしながら、暮らしていた。
乾燥した黒い土に、コーカサスの高山から取れる白い石を積んだ東屋は陽に光り、東屋の柱の陰から垣間見える女たちの笑顔の印象だけが輝き、幻のようだった。
黒海の港はローマの昔から交易の要衝(ようしょう)だ。輸入した異国の品々が無造作に置かれている。
女奴隷たちの、頭に被る薄絹の白い布が(ひるが)える。

妻と娘に甘い父王は、彼女たちに書物まで与えていた。回教の教えでは婦人に教育を与えることなど考えられないのに。
クシェネイは庭の池で、釣りまでしていた! 黒土に住むミミズを平気で掴んで惜しげもなく釣り餌にした。気が弱くても、こういうことは平気なのだ。
この庭の池では、黒海から運ばれてくる豊かな魚を放ち、しばらく飼っているのだ。
ただ、第三夫人の娘とはいえ、王女であるから、いずれ政略結婚をすることはクシェネイも母も承知していた。それは子供のクシェネイのまえに、まったく訳のわからない不安として横たわっていた。

遊び疲れて夜になると、居間で簡素な夕食を取る。
そうして迷路のようになった第三夫人房の廊下を通り、丸天井の屋根の下にある小さなクシェネイの小房に戻る。そこには鶏やガチョウの羽をたっぷり入れたふわふわの寝台があり、クッションがたくさん積み重なっていた。
クシェネイお気に入りの女奴隷スネジュナヤは何カ国もの文字が読める。肩幅の広い、白っぽい金髪の女だ。顔も体も大きく、男のようであった。
彼女はろうそくの元、低い声で物語を読みあげた。

父王が来ない夜には、クッションをたくさん置いた小房に入り、王妃は娘に語り聞かせる。
「クシェネイ、貴女はたぶんこの近くの……オスマン帝国かクリミア・ハン国に帰順(きじゅん)した、小さな国の王子に嫁ぐことになるでしょうね」
優しい母は言うのだった。
「貴女は旦那様をお慰めして、民を慈しむのですよ」

クシェネイはその言葉に、ほとんど肉体的といってもいいほどの圧迫感を覚える。
「……じ、自信がありません。旦那様が……、どんなお方だか……わからないのに」
王妃は、細い腰の(たお)やかな婦人であった。声は真珠を転がしたようであったが、それが急に威厳を帯びた。
「クシェネイ、貴女はテムリュ・グキ王の娘。高貴で勇敢な血を受け継いでいます。自信がなくてもやらなければなりません」

我が主人公たる幼い姫君は、気が弱いのに、なかなか実際家でもあった。
「あの……、例えば、どうすれば良いのですか。お母様」
そうねえ、と王妃の声はもとの優しい調子を取り戻す。
「大きな魚を釣ったら、旦那様に差し上げるのはもちろん、召使いにも分けてあげなさい」
……まあ、クシェネイの母上は少しずれていた。
「小さな魚だったらどうすれば良いのですか」
「ですから、大きな魚を釣るのですよ。たまに釣りに行かせていただくようになさい」
「はい、お母様」

(王妃と王女の会話にしては変だ)


やがてクシェネイは15歳の誕生日を迎えた。当時の婦女としては立派な大人だ。
クシェネイの体を流れる血は、父方の四分の三はチェルケス、四分の一はタタール。そして母方の半分はチェルケス、半分は母の謎の故国だ。
チェルケス美人の容貌は現れている。彼女たちと同様、背筋がのび、手足がすらりと長い美しい体型になった。半透明にも見える白い肌をしていた。わずかにタタール人らしい黄色人種の色が入っている。しかし黒い瞳はおどおどしており、美しいは美しいのだけれど、なんだか、アルビノの子鹿のようだった。

第三王妃は時々、クシェネイの細い背を抱き、涙ぐみながら、適齢期が近づいた娘に言う。
「貴女とあとどれくらい一緒にいられるのかしら……」
漠とした不安に苛まれていたものの、クシェネイがよく知っている身分の高い男性は父王だけであった。あとは黙々と働く下男や馬丁、警護の兵だけである。彼らは第三夫人が優しく礼を言うだけで畏まってひざまずいた。

父王は、小国とはいえ、王にふさわしい気高い人物である。第三夫人房に来るときは、政務を執るときの厳しさに比べ、優しい。クシェネイを膝に乗せては、顎髭をひっぱられても笑って『良い娘だ』と繰り返した。
だから、クシェネイは身分の高い男性というものは、父王のように優しく、気高い人物ばかりだと考えていた。

……まあ、とてつもない間違いなのだが……。

一年か半年に一度、寺院に礼拝に行く以外、ほぼ閉じ込められて育った少女がそんなことを知るはずがないのだった。

だから気が弱いとはいえ、クシェネイは結婚に不安ではあっても、そこまで恐れてはいなかった。まさかあんな結婚に至るとは到底想像もしていなかった。

「お母様、わたくしは近くの国に嫁ぐのですから、里帰りもできるかと思います。大きな魚をお土産にいたします」
「おまえは回教徒にならなければならないでしょう。王様や、わたくしたちが、ほんとうはタタールの神を信じているのは秘密……」
この王家は、このような秘密を隠していた。
「だって、心のなかで信じていればテングリ【タタール人・モンゴル人の最高神。天や太陽の神】に届きます。お優しい神ですし、どこに嫁いでもお陽様は出ていますわ」
まだほんの子供のクシェネイは、信仰の怖さをまったくわかっていなかった!

「母上、お土産のお魚は何がよろしいですか。わたくしは、たぶん黒海の近くに嫁ぐのでしょう? 黒海の魚では何が一番お好きなのですか」
「何でも好きよ」
「お母様はそんなことばっかりおっしゃいますのね。ほんとうに好きなお魚は秘密なのでございますか」

 

黒海の港から買われてきた女奴隷のスネジュナヤが口を出した。この人の良い王妃(元奴隷)と王女は、信頼している者ならば、奴隷であろうともちろん平気で発言を許した。
スネジュナヤは二十代半ば、肩幅の広い、白いほどの金髪の持ち主である。いかつめの顔にはそばかすが散っており、それが魅力でもあった。
「カスピ海か、黒海より南の大きな海のそばに嫁がれるかもしれませんわ。また違う魚がいると思います」
王妃と王女は叫んだ。「スネジュナヤはほんとうに物知りだわ!」

母王妃は海や魚のことになると、どんな話でも嬉しそうに聞くのだった。
スネジュナヤが語る。
「黒い海はとても豊かでございます。生牡蠣(なまがき)はとても美味しうございますわ。
北の冷たい地には、白海という海があります。そこにはとても大きな魚がいるのだそうです。それからチョウザメも。チョウザメのお腹に入った黒い卵は素晴らしい珍品ですの……」
「とても大きい魚?」
「はい。小さな漁船くらいもあるのでございます」
王妃は考えていた。「もしかすると、鱗がないのではないかしら。そして温かい血をしている……」
「その通りでございます」
「ではその魚は、たぶん『イサナ』だわ。わたくしの母上が生まれた国では、たくさん食べたそうですよ。魚と獣が合わさったような、不思議な味をしているそうです」

母上の母上が生まれた国!

クシェネイはその国の名前を聞かねばならないと思った。
思っただけで手に汗がべったりついた。「あの……お母様……その……」

王妃は黒海の釣りの話に夢中になっている。
「クシェネイ、ああ! 大きな魚が見たいわ。お父様にお願いして、黒海で採れたチョウザメをいただいてきてもらいます! いま、お暇なはずよ!」
そう言って王妃は部屋をバタバタ出て行った。クシェネイは母の母の故国について聞けなかった。気が弱いというのは不自由なものである。