第1話 黒い海から白い海へ 4.連行される花嫁

世界創造紀元7069年, 北コーカサス


15歳のクシェネイが美しい姫だという評判は、近隣国に広まっていった。
そろそろ見合い話も入ってきだした。それが、いきなり思いもかけない国から申し出が来た。
輿入れの相手は倍の年齢である。
30歳になるツァーリ【* 皇帝のこと】、イヴァン・ヴァシリエヴィチことイヴァン四世、後世のあだ名はイヴァン雷帝(らいてい)……まあ、雷帝というより『イヴァン残虐帝』である。
本当に信じられないほど残虐であったので、イヴァン四世はイヴァン・グロズヌイと呼ばれた。『ひどいイヴァン』の意味だ。
趣味は拷問と虐殺、裏切り者の粛正、それに何故か神への信仰である。
貴女は、彼の残虐と信仰を、矛盾と思われるかもしれない。
しかし世界創造紀元7069年においては、まったくふつうであった。彼は偉大な統治者でもあった。

コーカサスの夏の夜であった。
第三夫人房の門に、三頭立ての馬車が激しくぶつかってきた。衝撃とともに、野卑な男たちの笑い声が第三夫人房に響き渡った。
房のあちこちから女たちの悲鳴が上がる。丸太を麻縄で縛り付けた木の柱が、ばらばらに飛び散った。火急を告げる鐘が鳴らされた。
警護の兵たちは馬術が巧みだ。色めき立って馬に乗り、槍や弓を構える。

「何なのです!」
第三夫人が房の居間で叫んだ。「クシェネイ、貴女はお隠れなさい!」
15歳のクシェネイ王女は生きた心地もしなかった。女奴隷のスネジュナヤががっしりした手でクシェネイの柔らかい体を掴み、クシェネイの寝房に連れて行く。
「ああ、神様……」スネジュナヤは呟きながら、コーカサスの民族衣装である、裾が膨らんだ長上着から短剣を取り出し、構えた。
「……スネジュナヤ……ああ、戦争なの?」
クシェネイは、膝から下がほんとうに震えているのを感じる。倒れそうだ。
「ク、クリミア・カン国が攻めてきたの……? お父様は講和したって……。 オスマン帝国……? あ、あんな大帝国を相手にいくさをするの……」
スネジュナヤは意外に冷静だ。二〇歳半ば過ぎといったところであろうか。体格に似合った、低い声で言う。彼女は女奴隷である。
「いくさの話は聞いておりませんわ。いきなりこの第三夫人房を攻めてくるのはおかしゅうございます」
「では、何なの」
「わかりません。夜盗でしたら、警護の者たちが何とかするはずでございます」

 

次の瞬間、すさまじい音と振動が第三夫人房全体を揺さぶった。
大砲の音が聞こえた! クシェネイもスネジュナヤも抱き合って悲鳴を上げた。
父王の片腕たる、書記官の怒鳴り声がする。
モスクワ大公国(モスコヴィイ)の者たちが、クシェネイ王女を連れてこいと申しております!」
警護の若者たちは血気盛んである。
「ふざけるな、我らの王女になんと無礼な!」
「モスコヴィイだと!? 北の外れの田舎者ではないか!」

テムリュ・グキ国王が、第三夫人房の居間に現れた。「静まれ、我が兵士よ」
老けても相変わらず美男だが、眉間には苦悩の皺が寄っている。
「クシェネイを連れて参りなさい。クシェネイはモスコヴィイの大公に()す!」

「へ、へ、へ!」
数人の騎兵……兵なのかごろつきなのかよくわからない……が、笑いながら、馬に乗ったまま居間に入ってきた。ペルシアの美麗な絨毯が、泥のついた蹄鉄に踏みにじられる。

ああ、我が祖たちはなんと野蛮で無礼なのか!

「クシェネイ王女を連れて参れ!」父王の声が、がらんとした第三夫人房にこだまする。
クシェネイはびくりと体を震わせた。スネジュナヤにも、声が聞こえたらしい。「クシェネイ様、父王陛下がお待ちです。行きましょう」
「……い、いや。怖い」
スネジュナヤはクシェネイより頭一つほど背が高い。ヴェルヴェットの長上着()を締めた、細いウエストを抱え、腕を引っ張って無理に立たせた。
「貴女様は王女なのです。父王陛下のおっしゃる命令には従わねばなりません!」

 

「……いや。モスコヴィイなんて」
クシェネイは脚が動かなかった。涙があふれてきた。刺繍をした軽いフェルトの靴も、何度もスネジュナヤや母上から寝物語を聞いた寝房、ステンドグラスのランプ、オスマントルコのお菓子、子供のころのすべてが涙でにじんでいく。
庭の池には、まだたくさん魚を放しているのに……。

 

明国の紙で作った人形、インドの香料、ヴェネツィアの仮面、嫁入りの時に持って行かせようと母が用意してくれた象嵌した長持……、楽器、面白い書物、花嫁衣装、贅を尽くしたイタリア風のドレス、娘に甘い父が特別に職人に作らせた、膠を塗った釣り竿、裁縫箱。
クシェネイの大切なものはすべてがバラバラに置かれ、持って行くどころではない。

 

スネジュナヤに引きずられ、モザイクを貼った石段を走って行く。居間には父王と母王妃がいた。
「クシェネイ、モスコヴィイ……いや、ルーシは大国だ。我らと同根の国、アストラハン・ハン国もカザフ・ハン国も占拠された」
父王が言う。「おまえは我が国の民のためにも、ツァーリの心を(やわ)らげるのだ……」

 

「ツァーリって何ですの……」
スネジュナヤが言った。
「皇帝という意味です」

 

まったく無礼なことに、たかが使者たちが、クシェネイ王女の腕を掴んだ。そのまま小脇に抱え、馬を走らせはじめた。
狭い通路を、横抱きにされながら馬がすり抜けていく。クシェネイは生きた心地もしなかった。

「嫁入りの支度をするまでお待ちください!」
クシェネイの母の声も消し飛んだ。使者のなかでは偉いのであろう、脚元までぞろりと長く黄色い、奇妙な服を着た、ひげ面の大男が国王の前に金貨を投げた。髪もひげも伸び放題で、結ってさえいない。下手なトルコ語で言う。
「花嫁の買い取り金だ!」

夜の庭に出た。月は明るく、白い小さな花が夜の地上でぼんやり光っていた。
頭だての馬車が停まり、火縄銃を担いだ兵士たちがたむろしている。
「それ! 王女様だ!」
クシェネイを馬上で横抱きに抱えていた騎兵が大声で叫んだ。
「はは! 我らの王女様だ!」

騎兵がクシェネイの細いウエストを抱いた腕を、勢いよく伸ばした。クシェネイは馬から放り投げられたわけだ!
クシェネイは叩きつけられるように、庭に立った三人の兵士のぶ厚い胸や腕に受け止められる。垢と屎尿、酒の匂いがした。
そのまま、ドレスと腕を掴まれ、馬車籠のなかに放り込まれる。何が起きているのか、クシェネイにはまったくわからない。

モスコヴィイの迎えを騙る山賊にさらわれるだと思った。大きな目も優しい曲線を描く鼻も涙や鼻水でつまり、息もできなかった。

 

「わたくしも行きます!」
女奴隷のスネジュナヤが、馬車籠に駆け込んできた。
「スネジュナヤ、頼みます。ああ、クシェネイ! せめてこれを持って行きなさい」
母上が馬車籠の窓越しに渡したのは、膠を塗った釣り竿だった。
一瞬、クシェネイはあっけにとられた。守り袋に入った宝石でも、懐剣でもない。
「何で……」
「ウラー!」馭者が叫んだ。

 

馬車は混乱する第三夫人房を乱暴に離れる。
勇んで追いかけようとする騎兵たちを、国王が止めている。「王女も覚悟ができている。余はそのように育てた」
……クシェネイはそのように育てられた覚えはなかった。
「お父様、お母様!」

 

スネジュナヤの大きな胸に抱きつき、泣き続けた。
「どうなるの……これから。嫁入りは覚悟していたけれど、でも、……こんなひどいのは、人さらいではないの……。わたくしは殺されるの……?」
スネジュナヤがクシェネイの顔を、自らの胸から引き剥がす。がっしりした手で思い切りクシェネイの頬を叩いた。

激しい平手打ちの音に、馭者が笑いだした。スネジュナヤがクシェネイに叫ぶ。
「いい加減になさい。貴女様は王女でしょう! 小国の王女など、このようなときに人身御供になるために飼われているのです! ルーシの軍が貴女様の故国になだれ込んでも良うございますの!」

クシェネイは気が弱いが馬鹿ではない。
が、いくら中世の人々が現在より大人びており、不条理に慣れていたとしても、15歳の少女には、こんな乱暴な結婚の状況など重荷に決まっている。
クシェネイの黒く、大きな瞳から、涙がまた溢れてきた。スネジュナヤは窓枠に肘をつき、外を眺めている。抱きつく相手はもういない。馬車は揺れ続ける。

馬車と数十頭の馬上の兵たちは夜を徹して走り続ける。
時々下品に笑う。「このままこの女を食ってしまいたいな!」
「生娘でなくなったらツァーリに殺されるぞ……串刺しだ」

何故かクシェネイは彼らが何を話しているかわかる。スネジュナヤに聞く。「……あの人たちが話しているのは何語? 意味が……わかるのだけれど」

「あたくしがお教えいたしましたもの」
素っ気なくスネジュナヤが言った。
「あたくしはルーシの南部に住んでいました。生粋のルーシ人です。
クリミア・ハン国の騎兵が略奪に来て、黒海の奴隷市に売られたのですわ」
「……じゃあ、スネジュナヤは故国に帰るの……?」
「そういうことになりますわね。でも故郷はもうありません。貴女様方の『テングリの民』が略奪に次ぐ略奪をいたしました。家族も夫も殺されましたわ。ですから貴女様と宮廷に行きます。今度こそ、少しは良い目に会えればいいのですけれど」
馬車は、コーカサス山地の険しいカーヴを速度も落とさずに曲がる。

その勢いでスネジュナヤのがっしりした体がクシェネイに押しつけられ、馬車籠の窓枠に頭をぶつけた。
窓枠からコーカサスの高く険しい山々が見えた。クシェネイの父の国はコーカサス山地の北にある。山に遮られて朝が来るのは遅い。
馬車はひたすら北上していく。常に視界に入っていた、険しく角張った山のシルエットが後ろへと去って行く。
クシェネイ王女は、馬車の揺れで今にも吐きそうだった。