第13話 アクリナが領主様に怒られるだけの話

領主様とアクリナは生まれも育ちもまったく違います。当然、常識も違います。
無駄に教養のある領主様は、アクリナを理解しようとしますし、ご自分の常識と違うことをアクリナがしたり考えたりするのも、逆に大きな魅力のひとつだと思っています。
なのではありますが……。
やはり耐えられない事柄というのはあるようです。
(それに領主様はあれでも自制していますが、わがままです)
※ 注意 少々汚くグロテスクな描写があります。
官能的な場面が、ほんの出だしだけあります。
※イアぜんぜん活躍してません。

4月28日,1831年

Я家キノコ部長アクリナ・ニコラエヴナはこの称号をいたく喜んだ。嬉しがって手紙にも書いてくる。

領地は春の光に照らされ、農耕とともに動きはじめた。牛が鋤を牽き、土を耕す。黒土に畝を作り、春蒔き小麦の種が撒かれていく。
私は毎年来る英国人の穀物商二人を畑に案内し、どちらが高く買ってくれるか天秤にかけつつ、もてなす。
英国で工業化が進んでいるぶん、我が国に穀物の輸出を頼るようになってきている。そして我々の小麦の収穫率の悪さに呆れたそぶりをする。
我が領地は、国内では比較的南部という地の利、それに有能な領主の農学知識とで、かなりましなほうだ。

いつもの商人に交じって、ロンドンの郊外に、巨大なパン工場を建造中だという英国人が見に来た。まだ種を蒔いている最中なのに。
私が、彼の地の大学に行っていたとき、農学部に潜り込んで知り合った人物であった。人脈というのは何に生きるかわからない。……というより、支配階級は繋がっていて、お互いのためだけに利益を与え合って世を動かしているのだ。
私はたかが辺境国の中規模の領主に過ぎないから大したことは知らないし、『おかげを被る』こともほとんどない。

さらに園芸の盛んなオランダの商人が種籾を売りつけに来る。
オランダ商人には一度騙されたことがあるから、私はもちろん嫌がらせをする。応接室に通し、にこにこ笑いながら……(我が国では面白くもないのに笑うのは嘘つきで無作法だ)、無茶な要求をする。
『やはり、新しい品種を入れるのは冒険ですからねえ。
50デシャティナぶん【* 1デシャティナ=10925.4㎡】の小麦の種を五年ぶん見本にくださいませんか。五年間でどう育つか見たいですね。
あとは珍しいチューリップの球根もつけてくだされば考えてみましょう』

ついでに何故か、誰もやりたがらない放牧地の一サージェン四方(2.1メートル四方)の赤蕪畑をイアと私で鋤を持って耕す。イアは樽洗いにせよ、洗濯にせよ、使用人や農民の仕事を嫌がらない。むしろ好奇心を持って望む。妙な令嬢だ。それはイアの数少ない? 美点だ。
もっとも白い手の貴族として産まれた私とイアなので、作業は遅々として進まない。ついでに畑仕事は一日二時間までだ!

「ボンネットをちゃんとかぶれ。令嬢が日焼けしてどうするのだ」
「お義兄様うるさい!」
イアが叫ぶ。イア用の農作業洋服を着ている。緑色のサラファンに麻のルバーハと手袋、これだけは立派で令嬢らしい大きなボンネットだ。ひまわりの造花がついている。イアはひまわりが似合う。なんだか、こう妙に空虚に明るく馬鹿っぽいところが。
「ご令嬢に畑仕事をやらせるお義兄様のほうがどうかしているわよ!」
「レオニードなんぞと結婚しなくて済むように、花嫁修業だ」

イアは勝手に話題を変える。
「『キノコ部長』ってマダーム・アクリーヌのことなの? 何その名前」
「あの人はキノコを育てて我が家に貢献してくれる。で、リザヴェタが役職をつけてやった。本人も喜んでいる」
「馬鹿みたいな名前だわ。キノコが部下みたいじゃないの」
……まあ確かにそうだ。
「キノコって殿方の『特有のもの』に似ているって本当なの」
「……キノコに寄る。見たければイヴァンが『むつき』を変えるところを見て良い。触っても良いぞ」
イアが想像しているのはマッシュルームに違いない。最近は何故か発情している。レオニードのせいではないと思うが……。
「レオニードはやめておけ。はっきり断れ。……西南の隣家の、以前の領主が人を見抜く力のある老人でね。『閨では退屈そうだ』と一目で喝破していたぞ」
「何でそれが『人を見抜く』ことになるのよ」
「いや待て。まだ断るな。農奴たちの『出会いの会』まではバシュキロフ家と仲良くするのだ」
「お義兄様って結局そんなことしか考えていないじゃないの!」

そこへ「領主様、喧嘩です」とか「鎌が折れた」とか「馬が暴れている」とか、「うちの亭主が酔っ払って畑に行こうとしないので、起こしてください」と涙ながらに訴える農奴の婦人なんぞがやってくる。
……領主というのは雑用係なのだろうか。ふつうの領主は違うと思うのだが。

……そんな状態で夕方になり、疲れきった私は、馬の後ろにイアを乗せて戻り……ああ、レオニード・バシュキロフからの贈り物が山のように届いている。
農作業で泥だらけだ。私は一階の、召使い用の部屋やら洗濯場のある場所に向かう。小さな浴槽を置いた部屋があるのだ。水風呂に入り、汚れを落とし、髭を剃る。
玄関間から二階へ向かう階段の途中で、イヴァンを抱いたリザヴェタに会った。新しいシャツとフロックに着替えたが、髪は濡れているし、風呂に入ってきたのは一目瞭然だろう。
私は階段の途中でリザヴェタに『愛しています、奥様』と言って頰に軽くキスする。私が上機嫌なのは見え見えであろう。
リザヴェタは『ええ、はい、わかりましたわ』と子供をあやすように答えるのであった。
ほとぼりも冷めたと思う……ので、いちおう洒落たクラバットを巻いて、アクリナの家に出かける。

馬を出した時は嬉しくて仕方がなかった。
アクリナの森の家に泊まるのは何日ぶりだろう? リザヴェタと仲違いをしてから行っていない。仲違いというより私が悪いのだが、ともかく帰ってきてくれた。
今日は4月28日だ。4月13日くらいから、アクリナのところに行くのは、……昼間少々話をしに行くくらいで遠慮していた。二週間ぶりに、やっと堂々と森の家のキノコ部長のところに行ける。

夕方とはいえ、もう四月も末である。西の森を通る道は、木々の枝と新芽を透かして、夕焼けの朱色が道にまで届く。鳥が鳴いていた。がさりと音がするので振り向いたら、鹿がじっと私を見ていた。
五時半だが、まだ陽は落ちないであろう。
アクリナの家の前庭の数本の白樺はすっかり芽が開いていた。厩舎に行くと、おとなしい雌の老馬がじっとしていた。通いの小間使いドロシダが乗ってくる馬だ。
彼女の勤める時間は七時までだが、場合によっては早く帰すのも良いと思う。
私は馬を降りると、絹の帽子を一旦取り、軽い癖とまだ艶のある黒い髪を手櫛で後ろに撫でつけ、ふたたび帽子をかぶりなおした。もっと洒落てくれば良かった。
私はわくわくしていた……。アクリナもずいぶん待っていたであろう。あの、柔らかくなった象牙のような、三日月のような体は私の腕にぴったりはまる。そう、あれは私に抱きしめられるための体だ。
玄関の扉を叩く。「アクリーヌ、領主だ」

扉を開けたのは小肥りの娘で、十四歳かそこらだ。
本名はアグラフェナで、『グリンカ』と呼ばれている。【* イアの話『小骨遊び』参照】
母屋の洗濯女だったが、テレージン家の下働きになり、ついでアクリナの下働きに移った。

「……領主様?」
少し知恵が足りない娘だが、悪いことは考えないし、命じられたことは何とかこなす。それに力持ちであった。
アクリナの家は森のなかの一軒家だ。夜には警備のクズマ、クズマが週に一度の休みの時にはヒローシャが来るとはいえ、不用心である。住み込みの下働きの娘が欲しかった。だいたい、アクリナに水汲みだの洗濯だのというきつい労働は、もうさせたくなかった。
とはいえ、この家で働く者は口が固くなければならず、ちょうど良い者はなかなかいない。知恵が足りないグリンカは逆に良いかもしれない。

「……ほんとうに領主様が来るなんて」
グリンカが言った。
「ああ。アクリナ・ニコラエヴナは?」
「奥の……居間で、ドロシダさんとご本を……」
私は絹の帽子を玄関間にかけ、春の外套を脱いだ。

アクリナは居間の食卓にいた。食卓の隅には、硝子の簡単な花瓶に、早く咲いた西洋ナナカマドの白い清楚な花が飾られている。
アクリナはうつむき、書物を広げていた。一生懸命、かすれた声で本を読みあげ、ドロシダに聞かせている。素晴らしい光景だ。
とても夢中になっているので二人とも私に気づかない。
……私は、私の来訪にアクリナが大喜びをすることを期待していた……が、まだ私に気づかない……。
少しがっかりする。
しかし、三十を過ぎて文字を覚えたアクリナが、小間使いのために本を読んでやっている姿はいかにも懸命で、愛おしい。
何を読んでやっているのであろう。ドロシダにならば手芸の本か何かだろうか?

「領主様!」
ドロシダが振り向いた。
アクリナが本から顔をあげた。藁色の髪を二本の三つ編みにし、さらに結い上げ、少しほつれた毛が、額からすんなりした鼻へと続く白い顔にうっすらと影を落としている。薄暗くなってきた室内で、藁色の髪や白い肌は緑がかって見えた。いつもの黒い皇帝様式のドレスにショールを巻いた姿だ。
ドロシダが慌てて立ち上がった。「いらっしゃいませ」
「別に立たなくて良い。何を読んでいるのかね」
アクリナが私を見て顔を輝かせている。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……」
「来るのが遅くなってすまない」
ドロシダが台所に飲み物の用意に行く。

「紅茶とクワスと、ワインとどれが……」
アクリナが立とうとするので私は向き合って座り、手をしっかり握って立たせないようにする。
「痛いですわ」
何故か嬉しそうだ。
「なんの本だね。おまえが読んでやっているとは」
「ドロシダが母屋の方に借りてきた占いの本です。母屋には読める人が……。いても皆様、偉い方で頼みづらいのだそうです」

ドロシダが台所から輸入物の白ワインを持って来て、私のグラスに注ぐ。
「占いか……」
恐らく私の声は多少白けていたであろう。
私は占いがあまり好きではない。それは私が恵まれているからであろうし、頼りにせざるを得ない娘たちの気持ちは想像できなくもない。
しかし、新年の夜中に将来の夫の顔が鏡に映るなどというのはあまりに馬鹿げていないか。夫は化け物か?
我が民族では特に占いが好まれ、年末年始の降誕祭前後は老若男女を問わず占いばかりで辟易(へきえき)する。
おまけに十代のころには、『貴男様のお顔が鏡に映りました』などと、農奴の、十歳になるやならずやの小娘たちが迫ってきたものだ! 十歳だの十二歳だのの小娘をどうしろというのだ!
私はアクリナに言う。
「……占いか。皆、やり方もよく知っているのではないかね?」

ドロシダが説明した。「誰かが本の行商人から買ったそうなのです。なんでも西ヨーロッパで、昔から研究されている占いで……」
ドロシダは主人同様、無口で物静かな女だが、何だかはしゃいでいる。「とても当たるそうなのですわ」
「ふうん……」
私はタイトルを見る。『星座占い』だ。つまり占星術だ。西ヨーロッパでは陳腐きわまりないものだ。

アクリナが本を持ち、楽しそうに言う。
「まだ内緒ですわ。ドロシダには素敵な方が出来かけているそうなんですの」
「ああ、なるほど……」
「アクリナ様、や……領主様にそんなことをおっしゃらないで……」
小柄で黒い髪のドロシダは、そばかすの多い顔を赤らめる。家令様に諫め言を言う勇ましい小間使いも自分の恋には弱いのか。それに正直なところ、ドロシダが自分の恋を打ち明けるほど、アクリナを信頼しているのには安堵した。

「ドロシダ、それは良かったな」
まあそういう状態で、珍しい占いの本が手に入れば、物静かなドロシダとて女主人に頼んで相性を調べてもらいたくもなるだろう。
アクリナは我がことのように喜んでいる。
本のページをめくる。
「相性はとても良いのですって。ドロシダは水瓶座で……頭の良い方が多い星座なのです。相手の方はええと……天秤座、調和のとれた穏やかな方」
盆を抱えた小柄なドロシダが慌ててアクリナに言う。
「あ、あたくしのことなんかどうでも良いですわ。せっかく領主様がいらしたのですから、お二人のことを占ってくださいまし」

私は白ワインを飲んだ。なんだか複雑な心境だ。
小間使いの恋を無邪気に喜ぶ女主人アクリナ(キノコ部長)、それは彼女らしくて、たいそう可愛らしいのであるが、……私は占いが好きでは無いどころか、改めて考えてみると、どうも大嫌いであった。
しかも星占いは特に嫌いだ。
アクリナは物珍しそうに星占いの本をめくっている。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……貴男様のお誕生日は1月13日で……山羊座というのですね。あたしが聖アクリナの日で6月13日ですから、双子座。一人で生まれたのに双子座って変ですわ。ほんとうはどこかに双子のきょうだいがいるのでしょうか」

「いや、あのな……アクリナ。占星術というのはだね……」
アクリナは夢中になっている。
「山羊座の方は厳格なのだそうです。当たっています」
「……私は厳格か?」
「双子座はいい加減で嘘つきだそうですわ……」アクリナは落ち込みだした。
「おまえみたいに馬鹿正直な女は珍しいぞ」
「でも、う……嘘をつくときも……あります……」
「確かに半年に一、二度、すぐにばれる嘘をつくな。アクリーヌ、」

私は卓の正面からアクリナをのぞき込み、教える。
「占星術というのはだね。航海の方角を知るのや暦を作るのに役に立つし、それで発展してきたのだが……」
しかしアクリナは夢中になると何もかも忘れるのだ。
ドロシダがはらはらしはじめた。「あの、アクリナ様……領主様は興味がないご様子で……」
もちろんアクリナには、ドロシダの声も耳に入っていない。
「ああ、……貴男様とあたしの相性はとっても悪いそうです……」
……また泣きそうになっているのだった。

「星占いだと、くだらない。あのなあ、……アクーリャ、占星術の初めは船の航海や、暦を作るために星の動きを調べたものだ。それは有意義だ。
だが、誰かの誕生日に合わせて星座が守護するなんていうのは、意味のないところに意味を見出そうとしただけだ」
アクリナは顔を上げて、私を見上げている。呆然としつつも、目が涙であふれている!
「すみません。領主様、あ、あたくしが変な本を持ってきたから……」
ドロシダが慌てて言って、本を取り返した。

「ドロシダ、おまえの相手の男は幸運だ。うちの使用人なら、相性がどうあろうと向こうが断ろうと私が無理矢理に結婚させてやる」
「そんな、無理になんて……」
ドロシダはおろおろしている。

アクリナの目から大粒の涙が零れだした。ああ! 本当にすぐ泣く!
アクリナは文字が読めるようになってまだ五年だ。良い本とくだらない本の区別もなかなかつけづらいであろう。
私は優しく教え諭そうとした。……のだが。
「遊びなら結構だが、本気にするな。キリーナ、星占いか。……星占いね」

ずいぶん昔に見た光景を思い出す。イタリヤだかスペインの娼館の開店前である。
色っぽいなどというものでは到底なかった。
頭から川藻を垂らしたルサールカの集団のほうがはるかに美しいに違いない。
カーテンが幾重にも垂れた薄暗い部屋の中、今夜の準備をする二十人もの女たちがいて、食べ散らかした菓子が床に零れ、麻のシュミーズがむっちりとした脂肪に食い込み、平気で脚を開いて局部を拭い香水をかける。
すぐに喧嘩が起きて女衒がひっぱたいて騒ぎをおさめる。
そんなことを無視して、本が読める女は、足で素早く油虫を踏み潰しながら『あの金持ちの糞野郎』との相性を読み上げる……そして私の財布から小銭を抜くのだ。
思い出すとうんざりした。天井に掛かっていたシャンデリアまで煤けきって汚らしかった。

私はアクリナに言う。我ながら声が険しい。抑えなければ、とは思うのだが。
「アクリーヌシュカ。そんなくだらないものを読むために文字を覚えたのか。イタリヤやスペインの売春婦がよく熱中していたな。おまえはスペインの売春婦か?」
「……ち、違います。どうして……そんなにお怒りになりますの」
「怒っていない」
……いや、多分どう見ても怒っているのであろう……。アクリナのせいでもドロシダのせいでもない。彼女たちは物珍しかっただけだ。
ただ、星占いに熱中していた、ラテンの、甘く、舌の上ですぐに溶ける菓子のような女たちを思いだしてしまった。何十人かの不実な女たち……私は無駄なことをした!

「……あ、やはりほんとうに相性が悪いのでしょうか……」
木の床をうろうろしていたウサギが、後肢をターンと床に叩きつけた。
アクリナのこの言葉が、私の怒りの引き金を引いた。
久しぶりにゆっくり会えて嬉しいのに、止まらない。しかも、ああ! 少しずつ落ち込んで行くアクリナが可愛い……。
グリンカが驚いて台所から顔を出して見ている。
「相性? ふん、おまえほど抱き心地の良い婦人に会ったのは初めてだがね。
私が相性の悪い婦人に五年も夢中になっているとはね。
ふうん、たいした道化ではないか。高い金を出してシベリヤから買い取って連れて来て、家まで建てて、その上、求婚までして振られて!」
ドロシダが呆気にとられている。「求婚……」
彼女は口が固いから構わない。

「……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……あ、あの。愚かなことに夢中になって申し訳ありません……」
アクリナは顔を真っ赤にして泣きながら、何度も私に謝る。私は手巾を出して、そっと涙を拭いた。
「アクリナ、星占いには何の裏づけもない。それに立派な正教徒が占いに熱中して良いのか。
占いには博打めいたところがある……良い結果が出なければ一日の気分が台無しになる。特におまえは落ち込みやすいのだ。遊びだろうと、おまえの心持ちのためには良くはない。聖ニコラに祈るほうがよほど良い」
「はい……でも……」
アクリナは私を怖がっているくせに言い返すのだった。(この女は内気で臆病にみえるが、じつは図太いのではないか?)「あ、……貴男様は星占いに何の裏づけもないとおっしゃいますけれど……」
「ふうん。裏づけがあるのか。全然知らなかった」
私は椅子に横向きに座り、足を組んだ。

家令様にまで諫言をするドロシダは、もちろん領主程度は平気でなだめようとする。
「あ、……あの、領主様、どうかアクリナ様をお許しください。あたくしがお願いしたご本を、ただ読んでくださっただけです……」
「ドロシダ、あ……良いのです。りょ、領主様はあたしを導いてくださっているのです……全部、あたしのために。特別な恩寵なのです」
アクリナの瞼が赤く染まるのはきれいだ。
しゃくりあげながらも、私をうっとりというか、砂漠の洞窟修道院で半年くらい祈ったあげく天使が出現したのを見た修道士のようなというか、若干の色情も混じり、とにかく上手く言えないほど恍惚にあふれた表情を浮かべて見あげている。(……たまたま領主の嫡男に生まれた以外、大した男ではないのに)
『恩寵』だと本当に思っているらしい。

「あ、あの……あたくしとグリンカは失礼します」
「ドロシダ、おまえにもグリンカにも怒らない。白ワインをもう一杯くれ。アクリナにはクワスを。アクリーヌ、おまえもワインにするか?」
「……いえ、クワスが良いです」と言いながらアクリナは泣き続けるのだった。
「はい」ドロシダは台所に下がる。

ドロシダが白ワインとクワスを持って、食卓に置く。
アクリナが星占いが信用できる理由を話しだす。乏しい語彙をかき集め、呟く。
「あ、あの。エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。だって星は……」私は意地悪くドロシダを居間の食卓の横に立たせておく。
「ドロシダ、おまえも聞いておけ」
ドロシダもしょんぼりしている。自分のせいで女主人が、情夫というか持ち主に虐められていると思っているのだろう。
アクリナはつっかえながら、何とか口に出す。
「……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。だって夜空は大きな木が支えていて……」
スラヴの伝説の『世界樹』だ。
「空は怖いほど高いところにあって、大きな……あの、聖ヴァシリー寺院よりずっとずっと大きなキューポラ【* ロシアの教会にある玉葱型の屋根】になっていて、……星は、空に開いたたくさんの窓で、どの星からも天使がのぞいているのでしょう……? 」
【* 文末参照】

私は唖然としながら聞いていた。
……これは皆スラヴの古くからの伝承だ。少々、アクリナの想像も入っているかもしれない。あるいはアクリナの母のマトロナか、さらにその母の。
「それなのに星が、人の運命に影響しないわけがないではありませんか……。貴男様を見守る山羊座の天使と、あたしの双子座の天使が仲が悪かったら……」

私は圧倒されながら聞き続けていた。
私のアクリナは、太古の異教時代……キエフ公国の大公ウラヂーミルが、キリスト教東方正教会の洗礼を受け【* 988年】、土着の雷神ペルーンの像を川に流す以前……から生きているのではないかと、ふと思った。
……そして決してアクリナの信仰に口を出さないと決めたことを思いだした。
アクリナは泣き崩れ、食卓に突っ伏し、体を硬くしている。せっかくドロシダが持って来たクワスにも手をつけていない。

私は立ち上がり、卓をまわってアクリナの隣の椅子を引いた。椅子に腰掛け、突っ伏したドレスの背中を掴む。黒い絹地を掴んで引っ張り起こすと細面の陰気な顔は涙でいっぱいだ!
「おまえはもう……」
私はアクリナの顔を手巾で拭く。背中に手をまわし、さらに下睫毛から溢れてくる涙をそっと口先で吸った。
「高い光の窓に天使か……おまえの宇宙は素晴らしいな。スラヴの魔女らしい。ラテンの魔女よりスラヴの魔女のほうが……私はずっと」
グリンカは、私がアクリナを抱擁し慰めるようすを見て驚いていた。
慣れたドロシダは、グリンカを連れて静かに台所に引っ込む。

アクリナが涙声で言う。
「え……、もしかして、スペインの娼婦の皆様のことを思い出して、お怒りになったのですか」
アクリナはぼうっとしているくせに鋭い。
「……ええ、ああ? まさか、違う。占いは賭博に似ているからだ。根拠もないことに一喜一憂するのは良くない。
かなえたい願いがあったら話しなさい。一緒に考えよう」
「スペインは……あの、領主様が西ヨーロッパにいらしたころには、我が国と国同士のおつきあいをやめていたのでは」
何でそんな難しいことを知っている!
「おまえは賢いな。……その気になればいろいろ方法はあるのだよ。旅券を偽造したり……だから、かなえたい願いがあれば私に言いなさい」
私はアクリナの細い背に両腕をまわし、涙に濡れた顔を私のクラバットに押しつけさせる。
「……ドロシダがお相手とうまくいって欲しいです」
……優しい。泣きそうになってきた。

「ドロシダ、来たまえ」
私はドロシダを呼ぶ。きまり悪げに、ちょこちょことドロシダが居間に戻ってきた。私がアクリナの背をそっと撫でているのを見ないようにしている。
「我が家の『キノコ部長』はおまえとお相手がうまく言って欲しいそうだ。私もおまえには幸福になってもらいたい。相手は誰か聞いても構わないか? 協力するから」
「あの、領主様、無理矢理はおやめくださいませ……」
「そんなことはしない。私がわがままを言えるのはここでだけだ」
私は思わず溜息をついた。穀物商人やら農奴の中でも争いの絶えない連中やらイアやらのことを思い出した。
「あ、あの……」ドロシダはためらっている。「他の方にはお話ししないでいただけますでしょうか……」
「もちろんだ。領主を信用しないのかね」
「……馭者の……」
「ええ! ヒローシャ?」
「ち、違います。イーゴルですわ」
イーゴルは三十ほどの穏やかで、なんだか細長い男だ。背は中肉中背の私より少し高い程度なのだが、顔が細長いためか手足が長いためか、妙に細長く見える。
「ああ、あいつか。無口で良く働くし口が固い。おまえとなら堅実で良い夫婦になりそうだ」

「ふたりとも好き合っているそうですの」
アクリナが涙声で言う。「ただ、イーゴルのご両親は他の県にいて、許可を得てからにしたいと……」
「ふむ。真っ当だな。私が手紙を出そうか?」
「でも、ご両親は文字が読めませんわ。まわりの方も……」
「いや、郷庁なり主教なり、その地の有力者に手紙を出して、イーゴルの両親に連絡してもらう」
ドロシダとアクリナの顔がさっと明るくなった。
「ま、まあ! そんな方法があるなんて! 領主様、ありがとうございます」

「いや、たいしたことではない。手紙を書くのもあっという間だ。ドロシダ。明日の正午に、イーゴルと一緒に領主館の書斎に訪ねてきなさい」
「はい。領主様、ありがとうございます!」
ドロシダにこんな弾んだ声が出せるとは知らなかった。
「ドロシダ、おまえは今日はもう良い。イーゴルに知らせに行きたまえ。この時間なら厩舎にいるだろう」

ドロシダが嬉しそうに早退の支度をはじめた。
「鍵を確かめていってくれ」
ドロシダが弾んだ声で『もちろんですわ』と言って、出て行った。
私は隣に座ったアクリナに言う。
「水瓶座と天秤座でうまくいくだろうよ」
「も、もうお許しください。二度と星占いはいたしませんわ。で、でも……恋をする娘が占いをしたくなる気持ちはよくわかります」

「純粋に恋ならばね……」
私は白ワインを飲む。森の奥の小川の水で冷やしているので冷たくて美味い。
「薄暗い帳の中で、半裸で油虫と南京虫を上手に潰しながら『とにかく相性の良い金持ちを落とす』とか、『この相手にはどういう手練手管がいいか』占っているところなんかを見てしまうと、百年の恋も冷めるぞ」
アクリナはじっと考えている。
「貴男様は、……スペインの娼婦に百年の恋をなさっていたのですか」
「いやいや。ああ、ただの社会見学だ」
私はアクリナの背を抱き、耳元で囁く。
「……私が大人になってから、ほんとうに恋をしたのはおまえだけだ」
嘘ではないのだが……私が口にすると嘘っぽくなるのは何故なのだろう。

「……嘘でも嬉しゅうございます」
「だから嘘ではないのだが……。何で嘘をついてまで好きでもない女を置いておかなければならないのだね」
「……あ、確かに、そ、そうでございますね……」
アクリナはぎくしゃくしている。そして、赤い目で私を見あげる。
多分口づけして欲しいのであろう。私に撫でられている背は、久しぶりに会って荒い呼吸で震えている。「……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……あの……」
ものすごく小さな声で『抱いてください』と言う。
「うん。……そのまえに夕食はあるか? 軽いもので良い。昼から何も食べていなくてな。今日は畑仕事までしたので空腹だ」
「はい。あ……あの、そうでございますよね」

アクリナは立ち上がって台所に行こうとした。
ノックの音がする。やたらに元気な少年の叫び声が聞こえた。
『領主様(馬がいるからわかったのであろう)、アクリナ様! クズマです。これから見張りをいたします』
「クズマ。ご苦労」
アクリナは台所に向かいながら、クズマに声を掛ける。
「あ、クズマ! ちょっと待って」
『はい。アクリナ様!』
台所では、ペチカで煮た鍋蓋を開けたらしい。肉入りセリャンカ【* 濃いめの肉や魚のスープ】の良い匂いがする。
「グリンカ、これをクズマに持っていってあげて」

グリンカが盆を持って台所から出て、私のいる食卓の椅子の横を通り、ゆっくり歩いていく。たっぷり肉の入ったセリャンカとキノコのマリネ、黒パン、ルバーブのジャムまでついた立派な夕食だ。玄関間に盆を置いて、鍵を開け、クズマに盆を渡す。
「お。グリンカ、ありがとな。うまそうだ」
私に気づいて頭を下げた。
「領主様。これからしっかり見張ります!」
「ああ、頼む。ボリスがおまえに感謝していたぞ」
照れ笑いをしてクズマが出て行った。

グリンカは住み込みだ。ただ、私が来た夜は、この森の家の中は独り身の娘には見せられない状態になる。
私はグリンカをキノコ小屋二号に泊まりに行かせるつもりであったが、まだ良いだろう。アクリナが食事を出し終わるまで手伝わせよう。

私はぼうっとしていた。台所からかすかにアクリナが手早く料理をする音が聞こえる。さすが元料理女だ。
森の家は落ち着く。
玄関間を入るとすぐに居間兼食堂で、六脚しかない食卓が置かれている。食卓の向かいにあるのは薬草を入れるために特注した、小引き出しのたくさんある大きな薬棚だ。
質素な民衆の家具や置物と、私が与えた豪華なものが混じっている。
金色に塗った曲げ木に囲まれた皇帝様式の鏡、置き時計、凝った色硝子のランプ、金の燭台、ハンガリー水の瓶、香油、そんなものに混じって、木版の正教の暦、それに我が国の地図が貼られている。今、アクリナは地理に凝っているらしい。

薬戸棚のとなりには小さな書架があって、アクリナの好きな本が並んでいる。アクリナは、リザヴェタと違い、小説や物語を理解して楽しめる。むしろ夢中になりすぎる。本棚の本もどんどん増える。
もちろん聖書、それに我が国の物語では、絵本になった『火の鳥』、『ヤロスラヴナの嘆き』【* 『イーゴリ遠征物語』(古ロシアの名作。12世紀末)の名場面】などがある。
私が訳してついでに若干改訂した少々エロティックな本が何冊もある。
『エヴゲーニイとアクリナ』(原題は『ロミオとジュリエット』という)、残酷な場面は抑えに抑えた『ソドム120日』、『若きエヴゲーニイの悩み』(許婚のいるアクリエッテという気高い娘に恋をしてしまうドイツの青年の話だ。最後は許婚が身を引いてハッピーエンドにした)、『アクリーヌ・ヒル』(アクリーヌ・ヒルという娼婦を巡る好色小説)、意訳の短縮版とはいえ、ずいぶん訳したものだ。……どこかで売れないだろうか?
……それにフランス料理の本や魚や動物の図鑑である。
アクリナが台所に行った後には、椅子に自分で編んだ黒いショールが掛けられていた。
そしてもちろん兎たちが跳ねる。この場ごと、愛おしくて死にそうだ!

グリンカが盆を持って来る。あの、クズマに持っていった美味そうな肉のセリャンカだ。
「グリンカ!」台所からアクリナの声がする。
「グリンカ、そのセリャンカは領主様にお出ししてはいけないと言ったでしょう」
「あ……はい。アクリナ様」
私はグリンカに訊く。「どうして駄目なのだね。たいそう美味そうだが……」
「え、アクリナ様が。これはあたしたち召使いが食べる料理だって。高貴な人に出しちゃいけないんだって」
「あたしたち召使いね……。グリンカ、それは誰のことかね」
「え? え……あたしやアクリナ様やドロシダさんや、クズマです」

「グリンカ」
私は太り(じし)のグリンカの肩を軽く叩きながら、立ち上がった。「アクリナ様は召使いではないのだよ」
「でも、アクリナ様が……そう言ったんです」
「それはアクリナ様の間違いだ」
私は居間を抜け、柱で居間と仕切られた台所に入った。アクリナが呆然としていた。怖そうに私をうかがう。
「あ……あの」
「『あたしたち召使い』って何なのだね」
「あ……あたしは貴男様の農奴で召使いですわ」
「身分はそうかもしれないけれどね。アクリーヌ、おまえは私の恋人で『Я家キノコ部長』で、要するに我が家でのおまえは『召使い』などではない。謙虚なのは良いが、自己卑下はするな。私はおまえに良い暮らしをさせたいのだ」
「は……はい。ありがとうございます……」
私は蓋付きの大鍋に入れられた肉のセリャンカを見た。
胡椒がきいている。美味そうだ。「で、何故このセリャンカを、私が食べては駄目なのかね」

アクリナはうなだれて消え入るようだ。ドレスの背中はくりぬいたように開いている。うつむいて露わになったうなじから、肩甲骨の半ばまで剥き出しになり、そそる。うなじから背の下まで接吻していきたい……。その背がかすかに震えている。
何なのだ?

「今日、貴男様がいらっしゃるとは思わなかったので……、あの、こちらに『シューバ』のサラダをつくってありますから……そちらを」
シューバ(毛皮外套)という名前のとおり、ジャガイモの上にニシンを乗せ、刻んだキャベツやら叩き潰した人参やタマネギを重ね、卵入りのクリームで覆い、どぎつい紅色の赤蕪でびっしりと覆う。上に掛けるクリームは、最近フランスから入ってきた『マヨネーズ』というものが元になっている。
まあニシンが毛皮外套を着ているような料理だ。
これはこれで美味そうではある。

しかしセリャンカの香辛料のよく効いた、濃い肉の匂いがいまそこで芬々(ふんぷん)と香っている。
グリンカが台所まで来て、言った。「美味しいから領主様にも……」
「だから、どうしても駄目なのよ。グリンカ、お願いだから言うことを聞いて……」
珍しくアクリナが召使いに注意している。……困り切った表情だ。
グリンカに訊いたほうが早そうだった。
「グリンカ、どうしてアクリナ様はあんなに困っているのかね」
アクリナは台所の隅の壁にもたれ、縮こまって震えている。婦人としてはどちらかといえば背が高めなのに、今はずいぶん小さく見える。
「星占いで叱られたばかりなのに……」
アクリナは泣きそうだ。白く細いうなじに、石榴石を吊した金の鎖がなんと似合うことか。
「別に意味もなくおまえを叱ったりはしない」
私はアクリナに言う。「私はそれほど了見の狭い男ではないと思うがね」
「貴男様がお叱りになるのは……、あ、あたしを正しい道に導くためですわ」
「ああ、そうだ。我がアクリーヌ。で、何故、セリャンカを私に寄越さない?」
……ああ、セリャンカで腹を立てている自分が情けなくなってきた。大ぶりな肉など、私は、まあしょっちゅう食べられる。別に今日、食べなくても構わないではないか。
アクリナたちのぶんの食料は領主館から出し、クズマかドロシダが持って来ている。十分な量のはずだが、肉などはクズマやドロシダ、グリンカにまで振る舞うほどには渡っていないのかもしれない。
私はアクリナ用の食料や日用品の管理を見直すことに決めた。誰かがこっそり着服しているのではないだろうな……。
そんな状態で、たまにクズマやヒローシャが猟でもして大量の肉を持って来たならば、それこそアクリナを含む『召使いたち』で食べたいかも知れない。
……いや、だが。ふだんのアクリナならば、私の分のセリャンカくらい出してくれるはずだ。この怖がりぶりはおかしい……。

「領主様」とグリンカが言った。
十四歳かそこらなのに、男のような太い声で一本調子で話す。
「い、いやああ! グリンカ。言わないで!」
十四歳の下働きの娘に悲鳴を上げる女主人もいかがなものか。
「グリンカ、言ってごらん。アクリナ様はどうして私にセリャンカをくれないのかな。
私は領主で、この土地で一番偉いのだよ。私は、おまえもアクリナ様も守って、大事にして、そして間違ったことをしたら正しいことを教えなければならない。わかるね」
「うん……いえ、はい」
「言うことを聞いたら、グリンカ、犬が花嫁衣装を着たぬいぐるみをあげよう」
(レオニード・バシュキロフの馬鹿がイアに届けた贈り物だ。何を考えているのだ!)
「犬が花嫁衣装? ……変なの」
「うん。だが、花嫁衣装がなかなか凝っていてな……」
「ああ……アミン」アクリナが祈っている。何か諦めたらしい。

「明日の夕方、クズマに届けさせよう」
私が言うと、グリンカが喜んだ。「領主様、こっち」
グリンカに腕を取られ、私は森の家の奥へとひきずって行かれた。グリンカの部屋になっている女中部屋の脇を通り過ぎ、裏口の間際に来る。裏口のすぐ外には井戸がある。
その裏口には色々な道具や漬物の瓶などがあり、そのさらに隣に囲いを作って浴槽が置いてある。

グリンカが浴槽のある小部屋の扉を開けた。
「ああ……聖ニコラ様……領主様……」
アクリナの祈り声がした。
浴槽には四月も終わりだというのにまだ日陰に残っている雪が詰められ、そして……雪に半ば埋もれて、解体しかけの鹿に斧が突き刺さっていた。
ああ、目のまわりといった柔らかな部分には蛆が湧いているのであった。いちばん蛆のすみかになりそうな内臓は取り去ったらしい。
うつろな腹腔と肋骨が見える。

私の声はそうとう険しかったと思う。「……何だね、これは」
「あ、あの。鹿です……」
アクリナがつっかえながら答える。
「銃の跡もないし、毛皮はすり切れている。何より目だの柔らかそうな部分は烏あたりがつついたようだね」
「はい……」
「死骸を拾ってきたな」
「う……はい。あたしが見つけて、グリンカといっしょに運びました」

目眩がする。「アクリナ! 行き倒れた動物の肉は食べるな! どんな病気があるかわからない!」
「あ、あの……真夏は食べません……。それにもったいないです」
「アクリーヌ、ああ! おまえはもう農奴や家内奴隷ではない。身分はそうだが、とにかく違うのだ。私の恋人なのだぞ。拾った肉を食べておまえが病気になったら私はどうすれば良い。耐えられない!」
「す、すみません……」
「もったいないと思ったら、私かヒローシャに言え。クズネツォフの長老に渡して、食べられるところだけ食べてもらうから! おまえの食べるものは、私と同じものだ!」
我が国の民は、死んだ獣の肉を拾って食べることもする。いちおう、夏は腐っている場合もあるから、よほど飢えていなければ食べない。

確かに貧しい我が国ではやむを得ないのだが……。
だが我がアクリナ・ニコラエヴナはヨーロッパ・ロシアの大領主様(ほんとうは中規模)の恋人、言わば寵姫(ちょうき)であって、そんなことはしなくて良いのに……。
「もう、おまえは……おまえが病気になったらな」
私はアクリナの怯える体を抱きしめる。
「いいか、おまえに何かあったら私もおかしくなって何もできなくなる。Я家やЯ村全員の命が危ない。それで領地に死人が出たら、おまえが肉を拾って食べたせいだ!」
「ええ! そんな、まさか……テレージン様もいらっしゃるし……」
「……我がアクリーヌは領地にとって必要なのは領主より家令様だと思っているわけだね」
「まさか。ち、違いますわ……」
「英国の穀物商人とじかに遣り取りができるのは私だけだ。ああ、アクリーヌシュカ……おまえがいなかったら私はもたない」
「何を言っておられますの……」
なんだか手の甲がむずむずすると思ったら、ああ、蛆が這っている……。アクリナは自分の手についた蛆を鹿の死骸に再びこすりつけた。後ろ肢の蹄がこちらに突き出ている。生々しい。
「やめろ! 蛆が湧いているものは食べるな! 触るな! 手を洗え!」
「は、はい」
「グリンカ。クズマを呼んでこい。私とクズマでこいつを棄ててくる」
グリンカが出て行った。「いいか。わずかな間でも鍵をかけろ!」

「すみません……すみません。エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……」
アクリナが廊下にうずくまって泣いている。
クズマと私は狭い浴槽のある部屋から、鹿の死骸を引っ張り出そうとした。
鹿は牡らしい。枝分かれした角が、壁の丸太の隙間に引っかかる。半ば凍っていて、重い。「美味しそう」とグリンカが言った。

泣いているアクリナを見て、クズマが心配そうだ。
「アクリナ様……元気を出してください。領主様だって、アクリナ様が心配だから……」
意外と優しいところのある餓鬼だ。
「アクリナが拾ったものを食べようとしていたら止めろよ」
アクリナが泣きながらクズマに言う。
「クズマ……ありがとう。気にしないで。領主様はあたしのために叱ってくださっているのです。
今日は星占いのくだらなさも教えてくださいました。星占いをしていると、『スペインの娼館』に売られるのだそうです」
(何か違う)

「は? はあ……。
俺の娘っ子が星占いに夢中になってましたけど。俺たちの相性は最高だって。ちょっと嬉しいな」
アクリナはグスグス泣きながら言う。「やっぱり領主様とあたしは最悪なんだわ……」
「アクリーヌ、……」
私は頭を抱えそうになった。が、死んだ鹿を持っているから無理だ。
やはり星占いのマイナス効果が出ている! 何かあるたびにアクリナは私と『相性が最悪』だと思い出すに違いない。アクリナはどうしてこういう不幸かつ悲惨な暗示にいともたやすく引っかかるのだ。そういう趣味か。

とにかく鹿の死骸をなんとか浴槽のある小部屋から引き出した。私は後脚二本を持っていたが、ああ、毛皮が湿ってぬるぬるするし、微妙に生臭い。血抜きもしていない死骸は、凍った水も含んでやたらに重い。今すぐ投げ捨てたい……。
グリンカに裏口を開けさせ外に運んだ。
外はすでに真っ暗で、白樺が風に揺れてごうごう言っていた。私とクズマは少し歩き、森のなかの地面が小さな洞になっているところに投げ込んだ。
思わず二人で溜息をついた。

疲れた。まだ食事もしていない。アクリナにまともに接吻すらしていない。
私はアクリナの森の家に戻りながら、クズマに話しかけた。
「クズマ。最近、ロマの一座を見たか?」
「え? 俺は見てません」
「馭者仲間に聞いてくれ。他家の者や辻馬車の馭者にも」
「はい。ロマの連中がいたらどうするんです」
「とりあえず領主館の裏に連れてきてくれ。占いができる女を呼んで、私とアクリナの相性がとても良いと言わせる。
彼らがどう占っているのか知らないが、色をつけて払って、とにかく、こんな最高の相性は見たことがないとでも」
私は深い溜息をついた。森の家の裏口にある井戸から水を汲んで手を洗いまくる。
クズマが何故か私を尊敬の目で見ている。「どうした? おまえもよく手を洗え」
「領主様を見ていると、娘っ子の喜ばせ方がわかってありがたいんです」
「そうか? 今日もアクリナを泣かせてしまった」
……今日はふつうに私を見て喜んでいる様子をじっくり眺め、仲睦まじく話をしながら優しく、しつこく交わろうと思っていたのに。
クズマは元気に答える。「俺の娘っ子はアクリナ様みたいに難しい方ではないんですよ!」
ああ……。

誰が悪いわけでもないがすべてに腹が立ったのでヒローシャにぶつけることにした。あいつはそういうことのためにいるのだ。
「婦人は難しい人のほうが味があって良いとヒローシャが言っていたぞ」
「え、ヒローシャさんですか? あの人にそんな人が? 俺、そういう話を聞くのは初めてです。一生独身で領主様と奥様にお仕えするつもりだって言ってましたけど」
「あいつは上手く隠しているからな。つまらぬ女に近づいてこられないための言い訳だ。大体、私と妻に仕えるのに別に独身である必要も無いだろう」
「そういえばそうですね」
素直な少年だ。
「本人にこっそり聞いてみろ。
……もう、ふつうの女には飽き果てて、気が強くて男勝りな女を、暴れ馬を乗りこなすみたいに自分に『めろめろ』にさせるのが良いらしい。あいつは力もあるし、……一晩の最高記録がどうとかポツリと言っていたな」
「へえ……」クズマは驚いている。「あの真面目そうな人が!」
「やつの民族には、代々、快楽の特殊な技が伝わっているらしくてな。しつこく聞くと教えてくれる」
(もちろん嘘だ)

「おお!」クズマは張り切って太い両腕を挙げた。「楽しみだ。明日ヒローシャさんに聞いてみます!」
「ロマの一座のことも頼むぞ」
私とクズマは裏口からアクリナの森の家に戻った。

——
当然のように裏口に座り込んでアクリナが泣きじゃくっていた。
私はクズマとグリンカをそれぞれの居場所に追い出し、横にしゃがんでアクリナを抱きしめる。
「……泣くな。もう怒らない。おまえと私は生まれ育ちがずいぶん違う。色々違って当たり前だ」
「はい……」
私はアクリナの顎をもちあげ、赤い唇にそっと接吻する。「……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。……寂しかったですわ。毎日怒られても構わないので……」
「うん」
私とアクリナは裏口の床にしゃがんだ状態で口づけを繰り返し、私は左手で彼女の髪をほどく。
しゃがみ込んだアクリナの胸元には石榴石がぼんやり光り、鎖骨から胸の谷間にいたる複雑な陰影にアクセントをつけていた。たまらない……。
私はドレスの襟ぐりに左手を掛け、右手を床についた。……ああ、右手の下で蛆が潰れる感触がした!
「明日は掃除だ! 母屋からオクサーナを寄越す。グリンカとふたりに、浴室から裏口まで全部掃除して石灰で消毒させろ。いいかおまえは何もするな」
「……あの、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……も、申し訳ございません。どうぞあたしに罰を与えてください」

「罰も何も……蛆がもう嫌だ」
私はアクリナを抱き上げた。「浴室も使えない。井戸の周りも蛆だらけだ。これからおまえを森の奥の小川で洗ってやる」
「森の小川って、外ではありませんか……」
「夜だし、罰だ。外で服を脱げ」
「ええ……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。そんなの無茶です。お、お許しください……」
私はアクリナを抱えたまま裏口の扉を開けた。口では嫌がっているが、なんだか期待に満ちている。淫らな女だ!

――

翌日の午前中、領主館に戻ると、居間の食卓でリザヴェタが星占いの本を読んでいた。
「今、領主館で流行っているのです。本の行商人が何冊も置いていったらしいわ」
「はあ。貴女がそんな通俗的なものに興味を示すとは珍しいですね」
「皆が興味津々ですから、使用人たちに少しずつ読んであげることにしました。エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、貴男の誕生日は1月13日でしたわね」
「ええ」
「ええと、山羊座ですね。わたくしは5月9日で牡牛座。……相性は最高だそうですわ」
「それは良かった」
リザヴェタは本を閉じ、冷静に言った。
「星占いなんて当たりませんわね」

……ああ、素晴らしく個性的な私の女たちよ。

* アクリナの宇宙観→ニコライ・ゴーゴリ『ディカーニカ近郷夜話 五月の水死女』(青空文庫やKindleで無料で読めます)で語られる宇宙観を元に書いています。この本はウクライナが舞台なので、ロシア北西部出身のアクリナはもう少し別の宇宙観を持っているのかも知れませんが、お許し下さい。
ゴーゴリのこの作品には水死した透明な女たちが出てきます。名前こそ『水死女』ですが、『ルサールカ』を思わせます。
* 凍った死肉を拾ってきて食べる→ロシア通の人によると、現在でも、実際に行われているそうです。夏は食べない。ただ、どれくらい一般的な習慣かはわかりません。