第14話 青髭公 1 『硝子の破片』 

珍しくリザヴェタ奥様視点のお話です。
朝帰りしてきた領主様と会う奥様。「これはこういう生き物だから仕方ない」と思いつつ、領主様に家事の相談をしようとします。そのとき、高価な食器ばかりを集めた食器室で物が割れる音が響きました。
『青髭公』のお話は、何回か続ける予定です。時間は掛かると思いますがお許しください。
とりあえずこの話では、R-18場面はありません。

4月29日,1831年、スモレンスク

リザヴェタ・フョードロヴナ・Яはヨーロッパロシヤの華麗なる領主夫人であった。

リザヴェタはシベリヤ出身で、父の武功によって貴族の地位を得た家の出で、要するに成り上がり者の娘である。
たまたま用事があってシベリヤに来た現・領主様に見初められた。そうして、開拓地であるシベリヤから、同じ国とはいえ、古来より開けていたスモレンスクという豊かな土地まで、はるばる嫁いできたのだった。
『灰かぶり姫』の大出世のようなものだが、お城の王子というか王である領主様は舞踏会が大嫌いだった。なぜ嫌いなのかというと故・父王の呪いだ。

父王の呪いの話は、リザヴェタもときどき耳にする。
高貴な生まれで健やかに育ったはずの領主様だが、故・父王パーヴェル・アレクセイエヴィチの呪いのために、色々な苦労をなさってきたらしい。
父王の呪いによる『舞踏会嫌い』のせいで、ダンスが覚えられず、若き日にご婦人への『ドン・ファン的突撃』に(ほんのちょっとだけ)苦労なさったとか、年上で魔女のようなご婦人がお好みになってしまい、領民に『わしらの領主様は代々いかもの喰いだからなあ』と囁かれているなどさまざまだ。
亡き父王と間違えられて、貴賎を問わず、古老たちに罵声を浴びせられるのもしょっちゅうであった。

しかし、前『父王』から受け継いだ領地と領主館、財産は見事なものだ。
……現・領主様が若き日に事業を失敗してこしらえた借金があった。その返済のためにかなりを売ったとはいえ、有能な家令様がこっそり守っていた装飾品はそうとう残っている。
花嫁として訪れたリザヴェタは、領主館の中をはじめて案内されたときには、ほんとうに驚いた。
領主館の広さや、寄木細工の床の見事さなどとともに、印象に残っているのは食器類だ。

結婚して四年経つ。リザヴェタは有能な領主夫人になった。あまり冴えないと言われていた外見は驚くほど洗練された。いまではすっかり豪華で威厳のある貴婦人だった。
(わたくしはЯ家の財産は守りますけれど、あんまり美術品には興味がないのよね……)
リザヴェタは思う。
(食器では、狩猟も射撃もできないではないの)
借金を返すために有能な家令様が真っ先に売ったのが、アラビヤから入ってきた、名馬と名高い血統の種オスだったことを聞いた。
ものすごく残念で悔しくて、嫁いで四年になる今でも、会うことの叶わなかった名馬を思って悲しくなった。

—-

領主館の広い居間の横に台所がある。
台所の奥には廊下に通じる扉があり、配膳用の小部屋が、いくつかの小部屋に分かれて並んでいる。その奥の三室には食器類を置いているのだ。
高価なものはなかでもいちばん奥の小部屋にしまわれている。
ヴェネチアの、紙のように薄い色つきのグラスだとか、切り込みの入ったボヘミアのグラスなどもある。
それから陶磁器だ。特に磁器は貴重らしい。
新婚のころ領主様が、リザヴェタの腕を取って領主館の部屋部屋をまわったものだ。
食器の説明もしてくれた。
どれがどれでどこが良いのかあまりわからなかったけれど、そんなリザヴェタでも眩しくなるような迫力があった。(たかが皿のくせに!)
かつて、中華(キタイ)の地にあった、清より古い王朝から輸入された薄い磁器を、ヨーロッパの王侯貴族はこぞって真似させようとした。
マイセンやデルフトといった名窯で作られた、キタイふうの繊細な乙女たちや花や鳥の絵のついた、薄く白い牛乳の上澄みのような紅茶茶碗や皿は、Я家にもある。
もちろん西ヨーロッパの王侯のようなコレクションなどはないが、何枚かは本当に貴重だ。
一〇〇年もまえに、オランダ商人が東洋から持ち帰ったものまで含まれているそうだ。
それから食器には使えないが誰かが南極から持ち帰った得体の知れない浅浮き彫りの海百合とヒトデと海豹が合わさったような絵が描かれた板なぞもしまってあるのであった。

Я家で使う普段の食器はモスクワ近郊のグジェリ村で、近所の陶工が焼いた苺やサクランボの絵がここぞとばかり描かれたものがほとんどだ。ミハイル(三歳)が面白がってわざと割るので漆器も使う。
来客があれば、相手の格に合わせて食器を決める。
ふつうの時の並みの客には、ここ数年見事な作品をつくるようになったハンガリーの陶磁器を出す。

—-

午前中だ。朝食は終わり、長男のミハイル(三歳)は、乳母のヴィラが外に遊ばせに連れて行った。ヴィラの子や、他の召使いの子供たちも一緒だ。今ごろは生きた蛇やカエルでも取っているだろう。
リザヴェタは天井の高い、古く荘厳な居間の食卓に腰かけ、書物や郵便、帳面を広げていた。
泣いてばかりいる次男のイヴァン(もうすぐ一歳)を膝に座らせる。
帳面には、今日やることや食料の受取りの額面などを書きつけていたが、リザヴェタはいつもとは違い、うわの空だ。

太く量の多い濃い褐色の髪は、ただ簡単にリボンで縛り、前髪を鼈甲の櫛で上げただけだ。
それだけでは彼女の髪にはまったく足りなかった。夫の領主様いわく『膠を塗ったような髪』は少しずつ櫛からもリボンからあふれ出て、食卓の郵便物に垂れてくる。

リザヴェタの父は、シベリヤの小さな町で監獄長官をしている。その父の部下が、モスクワに栄転したそうだ。
一度、Я家をお訪ねしたいと手紙をよこした。手紙は簡潔で、封筒も便箋も封蝋も質素だ。手紙をよこした人物は無骨な武官である。
リザヴェタが知っていたころは『チェルニャーク中尉』であったが、今は陸軍大佐にまで出世したそうだ。

(マクシム・イリイチ・チェルニャーク中尉は、よくヒローシャと馬の話をしていたものだわ)
リザヴェタはほんとうに遠くに来たと思う。
チェルニャーク中尉が、リザヴェタの父の元にいたのはもう十年近く前ではなかろうか。実家には将校たちがよく遊びに来たものだ。皆、口髭を生やし、葉巻の匂いをさせていた。皆寡黙だが、酒が入ると、二十歳のリザヴェタを『上官殿!』だの『大将殿!』などと呼んでからかってきたものだ。
その将校たちのなかで異族民であるヒローシャを蔑むことなく言葉を交わしていたのはマクシム・イリイチくらいだった。もちろん、当時のヒローシャはほんの子供だったから、大した話をしていたわけではないだろう。

(マクシム・イリイチにアラビヤから来た名馬を見せて自慢したかったのに、テレージンは食器を優先して、馬のほうを売ったわけね……。
馬のほうが乗れるし、走るし、鋤も曳くのに。皿なんか何にもできないではないの。
いざとなれば鍋のまま食べたっていいのに。軍隊ならそれで十分だわ)
領主館は軍隊ではないが、リザヴェタは幼いころから父や父の友人や部下の将校たちに囲まれていたので、つい、最低限必要な道具は何か、といった考え方をする。

とはいえ、領主夫人の心の負担は重い。気丈で冷静なリザヴェタでも苦しいことはある。で、苛々してドレスを3着一度に仕立ててみたりした。
夫は文句も言わない。きれいだと褒める。リーザ、貴女は深い色合いのドレスが似合いますね、と言う。
リザヴェタはもともと質実剛健を旨とする家庭に育ったから、散財したあとには、ひどい罪悪感を感じ、倹約しまくるのだった。
そしてアラビヤの名馬に乗りたかったし、子孫を増やしたかったと改めて思う。

(エヴゲーニイ・パヴロヴィチなら美術品のほうが大事でしょうね……。テレージンは『ご主人様』を批判したり、諫めたり、偉そうにしたりしているけれど、そのじつはとてつもなく忠義者の家令様ではないの。腹が立つわ!!!)
マクシム・イリイチの晩餐には、あのハンガリーの新しい食器ね、とリザヴェタは決め、帳面に書く。

チェルニャーク中尉、現・大佐は、貧乏士族の四男だか五男だった。士官学校出の陸軍大佐は『選良の支配階級』で、『おいそれとは近づけない人物』だけれど、この家では恐らくそうではない。
(なのに農奴のボリス・クズネツォフが平気で酔っ払って領主様を仕事に迎えに来たりするから、よくわからない家……)
リザヴェタも裏口を訪ねてくる農奴の老婦人ザレスカヤ夫人なんぞの愚痴を延々と聞いたりしているのだが、そのことは忘れているのだった。
ヴァーニャが膝の上で眠りはじめた。温かい重みは心地良かった。
(一度、大砲を撃ってみたい)と、リザヴェタは思う。

—-
観音開きの扉が開く音がする。玄関でざわざわ声がした。玄関番の少年の声は丁重だった。
二階の居間へと、寄せ木の階段を登る足音は、片脚の動きがわずかに遅い。間違いなく『あの人』が『キノコ部長』との会合から帰ってきたわけだ。
ぼんやりしていたリザヴェタは次男のイヴァンを抱きあげた。『冷たくしては駄目、冷たくしては駄目、馬鹿とか大っ嫌いとか言っては駄目……』と呟きながら待合間に向かった。

「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。おはようございます」
「ああリーザ、外はよく晴れています。気持ちの良い日ですね。ヴァーニャも」
領主様は、妻と子の顔を見て、一瞬後ろめたそうにした。が、すぐに普段の表情に戻る。リザヴェタに顔を近づけ、囁いた。
「……リーザ、愛しています」
軽く腰を折った領主様に、唇に唇をつけられた。簡単な朝の挨拶だ。その途端、使用人の女の複数から刺すような視線を送られたのを感じる。
まだ嫉妬されるのかとリザヴェタは改めて驚く。いや、これは嫉妬ではなく、単なる自分への反感なのか。
そのあと、自分がかつて一瞬だけ、『たいそう誠実で潔癖で思慮深い方』だと思った『商人様』と夫婦であることにも驚くのだった。

イヴァンは父が撫でようとすると彼の手を避け、大声で泣きだした。
「……何故泣くのだね」
領主様はどことなく気だるそうで、かつ、満足した様子だった。
領主様はイヴァンの頭から手を離し、リザヴェタの、蜂蜜色の張りきった頰を軽く撫でる。
彼は白い手の貴族のくせに農場で育ったせいか強靱な指をしている。その指からは領主館で使う石鹸とは違う香りがした。
たぶんヒマワリの油を使った手作りの石鹸だ。わずかにハンガリー水の匂いがする。石鹸をこすりつけたにも関わらず、何か婦人の奥深くから湧き出る匂いがする。

リザヴェタは匂いに敏感なほうだ。
従妹のイアはリザヴェタよりさらに、英語で言う『insane (正気とは思えない)嗅覚』(そんな表現はないらしいけれど、よく夫が使っている)を持っているが、そこまでではない。

「貴男の撫で方がお下手だからですわ」
婦人を愛撫するときと違って!
「ヴィラに何度も習ったのですけれどね。子山羊のシロちゃんは喜ぶのですが」
リザヴェタは腹立たしいというより、『これはこういう生きもの』だから仕方がないと思うようにしていた。

そして、この泣いてばかりいる可愛いヴァーニャも、将来こんなふうにキノコ部長だか恋人だか娼婦だかのところに行って、朝帰りして平気で『愛しています。私の妻』とか『ほざく』のかしら。とリザヴェタは思った。

――

「今日の貴女は何かご用事はありますか? 『乗馬の会』の日でしたか」
朝の領主館は皆忙しい。領主夫妻も待合間から居間に移りながら、実務的なモードに入る。
食卓の前まで来る。リザヴェタは長い食卓の端に積まれた本を指差した。
「乗馬会は一昨日でした。……そうですわね。このまえ『占星術』の本の行商人が来て、たくさん売っていきました。使用人たちが皆、占いを楽しみにしているようですの。ですから、午前中、一人につき十五分だけ、読んであげることにしました」

「……ああ。星占いですか」
領主様はうんざりしたように言う。うんざりしているうえに眠たげだ。
「私も読んでやると良いのでしょうが、どうも星占いは苦手でね。お許しください。リーザ、貴女はお忙しいでしょう。イアにやらせると良いのではありませんか? テレージナ夫人も読み書きが出来るでしょう」
「イアはいま、テレージナ夫人とドブさらいをしていますわ」
「え、ドブさらいですか」
夫は『令嬢なのに』と言いたげだ……が、もうどうでも良いらしい。「……ある意味、貴重な令嬢だ。うん、ああ。そういうふうに考えることにします……」
「テレージナ夫人がやってみたかったのではないかしら」

「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、あの……」
リザヴェタは昨日届いた郵便の話をした。「父の部下だった方が手紙をくれましたの」
「お義父上の部下というと、軍人でいらっしゃる。ご用件は何でしょう」
「しばらく父の下にいて練兵だのをなさっていた方です。あちこちまわって、このたびモスクワに栄転なさったそうですわ。
せっかくなのでうちに寄って二、三日泊めてもらえないかということです」
領主様の夫は急に目を輝かせた。「その大佐殿は独身ですか?」

「……イアの結婚相手にどうかと考えていらっしゃいますね」
「ああ、癖がつきました」
「『やり手婆さん』みたいですわよ。
チェルニャーク大佐という人です。お歳は貴男と同じくらいか、少し上かしら。
シベリヤで最後にお会いしたときはお独りで、そのあとご結婚なさったという話も聞かないので、独身のままだと思いますわ」
夫のほうが十歳や十二歳歳上の夫婦というのは別に珍しくない。領主様は、大佐が独身だと聞いた途端に、たいそう機嫌が良さそうになった。ものすごく感情がわかりやすい時とそうでない時がある。差が激しい。

領主様が聞く。
「チェルニャーク大佐ですか。どんな方です」
「父に信頼されていた方ですから、たぶん有能なのだと思います」
「とりあえず容貌はイア好みでしょうか?」
「イューカの好みなんか知りません。背が高くて、髪は金髪でしたかしら。いかにも動きが整って、雄々しい方だったと思います」(あまり思い出せない……)
「良いですね。背が高くて雄々しい。
長身の紳士がお好みのご婦人は多い。羨ましいことです……いえ、十代のころ羨ましかった気が」
と、中肉中背の領主様は言うのだった。

「でも、堅物でいらっしゃいましたわ。
レオニード様みたいに他にどうしていいかわからないから堅物になったわけではなく(なんだか酷いことを言っている気がするわ)、ほんとうに自分を律するのに長けた方です。
エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……、イアの相手にきちんとした武官の方なんて無理です」
「そうですか……」
領主様は溜息をついた。いっしゅん目が冴えたのに、また眠そうになっている。

その途端、居間の奥でひどい音がした。
「農奴反乱か?」
領主様がぼんやりしながら呟く。「このまえ、ボリスの要求をふたつも聞いてやったではないか……」
単にひどい音が一回するならば誰かが鍋でも落としたのだろう。が、音はさらに続く。
「何かおかしいわ」
リザヴェタのほうが行動が早かった。
イヴァンを小間使いに託し、奥に駆けだした。
「奥様、お気をつけて!」小間使いが叫んだ。

音は台所の奥から聞こえてくる。何か、小さな物が落ちる音が立て続けに響いているのだ。シベリヤ育ちのリザヴェタの脳裏には、貂や狐が台所で飛びかい、巨大鼠の群れを追いかけまわす姿が浮かんだ。
(……見てみないとわからない。気を引き締めなければ駄目よ)

音の出所は台所ではない。そのさらに奥だ。リザヴェタは、台所の一番西の端から、給仕室へと続く細い通路に入る。
朝の普段着(デザビリエ)の深く青い簡素なドレスの裾を翻し、扉をいくつも開ける。食器室はいくつかあったが、どうも一番奥の部屋だ。
音はまだ続いている。少女の泣き声と中年の女の怒鳴り声や叫び声がする。

料理女たちが食器室の扉のまわりに集まっている。
「何があったの。とにかく中を見せてちょうだい」
「奥様、あたしが知りたいくらいでございますよ!」
料理女たちが食器室の戸を叩きながら怒鳴っていた。
「開けなさい!」
「何をやっているの!」
中から聞こえてくるのは少女のすすり泣きの声と、物が割れる音だ。

リザヴェタは料理女の一人に怒鳴る。「裏庭の厩舎に行って、ヒローシャに猟銃を持って台所に来るように言って!」
「はい。奥様!」
若い料理女が駆けだしていく。

この食器室は、Я家のなかでもいちばん高級な食器を集めた部屋だ。その部屋の中からパリンパリンと堅くて薄いものが連続して割れる音が続いている。ドイツの『グロッケンシュピール』という楽器のようだ。
リザヴェタはぞっとしながら料理女たちに命じる。
「どいてちょうだい。わたくしがなかに入ってみます」
「奥様、賊がいるかもしれません」
「だったらなおさらよ! なかの娘はどうなるの!」

扉のノブは動かない。リザヴェタは普段着でいるときはいつもドレスのうえから腰に巻きつけている軍用の小鞄から、鍵束を取りだした。
(淑女がこういうものを身につけるのか、と領主様は何か面白がっているらしいが)
領主様は、召使いだろうと妻だろうと鍵をかけさせるように徹底している。
『鍵は確認したか』『扉はきちんと閉めてくれたまえ』が口癖だった。ものすごく鬱陶しいが、愛する祖国の治安の激烈な悪さを考えると仕方がない。

リザヴェタの鍵束は、領主館のほとんどの部屋や物置のものだった。何十本もあり、新しいマスケット銃と同じくらい重い。持たされていないのは夫の書斎の鍵くらいだ。あとは『開かずの間』がいくつかある。
どれがどの部屋の鍵か、いまではすぐにわかる。

鍵を開けると、窓がない小部屋である。小間使いの少女がひとりいるだけだった。赤い絨毯に座り込んで泣き崩れている。
二竿ある食器棚は倒れていない。小間使いの少女は中央の作業台でグラスを磨こうとしたらしい。麻のナプキンが斜めにずり落ちかけ、絨毯の床は割れた硝子が真珠のように光る。少女の制服も硝子で身を飾っているようであった。
座り込んで剥き出しになった臑にも細かい傷があり、さらさらした血が流れていた。

リザヴェタはほんとうに慄然とした。
ベネチアの赤いグラスは結婚式のときにだけ出された。高価なベネチアのグラスの中でも、赤は特に貴重らしい。あ、あああ。金箔までかけてある!
トルコふうに文様化されたチューリップが描かれた薄い白磁の茶器セットは、現・領主様の祖父である、アレクセイ様がデルフト焼きの工房に特注したものだと聞いた。修業時代のフランソワ・ブーシェが下絵を描いたのだという。官能的な画風で知られ、後に、ブルボン王朝の「国王の筆頭画家」となる人物だ。
金銭の損害だけでは済まないのだ。

リザヴェタは少女に訊く。「どうしてこんなことになったの!」
声が険しくなっていた。扉から覗いている料理女頭に言う。
「ゼルノヴァ、料理女たちに台所に戻るように言って!」
この小間使いの少女を売っても、この硝子や磁器の代金の五十分の一にもならないだろう。

「……あ、奥様……。申し訳……ございません」
小間使いは十六、七だろう。そう言ったきり、泣き続ける。小さな手を床で動かしているから何かと思ったら、一生懸命、割れたグラスどうしを合わせようとしている。パズルが合ったら奇跡が起きてまたくっつくと信じ込もうとしているみたいであった。
さらに少女の指先が傷つき、血が流れている。

「止めなさい。おまえが無駄に怪我するだけよ」
小間使いはまともに返事もできないらしい。「お、奥様……」
リザヴェタも自分が恐怖を覚えていることに気づいた。
領主館は古い。
夫の領主様自身がいつも、壁に掛けまわした赤い模様入り毛氈が古くさいだの、模様が入りすぎているだのと言っていた。
確かに、社交的なリザヴェタが訪れる貴族や名士の館では、もっと洗練されたパリ風の壁布を使っている家が多い。
一度、領主様にフランスかイギリスの洒落た布を壁に貼ったらどうかと言ったことがある。
古めかしい領主館の雰囲気も明るくなるだろう。返事はこうだった。
『リーザ、貴女がどうしてもこの壁が嫌ならば、お好きなように変えてください』

『どうしても嫌なら』という条件がつくのは、要するに変えるならそこまでの決意がなければ駄目であるということだ。
リザヴェタは、夫は自分の屋敷を、修理や細かい部分の改装ならともかく、実際のところ何ひとつ変えたくないのだとわかった。

それなのにこの有様だ。リザヴェタも凍りついたように動けなくなった。
「奥様……。あ、あたくしは売られるのですか……」
小間使いの少女が座り込んだまま泣いている。
「領主様がお決めになります。どうしてこんなことになったの? エレナに断ってから掃除したの? ひとりでこの部屋に入っては駄目って伝えたはずでしょう」
小間使いは細い貧相な首を横に振った。三つ編みの編み込みにまで硝子の破片が刺さっている。

領主様が台所の脇の曲がりくねった通路を通ってきたらしい。いつの間にかリザヴェタの横に来た。
部屋の惨状を見渡し、やはり驚き、深い溜息をついた。
リザヴェタは領主様に伝える。「ヒローシャを呼びました」
「ありがとう」
一瞬の後、領主様は部屋に踏みこんだ。
さすがに目が覚めたらしい。木の踵のついた皮の長靴が割れた硝子から足を守ってくれる。リザヴェタの婦人用の華奢なスリッパでは無理だ。
領主様は無言で腰をかがめ、小間使いの少女を抱き上げた。指や足を切った鮮かな血が領主様のフロックに垂れる。
「領主様、申し訳ありません……申し訳あり……」
「……ああ」

中肉中背で頑丈でもないのに、小間使いを軽々と持ち上げる。
うつむくと癖のある黒い髪はまだ艶やかであった。(探せば白髪もある)
少し伸びすぎた黒い前髪が、蝋燭のように白い額を半ば隠してわずかに揺れている。
こういう姿を見ると、リザヴェタはいまでも自分が田舎の小娘で、……何であろう? ……皇帝陛下の若く有能な廷臣が視察にでも来たのを前にしている気がした。
彼の声や発音はリザヴェタには途轍もなく優雅に聞こえた。もっともリザヴェタには音楽はもとより、芸術すべてに興味がないので、夫の声がテノールなのかバリトンなのかバスなのかわからない。たぶんソプラノやアルトではないと思う。こんな瞬間であってもわずかに官能的だとリザヴェタには感じられる。

「リーザ、ゼルノヴァとエレナを呼んでください」
「はい」
リザヴェタが細い廊下を曲がりながら振り返ると、領主様は華奢な小間使いを無造作に抱きあげながら、食器室の鍵をかけていた。

―-

領主様は面倒になったのか、長い食卓のうえに小間使いの少女を寝かせた。
少女は、もう半袖の制服を着ていた。黒い羅紗の提灯袖から細い腕が伸びていた。
領主様がまた深い溜息をついた。
少女はいまこそ貧相ではあったが、だんだん娘らしさが増し、きれいになっていきそうだ。まっすぐな髪の毛は混ぜた卵みたいなクリーム色だ。領主様はじっと小間使いの小さな顔を見下ろし、観察していた。

(品定めをしているの? まさか娼館に売るために)
リザヴェタも怖くなってきた。

「領主様……申し訳ございません……売らないでください……あ、」
食卓に掛けた大きな麻のナプキンのうえに寝かされている。致命的な傷はない。ただ無数の小さな切り傷があるのだった。
「……ああ、君はダリヤーナか」
領主様が言った。イアの小間使いだった少女だ。

「そういえばそうだわ」
最初に会ったときは、イアの下手くそなフランス語を無理矢理褒めさせられていた。イアから離し、Я家の小間使いになって、ずいぶん生き生きしたものだった。
シベリヤから来たのかと思うと、同郷のリザヴェタには、より憐れに思えた。

猟銃を構えたヒローシャが駆け込んできた。お仕着せの紳士ふうの胴衣のうえに、農民外套を羽織っている。よく手入れをされた猟銃は油で光っていた。
ヒローシャはリザヴェタと領主様を次々に見た。
「どうなさいましたか? この娘さんはお怪我をなさっているようですが」
食卓のうえに寝かされているダリヤーナを一瞥する。
「ヒローシャか。ありがとう」
領主様が言った。
「賊などはいないようだ。この小間使いの娘が、食器を割っただけだ」

「すごく! ああ……すごくたくさん割ってしまいました……」
ダリヤーナが顔を覆って泣きだそうとする。ヒローシャが素早く腕を伸ばした。じつに厚く強いてのひらで、彼女の手首を掴む。
「危ない。てのひらの硝子で、お顔を切ってしまいます」
「か、かまいません……。あたくしは、どこかに売られて、割った硝子やお皿のお金をお返ししなければ」

リザヴェタは言う。「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。母屋のことはわたくしが責任を持つと言いました。あの部屋のグラスや磁器はいったいどれくらいの値段なのでしょう」
リザヴェタは領主様に言った。
「値段はわかりません。リーザ、領主館の管理すべてなど無理です。貴女が責任を感じる必要はありません」
料理女頭のゼルノヴァに連れられ、女中頭のエレナ・ネクルィロヴァも居間にやって来た。
食卓に駆け寄ってくる。

「エレナ、ダリヤーナの手当てをしてやってくれ」
「はい。領主様、申し訳ございません。あたくしの指導が足りなかったのです」
「うん……」
リザヴェタはエレナと顔を見合わせた。エレナは責任を感じまくったあげく、焦燥し、わずかのあいだに十も老けたように見えた。リザヴェタは今の自分も同じように見えるだろうと思う。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。ダリヤーナを売るのですか? せめて、あまり、ひどいところには……」
領主様が淡々と言った。
「一番金になるのは清国の商人か。
あの国は美食を好む。変わった食べ物に好奇心を持つ。飢饉でもないのに人肉を食べる。『両脚羊』というのだ」
リザヴェタもエレナも、まわりで見ていた料理女たちも静まりかえった。

ダリヤーナがさらに激しく泣きだした。領主様は椅子を引き出し、面倒そうに座った。
「ダーリャ、何故、朝からひとりで食器を磨いていた? それとも別の用事か」
ダリヤーナは泣いてしまって答えられない。
「……私は、オーストリアの『魔女マニア』と文通をしている。少女を生け贄にしてみたいらしい」
(どうしてそんな変な知り合いがいるの)とリザヴェタは一瞬ふつうに思う。とにかくダリヤーナは憐れだった。もし盗みをしたにしても、彼女を殺すような相手に売る、という話だけは止めなければ……。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ」
夫に呼びかけたが、声がかすれた。領主様は、リザヴェタが話しかけたことに気づかなかった。
それとも気づかないふりをしているのだろうか。

「そのオーストリアの『魔女マニア』の紳士は、野蛮なロシヤ帝国の貴男の領地なら、ダリヤ・サルティコヴァ伯爵夫人【* 帝政ロシアの女性殺人鬼。領主夫人で夫亡き後、農奴の娘を100人以上殺害】みたいにやりたい放題出来るだろうとふざけたことを書いてきた。あの方も高く買ってくださるだろうよ。
……スイス人の医学生もたまに手紙をくれる。プロイセンの大学に留学中の青年だ。生命を自分で作れないかと馬鹿なことを考えて、みずから墓を掘って死体を解剖して研究している。彼は貧乏だが、科学の進歩に役立つかも知れない」
ダリヤーナはもう何を言われているのかもわからないらしい。(リザヴェタも夫の言葉が変すぎてよくわからない)
「りょ……、領主様のお手で……撃ち殺してください……」
「私がおまえを撃ち殺しても一銭にもならない」

領主様は腕組みをしたまま平板に言葉を続ける。
「……だけどね。少なくとも殺されるようなところには売らない。とにかく理由を話してみなさい。理由の如何によっておまえの処遇を考える」
少しほっとした。エレナも同じだったらしい。わずかに安堵する溜息が聞こえた。

リザヴェタは、夫が『悪意があってやった者には厳しい処分をするが、単なる失敗には甘い。失敗は仕方がないと思っている』と知っている。
だが、この食器室は小間使いが一人で入ってはいけないという決まりになっていた。入るならばエレナやリザヴェタ、あるいは家令様といっしょでなければならない。
鍵を開けて部屋に入ったという時点で、『知っていてやった規則違反』だ。

鍵を開けて一人で食器室のなかに入ったのは、何か目的があったはずだ。
盗み以外にあるのだろうか。
ダリヤーナは、おどおどした素直そうな娘で、だいたいシベリヤからイアに仕えてきたのだ。盗癖があったら、イアが騒ぎ立てるに違いない。
領主様の声は次第に穏やかになってきた。ダリヤーナもまわりの使用人も、余計に恐ろしそうだった。
「ダーリャ。何故、一人で一番奥の食器室に入ったのかね」

リザヴェタはエレナとともに、ダリヤーナの腕から硝子や磁器の破片を抜き取った。料理女頭のゼルノヴァがウォトカを取ってきて消毒してやっている。
ダリヤーナは泣きながら繰り返すだけだ。
「ああ、領主様。一生、……働きます。どんな仕事にまわされても構いません……あ、あたくしはЯ家が大好きです……どうか売らないでください……」
「とにかく理由を話してからだ。わかるね、ダーリャ。ああ。応接室に行くか……」
領主様はまわりを見回す。奉公人たちが怯えながらも、あちこちからダリヤーナの姿を覗いていた。

「リーザとエレナ。来てください。他の者たちは仕事に戻って。騒がせてすまなかった。テレージンが来たら、応接室に顔を出すように伝えてくれ」
「大切な領主様、私はどうしましょうか」
ヒローシャが言った。猟銃は下ろしているが、警戒は緩めていない。
「そうだな。いちおう来てくれないか。ついでに怪我をしないようにダリヤーナを運んでやってくれ」

――

応接室は玄関を上がった待合間の隣室だ。
天井は高いが、比較的こぢんまりとしている。青い装飾の毛氈が掛けられ、中国趣味のランプに照らされていた。喫煙をする来客のために、灰皿がある。
模様を彫り込んだ木の卓と、詰めれば十人ほどがかけられる長椅子が三脚あった。ダリヤーナはエレナに付き添われ、ぐったりと長椅子に座り込んだ。ふだんならばダリヤーナには到底座れない椅子だ。

「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ」
応接室に入る前に、リザヴェタは素早く囁く。
「せめて娼館に売るのは止めてくださいませんか……。悪い子とは思えません」
「私もそうしたいのですが、他の者の手前もあるし、少々損害がね……。盗癖の持ち主には、素直で良い子もいる。貴女もよくご存じでしょう」
「ええ……」
もう領主夫人ではなく、領主が決める事項だった。リザヴェタはひどい無力感を感じる。

領主様はダリヤーナの正面に座った。昨日出かけた姿のままだ。
いや、そうでもない。麻のクラヴァットは、昨夕は凝った結び方だった。襞がきれいに並び、フロックの襟元から、クラバット先端のレースをわずかに見せていた。いまは暑い時期に、農奴が汗取りに首に巻くぼろきれのようにいい加減な巻き方だ。面倒になったのか、癖のある髪はぐしゃぐしゃであった。
リザヴェタは夫の隣に座る。フロックの肘に、何故か、潰れた蛆の死骸がくっついていた。リザヴェタは溜息をついて、手巾で干からびた蛆を取った。

背後にヒローシャが立っている。まっすぐな黒い髪を後ろに流し、領主様お下がりの黒いクラバットを糊づけし、きちんと硬く結んでいた。こうして改めて見ると、すっかり冷静で頼もしい青年になったものだ。
容姿や動作が洗練されたのは、Я家に来たから、というより領主様の影響であろう。
リザヴェタはヒローシャを子供のころから知っている。今、ヒローシャは、二十二歳か三歳ではないだろうか。

みずからも銃の稽古を始め、武官の家で育ったリザヴェタは、単に立っているだけのヒローシャの全身の感覚が研ぎ澄まされ、何かあったら瞬時に動くことがわかる。小柄なのに凄まじい力を秘めていることを初めて意識した。
ヒローシャが猟銃の絶妙な使い手であることはЯ家の使用人のあいだでは有名だ。だいたい異族民だから、それだけで慣れない者には恐ろしかろう。
領主夫妻に途轍もなく忠実で、そのために独身を貫くという話も知られている。いつもは純粋で誠実な証としか思えない、黒くきらきらした瞳は、排除すべき危険がないか凝視しているように見える。
『大切な領主様』のためには何でもする狂信的な親衛隊員(オプリチニク)……ダリヤーナにそのような語彙はなかろうが、とにかく恐ろしいだろう。
リザヴェタにすら、初めてヒローシャが恐ろしく見えたのだから。

とにかく応接室は重苦しい。
ダリヤーナが急に言った。「あ、あたくしは……スペインの娼館に売られるのですか……」
「『スペインの娼館』? どうしてわざわざ。おまえを連れて行く費用のほうが高い」
少しのあいだ、領主様は考えている。「スペインの娼館……」
そんなところに行ったことがある人物がこの家にいるとしたら、領主様だけだ。
「ダリヤーナ」領主様の声は少し優しくなっている。作戦を変えたらしい。
「まだ何も心配しなくて良い。少なくとも、私がおまえに無体な真似をしたりはしない。奥様も女中頭のネクルィロヴァさんもいる」
「は、はい」
ダリヤーナの声はかすれている。
(当然だわ。全然趣味ではないもの)

「エレナ、サモワールと紅茶の準備を頼んでくれ。長くなりそうだ。ダリヤーナには何か菓子を。少し落ち着いたほうが良い」
「はい。領主様」エレナが出て行く。

やがて人数分の紅茶とサモワール、ダリヤーナ用のプリャーニクが運ばれてきた。ヒローシャは紅茶を断った。
ダリヤーナの提灯袖からすっと突き出した細い腕にはもう包帯が巻かれ、ところどころにうっすらと血が滲んでいる。
エレナが手伝って、泣いているダリヤーナに、甘いプリャーニクを切って食べさせる。胡桃や乾した果実がたくさん入った焼き菓子だ。
少しは落ち着いたのかもしれない。

領主様は紅茶を飲んでいた。「ダーリャ。確か、君はイアお嬢さんづきの小間使いだったね。どれくらいのあいだ彼女に仕えていた?」
「え……領主様。あ、あの……一年と半年ほどです」
おどおどした小鳥のような声だ。小間使いとしては、悪くもないが決して優れてはいない。だが、本人の言葉どおり、Я家が大好きならば、忠誠心のある使用人は、多少小利口なだけの者よりずっと良い。
「一年半ならじゅうぶんか。……リザヴェタ奥様がおっしゃった。もしおまえに盗癖があったならば、イアお嬢さんが黙っていないだろうとね。
リザヴェタ奥様もイアお嬢さんも聡明で、暴……ああ、勇気のあるご婦人だ。君に盗癖があるのに気づいたら、黙って見過ごすことはあるまい。
私も、君が食器室で盗みをしようとしたとは思えない」
ダリヤーナは不意に安心したようだった。
エレナに抱きついてぐったりしている。

リザヴェタはダリヤーナと、領主様の横顔を交互に見る。案の定、領主様は暗い表情でうつむいて何か考えている。これでめでたくダリヤーナを放免の訳が無い。
ダリヤーナに盗癖がなくても、一人で勝手に鍵を持ち出し、食器室に入ったことは事実なのだ。
(……誰かに頼まれたのかしら)とリザヴェタは思う。(例えば、エレナだとかテレージンだとか、しかるべき誰かに命じられたのならば、ここで言うはずだわ。……彼らが命じるとは思えないけれど)
「昨日は早番か遅番、どちらだったかね?」
領主様が聞いた。
「朝五時から夕方早くまででした」
ダリヤーナの声が落ち着いてきた。
「夕方早くか。昨日の仕事はきつかったかな」
「いいえ……。いつもより少し楽でした。奥様が今日はもう良いと……おっしゃって、くださって……」
ダリヤーナ以外の応接間の人物が全員リザヴェタを見る。リザヴェタは答えた。
「たしかに、小間使いたちに早めに仕事を切り上げて良いと申しました。エヴゲーニイ・パヴロヴィチが夕食を召しあがらないご様子でしたので」
昨日、夕刻前に、いかにもこれから『森のキノコ部長のところに出かけていく』ようすの夫に会ったのだ。
「そうでしたね。あれは午後四時半ころでしたか」
夫は完全に『領主様』状態で、すまなそうな様子もない。とはいえ、リザヴェタもいまはともかく、もし憐れなダリヤーナに盗みを命じた者がいるならばそちらを探るほうが優先だ。
(……この娘が、命じられたからといって、盗みをするかしら。脅されているのかもしれない)
それに鍵だ。あの食器室の鍵を持っているのは領主様と領主夫人、家令様、女中頭だけだろう。

『鍵マニア』の夫は当然、鍵のことを考えているに違いない。
リザヴェタは口を出すのをやめる。いかにリザヴェタが『男勝り』と言われ、普段の領主様がリザヴェタを信頼し、領主館の管理を任せきりにしているといっても、男尊女卑で父権の強い国であった。
何かことがあれば、家長が絶対である。

(『失敗』ならばお咎めもほとんど無しなのに……)
ダリヤーナはまだほんの子供に見えた。かよわく貧弱で、素直な娘に見える。この純朴そうな娘に、リザヴェタは憐憫の情を覚えていた。
(まあじつはとんでもない『すべた』というやつかもしれませんけれど!)
【* 女性を罵る『すべた』という言葉は元ポルトガル語】

領主様の声は優しい。「ダーリャ、奥様が今日の仕事は終わりで良いと言ってからどうしたね」
「……あの、イアお嬢様にお目に掛かってお願いを……」
「イアに?」
「はい」
「何の用か訊いても良いかね」
「……あの、あの。み、水瓶座と……」
領主様は一瞬黙る。「星占いの本を読んでもらったのか。……水瓶座と天秤座の相性はたいそう良いらしいな」
「……領主様が……その、そんなことをご、ご存じなんて」
罰せられるかと不安だったはずが、ダリヤーナは何故か尊敬の目で領主様を見あげている。自分の今後がかかっているというのに!
(この人が、星占いに興味があるなんて……? 『魔女狩り』が好きだから、その関係なのかしら)
リザヴェタには、夫の趣味はもうわけがわからなかった。

「で、イアお嬢さんに何を読んでもらったのかな。ダーリャ、君は水瓶座か」
「……ち、違……」ダリヤーナはまた口ごもってしまう。
「では、おまえが思いを寄せる若者は、水瓶座なのかね」
あどけない顔が真っ赤になる。羞恥と恐怖で、ダリヤーナは声が出せないらしい。
(少なくとも貴男ではないわね……)とリザヴェタは思う。(寝山羊座でしたっけ? 山羊使い座? 何かそんなのでしたもの)

「あ、あの……。お守りを……。赤いチューリップが、良いって。……あ、本に書いてあった……のです」
「本を取ってきますわ」
リザヴェタは立ち上がり、星座の本を取りに行く。
「お願いします」

居間は掃除が終わったようだ。
掃除女頭のソトコワがリザヴェタに訊いた。「食器室はどういたしましょう」
「わたくしにもわからないのよ。領主様が修理させたがるかも知れないわ。とりあえず手をつけないでもらえる?」
「わかりました。奥様」

あの部屋のコレクションを思い出した。特に貴重なものは、デルフト焼きのごく薄い磁器の茶器セットだ。現・領主様の祖父たる植物狂アレクセイ様が、フランスの名匠の何某氏に赤いチューリップを描かせたという。
(……つまり、ダリヤーナは恋のお守りに、赤いチューリップの描かれた磁器が欲しかったということなの?)
おとなしく真面目な娘だとて、恋のためならば何でもするかもしれない。
(気持ちはわからなくもないけれど、……いえ本当は、なんで星占い程度に願いをかけるのかさっぱりわからないけれど。
……確かに『あの人』は、奉公人や農奴の娘たちの恋に優しい。他の家ではある年齢になったら好きでもない相手どうしを結婚させている。
うちではやらないことだわ。でも、家の財産に手をつけたら、あの人が納得するか……)

もう正午近い。軽い昼食の良い匂いがする。食卓に積んである星占いの本を一冊取った。
召使いの男に声をかけられた。「奥様、領主様はお忙しくていらっしゃいますか」
馭者のイーゴルだ。小間使いも一緒だ。小間使いは領主館ではあまり見ない。そばかすの多い、黒い髪の小柄な婦人だ。『キノコ部長』のところに時々手伝いにいっている召使いだと気づいた。
「領主様は今、忙しいわ。何か用があるの」
「はい。待たせていただいても良いでしょうか」
「構わないけれど、どれくらい時間がかかるかわからないわよ。……そのベンチに座ってもらっていて結構よ」
イーゴルと小間使いは深々と頭を下げる。

応接室に戻った。扉の前に立っているヒローシャがなめらかに、リザヴェタのために通路を開けた。
奥の長椅子ではエレナがダリヤーナを抱きしめている。
リザヴェタは手前の長椅子の領主様の隣に座る。
「星占いの本です」
「ありがとう。リーザ」
領主様は本を受け取り、パラパラとめくる。『水瓶座の魔法のお守り』というページを見ている。
『相手の星座ごとに必要な恋愛成就のための守りの品』

領主様が言う。「赤いチューリップが出ている」リザヴェタに本を見せた。
「相手は天秤座だ」

ダリヤーナはわっと泣きだした。
ノックの音がする。ヒローシャが振り向いてわずかに扉を開けた。
領主夫妻に聞く。「テレージン様がおいでです。いかがなさいますか」
「入らせろ。家令様は来るのが遅くないか」
懐中時計を見ている。十二時十分前だ。「確か、十時半に来ると言っていたぞ」

長身痩躯のテレージンが、出入り口をするりと入ってくる。「送れて申し訳ありませんな。エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、リザヴェタ奥様。……それに、ダリヤーナではないか」
「……テレージン様……」
さすがに家令様は、新入りの小間使いまで覚えているのだった。
「ダリヤーナが何かしたのですか」
「ああ、今朝、奥の食器室に一人で入って食器の大部分を壊した。盗みをする娘とも思えないのだがな」
テレージンは無表情だが、少々動揺しているらしい。
「あの一番奥の食器室でございますか」
「ああ」
「そうでございますか……」
少し同情するようにダリヤーナを見た。

領主様が聞く。
「テレージン。おまえは何故遅れた? 珍しいではないか。奥方はとっくにイアとドブさらいをしているぞ」
「……はあ。ああ。申し訳ありません。(全然申し訳なさそうに謝るのが上手いわよね! 雇い主に似て!)
家を出た途端、ミュリコフ家の三男の次男夫婦と孫二人に掴まりましてな。温室に荒らされたあとがあるから見てくれとのことでして」
「温室が荒らされた……? あそこはもうとっくに廃墟ではないか」

「ああ……!」ダリヤーナが十字を描いた。いまにも倒れそうだ。
「お許しください! お許しください!」
ダリヤーナが床にひざまずいて何度も額をこすりつける。
「……おまえが温室を荒らした? しかし、温室と食器室に何の関係が……」
「温室に赤いチューリップが……」ダリヤーナはまた泣きだす。
「咲いていたか? チューリップはもう、先祖返りしたささやかなものしか生えていないのではないか」
「小さな白いチューリップばかりでしたな。荒らされていたのは、奥にある、二重になった温室です。植木鉢をどけて、中をかき回した後がありました。たぶん蘭でも置いていたのでしょう」
「温室はどこもかしこも、最初から荒れて硝子の破片だらけだったと思うが」

「……あ、ああ」
ダリヤーナが泣きながらうめく。
エレナがダリヤーナの背を撫でながら、(彼女にしては、たいそう優しい声で)言った。
「ダリヤーナ。きちんとお話してご覧なさい。
領主様も奥様も、テレージン様も不人情な方ではありません。罰を与えられるにしても、それはおまえがやったこと以上にはなりません。自分のやったことは甘んじてお受けなさい。そうしてこそおまえの心も安らかになりますし、聖ニコラ様や、領主様方のお慈悲を受ける資格が与えられるのです」
「エレナ様……」
ヒローシャが感動しているらしい。
「エレナ様……」
ダリヤーナも感動しているようだ。

感動の渦を破ったのは家令様だ。
「ああ、そういえば、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。
イーゴルとドロシダが外で待っておりましたが、よろしいのですか? 正午に書斎で領主様に会っていただく予定だったとか」
「イーゴルとドロシダか。忘れていた。待たせておくか」

ダリヤーナが叫ぶ。「イーゴルさんとドロシダさん!」
「……あいつらは水瓶座と天秤座だっけ? 相性が最高らしいな」
「ほう、あの二人がそういう仲でしたか。ふむ、真面目なものどうしで良い組み合わせですな」と家令様は偉そうに言った。

「……、え、ではダリヤーナ、おまえはイーゴルとドロシダのために? 温室? 食器室?」と領主様が訊く。「二人に恋のお守りをあげたかった?」
「は、はい。で、でも盗みはしていません……。盗んだものなんてあげられません。お守りになりません」
「うん……そうだな」
「あ、あの温室に、硝子の破片に混じってチューリップの絵の描いてあるお皿の欠片があったので、それを拾って、きれいに磨いて、お二人に差し上げようと思ったのです。
……何もかもЯ家のものなのに……申し訳ございません……」
「落ちていた欠片だろう。別に構わないが。しかし何故そんなところに……」
「今朝早く掘り返したのです。そうしたら、割れたお皿や紅茶茶碗のなかに、全然、欠けていない茶碗受けがあって……。
あの……食器室にあったものだと気づいて……、きれいに洗って、食器棚に戻そうとしたんです。温室で拾ったというとエレナ様に怒られるかと思って……鍵は勝手に借りました。
そうしたら……あ、あたくしの背ではあの食器棚のチューリップの棚に届かなくて、倒しそうになって、みんな割れて……」
ダリヤーナはエレナに抱きついて大声で泣きだした。「すみません。領主様、奥様ほんとうに、申し訳ありません!」
リザヴェタは領主様を見た。領主様もリザヴェタを見返す。二人ともあからさまに毒気を抜かれている。

ダリヤーナが叫ぶ。
「あ、あたくしを、ス、スペインの売春宿に売ってください!」
「『スペインの売春宿』って。だから遠い……売らない」
領主様は処罰を決めたらしい。
「ダリヤーナ、おまえは売らない。ただ、エレナに相談したほうが良かったな。怖そうに見えて話しかけづらいかもしれないが、親身になってくれるぞ」
「……申し訳ありません。あたくしがもっと気を配っておくべきでしたわ」
エレナが恐縮して謝る。
「今度から気をつけるようにしてくれれば良い。失敗は仕方ないだろう」(ほんとうに失敗は簡単に許すわよね)

領主様はそれ以上エレナを責めたりせず、ダリヤーナに言った。
「いちおう壊しまくった財産は財産だ。返し終わるまで給金から引く。一生うちで働け。結婚してもうちで働くんだ」
「は、はい。領主様」ダリヤーナはそれでも嬉しそうだ。
領主様が言った。
「では諸君。解散」

「ちょっと待って。ダリヤーナ、おまえはもう良いんだけど」
リザヴェタは焦って口を出した。
「なんで温室にお皿があったの? 領主様のお祖父様の貴重な茶器セットでしょう。デルフト焼きで、フランスの何とかって偉い人が絵を描いた……」
「ああ、……」
ダリヤーナとエレナがハラハラしながら見ている。緊張を解いたヒローシャもいつもの一見、純真で臆病そうな様子に戻っている。

テレージンが言った。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチがお子様のころ、かんしゃくを起こしては皿を割っておられましたな」
「あのチューリップの茶器セットを描いたのは、ブーシェといってフランスのブルボン王朝で大活躍した画家だ。『国王の筆頭画家』などという称号ももらっている。
だが、別の様式がはやり出すと無価値になった。無価値どころか疎まれた。
いまでは絵にも値がつかない有様だ。あの茶器はまあ、磁器の繊細さで多少の価値はあるだろうが、祖父が買ったころに比べると話にならない額だろうよ」

テレージンがさらに聞く。
「いえ、どうしてそれが温室にあるかということなのですが」
「ああ? わざと割ったとパーヴェルにばれると、まためちゃくちゃに殴られるではないか。『硝子を隠すなら硝子のあるところへ』『磁器を隠すなら……』だ。で、硝子の割れた温室に隠しておいた」
「さすがゲーニャ坊ちゃまは賢い御子でしたな……」
テレージンは呆れているのか何なのか、無表情に言った。リザヴェタも呆れる。……この人に呆れるのは何十回目なの……と思いつつまた呆れる。

リザヴェタはぐったりした声で言った。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。外で、その水瓶座と天秤座のドロシダとイーゴルが待っていましたわよ。早く行ってあげたほうが良いのではありませんか」
「ああ、そうでした。イーゴルの両親に、結婚の許可を願う手紙を書くことになっていたのですよ」

ダリヤーナが言った。
「……あの、クズマが言っていました。領主様がお二人の仲を取り持つおつもりだって……クズマは、いつも領主様のお話をして、すごい方だって」
「クズマ? クズマって馭者見習いのあいつか」
「はい。星占いに熱中しすぎると『スペインの売春宿』に売られる、って教えてくれました……」
「え……では、おまえが、クズマの自慢の『娘っ子』か?」
ダリヤーナが恥ずかしそうにうなずいた。

エレナがめずらしく、わずかに口の角をほんの少しだけあげている。彼女としては大笑いしているらしい。ダリヤーナも泣きながら笑っている。
ヒローシャが丁重に頭を下げて、二人のために扉を開ける。エレナがダリヤーナの肩を抱いて、応接室から出て行った。

領主様とリザヴェタ奥様は腕を組んで応接室の外に出た。
領主様、とイーゴルが呼んでいる。遠くで、誰かが音楽を奏でているのが聞こえた。農奴たちが昼の休みに演奏しているのだろうか。それにしては上手だ。
「イーゴル、ドロシダ。十分ほど待ってくれ。疲れた」

リザヴェタは夫に言う。「なんだか、偶然が積み重なったみたいな出来事でしたわね」
「……そうですね。リーザ、何がどこで繋がっていることやら……。偶然、我が家で星占いが流行って……、偶然赤いチューリップの食器があって……。
ダリヤーナがイーゴルとドロシダに贈り物をしたがったのも、クズマの影響か。ダリヤーナの立場なら、ふつう、あまり接触はないはずだ。
それにしても馭者仲間のくせに、ヒローシャがなんで『クズマの娘っ子』を知らないのだ」
「婦人に興味がなさそうだからではないの? そんなことよりまさか、最初に食器を壊したのが貴男とはね」

「相変わらず意地悪ですね……」
夫はリザヴェタの両肩に手をかけ、体に体を寄せさせる。リザヴェタの顔は、領主様の肩と首のあいだにぴたりと押しつけられた。細いウェストの後ろを、夫の頑丈な手が強く押している。困ったことに夫に抱きすくめられると、未だに甘美な緊張と不安を感じた。いまの夫は彼自身の匂いと、紅茶の匂いだけがする。
顔を近づけてきて接吻された。挨拶より少し深めの接吻だった。
音楽はますます大きくなってくる。接吻を終えると領主様は平然と会話を続けようとするのだった。
「……あの音楽は何でしょう?」
いまの接吻など、彼にとって大した意味はないかのようだ。

玄関間から寄せ木の階段を、クズマが跳ねるように陽気に駆け上ってくる。
「領主様、ロマの楽団を呼んで裏庭に待たせています!」
リザヴェタはクズマに聞いた。「ロマの楽団……? 何で? お祭りでもないのに」
「リザヴェタ奥様。あの、占い……」

クズマは口を濁し、領主様に何とかして欲しいとでも言うように様子をうかがっている。
クズマは森の家の夜警をしている。
すなわち、→ 『この人』は、『キノコ部長』がらみで、『また』ろくでもないことを考えているのかしら、とリザヴェタにはわかった。
つい溜息をついた。

領主様が答えた。「ああ、リーザ。……皆、占いが大好きなようなので、ロマの占い女に運勢を見てもらわせてやろうかと……。リーザ、あとでいっしょに相性を占わせませんか。私と貴女なら、とても良いに決まっていますが」
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。貴男は占いなんてまったく信じていないではありませんの!」
「貴女も信じていませんね。でも、使用人たちをねぎらって『星占い』の本を読んでやる。リーザ、そういう貴女が私は頼もしく、愛おしくて……」

「昼間っから廊下で『les mots d’amour ou autre chose』(愛の言葉のような何か)をおっしゃらないで。嘘くさく聞こえますわ。
では、わたくしは、召使いたちのなかで、占ってもらいたい者を集めてきます。皆喜ぶでしょう」

ああ、午前中が無駄になってしまった。家事室に向かってひとりで歩きながらリザヴェタは思う。
要するに最初にチューリップの花の茶器セットを癇癪を起こして叩き割って温室に隠しておいた『あの馬鹿な人(子供時代)』が悪いのではないの?
そういえば、チェルニャーク大佐から来た手紙の相談ができなかったわ! それからバシュキロフ家との『農奴の出会いの会』のことも、レオニード様からイアに来る手紙がどんどん病的になってくることも!!

背後で、領主様が少し寂しげに呟く声が聞こえた。

「嘘ではないのですが……、リーザ」