第16話 青髭公 2 『花嫁の心得』1

『青髯公』のお話に戻ります。語り手も領主様です。
書斎でアクリナの手紙を読む領主様、手紙にはお礼が書いてあります。
……『イアお嬢様を、寂しくないようにあたしのところに遊びに来るよう頼んでくださってありがとうございます』。……さらに、花嫁修業の手伝いに『領主様とアクリナのなれそめ』を話せと言われて、恥ずかしいけれど話したことなどが書いてあります。
領主様はそんなことを言った覚えはまったくありません。……
後半に久しぶりに性描写があります。

5月3日,1831年

5月3日木曜日の午後早く、アクリナから手紙が来た。
農奴の少年に託してきたものである。
私は他の郵便物を持って書斎に閉じこもった。

週末は来客がある。領主館は少々慌ただしい。
客は珍しい。
私には友人がいないので、来客など勝手に押しかける親戚くらいのものである。
盛大な夜会や舞踏会など死んでも開くものか!

遠くから来客があるという話のたびに、リザヴェタは領主館の居間の壁紙をいっそ貼り替えたらどうかと言った。
やはり古い館なのであちこちが傷んでいる。
この古い、ルーシ【* ロシアの古名】の祖先から伝わる丸太小屋を、ただ天井高く巨大にしたような館に、現代風の、薄桃色と白の縞模様の布だの、フランスの白地に金色のフルール・ド・リスの紋章(あれはカトリックのものだ)が織りこまれた壁布など似合うはずがない。

もちろんリザヴェタが自分の作業場にしている家事室や、家事室に隣接する彼女の居間には、何を貼ろうと構わない。
壁紙でも家具でも置物でも、色々好みのものを揃えるように言ったのだが、我が義父たるフョードル殿の軍隊式の質素さが身についているのか、それとも領主夫人としての倹約なのか、リザヴェタは常に自分を後回しにする。
リザヴェタの居場所なのだ。むしろ自分好みに贅沢にして欲しかった。

週末の客人は、リザヴェタの父上の部下の将校殿だ。シベリアからモスクワに栄転だという。義父上に目をかけられるくらいだから、まあ有能なのであろう。

ヒローシャことヒローキーストール・ヒローキエヴィチ・イェンゲージェフ(だったか?)は、元々リザヴェタの生家の奉公人だ。客人に会ったことがあるらしい。

――

昨日の朝のことだ。
私は厩舎にいて、ヒローシャに客人がどんな人物か聞いた。
ヒローシャは小柄な東洋系異民族で、猟師の一族の出だ。初めて会ったときは絶滅寸前の少数民族から拾われてきてリザヴェタのリャードフ家に飼われている子犬のようだったくせに、ずいぶん垢抜けた。
黒い髪に油をつけて洒落者の紳士のように前髪をなでつけている! クラバットの巻き方を一〇種類くらい覚えて日替わりにしている! リザヴェタが買ってやったらしく、握り手が象牙で熊の彫刻がされた紳士用ステッキまで持っている!!!
だがヒローシャはステッキを馬を扱うのに使っている。

ヒローシャは、『お客人はご立派なお方です』と、馬に刷子をかけながら生真面目に答えた。
私は愛馬である月毛のイグルーシュカの首に腕をまわし、たてがみを軽く叩きながら、聞いた。
『どこが立派なのかね。リャードフ家の玄関番(ヒローシャが少年のころのことだ)に賄賂でもくれたのか』
ヒローシャが少々憤りながら答える。『私はそのようなものはいただきません!』

それからぶつぶつと呟き始め、顔をあげて、きらきら輝く黒い目で私に訴えかけるように言うのだ。
『ああ、大切な領主様。貴男様のいつもの手でございますね。わかっていても辛うございます。……しかし、ほんとうに賄賂など、私は決していただきません……これだけは信じていただきたく……』

面白い。

『おまえが馬鹿正直なのは重々承知している。ああ、偉い。立派だ。我が国には貴重な人材だ』

……ヒローシャの馬鹿丁寧な言葉の使い方にはよくわからないところがあり、やたらに抽象的な形容をする。
『敬虔なアクリナ様』といった表現だ。間違ってはいないが、もちろんアクリナはそれだけの人物ではない。
具体的にどうしてそう思ったかは、しつこくねちねち問い詰めないとわからない。

『で、ヒローシャ君、客人のマクシム・イリイチ・チェルニャーク大佐殿は、どんな立派なことをしたのかね。ひとりで囚人の反乱を鎮めたのか? 毎日、人の味を覚えた暴れ熊を獲ったのかね』
ヒローシャはしばらく考える。このあたりで、まともな答えが返ってくる。
『いえ、……そこまでご立派なを功績を打ち立てたとうかがったことはございません。
ただ、よく他の将校様方と連れだって、リャードフ家に遊びにいらっしゃいました。
あの、フョードル様がよくお目を掛けた将校様たちを屋敷にご招待しておられました。
将校様同士が難しい議論を戦わせるのを見るのが、お好きだったそうでございます。
……他の方は私などお目に入らないようですが、チェルニャーク中尉様(当時は中尉だったのだろう)は、まったく偉ぶらずに話しかけてくださいました。
とくに軍隊での馬の扱いを教えていただきましたのは、今でも役に立っております』

『……なるほど、それは立派な人物だな』
私はイグルーシュカ(雌)の首に腕を掛けたまま、彼女の肩に頭を寄せた。
異族民の小僧であるヒローシャに親切にしてくれるのであれば、確かに出来た人物であろう。

私は聞きたかったことを聞く。
『美男か?』
ヒローシャはしばらく不思議そうに考え込んでいた。
『ああ、そのチェルニャーク中尉殿で大佐殿は、私より美男か』
『ええ? び、美男かどうかでございますか? 美男といった物差しで測るような方ではなく、もっと高潔な将校様と申しましょうか……』
『ご婦人から見たら魅力があると思うか』
『え、ええ……? 私はご婦人では……』
ヒローシャは緊張し硬くなっている。
これからフランス語、あるいは『愛の技術を三日で五〇種覚えろ』と命じられたらこのようなようすになるであろうか。
彼にとっては拷問同然の質問をしていることに気づいたがまあ良いのだ。

ヒローシャはぎくしゃくしながら言った。
『私が大佐殿にお目にかかったのは十年も前でございます。よく覚えておりませんが、五年前の貴男様のほうが……あの、絵のように美男でご婦人にも魅力的でいらっしゃったと思います……』
(何故わざわざ『五年前』というのだ!)
『大佐殿は隣のレオニード・バシュキロフと比べたらどうだ。魅力はあるか』
『はい』ヒローシャは即答した。

――

チェルニャーク大佐殿に妙な期待を抱いているのは自分でもわかっている。
ああ、素晴らしいことに今週末に来る彼は独身らしい!
ヴォルガ河沿いのニジニ=ノヴゴロドの生まれだ。我が義父上フョードル殿が信頼する部下ならば、後輩たるサンクト=ペテルブルクの士官学校出身であろう。
(チェルニャーク大佐が何をしに来るのか知らないが、恐らくリザヴェタが幸福かどうか見に来させようというフョードル殿の陰謀ではないか)
身分は高くはないが、それで出世しているのだから大貴族の嫡男の『ぼんくら』などよりよほど良い。
ヒローシャの話を聞くと人柄も悪くはあるまい。先祖の武功で士族から中貴族の扱いになった隣家の嫡男レオニードより、当然、出来た人物であろう。
ああ、彼が誠実で、善良であるように祈る。ひどい『裏の顔』や『特殊な趣味』などの持ち主ではなく、『もの好き』だと良いのだが。
そして、長い間独身を貫いていた武官が、我が妻の従妹イア・ドミトリーエヴナと一目で恋に落ちる……、などということは、やはりそうそうないであろう。
……
だが、大佐殿本人は無理でも、友人や部下が腐るほどいるはずだ。

――

それが昨日のことである。

私は無理だろうと思いながらも、そのようなことを夢想した。
イアには私からも持参金を持たせてやる! 金のどんぐりと金の犂をプレゼントだ! イアは大佐殿に乗馬を教われば良い!
私は広い卓に肘をつき、アクリナからの手紙を目の前に置き、封をぼんやり眺めていた。学習が進むにつれ、どんどん賢くなっている。……と思う。
表書きが無闇に長い。
――

聖ニコラさまにえらばれた、だい3の羅馬(ろーま)
とうとい総主教さまといだいなツァーリさまがしろしめす
(『しろしめす』は『統治する』という意味のやや古風な文語的表現だが、どこでこんな言葉を覚えた?)

聖なるロシヤ帝国スモレンスク県××郡Я村 領主館きづけ
書さいの部屋
気高く思りょ深い領主様、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ・Яさま
おみもとへ

――

封筒をペーパーナイフで開き、便箋を取りだす。今日はいつにも増して分厚い。

――

5月2にち、1831ねん

領主様、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ

あたしの神さまで支配しゃである貴男様にお手紙を差しあげられるのは、どれほど幸福なことでございましょうか。

このまえはジプシーの占い師に見せてくださって、ありがとうございます。
お年をめした占い女が、うす暗い「てんと」のなかで、怖いような水晶玉やおまもりに囲まれて、
『何十年も占いを生業(なりわい)にしておりましたけれど、これまでみたことのない最高の相性でございます』
といった言葉がなんどもよみがえって、やっぱりとおもいながらも、とてもとても嬉しくて、あたしはやはり、貴男様の婢女になるために生まれたのだという思いが改めてとても強くなります。

あたしは水のなかでも(……何故、水中?)
貴男様のことを思い、貴男様のぎょ意に沿うためだけに毎日、……なまけたりもしたくなりますが、貴男様のとてもすてきで神聖なおすがたを思いうかべ、祈りながら、どうぶつや植物やキノコにも慈悲をもって接します。

あたしが迷うと貴男様のお声があたしの耳元で『そうするといい、アクリーヌ』「だめだ、あくりーぬ」と、ささやいてくださるのは、お忙しい領主様のお仕事のあいまに、すべて貴男様があたしのことをご覧になっておられるからなのですね。

(本当に声が聞こえるのか? ……敬虔な修道士たちが修道院や洞窟に籠もりきりで何十日も祈っていると、段々頭の具合がおかしくなって、天使が見えたり声が聞こえたりするらしい。その類なのだろうか? ……大丈夫か?)

シベリヤのしゅうどういんの長老様が、貴男様のまえで、あたしに「まいにちを致命(ちめい)だとおもいなさい」とお命じになったのを、全能の貴男様はきっと覚えていらっしゃいますでしょう。

あたしは毎日あなたさまのために致命(『致命』とはカトリックでいう『殉教』のことだ)いたします。
聖アクリナさまが受けた苦難よりひどい苦しい致命をいたします。【* 文末注】

まいにち、貴男様に猟銃でうたれるところをそうぞうしています。(やめろ)

でも貴男様のおからだの短剣のようなものに貫き殺されるのが、いちばん幸せです。
貴男様のおからだの短剣があたしを刺すために力をためて、柔らかいのに大きく硬くなって、

(……どうして突然淫らな話になるのだ……嬉しい)

でも皮を握ると弾力があって熱くてなんだかドクドクいって、きっさきが丸っこいけれど尖っていて、単に尖っているより苦しくて気持ちが良くて、良い致命になるのだとおもいます。

さわり心地がうっとりするほど良くて、絹のぴったりした袋に、ドニエプル河の取れたてで皮を剥いでよく洗った魚を入れたようです。
さかなは聖ニコラ様の御印で、これで刺し貫かれる痛みと苦しみと天へ連れて行っていただく心地を『法悦』というとうかがいました。
(色々と違う)

いいすす・ハリすとす様【* 申し訳なくて誰のことか書けない】が、おきのどくにもタタール人に十字架にかけられたとき、手首に打ちこまれた釘は貴男様のおからだの短剣であったでしょう。

(不信心者の私でも呆気にとられるほど罰当たりなことを書いている……。基督教徒やタタール人の善男善女には、どうぞお許し願いたい。無理か)

たとえあなたさまがどんなお戯れをおっしゃっても、すべて神さまと聖ニコラ様のおぼしめしに沿っておられて、
……
この罪とけがれに満ちて、泥やタールやカニの沼にはまりこんだ卑しい女奴隷で、ほんらいならば淫売のなかでも、もっともみじめで毎日ののしられて殴られる淫売になるべきの、あたしの汚いたましいを少しでもみちびこうとする深い思いがこめられていることを存じております。
……貴男さまに生きたまま皮を剥がれてあたしのみにくい正体をみなさまに 爆露 ばくろ されてしまいたいという思いに毎にち襲われ、そうおもうとどきどきして貴男様の短剣に刺されたくてしかたがありません。
貴男さまのかわりにはとても成りませんが、ためしに絹の袋にカワマスを入れてみましたがすごく暴れます……

(というような可愛らしい文が続き、……ああ、……便箋四枚目にしてやっと日常の出来事が書かれ始めた)

きょう、イア・どいりぶな(間違っている)おじょうさまが、貴男様に作っていただいた、あたしのお家にいらっしゃいました。

ドロシダがイアさまにききました。『領主様は、貴女さまがこちらにきてはいけないと、おっしゃっていたのではありませんか』

イア・泥いぶね(間違っている)は、答えました。
『おにい様は、言ったのよ。マダム・アクルーシュカの話し相手になってあげてほしいって。だから来てあげたの』

――

アクリナから来た手紙はこういう内容だった。

だがこんなことをイア・ドミトリーエヴナに言った覚えはもちろんない。私は当たり前だが全能ではない。が、記憶力はかなり良い。
確かに、アクリナは寂しいだろうと申し訳なく思う。ドロシダが来るのは週に三回だし、知恵の遅れたグリンカでは大した話し相手にもなるまい。
私が長く行けないときには、彼女の家を訪問してくれるようイリーナ・テレージナ夫人に頼んだりもした。
ヒローシャやテレージンにも暇があれば見まわれと言ってある。
が、イアには当然頼んでいない。
今日は5月3日だ。この手紙は昨日書かれたわけだ。

手紙はまだ続く。

――
いあ・どみちおう゛な(もうこれでいい)にお菓子をやいて差しあげながら、お話をしました。とてもたのしかったです。
イア様はうすい緑色のドレスを着ておいでで、シダか、こんちゅうが食い荒らして葉脈だけ残った葉みたいなみどりのレースがぴかぴかしたスカートの上にかかっていました。
貴男様のことを『おにいさま』と呼んでいらっしゃるのがとてもうらやましくて、「やきもち」をやくあたしはとても醜いです。
イアさまは、高貴な貴男様が、どうしてあたしなどの尊い恋人になってくださったのか、おききになりました。


……手紙を広げたまま、私はぼんやりと書いてあることの意味を考えた。
最近あまり頭が働かない気がする。休養したい。


イアさまはご結婚相手をさがしにЯ家にきていらっしゃるので、これもご令嬢の花よめしゅぎょうなのですね。

あたしはとても恥ずかしかったのですが、
イア・どみとえう゛なは、あたしに貴男様の気高いお言葉をお伝えになりました。

領主様はおっしゃっいました。『この迷える娘は、マダムアクリーヌにとって妹も同ぜんである。
何もかも包みかくさず教えて、花嫁のこころえをもたせる手伝いを頼むように』

貴男様のお導きに、あたしは恥ずかしがったことを申しわけなくおもいました。

それで、あなたさまと初めてお目にかかったときのことをお話ししました。
イア様はとても興味をお持ちになって色々とおたずねになりました。とてもはずかしかったけれど、
れいじょうの花嫁しゅぎょうのご苦労をおもいますと……

――

ちょっと待ってくれ。……
今日は5月3日だ。これは昨日書かれた手紙である。
昨日イアが行って、アクリナに私たちの『馴れそめ』を訊いたということだ。

ちょっと待て……。
アクリナが、うまく話題を反らしたり、罪のない嘘で誤魔化すなどできる訳がない。何でも馬鹿正直に話すに決まっている。おまけに彼女の所有者たる私のお墨付きということになっているならば、なおさらだ。

私は暗澹たる心持ちになった。

おそらくイアはアクリナから何もかも聞きだしただろう。私が目覚めて半時間後に彼女に接吻をねだったこと、自己卑下を続けるアクリナに「おまえはきれいだ」と叱りつけたことはもちろん、
……すべての閨の行為が……
まさか、あの許婚殿との比較まで話したのではなかろうな……
……ああ、…………私は無駄に記憶力が良いので、あの時の寝台の敷き布の皺まで思いだせる。

令嬢に話す事柄ではないし、令嬢でなくとも他人に話す事柄ではない。
とはいえ、彼女との情交を他人に見せたことはある。そういうことを楽しむ紳士淑女のクラブに行った。
だが、それは行こうと思っていったのだ。

初めて会ったときのことは誰にも触れて欲しくない。アクリナは私のものだが、あの時の、シベリヤのリャードフ家の客用寝室にいたアクリナはことさら私だけのものだ。
アクリナは今も身近にいてくれるが、『あの時のアクリナ』は今は存在しない。だが、あの時以来、すべての時間のアクリナが『私のもの』なのだ。

何かが奪われた気がした。
私は思わず分厚い手紙を卓上に叩きつけた。せっかくアクリナが書いてくれたのに!
手紙をたたみ直して封筒に入れようとしたが上手く入らない。
手が震えているのだ。こんなことは滅多にない。私は自分で思ったより、腹が立ち、動揺しているようであった。
私は書斎を出た。
午後も半ば過ぎだが夕方には早い。

――

古く広い居間の赤い絨毯は確かにすり切れている。
女中頭のエレナ・ネクルィロヴァが、居間の端に立ったまま、帳面に何か書きつけている。
料理女頭のゼルノヴァが台所に引き上げていく、ずんぐりした後ろ姿が見える。エレナはゼルノヴァと何か打ち合わせをして、別の作業に移るところらしい。
私はエレナの名を呼んだ。地味な服を着て、痩せた体の背を突っ支え棒でも入れたように伸ばし、いつに変わらぬ硬い表情をしている。私を見てわずかに驚いていた。

「領主様、どうかなさいましたか」
エレナが聞いた。
「何かおかしいか?」
「具合がお悪そうですわ」
「いや、別に問題はない。イアがどこにいるか知らないか? フランス語のマダムはお帰りになったかね」
重ねて質問するのは焦っているときの私の癖だ。
リザヴェタやエレナやテレージンは平気で答えることができるが、理解できない者も多い。あまり良い癖ではない。

「はい。お帰りになりました。イアお嬢様はお部屋でマダムの宿題をなさっていらっしゃいます」
「ああ。そうか。エレナ、君は今度の客人の準備かい」
「さようでございます。魚がお好きだとうかがいましたので、魚料理の手配をゼルノヴァといたしました。
土曜には、いちばん良い魚を持って来るように魚売りに命じましたわ。
鯉か川鱒か、もしかしたらチョウザメでしょうか」

川鱒はアクリナがしたように絹の袋に入れろ、と思ったが独身のエレナに淫らな冗談を言うわけにはいかない。

「大佐殿は魚が好きなのか。魚卵ではなく?」
我が国の貴顕階級で、最高の美食といえばまず魚卵である。もてなしとは、キャビアやイクラをどれほど食卓に並べるかにかかっているのであった。
しかし、皿もグラスも、良い食器は壊滅状態だ。偶然が重なった事故で、割った小間使いダリヤーナを責める気はない。
とはいえ、やはり滅入る。

エレナは私の表情から何か見て取ったらしい。
「お客様にお出しする食器は、このまえ割れなかったハンガリーの新しい工房のものにするそうです。奥様がおっしゃっていましたわ。お客様は、贅沢にこだわったりしない、さっぱりしたお方だそうです」
「そうか。リーザに任せるよ。いずれ食器も買い直さないとならないのか……。で、魚だね」
「ええ。奥様によると、魚のどの部分も美味しそうに召し上がるそうですの。
ヴォルガ河のそばでお育ちだから、釣りがお好きなのだそうです。お子様のころは、士族とおっしゃってもあまり豊かではなく、ご兄弟で釣った魚が何よりのご馳走だったそうです。
釣りといえば、領主様と同じご趣味ですわね」

「いや、私は南の湖でしか釣らないからな。……その、チェルニャーク大佐殿が川釣りがお得意ならば色々うかがってみたい。
……もてなしの準備は奥様と君に任せる。よろしく頼む」
私は上の空で言った。我ながらしゃべり方が硬い。
その場を離れ、今から北棟へ向かう。
心配そうにエレナが見送っているのを感じる。
それほど私の状態はおかしいのだろうか。

北棟のイアの部屋の前に行った。扉を叩くが誰も出ない。
「イア! 領主だ」
怒鳴っても出ない。

樫の扉には、あまりにイアがたびたび謹慎処分になるので、外から鍵をかけられるようにした。私はフロックの隠しから鍵束を取りだした。

鍵は二十本ほどである。ぜんぶの鍵が、どれがどの部屋のものか、触り心地ですぐにわかる。金鍍金(めっき)をした鍵は二階、銀鍍金は一階、銅のままの鍵は倉庫や納屋、厩舎、家畜小屋、丸太小屋の事務所といった屋外の建物のものであった。ついでに石榴石がついた金の鍵数本は、アクリナの森の家のものだ。重いため、普段はよく使う三十本ほどしか持ち歩かない。(でも重い)
あとは書斎の金庫に入れてある。

イアは妻の親族から預かった、花嫁修業中の若い令嬢である。
彼女の立場だけ聞くとたいそう可憐ではないか。
そのような娘の部屋の戸を閉ざし、外から掛ける鍵をつくり、しかも常に持ち歩く羽目になるとは思いもしなかった!

「イア、出てこないなら開けるぞ!」
返事はない。扉に耳をつけてみたが、別に寝息も聞こえない。
私は鍵束に触れる。鍵の頭にどんぐりを刻んだ金の鍵を見つけ、外の閂を留める南京錠に差した。錠を開け、閂を外す。
内側から鍵がかかっている。

「イア! お義兄様だ! いるなら自分で開けろ。さもないとこちらで開ける」
苛立ちのあまり扉を蹴ったのを、小間使いが見て小さく悲鳴を上げて逃げていった。
ああ、私は優雅な紳士で、特にご婦人には老若貴賎を問わず敬意を持って丁重に接するよう常に心がけているのに!

返事がないから、内鍵も使って扉を開けた。
扉を開けて一歩踏みこんだ途端、私の胸の中央に何か固い物が突き当たり、思わず咳き込んだ。
樹皮を剥いだ木材の先端だ。何故こんな物があるのだ。

咳が止まって部屋を見回すと、紗のカーテンで覆った寝台がある。誰も寝ていない。寝台の脇にある小卓には、時計とランプと本(『ジュスティーヌ、または美徳の不幸』フランスのサド侯爵作。令嬢が読む本か?)が載っている。

爽やかな若葉色の壁際には、箪笥、暖炉、簡単なフランス語の小説の詰まった本棚などが置かれている。
白い猫足の鏡台には、刷子やルイ王朝ふうの手鏡、リボンや化粧道具がある。
書物の内容さえ気に留めなければ、まるで部屋の主は夢見る乙女のようではないか。
たぶん小間使いが活けてくれるのであろう、くつろぎ用の卓には季節の花まで飾ってある。フサスグリの花束であった。小さな五角形の花は白く鈴なりに咲き、赤ん坊の肌のような赤みが差している。
花瓶の横には帳面が広がり、宿題なのかフランス語が書かれている。
フランス語の文章が目に飛び込んできた。

Mon beau-frère est impudique, arrogant et cruel. Il peut être un démon.
……私の義理の兄は恥知らずで、傲慢で残酷です。悪魔かもしれません。

……何なのだ、この内容は。

Pour cette raison, je n’aime pas mon frère aîné, il semble certainement être attirant de temps en temps.
Mais j’ai toujours peur qu’il puisse nous tuer dans le futur.
このため、私は兄が嫌いです。彼は確かにごくたまに魅力的に見えます。
でも私はいつも、彼が将来私たちを殺すかもしれないと恐れています。

……彼は確かに魅力的に見える。
“de temps en temps” ……ときどき。

私はおもわず帳面をしげしげと見た。書いてある内容は同じだ。義理の兄(義理の従兄だが)【* 文末参照】とは私のことなのか?
イアなど殺して何か得になるのか!
殺すくらいなら実家に追い返したほうがよほど楽だ。
こういう小説でも訳せと言われたのか。
まさか我が義理の従妹は本気でこんな馬鹿なことを考えているのか? それはアクリナからなれそめの話を聞いたからなのであろうか。

部屋の奥の窓が開いており、そこから、細長い木材が一本、部屋を斜めに横たわっていた。私の胸元に当たった棒杭はこの木材の先端だ。皮はきれいに削ってある。
開いている窓からは風が吹き込み、薄緑のカーテンが揺れていた。
木材にはおおよそ一フート【* =1フィート,約30.48センチ】弱ごとに刻み目が入り、短い横木が渡され、縄でしっかり木材に縛りつけられている。要するに梯子だ。

フランス語教師であるヴォルテール好きのマダムが宿題を残して帰ったあと、エレナあたりがイアを閉じ込めて(もうリザヴェタやテレージンどころかエレナや料理女頭のゼルノヴァや洗濯女頭のカリンスカヤも、イアが何かしでかしたら謹慎処分にするようになった)、しばらく宿題をやらせるつもりであったが、逃げ出したということだ。
だが二階の部屋から梯子で降りたとしたら、どうやって二階に梯子を戻した? 誰かに協力させたとしても、ここを内外両方から閉じる鍵を持っているのは私とリザヴェタ、エレナだけだ。
この三人のうち誰も協力するわけが無い。

窓縁に行くと、滑車が窓に取りつけてあった。
つまり梯子の先のほうを滑車の溝に嵌め、勢いをつけて放り上げ、滑車を滑らせ二階の部屋に戻すわけだ。……イアがここまで賢いとは知らなかった。さすが我が妻リザヴェタ・フョードロヴナの従妹である。
……。

後半に続きます。

※ 聖アクリナ 致命者(カトリックで言う殉教者) 三世紀、ローマ治下のフェニキアの少女。当時禁じられていたキリスト教徒で、12歳の時に拷問されたうえ、致命した。聖人に列せられる。アクリナの名前のもとになった。
※ いとこときょうだい イアが従姉の夫である領主様をお義兄様と呼んでいるのは、血縁関係の結びつきが強そうな社会であるためです。実際のところはまだ調べておりませんがお許しください。
参考

“古代ロシア語で伯父の名称から派生されていた従兄弟を表す単独の語(ストルイチチ、ウイチチ)は消滅し、従兄弟はドヴォユロドヌイ・ブラート(二番目に近い兄弟の意)、従姉妹はドヴォユロドナヤ・セストラ(二番目に近い姉妹の意)と呼ばれている。”
《『民俗の世界史10 スラヴ民族と東欧ロシア』山川出版社》