第17話 青髭公 3 『花嫁たち』1

視点人物はふたたびリザヴェタ奥様に戻ります。
週末、Я家にはリザヴェタ奥様のお父様の部下であった、有能な独身の将校が訪問する予定です。
領主様は何故かそのチェルニャーク大佐がイアと結婚してくれないかと期待しています。
大佐来訪の前に、一つ片付けることがあり、奥様は領主様に連れられて、西北の隣家・バシュキロフ家に出かけます

5月5日,1831年

Я村の領主様は魔女が好きだという。
また、みずからも魔術を好む。怪しげな禁断の書物を研究し、じっさいに魔女から習いもし、非常に詳しくなった。
そういう噂は初めは迷信深い農奴や貧しい鍛冶屋だの魚売りだのがこそこそ話すだけだった。
それが近隣の地主貴族の貴夫人や令嬢にも広がった。
紳士たちはさすがに魔術だの本物の『魔女』などは存在しないと笑い飛ばすのだが、あとでこっそりと十字を描いた。

その『魔女好き』の領主様の妻であるリザヴェタ・フョードロヴナは、まったく詩情を解さないぶん、俗信も気にしない。
『村のなかにいる魔女』……薬草で治療をし、堕胎をさせ、惚れ薬を作り、呪いもかける……そういう女がいることは知っていたし、じっさいに効く薬草があることも知っている。
だが、魔女が悪魔と交わってサバトをするとか、箒で空を飛ぶといったことは馬鹿げていると思っていた。
魔女妄想に取り憑かれた元・許婚に何年も追いかけられて『魔女がどうした』『リザヴェタさん、貴女は魔女を使って、僕に術をかけさせましたね』などと言われ続けたのも原因かもしれなかった。【* 本編『惨憺たる晩餐会』参照】

魔女が好きだという噂は、いつぞやのデルジャーヴィン家の夜会で魔女狩りの歴史を延々語ったから、広まったらしい。

(あれで広まらなかったらどうかしているわ)、とリザヴェタは思う。
『淑女の乗馬会』の後で、ほかの貴夫人からこっそりと、『内密にですけれど』と前置きされ、親切にも『××修道院の△△という修道士様をご紹介させていただけないかしら。悪魔祓いがお得意だそうよ』と囁かれたりするのだった。
「いえ、ただ主人は学問が趣味なだけですわ」と答えると、さらに気の毒そうな顔をされた。
学問が趣味になるなど、皆、考えたこともない。リザヴェタが夫をかばって下手な誤魔化しをしているか、本当に旦那様が変人だと思われたのだろう。
(まあ、下っ端の悪魔っぽいところはあるわよね)

今日は五月五日だ。要するに、マクシム・チェルニャーク大佐が訪れる日であった。
今日は晩餐会を開き、明日はご本人の予定や希望を聞いてから『もてなす』予定だ。

(何なら乗馬を見てもらうのも良いかもしれない。ヒローシャがあの方の乗馬はコサック並みだと言ってたわ)
リザヴェタは主寝室の奥にある妻の居間、化粧台の前に座り、女中頭のエレナ・ネクルィロヴァに髪に熱した鏝をあてさせていた。
もう午後になった。
普段は着替えるのも自分でやるのだが、今日は来客があるから、身支度はエレナに頼んだ。
膠を塗ったような濃く太い髪は鏝で縦に巻くと、ものすごい量になる。
鏡に映った自分は、確かにシベリヤの田舎令嬢であったころより洗練された。よく言えば気品と威厳が、あるいは迫力や凄みが出てきたように思う。目の力強さは増している。
これは多分自分の美点なのだろうと思う。違うかも知れないけれど。……夫がしょっちゅう褒めるから。

「エレナ、髪が終わったらわたくしはもういいわ。イアの身支度をさせてやって」
「あら、お客様は奥様の古いお知り合いでございましょう。おきれいになったところをお見せしなければ」
「あの馬鹿な領主様が、お客様と馬鹿イューカに馬鹿な期待をしているのよ」
「え? と申しますと?」
リザヴェタもエレナもあまりお喋りではない。
結婚当初はぎくしゃくしたが、リザヴェタはなるべくエレナに事情を話し助力を請うようにした。人に話さず、何でもさっさと自分でやるリザヴェタのわりには、だが。
リザヴェタ奥様もエレナも生真面目に黙々と働くところが似ている。最近は二人でうまく領主館を回している。

とはいえ、今回はエレナに事情を説明をするのも億劫だった。
「昨日、エヴゲーニイ・パヴロヴィチとわたくしでお隣のバシュキロフ家に行ったでしょう」
「ええ、そうでございましたね……?」
生真面目なエレナはどういう話なのか見当もつかないようだ。リザヴェタの濃い茶色の髪を梳かし上げ、鏝を巻く。


じっさい昨日の午前中はひどいものだった。

昨日の朝は良い天気だったから、露台にテーブルと椅子を置いた簡素な夏用の朝食室で食事をした。
リザヴェタの母国ロシヤ帝国は、いにしえの高貴な大国ビザンティン帝国を魂の祖先の国と考えている。
その祖の国に敬意を示すためなのか、単に領主様かその先祖の趣味なのか、露台の手すりにはビザンティンふうのモザイクの壁画がある。
イアはまた何か拗ねているのか自分の小屋に籠もっている。領主様はいつものように朝帰りだ。基本的に週に一日、たまに二日と、なんとなく決めているらしい。
まだ戻ってこない。

乳母のヴィラに手伝わせミハイル(3歳)やイヴァン(もうすぐ1歳)に食事をさせながら、リザヴェタは自分も朝食を取っていた。もっともイヴァンの乳はヴィラがやる。
白樺の新芽は柔らかく鮮やかで、まだ少し寒いが、外の風は心地よかった。
イアと領主様が留守なのも、楽といえば楽ではある。

(あの人は領主様モードなら良いのだけれど、さもないとすぐに何でも引っかき回すし、隣近所で滅茶苦茶言われても気にしないし、上機嫌だとべたべたまとわりつくし、妙なものの蘊蓄を語りだすし、そのくせ、すぐぼうっとするし、逃げるし……)

ミハイルが椅子から勝手に降りて、露台の漆喰の上を走りまわり、トカゲを捕まえてヴィラに見せる。イヴァンを抱いたヴィラが悲鳴をあげ、イヴァンはまた大声で泣きだした。
リザヴェタは重々しい声で、ミハイルに『捨てなさい』と命じる。
ミハイルがびくりとしてトカゲを離し、二階の露台から階下へと落とした。

裏庭のほうから、馬を呼んだりねぎらったりする声が聞こえ、やがて、正面玄関で玄関番の少年や小間使いが丁重に挨拶をする声がする。
領主様が帰ってきたのだ。
「ヴィラ、ちょっと頼むわね」
「はい、奥様」
露台から出てリザヴェタは居間で夫を迎えた。

「おはようございます。リザヴェタ」
夫の顔つきは妙に険しかった。
普段の領主様の外見は、鋭さと優雅な甘さが混ざり、三十半ば近い今でも『美男』だと、少なくともリザヴェタは思っている。
が、今日は優雅さに欠けている。無精髭が伸び、頰の線がいやに鋭く、あたかも削いだかのようであった。
だいたい、朝帰りすると眠たげな、満足そうなふわふわしたようすなのに、珍しい。

不意に手を取られた。握られた手は痛いほどだ。
「リーザ、今は朝食中ですか?」
「ええ。ミーシャとヴァーニャと。今はヴィラが見てくれています」
領主様は懐中時計を見ている。「八時半か」
うつむいた目がぎらぎらと輝いていた。目の下に隈がある。
リザヴェタは、いっしゅん夫がひどく酔っているのかと思う。だが、彼が飲み過ぎることはほとんどない。リザヴェタたちの母国の人間としては、珍しい美徳だ。

「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。どういたしましたの」
「朝食の途中で申し訳ない。リーザ、今は朝の普段着ですね。簡単で良いので出かける支度をしてください」
「え、どこへですか」
「隣のバシュキロフ家です」
「少し早くありません? 約束はおありなの?」
いつにない早口で答えられる。「ありませんが構いません」
ただごとではない様子に、リザヴェタは主寝室の奥の支度部屋に戻り、急いで春外套とボンネットを身につけた。

ヒローシャに馬車を出させた。
西北の隣家の前庭に馬車を着ける。園芸好きな一家だ。領主館の前庭に植えられた色とりどりの春の花が見事だ。
英国あたりから輸入してきた黄花藤が大きく育って花の鎖を垂らし、地面では赤やピンクのゼラニウムの匂いが流れ、蜂の羽音が低く響いていた。

「リーザ」
先に馬車を飛び降りた領主様が、馬車籠の中のリザヴェタに手を差し伸べる。降りたリザヴェタの肘に、フロックに包まれた長い腕を絡めた。
「ヒローシャ、そこで待っていろ」
「はい。大切な領主様、大切な奥様」
何も聞かされていない訪問客に驚いたらしいバシュキロフ家の馭者が、馭者台のヒローシャに話しかけている。

「バシュキロフ家がどうしたんですの」
「レオニードがイアに求婚しました」
肘を引かれ、大股で歩くのに何とかついていく。普段はリザヴェタの歩調に合わせてくれるのに、その余裕もないようだった。
「いつものことではありませんか」
領主様が振り向いて、初めてまともにリザヴェタの顔を見た。苦々しげに言った。
「イアが承諾したらしいのです」
「ええ? イアが受けた?」
玄関番が、Я家夫妻を見て慌てて扉を開けた。

「レオニードはもう農園に出ていますわ」
バシュキロワ夫人が言った。応接間に案内される。
「お父上はいらっしゃいますか」
「あの人はこの前、馬から降りるときに転んで、足を傷めたの。それで昨日の地元の会議にレオニードを出したのですよ」

「バシュキロワ夫人。ご主人様が歩けるようであれば、できればご夫婦でお聞きくださいませんか」
領主様は真剣だ。リザヴェタもあまり見たことがない様子だった。性質の悪い息子への懲罰を両親に通達する司祭のような表情をしている。
バシュキロワ夫人は夫の代母であり、子供の時から知っているが、こういう態度を取られたのは初めてらしい。急に微笑むのをやめ、口元を引き締めた。
リザヴェタは居心地が悪い。バシュキロワ夫人は貴婦人だが、飾り気の無い、親切な夫人である。心配を掛けたくなかった。バシュキロフ家の当主夫妻には、リザヴェタも領主様も世話になっている。
夫人は小間使いにバシュキロフ氏を呼びにいかせた。

出された紅茶とジャムをまえに、三人で黙りこくっていた。
バシュキロフ氏が来た。六十にはまだなっていないだろう。焦げ茶色の爽やかな目つきは息子に似ている。
レオニードが、背が低くなり(長身は母方譲りである)、歳を取って白髪になったわりに溌剌として知的好奇心もあり、賢明になり世間知が増え、人当たりが良くなったらこうであろうかという紳士であった。

クラバットも巻かず、シャツにカフタンを羽織った姿だ。ステッキをつき、片脚に支えを当てて布で巻いている。
「やあ、リザヴェタ・フョードロヴナ、ゲーニャ。朝早くからどうしたのかね。脚にどうもひびが入ったようでね。歳は取りたくないものだねえ」

いちおう礼儀正しさが取り柄の領主様だったのに、怪我の見舞いもなしにいきなり言った。
「レオニードが、我が家で預かっているイア・ドミートリエヴナに求婚しました。イアは我が妻リザヴェタの従妹です」
バシュキロフ夫妻は、一瞬黙り、まあ、ほお、と声をあげる。
「イアは承知しました」
バシュキロフ夫妻は本当に嬉しそうに見つめ合った。バシュキロワ夫人の目が潤んでいる。
「まあ! 素晴らしいわ。リーザの従妹ならほんとうに……本物の令嬢なのね」
「ああ、これは願ってもない。私もついに隠居か。
そのイアさんはいつ我が家を訪ねて来てくれるのかね。もし良ければ、私たちが貴邸に会いにうかがおうか」

リザヴェタは夫がどんな無茶な反応をするか不安になった。いつも言っているように、レオニードとイアの結婚を許す気はないだろう。
エヴゲーニイ・パヴロヴィチは慇懃に言う。
「バシュキロフご夫妻。貴方がたの代子であり、隣の小僧であった私がこのようなことをお伝えするのをどうぞお許しください。
イア・ドミートリエヴナはですね。確かにリザヴェタの従妹で、シベリヤにささやかな領地を持つ弱小地主貴族イェルマーコフ家の娘ではあるのですが……我が妻とは性質がまるで違いまして……、」
領主様は深い溜息をついた。

(また! でまかせを始めたわ)
リザヴェタも溜息をつく。

「ご存じの通り、妻は活発で気丈な人です。ですが従妹のイアは非常に内気で臆病で」
何を言っているのだろうとリザヴェタは思う。

「こんなことを告白するのは心苦しいのですが、義理の従妹は臆病すぎて『断る』ということができないのです。
(イアが?)
昨日も一日泣いていました。気を鎮めさせるのが大変でした。
イアの言うところによると、レオニードが嫌いなわけではないけれど、まだ結婚を考えるほどよく知らない。でも、つい、いい加減な気持ちで思わず『ウィ』と申しあげてしまった、とですね。
……彼女には親同士の決めた許婚がいるのに」

(そんなのいないわよ!)

「明日の土曜日に彼が来ることになっています。
ええ、イアの許嫁です。エリートの将校殿でしてね、ニジニ=ノヴゴロド出身の士族で、チェルニャーク大佐と言います。彼とは好き合っているようなのですがね。
なのについ、レオニードの勢いに押されて承諾してしまって、レオニード様にも、許婚の将校殿にも申し訳ない、どうすれば良いのかと泣くのですよ。
いっそ修道院に入ると言いだし、私どももイアは心配だしレオニードには済まないしで、こうしてご挨拶にうかがったわけです」

バシュキロワ夫人がいつものおおらかさを失い、心配げに聞いた。
「ゲーニャ……、ではイアさんは、『つい』『うっかりして』、レオニードとの結婚を承諾してしまって……、貴方たちが取り消しに来たということなの?」
「はい。お恥ずかしい次第です」
穏やかなバシュキロフ氏が吐き捨てるように言った。
「レオニードの馬鹿が。優しいお嬢さんに強く出すぎたのだろう!」
「強く出過ぎかどうかは知りませんが、『恐怖のあまり』うなずいたイアも情けないものです。
現代の婦人は、普段はしとやかでも、こういった肝心の場面でははっきり自分の意思を表せねばなりません」

バシュキロフ家の領主夫妻は落胆のあまり魂も内臓も抜けたようになっている。リザヴェタは領主様に次いで話しはじめた。
「あ、……そうなのですわ」

(わたくしは何で話を合わせているのかしら)

「ほんとうに、優柔不断な従妹で申し訳ありません。レオニード様にはどうお詫びして良いか……」

――

昨日の出来事を話し終わったころに、エレナが髪を巻き終わった。

化粧台の大きな鏡に自分が映っている。
百年ほど前のもので、四代の領主夫人が使って来た。
現・領主様の最初の夫人のオルガ様、領主様の母上であり、父上パーヴェル様の奥方のナディジェダ様。
二度結婚した祖父君の奥方アナスタシア様とエウフロシヤ様、曽祖父君ミハイル様の奥方マリヤ様、さらに高祖父である、一代前とは別のパーヴェル様の奥方ビュルテ様、と聞いた。
高祖母君であるビュルテ様は聞き慣れない名前だ。
スモレンスクはそのころポーランド・リトアニア連合国から解放されたころだ。【* 1667年にロシア帝国に割譲される】

『ビュルティ』はリトアニアの昔の姫君で、古い神に仕える巫女であった方の名前だという。
ビュルテ・Я夫人は、恐らく、カトリックとしての名前もロシア正教徒としての名前も持っていただろうけれど、代々の領主様はそういう異国的な名前がお好きなのだろう。ビュルテという名で呼ぶのを好んだ。

肖像画の奥方たちは皆それぞれに美しかった。もちろん肖像画は美化する。疱瘡や天然痘のあとは描かないのが無言の約束だ。が、夫の言葉によると、オルガ様とナディジェダ様は本当に美しかったのだろう。
それに比べるとリザヴェタは、彼女たちより美しいとは言えない。自分の容姿は十人並みだと思っている。ただ、家政を司る家刀自としての威厳だけは現れ初めていた。
量が多くて巻ききれなかった髪は、うまく頭の上に盛り上げ、金鍍金(めっき)を施したスペイン櫛で留めている。
鏡に映った自分はやたらに豪華で、金色が似合う。自分で見ても、とにかく以前の自分よりははるかに美しくなっている。
『冴えない田舎令嬢のリーザ』がこうなったとは自分でも信じられない。

そしてエレナに話し続ける。
「……それでついでに、バシュキロフご夫妻に、週末に外にレオニード様を出さないように頼んで帰ってきたのよ。もう、イューカの馬鹿ぶりには呆れるわ」
リザヴェタは鏡に映った自分の顔を冷静に値踏みしながら言う。これならばЯ家領主夫人としていちおう外に出て行ける。

「まあ、あの、奥様。チェルニャーク大佐様はほんとうにイア様の許婚でいらっしゃいますの?」
「まさか。エヴゲーニイ・パヴロヴィチのいつもの『その場しのぎ』よ。ご自分だって、チェルニャーク大佐様にお会いしたこともないくせに!」
エレナがわずかに微笑んだ。
「領主様らしいですこと。……レオニード・バシュキロフ様がご両親に面目が立つようにしてさしあげて……」
「……そういうことなのかしら?」
エレナは領主様の言動を良い意味に受け取りすぎる気がする。まあ確かに、使用人にとっては善き領主様なのだ、わりと。

「バシュキロフ家のことは確かに貴女の言うとおりかもしれないけれど、……あの人は大佐様がイューカを見初めないか期待しているの。
何を考えているのかしら! とにかくとびきり清楚な令嬢に見えるようにしてくれって。
エレナ、ですからわたくしはもういいわ。イアの身支度を頼みます」
「イアお嬢様が大佐様のお眼鏡にかないそうなのはどういうところでしょう。それに合わせてお支度も変えますわ」
「大佐が多分独身だという以外、何の理由もないのよ」
「え……? 奥様……」

小間使いが来て、領主様からの伝言と手紙を一通持ってきた。
「奥様、昼過ぎにおいでの予定のお客様は、ご都合で夕方ごろのご到来になるそうございます」
盆に乗せた手紙を、化粧台のリザヴェタに差し出す。手紙の宛先は当然夫婦連名だ。

中身はこうであった。

『生神女就寝大聖堂に寄ってから貴邸に参りたく、到着は夕方になるかと存じます。どうかご無礼をお許しいただきたい 
М.И.チェルニャーク』

小間使いが言う。「通りすがりの辻馬車の馭者が、手紙を託されたと持ってまいりました」
「そうなの」
小間使いは一礼してリザヴェタの化粧室を出て行く。
リザヴェタは変だと思った。「……マキシム・イリイチは時間に遅れる人ではなかったし、それほど信心深くもなかったわ」
エレナは髪巻き用の鏝を片づけ始めている。
「最後にお会いになって、何年も経っておられるのでしょう。多少はお変わりになるのではありませんか」
「軍人なら、……徴兵で嫌々来た兵士はともかく、少なくとも士官学校出の将校ならば時間に遅れることはないはずよ。まあ別のご事情かもしれないわね。
エレナ、イアを頼みます」

――

正装して居間に戻ると、やはり正装した領主様が居間の隅の長椅子に腰掛け、外国の得体の知れない雑誌を読んでいる。見たところフランス語でも英語でもない。
夫の足元には次男のイヴァンが転がり、珍しく笑っている。イヴァンの相手をしているのは、大きくなって来た白い子山羊(5ヶ月)のシロちゃんだ。

「どうして山羊が?」
「ヴァーニャがあまり泣くので、動物と遊ばせれば機嫌が直るかと思いまして。表に出たらフォマ・ミュリコフ【* 牧畜担当の残念な美男】がいたので、山羊のシロちゃんを借りてきました」
「あ、ああ。そうですの……。チェルニャーク大佐様は遅れるそうですわね」
「ええ、夕方でしたね。七時か八時か。時間ができたから、あとで農地を一回りしてきます」

リザヴェタは床に転がったイヴァンを拾いあげ、抱いた。領主様の隣に座る。
「よく似合いますね」
領主様は雑誌から顔をあげ、リザヴェタを見た。目を細め、シャンパンのような淡黄色のロマンティックドレスに目を留める。ごく淡い黄色のドレスの、開いたデコルテの鎖骨の上に金の鎖を掛けまわしているのだった。
「……そのドレスの色は素肌のようです」
耳元で囁かれて、耳の下の顎に唇がつけられた。
また台所からも居間で掃除をする女のなかで幾人かがさっと目を走らせる気配がした。誰かが睨んだ気がする。

「リーザ、貴女の顎の骨が、尖っていて可愛い」
(ならば朝帰りしないでよ……。あの人にもこんなふうに言ってるの?)と思うが、リザヴェタは決して言わない。
イヴァンが、母が盗られそうになったとでも思ったのか大声で泣きだした。
山羊の声が居間に響き渡った。驚いたらしいシロちゃんが走って外に逃げだした。
「勝手にフォマのところに戻るでしょう」
領主様は落ち着いてそう言い、イヴァンの頭を撫でた。イヴァンがさらに派手に泣きそうになるので、リザヴェタはイヴァンを抱きながら背を叩く。

リザヴェタは訊きたかったことを口に出した。「あの、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、不思議なことがあるのですけれど」
「何でしょう」
「どうしてチェルニャーク大佐がイアと結婚してくれると考えていらっしゃいますの?」
「え……、まあ、万一の可能性がまったくないとは言えません」
「それはそうですけれど、万一の可能性も怪しいものですわ」
「どうしてです?」
「だって、わたくしとイューカの背格好や顔だちは似ているのでしょう?
何年も前には、しょっちゅう生家(さと)にいらしてましたけれど、格別にご好意を示されたことなんてありませんわ。親切にはしてくださいましたけれど。
貴男によると、殿方の、婦人の容姿へのお好みというのは『持って生まれた運命的』なもので、一生を通じてあまり変わらないそうですわね。
……わたくしやイューカは、大佐様のお好みではないのではないかしら」
夫はリザヴェタの背にまわしていた腕を引っ込めた。
「ああ、そうか……」
露骨にがっかりして、長椅子に座ったまま腕を組み、うなだれる。

「いや、でも、リーザ。わざわざ貴女を訪ねて来られるのですよ。
お義父上のフョードル殿に頼まれて、貴女やイアが不幸でないか見に来られるのやも知れませんが、それだけご実家とのおつきあいが深いということです」
「父の下で何年も働いて来られた方ですから」
「ですから、ご本人は無理でも、朋輩や部下がごろごろいるでしょう。精悍な武官ばかりです。どんどん紹介していただければ、いずれ、イアを気にいる特殊な趣味の男もいないとは限りません」
「……チェルニャーク大佐を花婿候補が入った倉庫の鍵だとでも思っていらっしゃいますわね」
領主様とリザヴェタは、居間の隅でぼそぼそと囁き続けるのだった。
「私は、冬にイアをモスクワの舞踏会に連れて行くのが嫌です。
それより大佐殿に話をつけて、自動的に魅力的な青年がイアに会いに来るようにすれば便利ではありませんか。イギリスの工場みたいですよ」
「便利かしら? 便利?」
リザヴェタは考える。
灌漑用の水車を動かし、川から畑に次から次へと水を引く光景を思い浮かべた。

その後、領主様は馬で農地の見回りに出て行き、リザヴェタは今日の晩餐の出来具合いを監督し、それからレオニード・バシュキロフからリザヴェタ宛てに来た病的な手紙を読み、うんざりしながらフランス語を交ぜてドラマティックに返事を書いた。詩情もないのに。

『イアはああ見えて臆病なのは本当でございます。
ああ! 貴男様がイアを思ってくださるのは、従姉としてどんなに嬉しいことでございましょう。
わたくしが貴男様の深い思いのお手助けができればどんなに良かったことでしょう! 
晴れて義理の「いとこどうし」として、今よりもさらに親しくおつきあいさせていただきとうございました。
なのに、もどかしいことでございます。
親愛なるレオニード様、どうぞお許しくださいませ。わたくしは所詮婦人の身。
主人の言いつけには絶対に逆らうことはできません……』

と、何の感慨もなく全部夫に押しつけた白々しい返事を書き、ヒローシャに届けさせる。
やがて正装のイアがふてくされた表情でやってきた。ついで居間に戻ってきた気の毒なエレナは、イアに紅茶ポットを投げつけられ右腕にかすり傷を作っていたので、イアを怒鳴りつけ、それから小間使いを呼びエレナの手当てをさせる。
そうこうするうちに家令様のテレージンが居間じゅうを調べて歩き、食卓に真新しいテーブルクロスが掛けられた。

日が暮れるのは夜九時近い。
長い夕焼けのなか、マキシム・イリイチ・チェルニャーク大佐が侍者もつけず、ひとりで騎馬で現れたのは八時半近かった。

『花嫁たち』2に続きます。