第17話 青髭公 3 『花嫁たち』2

やっとチェルニャーク大佐が訪れます。
高潔で、少し不器用ながら誠実な人物のようです。
リザヴェタ奥様は懐かしく再会したのですが、大佐は領主様を見た途端、様子が変わります。

5月5日,1831年

玄関間に立ったチェルニャーク大佐は、確かに懐かしかった。ぴしりと長い軍刀がたちあがったような、見事に威厳ある武官だ。
長身である。やはり長身の家令様テレージンよりも高く、レオニード・バシュキロフと同じくらいであろう。ただ、レオニードよりとにかく動きに無駄がなく、背筋が伸びている。愛玩用の小型スピッツと、猟犬のボルゾイほどの差があるのだった。

テレージンに埃を被った軍用マントを渡している。
「モスクワからずっと騎馬でね。埃っぽくてすまないね」
「とんでもないことでございます」
家令様は隙なく答えている。
金髪を短く刈り、軍人だから口髭を生やしている。面長の顔は日に焼け険しい。美男というのではないが、高潔な威厳がある。
厳しいかも知れないけれど、何もかも任せて守ってくれそうな……とリザヴェタは思う。
少なくとも領主様に対するときのように、訳の分からない戯言を言いまくられたりはしないであろう。

金色の将校の肩章と、金色の二列になった(ぼたん)が眩しい。
チェルニャーク大佐は、リザヴェタを見つけて、ぎこちなく笑顔になる。「リザヴェタ・フョードロヴナ。お久しぶりです」
腰をかがめ、手を取って接吻する。これは慣れたものだ。
「マクシム・イリイチ。こちらこそお懐かしい。訪ねてくだすって嬉しいですわ」
「図々しいと思ったのですが……、」
懐かしい低い声だ。話し方は出来る限り、丁寧かつ軽やかにしようとしているのに、どうしても本来の愛想の無さが現れてしまう、といったようすであった。
リザヴェタにはそれがかえって誠実に見えた。

「ご栄転なさったのですね」
「モスクワ勤務です。どうも、ナポレオンのおかげで燃えた街とは思えません。……華やかすぎて落ち着きませんよ」
「祖国戦争【* ナポレオンのロシア侵攻】が初陣でいらしたのでしたかしら」
「ええ、十七歳でしたか」
リザヴェタは素早く計算する。1812年に17歳なら、1831年の今は、36歳かそのあたりだ。イアが22歳だ。それくらいの年の差の夫婦は別に珍しくない。

また夫の考えが移ってしまった……。チェルニャーク大佐が独身かどうかもわからないのに。
大佐と並びながらリザヴェタは玄関間から階段くを上がる。自分の目の位置が紳士の肩、ちょうど金の肩章にあるというのも久しぶりの感覚だ。
領主様は中肉中背だから、やや背が高めのリザヴェタと並んで歩くと、すぐ目の横に彼の唇が見えるのが常だった。

「驚くべきご立派なお宅ですね。リザヴェタ・フョードロヴナ。貴女がまさか我が国の西の端、スモレンスクにお輿入れなさるとは」
「ええ。わたくしも驚いています。まるでイタリアにでも来たようですわ」

「父と義母は元気でしたでしょうか」
「ええ。リャードフ長官殿は、監獄では相変わらず、不正を許さないお方です。
ですが、家ではナタリア夫人に何もかも任せきりで、すっかり言いなりにおなりで、まったく独り者には目の毒としか申しあげようがありません」

大佐は独身だ! と、一瞬リザヴェタは喜んだ。いえ、ちょっと待って……エヴゲーニイ・パヴロヴィチの計画(自動的に花婿が回ってくる装置)には、何か駄目なところがあるわ。

シベリヤのリャードフ家の、海豹(あざらし)の毛皮がかかった居間に、将校たちがたむろしていたことを懐かしく思い出す。
父は将校たちを家に呼び、議論をさせるのが好きだった。将校たちは時には十数人になり、彼らの小間使いや料理女(はじめのころは前歯が全部欠けた年寄りのパラーシャ、それからあの人……なんだっけ、『キノコ部長』)だけでは足りず、リザヴェタまでがせっせと給仕をしなければならなかった。
時々、酔った将校たちに呼ばれ、からかいがてらに意見を求められた。
「リザヴェタ士官殿! プロイセンをどう攻略いたしましょうか」
令嬢に何でそんなことを聞くのよ! わたくしも士官学校に行きたかったわ! と思いながらも、絶対に何か答えたものだった。
「……緩衝地帯になっているポーランド立憲王国の民衆に、……ドイツ人を憎むように仕向けたらどうですかしら」
たどたどしく答えると、将校連はどっと笑った。

「マドモワゼル、そんなふうに簡単に行けば良いですな!」
ただ、チェルニャーク中尉だけは良い意見には真剣に受け止めてくれた。足りない部分を補い、同輩たちに注意を促すのだった。
「いや、それがうまく行けばずいぶん攻略が楽になる。一考に値する貴重なご意見だ」
ついで父が口を出した。いつも将校たちの話を聞きながら笑っているだけだったのに。「……確かにチャルニャークの言うとおりだ。具体策はまた考えるのだよ」
リザヴェタはひどく誇らしかったのを覚えている。

その場はいつも葉巻の匂いが立ちこめていた。
すぐそばを歩くチェルニャーク大佐も葉巻の匂いがする。段を上がるたびに長靴の拍車の音が鳴る。
父や義母や旧友は恋しいし、会いたい。だが、リザヴェタはもうこの地に根を張り、帰りたいとは思わない。

階段を昇って待合間に出ると、領主様とイア、それに数人の使用人が待っていた。

使用人たちは大佐の前でいっせいに礼をする。
どうも領主様には先ほどの会話が聞こえていたらしい。つまりチェルニャーク大佐が独身だと言うことだ。
大佐の厳しげで、背筋を伸ばし、無駄なく体を律するさまは、同性からも魅力的に映ったようだ。
領主様は見るからに上機嫌なようすであった。

「はじめまして、ようこそ……」

歓迎の辞を述べようとするところに、チェルニャーク大佐がくっと長い首をあげた。敵を見つけた禽類のようだった。寒々しい青い目が領主様に向く。
領主様と視線が絡んだ。二人ともにこりともしない。むしろ値踏みをし合っている……あるいはにらみ合っているように見えた。
大佐は威嚇する猛禽のように一声叫んだ。領主様の名字だ。
「ヤクーシェフスキイ公!」

使用人たちが驚いている。怖そうに十字を描くものまでいる。
領主様はすっと感情を隠す。とにかく穏やかに応えることにしたようだ。
「『公』ではありません。ただの中規模の在地地主貴族です。チェルニャーク大佐殿ですね。ようこそヤクーシェフスコエ村へ」
領主様は優雅に答える。「領主のエヴゲーニイ・Яです」
「……マクシム・チェルニャーク陸軍大佐です」
二人の男性は胸に手を当て、軽く礼をし合い、挨拶を交わしている。

先ほどまでの張り詰めたにらみあいのようすはない。だが、歓待の空気は消えてしまった。
領主様がイアを紹介する。
「リザヴェタの従妹のイア・ドミートリエヴナです。花嫁修業にと預かっています」
イアは葉っぱ色のロマンティックドレスを着ている。妙なことに今にも泣きだしそうに見えた。ぎこちなく礼をする。
チェルニャーク大佐はイアのようすを少し不思議そうに見た。それから完全に礼儀で、銃の手入れでもするように右手の甲にキスをした。
テレージンが大佐の荷物を持ち、客用寝室に案内する。

「エレナは?」と、領主様がリザヴェタに囁いた。
「イアが紅茶のポットを投げて……」
紅茶ポットで腕を切ったエレナは自室で休ませている。たいした傷ではないが、給仕もできないし、包帯を巻いた腕で客の前に立たせるのも失礼であろう。
領主様は深い溜息をついた。
「あとで罰を与えてください。イア用の紅茶ポットはもう、農奴たちが使う銅のものにします」
「銅のポットが当たるともっと危ないのではありませんか?」
「そうですね……」


晩餐は九時過ぎに始まった。もうようやく日が暮れ暗くなっていた。
高い天井の居間を二つに断ち割るように置かれた長い食卓に、真っ白で目が詰んだ麻のテーブルクロスがかけられた。
良い川鱒が手に入り、香辛料をかけた見事なウハーがメインになった。

座席は男女に分かれて座る、古風な座り方である。
領主夫妻が向き合い、イアは席の隅でチェルニャーク大佐の前にいる。だが、おとなしい。
まえに、レオニード・バシュキロフが客に来た時よりさらにおとなしく、顔は蒼白だ。
夫を見ないようにしていることに気づいた。
「イューカ、貴女、また何かエヴゲーニイ・パヴロヴィチに叱られたの?」
何でもないわ、という声は小さく、震えていた。

領主様とチェルニャーク大佐は無難に釣りの話をしている。
「領地の南に小さな湖がありましてね。ご予定がお決まりでなければ、明日の午前中は釣りに行きませんか。リーザとイアも連れてですね。
隣の前の領主が食用ガエルを放したので、カエルばかり釣れるのですが、たまにヨーロッパオオナマズなども」
「明日の午前中ですか? 日曜日ではありませんか。領主殿、奉神礼には参列されないのですか」
「私は不信心者ですから。ああ、領民の手前、降誕祭と復活祭には出ます。それと冠婚葬祭」
大佐が領主様を見る目が、一瞬だけ軽蔑したように変わる。が、すぐにふつうの表情に戻る。

(……礼儀正しく接しているけれど、やっぱり合わないみたいね。
確かに、あの人は紳士の方どうしのおつきあいでは、趣味の合う方しか受け付けないし、好かれる人でもないわ。
『イアにチェルニャーク大佐が一目惚れ』どころか、自分が一目で嫌われているのではないの)

領主様が言う。「領地の東南の端に小さな農村教会があります。明朝、案内させましょう」
チェルニャーク大佐はこんなに信仰深い人だったかしら、と不思議に思う。
「そういえば大佐殿は今日、生神女就寝大聖堂に参られたのですわね」
「ええ。リザヴェタ・フョードロヴナ、昔の私を知る貴女には不思議でしょうが、やはり、武官を二十年近く続けると時々罪深さに恐ろしくなることがあるのです」
「……まあ、ですが大佐様、貴男のような方がお働きだからわたくしどもは心強く暮らせるのですわ。よもや他人を害されても、祖国のための尊い行いではありませんか」
「ありがとう。リザヴェタ・フョードロヴナ。……ここは美しい土地ですね。農奴もさぞたくさんいることでしょう」

「657名です」と領主様が言った。ワインを注いで回っていた家令様が、領主様の耳元で囁いた。
領主様が言い直す。「失礼、659人です」
「あら、また増えたのですか?」
「ペトロフ家の家長の三男の次男のおかみさん……アガーフィヤだっけ? が先ほど双子を産んだらしい。
男女一人ずつです。何か祝いを……」
「双子ならおかみさんの体がきついでしょう。滋養のつく食べ物を贈りましょう。ちゃんとアガーフィヤの口に入るようにね」
「それが良いですね。……ああ、大佐殿、失礼しました。リザヴェタはよくやってくれます。素晴らしい主婦ですよ。農奴の家一軒一軒に心を砕いてね。
もし、リャードフ長官殿に手紙でも書かれるときは、そう書き送って差し上げてください」
「リザヴェタ・フョードロヴナらしい!」
チェルニャーク大佐が突然、磊落(らいらく)に笑った。
「あら、だって、父の仕事だって監獄を統べる『主婦』みたいなものではありませんの」
男たちは軽く笑う。これは実家に将校たちが来たとき、何か少し生意気に、奇異なことを言って場を和ませる、娘時代のリザヴェタが身につけた知恵だった。

「ふむ、領主殿、貴男のことも見損なっていたようです。申し訳ないことだ。……名前と父称は『エヴゲーニイ・パヴロヴィチ』でよろしいのですね。ご親族に同じ名前の方はおいででしょうか」
「確か従妹の従弟に同じ名前の息子がいましたが、早世しました。父称も違いますね」
「ああ。ではやはり貴男ご本人なのですな。……ずいぶん以前にサンクト・ペテルブルクの社交界で、貴男の悪い噂を聞きましてね。ただの遊蕩児(ゆうとうじ)かと思っておりました」
「え、ああ。そうですか」
リザヴェタは言う。
「噂はたぶん全部本当でしょうけれど、領主様としては悪くない方ですわ」
長年武官を務めた将校が、社交界のくだらない噂などに惑わされるだろうか?

領主様が適当に話しだす。
「私も家庭の幸福に目覚めて、がつがつしたところがなくなりました。

(と、白々しく言ってるわ)

ご存じのようにリザヴェタは賢く、しかも度胸がある。希有(けう)な婦人です。
家のことはすっかりまかせられるし、さらに近所の淑女たちを集めて『乗馬の会』は作るし、狩りはするしで、まったく退屈しない方だ……それでこちらのイア・ドミートリエヴナもですね」
イアは黙ってうつむいている。テーブルの下で領主様がイアの足を蹴る気配がした。
「ええ、イアの良いところはですね……あんまりない……けれど、ああ、あの令嬢なのに大樽洗いやドブさらいや畑仕事といった仕事を面白がってやります。
珍しい令嬢で、将来はたいそう個性的で魅力ある貴夫人になるでしょう。大佐殿は独身とのこと、このイア・ドミートリエヴナを生涯の伴侶にいかがですか」
「ちょ、ちょっと、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。直球過ぎるわ!」
リザヴェタが叫び、テレージンが笑いをかみ殺している。

チェルニャーク大佐の態度は立派であった。
「リザヴェタ・フョードロヴナによく似た魅力的なお嬢さんでいらっしゃる。イア・ドミートリエヴナ、なんだか少し悲しそうですね。緊張しておられるのでしょうか。私は明日の奉神礼で、貴女の幸福を祈りましょう」
そしてチェルニャーク大佐は *案の定*、*丁重に*、イアの手を取り、言った。
「……私はもう若さも失いました。残る生涯、独り身で、家族を憂うことなく皇帝陛下にお仕えする覚悟です。
イア・ドミートリエヴナ。どうか貴女に見合う結婚相手がみつかりますように」

領主様が溜息をついた。
「大佐殿、結婚したい部下がいらしたらご紹介ください……。賢明で、誠実で、出世しそうで、まあまあ美男で、イアの良いところを引き出す器量のある……」
小声で言ったつもりなのに、居間にリザヴェタの声が響き渡った。「しつこいわね……」

チェルニャーク大佐は料理を褒め、デザートの甘い菓子を舐めるように食べた。
「私は甘いものが大好きなのですよ! 子供のころは貧しかったもので、とにかく釣りをして魚を食べるのがせいいっぱいでしたから」

——

晩餐が終わると、領主様は大佐を書庫に案内した。好きな本を読んでくれと言う。
「領主殿、葉巻は吸っても構いませんか」
「ああ、そうですね。応接室か客用寝室でお願いいたします。できれば応接室のほうが助かります。飲み物は小間使いに何でも言いつけてください。リーザ、応接室の場所をお教えして、鍵も貸して差し上げてくださいませんか」
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。貴男は?」
(来客をもてなすのは家長の仕事だから、これから『キノコ部長』のところに行くということはないはず)
「ちょっとヒローシャを叩き起こして、明日のことを相談してきます」
領主様は早足で書庫から居間を横切り、階段のほうへ向かった。

感謝の言葉を述べる大佐に、領主様が言う。
「では、明朝、ヒローシャにうかがわせます。ヒローシャは覚えていますか。リャードフ家の玄関番だか馭者で、異族民の少年でした」
「ええ。彼もこちらに来ているそうですね」
「立派になりました。貴男にお会いするのを楽しみにしています」

——
応接間の鍵を持っているのは数人だ。
領主夫妻、テレージンとエレナ、掃除女頭のソトコワの五人である。
「マクシム・イリイチ。応接間の鍵をお貸ししますわ。主人はとても鍵にうるさいのです」
「我が国の治安を考えると致し方ありませんね」
正装しているので、いつもの鍵束入れは主寝室に置いてある。高価な燭台を片付ける、家令様のテレージンに言う。
「テレージン、応接室の鍵を貸してくれない?」

「ああ、お客様が葉巻をお吸いになるのですね」
テレージンは心得たものだ。ウェストコートの隠しから、鍵束を取りだし、すぐに鍵を見つけ、一本抜いてチェルニャーク大佐に渡した。
金色の鍵が光り、チェルニャーク大佐の軍服の隠しに入る。

「葉巻でしたら私が吸いつけましょうか?」【* 火を吸いつけるのは召使いの役目だったらしい】
「いや、ランプの火から移すよ。家令殿、君はここに勤めてどのくらいになる?」
長身の二人が静かに立ち話をしている。
「曾祖父の代に農奴から解放していただきまして、それ以来、代々家令を勤めさせていただいております。私は生まれたときからЯ家にお世話になっています」
「なるほど。ではご子息が後を継ぐのかね」
「継げれば良いのですが、不出来な息子でして」
「他の仕事をやりたいとでもいうのか」
どうもチェルニャーク大佐が『目下の者』に対して気を配っているのは変わらない。

テレージンは、大佐が気晴らしに家令に話しかけているのではなく、本気で尋ねていると気づいたようだ。
「……いえ、お恥ずかしい次第です。
息子が一人だけなのですが、甘やかしすぎました。我が主に商業学校まで出してもらっておいて、自由主義思想にかぶれました。
いまはシベリヤに流刑中です。あと九年で帰る予定ですが、帰ってきても使い物になるのかどうか。私はЯ家の当主にも先代にも申し訳なくて仕方がありません」
珍しくテレージンが殊勝に本音らしきものを口にしていた。
「そうか。シベリヤのどこかね」
「オムスクでございます」
「私の勤めていたところではないな。力になれなくて済まぬ」
「いえ、力になど……。ありがとうございます。どうぞごゆっくりお休みくださいませ」

「応接間は待合間のすぐそばですわ」
リザヴェタは待合間のすぐ横にある応接間に案内する。「ちょっと鍵に癖がありますの。扉を少し上に持ち上げるようにして、開けてくださいまし」
リザヴェタはやってみせる。ドアを開けるとさして広くない、長椅子が三脚置かれた応接間だ。
壁いちめんに、青い地の、例のごとく装飾過剰の布絨毯を掛けまわしている。
「すぐにランプの火を持ってこさせます」
リザヴェタは大佐に言い、扉から顔を覗かせ、小間使いを呼ぶ。「誰か、火のついたランプを持って来てちょうだい」
チェルニャーク大佐がすっと背後に近づき、リザヴェタの、体の割に小さな掌に紙切れを押し込んだ。
驚いて振り向くと何事もなかったようなごく謹厳な顔つきである。

玄関の観音開きのドアが開き、人が昇ってくる気配がする。寄せ木の段を木の踵で踏み、わずかに片脚を引きずる足音だ。リザヴェタは思わず紙を胸元に隠した。

——

『夜一時、応接室にて待つ。М(エム).Ч(チェー)

М.Ч.はマクシム・チェルニャークの頭文字だ。
折りたたんだ紙はドレスを着替えるときに、領主夫人の化粧台の引き出しに入れた。着替えてから、もしかするとエレナが気づくかも知れないと思って、ビリビリに破って捨てた。

着替えて主寝室に戻ると、夜着に絹のローブを羽織る。
夫は寝室の長椅子に座り、チェルニャーク大佐が即刻イアを断ったことにがっかりしていた。
「いきなり『生涯の伴侶にいかがですか』なんて言われても困るでしょう。犬を飼うのでももう少し考えます」
「私は会って三日目に貴女と結婚すると決めましたよ」
「貴男は異常に決断が早いのですわ」(そしてその前に愛人もつくっていたわね)

「確かに高潔な人物のようですね。美男というのではないが気品もあるし、少なくともレオニードよりずっと良い。これから考え直してくれても……」
なんでこの人は、こんな馬鹿な考えに執着しているのよ!
「貴男に最初に会ったとき、すごく怖い態度をなさっていましたわ。何だったのでしょう」
「若き日に、リーザ、貴女に恋でもなさっていたのではありませんか」

先ほどの走り書きが思い出された。
「まさか……。何も言われていませんわ。チェルニャーク中尉にも、他の誰にも」
「貴女には当時、ダニール君という許婚がいましたね。義父上のまわりには部下がたくさんいたでしょう。貴女と結婚したがる武官も多かったと思います。ダニール君のおかげで遠慮したのではありませんか」
「ダニールさんね。市長の息子だから、皆、避けたとおっしゃるの?」
「市長と義父上は親友でしょう。義父上に睨まれると考えたのかも知れません」
「おまけに冴えない令嬢でしたから!」
いきなり抱きしめて接吻されるのだった。「……リーザ、愛しています」
本当か知らないが領主様はしょっちゅう『愛している』という。ふたたびキスしようとして、急に我に返ったらしい領主様が言った。
「ああ、そうだ! エレナに申し訳ない」
「え、ええ。怪我はたいしたことがありませんけれど。明日考えれば良いと思いますわ」
「ありがとう。……疲れました。寝ます」

寝台に行って疲れて倒れたところに、ついていってすぐ脇に横たわる。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ」
「……はい。今日の貴女はとても華やかで魅力的でした……」
リザヴェタは夫の平らな胸に腕をまわす。彼の肋骨の上にのしかかり、珍しく自分から夫に接吻した。

まだ続きますが、今はここまでで力尽きました。すみません……。


アイキャッチ画像

Petr Ovralov