第6話 ドイツ人村の猿合戦

領主様はドイツかぶれの医師から、ドイツ人村に猿を見に行こうと誘われます。「動物好きのアクリナも一緒に」とのことですが、彼女は風邪を引いてしまいました。
代わりに領主様は、イアを連れていくことにします。
待っていたのは、領主様とイアを、『ボス猿と取り巻きのメス』と同じだと考える、霊長類研究家の青年でした。

4月,1831年

昨年秋、隣家のポポフ家で農奴反乱があった。
その際、我が領地に逃げ込んできたポポフ家の下男が、私の右の太腿を猟銃で撃った。
近所のセミョーノフ医師がうまく処置してくれた。少々右脚を引きずるが、命に別状はない。
今日は、半年弱ぶりに、その時の傷を見せにセミョーノフ医師の医院に行った。もうすっかり治っているそうだ。
結局、四方山話をして帰ってきた。
セミョーノフ医師はプロイセンで医学を学び、非常にドイツかぶれの人物である。私がドイツ語ができることを知ると、とても喜んだ。
(またくり返すが、私は語学に無駄な才がある。ドイツ語もいける)

—-

領地に戻ると、まっすぐアクリナの森の家に馬を飛ばした。
こういう話はアクリナが大好きなはずだ。
午後の森の家は兎で溢れている。春が近い。森の側を向いた、白樺の新芽がこすれる西側の窓からも、半ばキノコ小屋に隠れた南側の窓からも明るい光が差し込んできて、アクリナの作った果実酒やら、刺繍をしたカーテンやら、壁に貼ったキリル文字の表や、お気に入りの動物の本やらを照らしていた。

春のアクリナもきれいだ。
春の光は白っぽいためだろうか? 白い肌がよりさらさらと透けるように見えた。
あいかわらず皇帝様式の黒いドレスだが、襞を取った絹が柔らかく薄い。袖はすっかり透けていた。
いつも肩に掛けていた厚い毛のショールを外している。鎖骨から白い首筋までが剥き出しで、美しい。ただ、細い金鎖につなげたガーネットの首飾りだけだ。

気が早いことに、夏に合う清涼飲料のクワスを出してくれた。
麻布を掛けた食卓にグラスを二つ出して、私の向かいに腰掛ける。
「……セミョーノフ医師が誘ってくれたのだがね。ドイツ人村の学校で霊長類を研究している人がいて、猿のつがいを連れて来たらしい」
「ええ、猿でございますか? あたしは見たことがありません」
「うん、セミョーノフ医師はおまえが動物が好きなことを覚えていてね」
医師は一度この森の家に来たことがある。

「『貴男と貴男のフロインディンにぜひお見せしたい』と誘ってくれた。フロインディンというのは、ドイツ語で、特別大事な女友達や、恋人のことだ」
「……フロインディン、猿……」
アクリナは二重に嬉しそうに微笑む。
整ってはいるが、細面で地味な顔だちなのに、唇だけが石榴の実の色だ。
喜ぶと、何か白い花の花びらが後から後からこぼれてくるようであった。少なくとも私にはそう見える。

「アクリーヌ、きれいだな」
どうしてか彼女は私を惹きつける。
私は思わず、卓上の彼女の手を握る。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。あ、貴男様こそ……お向かいに座るのではなく、貴男様のお足元の床に座って、お膝に寄りかかりたいです……」
アクリナは私のものとして扱われるのが大好きだ。確かに領主と農奴で、じっさいにそのとおりなのだが、その身分の差を露骨に示されるのも好きなようだ。
「うん、今度だ。今はふつうに話をしよう」

「あ、あの……、ドイツ人村の人たちはカトリックですか? それとも、教会なんか要らないという人たちですか……?」
これは彼女には非常に怖く、かつ重要なことであった。『カトリックは悪魔を礼拝しているのか』と真面目に訊かれたこともある。牧師がいて聖書だけを信じ、聖人を崇めない信仰などはもう恐ろしくてたまらないらしい。

「カトリックかもしれないし、ルター派かもしれないがね、彼らもそれぞれのやりかたで同じ神様を拝んでいるのだ。それにセミョーノフ医師の友達だ。怖くはない。
こちらに住んでいるのだから、ロシヤ語が話せる人もいるだろうし……ドイツ語なら通訳する。私から離れなければ大丈夫だ。別にドイツ人と話さなくて良い。猿を見に行くつもりで行ってみよう」
「はい。セミョーノフ医師様と貴男様と一緒ならば……猿はぜひ見てみたいですわ」
アクリナが嬉しそうだった。アクリナが嬉しそうだと私も嬉しい。

アクリナとドイツ人村の学校に猿を見に訪ねていくのは、来週初めの日曜日の予定だ。
セミョーノフ医師に傷を見てもらったのは、水曜日だった。
霊長類研究をしている人物は、もうすぐ本国に帰国してしまうらしい。
見るならば今が最後の機会だそうだ。

それが、アクリナが風邪を引いた。
熱があり、喉が痛いそうだ。顔が赤く、だるそうだった。
あまり病気をしないし(我が国は乳幼児死亡率が高い。大人の歳まで生き延びるのは、恐らく体が丈夫なほうなのだ)、暖かくなってきていたので油断していた。透けた袖の服なんか着ているからだ!

土曜の夜に私が訪ねていくと、とても残念そうであった。
週に三日通いでくる予定の小間使いドロシダが、ずっとついてくれている。
「私も行かない。おまえの看病をする」
アクリナが咳き込みながら言う。
「……駄目です。あ、」
アクリナは半身を起こそうとするが、起き上がれないらしい。

「……猿は行って……しまうのですよね。領主様……あ、貴男様が見ていらして」
アクリナははあはあ息を切らし、鬼気迫るありさまで言う。
声がおかしい。
「どんな様子だか……教えてくださいまし……ああ……きっとあたしがお祈りを一回さぼったから、その罰なのです……猿、うっ……」

「アクリーヌシュカ。苦しそうだぞ。声を出すな」
「貴男様と猿を見に行けるなんて、そんな幸福なことがあるなんて……やっぱり何かの間違いなのですわ……」
アクリナが熱のある赤い顔で、すすり泣きだした。……。
それほど楽しみにしていたのか……。

「わかった。キリーナ、私がおまえの代わりに見に行ってくる。見てくるから、薬草をドロシダに煎じさせて飲んでいなさい」
手を握ると熱いが、そこまで高熱ではない。まあ、大丈夫だろう。私は頬に軽く接吻する。
「今夜は準備をするから帰る。ドイツ人村から戻ってきたら、すぐに話をしに来るからね」
もう返事もできないくらい泣いている。
ああ、可哀相なアクリーヌ……。

「もう少し具合が良くなったら、そうだな。
この前、フォマ・ミュリコフに白い子山羊を買ってやった。連れてこさせよう。子山羊のシロちゃんだ」
「……子山羊……」
少し嬉しそうになる。
「蹄が可愛い……ですわ」
「ああ、メエメエ鳴くぞ」
私は小柄で無口な小間使いにアクリナを頼む。
「ドロシダ、頼む」
「はい。領主様、行ってらっしゃいませ」

—-

そして翌朝、私はイア・ドミートリエヴナを連れてドイツ人村に猿を見に行くことになった。
ヒローシャが馭者だ。

イアが不機嫌に言う。
「エヴゲーニイお義兄様、わたくしはまだ人前に出せないのではなかったの。『ドイツ人村に猿を見に行く』って何?」
「言葉どおりだ。
ドイツ人村の学校の先生が霊長類を研究している。冬を越した猿を飼っているらしい。もうすぐ帰国するから、猿を見られる最後の機会だ」

「わたくしは猿になんか興味がないわよ」
「そう思ったが、ドイツ人村なら、君が多少妙な行動をしてもこちらの社会に噂が漏れない。人前に出る練習をする良い機会だ。
だからといって、ドイツ人たちに失礼なことをするなよ」
「しないわよ! ドイツ人相手ならフランス語を喋んなくて良いのね」
「知らない。向こうが気を利かせて、フランス語なら通じるかもと思って話しかけてくるかもしれない。そうしたら諦めて喋ってみろ」
「フランス語なんて! シルブプレ、トレ・ブリャード(最後だけロシア語でひどく下品な罵り言葉)だわ!」

「イア様……」
ヒローシャが驚きのあまり呟いている。令嬢が話す言葉ではない。
「グラーシャ! あんたもフランス語を覚えなさいよ。なんでわたくしだけこんな苦労をするのよ」
「……ええ? あ、あの、イア様、私はロシヤ語の読み書きをようやく覚えたところで、それでも聖人伝を読むのがやっとでございます……」
「ヒローシャ、フランス語は良いから英語を覚えろ。馭者が喋れると色々便利だ」
「お許しください……」

……ああ、今一緒に馬車に乗っているのがアクリナならばどんなに楽しいだろうか。
彼女は嬉しさと楽しみに興奮しているだろう。
嬉しすぎて恐ろしくなって、私の腕にしがみついているだろうに……

—-

馬車がドイツ人村に入った。
ピョートル大帝やエカチェリーナ二世両陛下がプロイセンからの移民を奨励した。バルト地方やヴォルガ地方に自治区がある。
近所のドイツ人村はごく小さなものだ。人口はわずか数百人であろう。我が領地の農奴より少ない。

町並みはもちろんドイツ風である。
木組み建築の家が並んでいる。
あの、黒だの赤だのの濃い色つきの太い梁が縦横斜めに張り巡らされ、あいだの壁を白い漆喰で固めた、色の対比が強烈で、鬱陶しい建物だ。
煉瓦の建築の前に、最近、ドイツ人たちのあいだで流行っているらしい『グリム童話』から取られた『ガチョウ番の娘』の銅像があった。ガチョウと乙女の銅像である。
我が国には、銅像で繊細な乙女を描くという発想はあまりなかったので新鮮に思えた。
銅像と言えば、アレクサンドル・ネフスキイ公とか、イヴァン雷帝とか、歴代の皇帝陛下とかそういう偉大な人物のものばかりであった。
そのへんの誰かが作った、妙な像はたくさんあるのだが。
街の中心には広場があり、規模の小さな商工業地帯がつづく。プロテスタントの教会があった。
「外国みたい」
イアが珍しそうに見ている。

ヒローシャが馬車を停めた。通行人のなかでも農民風の男に、行く先の学校の場所を尋ねた。ロシヤ語が通じない。
私が代わりに、ドイツ語で学校の場所を訊く。
馬車にふたたび乗り込むとイアが言った。
「お義兄様って、ほんとうに馬鹿みたいに語学が得意なのね」
「ああ、語学と記憶力には自信がある。意外と役に立っている」
「役に立つの? イタリアの娼婦に?」
「違う。我が領地や農奴が規模の割に比較的豊かなのはな、領主みずからが穀物を外国商人と取り引きして現金にして地代や人頭税に当てているからだ。
普通は農奴が仲介人に穀物を売り、当然買い叩かれる」
イアは、何を言っているのかわからないらしい。別に構うものか。

学校は煉瓦の建物であった。
馬車を停めて、ヒローシャが待つ。
スピッツ犬を連れたドイツ人の老夫婦が散歩している。

「グーテンターク」と言って、イアを連れて入り込んだ。

「オイゲン・パウルゼン! グーテンターク!」
学校の庭園で、セミョーノフ医師が手を挙げていた。何か、医師と患者として会うときよりずいぶん上機嫌だ。
「オイゲン・パウルゼン? ……?」
レンガ建の、尖塔のある三階建ての校舎である。高等中学校と初級学校が一緒になっているらしい。我が国にも(ここは我が国だが)、こういうものがあちこちにあって、身分を問わず通えれば良いのだろうが、夢のまた夢だ。

広い庭園の雪が溶けたあたりの黒土は、もう耕され、ジャガイモの芽が出ていた。畑だか庭園だかよくわからない。ピアノの音が聞こえる。最近頭角を現したウィーンの作曲家シューベルトの曲が弾かれていた。

医師は四十歳になるやならずやくらいで、武官でもないのに立派な黒い口髭を生やしていた。しょっちゅう世話になっている。
医師としては有能だが、少しドイツびいきが過ぎる。
「オイゲン・パウルゼン、よくいらっしゃいましたね。貴男がドイツ語がおできになるとは嬉しい限りです」
「オイゲン・パウルゼン? ああ、……Was? Oh, ich habe verstanden」……何だ? わかった……。
私の名前、エヴゲーニイ・パヴロヴィチのドイツ語訳だ、多分。

セミョーノフ医師がイアを見た。
「おや、奥様かと思ったら、違う方ですね。
貴男のフロインディンはどうなさったのですか? フラウ・アドラーは」
「フラウ・アドラー……(これはアクリナのことだろう)……は、風邪を引きました。楽しみにしていたので、悔しがっています。代わりに妻の従妹を連れてきました。イア・エルマーコヴァです」
私はイアに言う。
「ドクトル・セミョーノフだ」
「ドクトルって何ですの?」
「ドイツ語で医者とか、教授とかそういう意味だ」
セミョーノフ医師のざっくばらんなところが出た。
「フラウ・エルマーコヴァ、ああ、貴女が!
オイゲン・パウルゼンの新しい『フロインディン』ですか!」

「……ドクトル、ちょっと待ってください、何です、それは?」
「あの、セミョーノフ先生が言うことがまったくわからないわ。ロシヤ語なの?」
「ドイツ語が変なふうに混じっている」
「フラウ・エルマーコヴァがわたくしなの? ではフラウ・アドラーはマダーム・アクリーヌの名字なの? あの人の名字を知らないわ」
「ああ、彼女の名字は内緒だ。アドラーはドイツ語で鷲という意味で、アクリナの名前の元々の意味が『鷲』なのだ。いや、そんなことより、ドクトル。これが」
私はイアを指さした。
「……こんなのが私の新しい『恋人』という話は、まったく事実ではありません。どこでお聞きになったのです」
「ええ? 違うのですか。うちの小間使いが話していましたが。Я家の領主様がまた新しいご婦人を囲ったと」
家令どうしで怪しげなつながりがあるとともに、小間使いどうしでもつながりがあるらしい。

「『また』って、……私のフロインディンはフラウ・アクリエーネだけですよ。私の趣味は洗練されています」
セミョーノフ医師が口ヒゲを捻る。無愛想な我が民族の中でも、特に感情を出さない人物だが、知的な刺激には敏感だ。それも妙なほうに。
「ああ、やはり違うのですか。妙だと思いました。こちらのお若いご婦人は、フラウ・アドラーとは少しも共通点がない。
日ごろ興味深く思っているのはですな、診療のためにあちこちの領主館を訪れます。すると、領主殿のフロインディンがいます。
二人も三人も、十人もいてもですな、フロインディンどうしは不思議とどこか似ているのですよ……。
Das Ewig-Weibliche zieht uns hinan.……永遠に女性的なるものが我らを高く引き上げる」
ゲーテの引用だが、前の話と何か関係があるのかわからない。

別の声が挟まった。ドイツ語訛りのロシヤ語だ。
「霊長類のオスは力の強いものがメスを何人も囲うものです。
領主殿が妻妾をたくさん囲うのもまあ理解できます。
猿と人間はあまり変わらないように見えますね」
いつの間にか、赤茶けた癖毛の青年が話に入っていた。二十代後半だろう。大柄で肩幅が広く、顎が割れている。妙に顔が艶やかで、ひとりで満足しきったようすだった。
セミョーノフ医師同様、無愛想であった。いや、セミョーノフ医師以上だ。

私は多分ドイツ人の青年に言う。
「領主ですが、私には大量の妻妾などいませんよ。妻と恋人が一人ずつです」
「彼が今日招待してくれたフランツ・ベルクマン君です。この学校での教師のかたわら、霊長類の研究をしています」
「そうですか。ご招待ありがとうございます。近所の領主のЯです。こちらは妻の従妹のイア。花嫁修業に預かっています。私が『囲っている』わけではありません」
誰もイアに、紳士らしい挨拶をしない。手にキスもしない。
……イアを人前に出す実験にはちょうど良い相手のようだ。

ベルクマンは流暢なロシヤ語を話す。
「領主殿。何故囲わないのですか? 妻と恋人が一人ずつ? 二人しかおられないではありませんか。少ないですね。子孫をたくさん残すのが力の強いオスの役目でしょう」
突然、何を言いだすのだ……。
「ベルクマン君、単純なことです。彼女が趣味ではないからです」

「ふむ、趣味とか好みという問題があるのですね。
いや、それは趣味と名を変えているだけで、生殖するとなんらかの問題が起きることをあらかじめ予測しているのではありませんか?」
何を言っているのか……。
こういうのを論理を弄ぶというような……。
霧深きドイツの青年はロマン派で、疾風怒濤のごとき時代精神で青い花を探したり、目に砂を入れられて眠くなったり、ローレライの歌声に騙されたり、若きウェルテルみたいに失恋しては自殺したりしているのではないのか?
あとは酢漬けキャベツやソーセージを食べているのだとばかり思っていた。

イアが叫んだ。
「わたくしにも趣味とか好みがあるわ! ヨーロッパロシヤの大領主様で美男で童貞の殿方と清らかに暮らすの!」
「野生の猿の群れではそれは難しいですね」
ベルクマンが冷静に言った。
「猿の群れの『親分』はですね。
猿の領主といっても良い、メスをたくさん領有して、子孫を残すのが仕事なのです。ですから、童貞でいるのは群れにとっても困るのです」
「わたくしは人間の話をしているのよ!」

「人間も野生動物も行動が同じなら、その面では同じですよ……僕はその猿の生殖関係が国家間にも敷衍ふえんできるのではないかと考えています」
「なるほど、興味深いですね……」
私はもちろん心にもなく言う。こいつと議論はまっぴらだ。
国家どうしが生殖するのか? どうやって? 国と国から子供が生まれるのか? 
君の母国と一緒に、気の毒なポーランドを分割ならしたが!
比喩的になら言えるかもしれないが、猿と人間のところだけ事実に基づき、国家間だけ比喩では、少なくとも同一の現象とは言えない。

セミョーノフ医師が言った。
「ベルクマン君の意見は面白いですね。奥様の従妹でしたっけ、こちらのお嬢さんがオイゲン・パウルゼンの囲い者になったのに科学的な理由があるとは!」
「いや、ですから、これは囲い者ではありません」
セミョーノフ医師はどうもすでにビールを飲んでいた。

セミョーノフ医師とベルクマン君の共通点は、人間も動物も同じようなものだと考えているところであった。キリスト教の教育を受けた者はふつうこういうことは夢にも思わない。
不信心者の私ですら、いちおう、人間はそれなりに特別なのだろうと思っていた。イアのような野生生物は除くが。
そういう意味では刺激にはなる。

……いや、待て。彼は人間と動物を区別しない。貴重だ。
「ベルクマン君、君は独身ですか」
「はい。僕は弱いオスですから」
「つがいのあいてに、この娘はいかがです。今、花嫁修業中で結婚相手を探しています」
私はイアの肩を掴んでベルクマンの前に差し出した。イアが困惑し、嫌そうな顔をしている。鼻に皺を寄せてベルクマンをにらみつけた。
薄桃色のロマンティックドレスをエレナに着付けさせ、薄緑色の春外套を羽織っている。見かけだけはきちんとした令嬢だ。
ベルクマンがじろじろイアを眺めた。
「たくさん子孫を残しそうな体つきですね」
リザヴェタに似て、胸と腰が豊かだ。
「お義兄様、わたくしを追い出さないって言ったじゃない!」
「幸福な結婚ができれば別だ」

「僕はロシヤのご婦人と結婚する気はありません。この土地は野生動物の観察所としてはとても有意義でした」
人間と動物は区別しなくても、ドイツ人とロシヤ人は区別するのかと感慨深く思った。
セミョーノフ医師が大声で笑った。
「私たちは野生動物ですか! いや、まったくそのとおりです! グート、ファンタスティシュ!」

……もう猿を見て帰ろう。
「……ところで、猿を見せていただけますでしょうか」
私たちはベルクマンについて、校舎の回廊を支えるアーチをくぐり、裏庭に出た。
ごく小さな煉瓦造りの建物がある。
ベルクマンが扉を開いた。
中はそっけない漆喰ぬりでごく狭い。ペチカがある。その横に、大きな鉄の檻が置いてあった。
「ここは学生牢なのです。ゲッティンゲン大学の牢をモデルにしているそうです」

檻の中にいたのは、私が想像していたような、チンパンジーやヒヒのようなものではなかった。
もっと小さく、尻尾がやたらに長い。白と黒の縞になっていた。つがいなのか二匹いる。
猫や狸のようにも見える。体毛は灰色で、目のまわりが縁取ったように黒い。黄土色の目が丸く大きく、愛嬌があった。

ベルクマンが説明する。
「ワオキツネザルです。マダガスカル島に住んでいます。知り合いの貿易商人がどこかで手に入れたらしいのですが、行く宛てを探しているあいだ、僕のところに一時預かってくれと言うことで」
これは、……アクリナが夢中になっただろう。
じつに可愛らしい。一匹は後ろ足で立ちあがり、賢い人間のように檻に掴まり、もう一匹は座り込んで無防備に白い腹を見せていた。面白い姿勢だ。
イアが私に訊く。
「お義兄様、マダガスカル島ってどこ?」
「アフリカの大きな島だ」

ワオキツネザルは見る人間が増えたので少々怯えているようだ。なんだか真面目な顔つきで、私をじっと見つめている。
「餌はどんなものを食べるのかね」
「マダガスカルの猿では生態がわからないので色々と試みました。果実は食べましたね」
ひっかくだろうか? こんなに小さいのに手の指が五本に分かれている。
「凶暴か?」
「いえ、それほどでは。冬で元気がなかったからかもしれませんね」

私は言った。
「……ベルクマン君、こいつを買うわけにはいかないか」
「え? ゲッティンゲンの大学が引き取ることに決まっています」
「ああ……死んだことにしてだね。……五〇〇ルーヴルくらいで」
「五〇〇ルーヴル?」 
少し顔色が変わった。セミョーノフ医師も驚いている。
「それは、恐ろしい大金ですな……」
「八〇〇ルーヴルでも良い」
一ルーヴルで聖書一冊だ。農奴は、最高に高くても、一人百ルーヴルあれば買える。
「しかし、ゲッティンゲンの大学が……」
ベルクマンがただただ驚いている。

これ以上はアクリナのためでも出してはいけない。
アクリナが病いで必要といった緊急事態ならばもちろん別だが、これは正確に言えば、単にご機嫌取りである。
ああ、だが! 
あの身も世もなく泣いていたアクリナを思い出すと、見た時の笑顔や私への感謝を想像すると、彼女が嬉しそうにワオキツネザルを抱いているところを……。いても立ってもいられなくなるではないか。

私は良き領主である。
こんなことに大切な領地のための金を使っては駄目だ……。
確かにこのワオキツネザルは面白いとは思う。
が、フォマ・ミュリコフに山羊を買ってやるのとは違う。動物を買うなら牛や馬や豚や、とにかく農耕に役立つものでなければならない。例えば、家のものが欲しがって愛玩動物を買うとしたって、小鳥かスピッツ犬くらいまでだ。
それにマダガスカル島の猿では飼い方もよくわからない。ゲッティンゲンの大学で専門家に預けたほうが良いに決まっている。

ベルクマンはうろたえていた。
「……し、死んだにしても、遺体を引き渡す約束です。研究に使えますから。剥製を作って……」
「一〇〇〇ルーヴルではどうだね」

セミョーノフ医師が呆然と言った。
「貴女の大切なフロインディン、フラウ・アドラーのためですか」
「ええ。彼女のためならば……。ああ、領主の私にも決して安くありません」
「それはそうでしょう」
ベルクマンが言った。
Ach,so(ああ、そう) 、メスのためなのですか」
「まあそうです。meine Dame(私の貴婦人)は動物が好きです。今日、風邪を引いて来られないので、残念がっていました」
ベルクマンはようやく理解できるようになったらしい。
「よほど子を産んでくれるメスなのですか」
「いや、彼女とのあいだに子供は作らない」
ふたたび理解不能になったらしい。が、金は欲しいようだ。迷っている。
「一,一〇〇ルーヴルならどうです」
「うむ……そうですね……」
ベルクマンが折れそうだ!

イアが何か感じ取ったらしい。野生動物はすごい。

「エヴゲーニイお義兄様!」
イアが腰に手を当てて叫んだ。
「いくらマダーム・アクリーヌのためでもそんな大金を使っては駄目でしょう! 領主なのに! さっき、領民のために自分が外国と交易しているって言ってたじゃない。自慢げに!! そうやって儲けを領民のために使うって」
ぎくりとした。
ああ、……理解していたのか。
私は突然夢から覚めた。

「……ああ、そういうことだ。ベルクマン君。我が妻の従妹の言うとおりだ。今の話は忘れてください」
ベルクマンががっかりしている。急に言いだした。
「そういえば、お嬢さんを僕を『つがわせたい』との話でしたね……」
持参金が欲しくなったらしい。

イアは素早い。
「ロシヤの猿の親分から金を取る気なの!」
イアが飛びかかってフランツ・ベルクマンを殴りつけた。
「……くそ、野生ロシヤのメス猿!」
ベルクマンが倒れ、(大柄な青年なのに、イアは何という力だ)ワオキツネザルの入っていた檻が倒れた。
その拍子にキツネザルが飛び出して手を広げ、ベルクマンをひっかいた。顔の皮膚をざっくりとえぐっている。
「う……」
私は呆然としていた。
ワオキツネザルが逃げてはまずい。これほど激しい怪我をさせる可能性があるならばなおさらだ。

キツネザルは学生牢の檻から出て、雪の残った植え込みに駆けていく。私は叫ぶ。「猿が逃げた!」
セミョーノフ医師はさすがに落ち着いている。「ああ、野生動物に引っかかれた場合、消毒が重要ですな」
近くにいた、まともそうなドイツ人に消毒薬を頼んでいる。

猿が逃げていく。可愛らしい白と黒の縞の尻尾を立て、尻尾が消えていく。
夢から覚めた私には、追いかける気力もない。

「……イア。アクリナが治ったら、木苺ジャムの菓子を大量に作らせてやる」
「お義兄様があんなに馬鹿だとは知らなかったわ。破産したら、マダーム・アクリーヌだって困るじゃない」
「ああ、はい……まったくそうですね。木苺が採れる季節になったら、料理女頭のゼルノヴァに、アクリーヌが作るようなジャムを一樽作らせるから……」
「それは良いわね。で?」
「リザヴェタには黙っていてくれ……」

—-

「ドクトル!」
美しいゲルマンの若い婦人が駆け寄ってきた。
持っていた鞄を広げる。中には消毒薬やら包帯やらが入っている。
セミョーノフ医師が鞄を受け取り、流れるような手さばきでベルクマンの傷を消毒し、包帯を巻いている。
包帯を止めながらセミョーノフ医師は、若い婦人を紹介した。
「私の婚約者のシャルロッテです」
「……それは素晴らしい」
私は紳士らしく(この場で初めて)、シャルロッテ嬢の右手の甲に軽く接吻した。
「霧深きドイツの美しいお嬢さん、貴女は気丈な方ですね」
「ええ、医師の妻になるのですから、当然です」
シャルロッテ嬢は看護婦の訓練も受けているのではないだろうか。血を見てもまったく平然と介抱し、近い未来のご夫君の補佐をしている。

ところで猿はどうしたのだ。

間もなく、ヒローシャが二匹の猿の首を両手で掴んで連れてきた。
なんだか知らないがさすが元・猟師である。どうなっているのだ。
「大切な領主様、猿が逃げたという声が聞こえたので、探しました。二匹でよろしいのですか?」
「おまえはすごいな……」
アクリナに買ってやらなくて良かった……のか? 彼女ならば馴らせるような気もする……。

「まあ、ヒローシャ先生!」
シャルロッテ嬢が言った。
「ああ、シュナイダー家のお嬢様ではありませんか!」
なんでこのドイツの婦人をヒローシャが知っているのだ。

シャルロッテが、私にともセミョーノフ医師にともヒローシャにともつかずに言った。
「ではこの方が……、エヴゲーニイ・パヴロヴィチですね。リザヴェタ奥様にはいつもお世話になっております」
「あ、はい。そうなのですか」
「ええ、乗馬の会に入っておりますの。楽しいですわ。ヒローシャ先生はほんとうに教えるのが上手なのです」
リザヴェタはどこまで顔が広いのだ。

ヒローシャが猿を檻に戻しながら言った。
「このマカクたちは、あまり危険ではないと思いますが、驚いたようですね」
「マカクではない……、マカクは別の種類だ」
ぶつぶつとベルクマンが呟いた。

さすがにイアも疲れたのであろうか。ベルクマンの傷と大量の血を見て、ひっくり返りそうになった。
私は背後から抱き支える。なんだか感触がリザヴェタに似ている。
「イア。大丈夫か」
「うう、お義兄様……血が……」
ああ、弱いところもあるのか。

「……帰ろう」
私はセミョーノフ医師とシャルロッテ嬢に礼を言い、辞去することにした。ベルクマン? 知るか。
「ヒローシャ、ああ、その大切なリザヴェタ奥様のお従妹を馬車まで抱き上げて行ってくれないか」
「え……」
「やらないと婚配機密の儀だ」
「嫌です……」
仕方なく、ヒローシャが倒れそうなイアを軽々と抱き上げた。ヒローシャは小柄だがたいそう力がある。妙齢のご婦人を抱き上げているのに、抱き方が、気のせいか先ほどのキツネザルの首筋を持っていたときと同じように見える。

「『嫌』って堂々と言った! グラーシャ!」
「……はい、グラーシャでございます」
ヒローシャはグラーシャではないが、もうどうでも良いらしい。
「わたくしはエヴゲーニイお義兄様の秘密を知っているのよ。リーザに内緒なの」
「え、と。また何かご婦人ですか」
「そうと言えばそうだけれど、違うといえば違うわね」
「喋るな!」

ヒローシャが馬車籠の座席にイアを座らせた。
弱っていたはずのイアが、ヒローシャに話しかけている。
「グラーシャ、一、一〇〇ルーヴルあったらどうする?」
「ええ? イア様、そんな大金は想像もつきません……」
「ただのもしもの話よ」
「……そうでございますね。私の故郷の同族にいくらか送金いたします。それから、Я家と農奴の皆さんのもしものときの蓄えに、大切な奥様にお預かりしていただいて……。
あとは、教会に寄付しなければなりません。シベリヤ流刑中の我が友ステパンに贈って……自分用に、少しだけ上等な馬の鞍と、乗馬靴を買います」
「何それ! ああ、まあ。なんて立派な使い道なのよ!
お義兄様となんていう違いかしら」

私がイアの隣に乗り込むと、ヒローシャが馬車を出した。
「そういうふうにねちねちと嫌がらせをするつもりなら、別にリザヴェタに喋ってもいい」
(いや、あまり良くない)
私は腕を組んだ。
「結構、君を見直したのだがね」

「マダーム・アクリーヌの木苺のお菓子は?」
「彼女の風邪が治ってからだ」
「一一〇〇ルーブル無駄遣いしなくて済んだのに。おまけにあの馬鹿ドイツ人とわたくしを結婚させようとしたじゃない」
「あいつがどういう反応をするか、試しに言っただけだ。君がもし気に入っても、あんな屑とは結婚させない。
木苺の菓子の他に、何かご褒美が欲しいのか。プリャーニク【* 焼き菓子】か?」

「接吻して」
一瞬意味がわからなかった。
「はあ? ……不潔でいやらしいお義兄様ではなかったのか」
このまえ、『イワノフ伯爵』が来たときのことを思いだした。【* イアの花嫁修業5『擬似餌』】
私は聞かなかったことにしたのである。

「清い身の男と結婚したいのだろう? そんな男ならば、接吻もあまりしたことがないのではないか。未来のご夫君への裏切りだ」
「殿方と接吻してみたいの! 無難なところでお義兄様で実験! 実験は大事よ!」
ヒローシャの背中が強張っている。
「ヒローシャにしてもらえ。頬にちょっとくらいなら良いだろう」
「あの、嫌です……」
小さくヒローシャが呟いた。
「嫌だって! なんてやつなの。お義兄様、一一〇〇ルーブル!」

「ああ、わかった」
私はイアの右手を取り、甲に適当に口づけした。
「エヴゲーニイお義兄様! これはただの挨拶じゃない。さっきのシャルロッテさんにもしてたじゃない。しかももっと丁寧だったわ」
「おまえにはこれで十分だ。欲求不満ならば自分で慰める方法を図解付きで書いてやる」
「な、何それ。本当にいやらしいわ」
「リザヴェタに言うなら言え」
「じゃあこの場でグラーシャに言うわよ」
「……あの、聞かないほうが良い気がするので、結構でございます」
ヒローシャが三頭の馬を御しながら、弱々しく言い、深い溜息をついた。

イアは勝手に話しだした。
「グラーシャ、聞きなさいよ。お義兄様はね、マダーム・アクリーヌのためにあの猿を買おうとしたのよ! 
相手が売ってくれないから、一一〇〇ルーブルまで値を釣り上げたの」
「ええ! それはひどい……。いくらアクリナ様が、ええ、お優しい方ですけれど、そんな……農奴の家庭何軒が一年暮らせる額でしょう。アクリナ様も良心の咎めを感じるに違いありません。
……あ、ああ、大切な領主様、申し訳ございません……。
ですが一言、申し上げさせていただいてもよろしいでしょうか……」
「駄目だ」

イアが万一ほんとうに私に色情を抱いている……ではなく、慕っているのならば、黙殺だ。我が妻リザヴェタの従妹で、私はお義兄様だ。なるべく大事にするし、追い出さないが、性愛の対象になどしない。
元・放蕩者を舐めてはいけない。
欲望を制御する術は身についている。
欲望は大事な女のために取っておくのだ!

—-
で、領地に帰ってきて、領主館にも寄らず、アクリナの森の家に行った。
ドロシダが出てきて、大分熱が下がりました、と落ち着いた様子で言った。一安心だ。
「どこにいる? ほんとうに珍しい猿でね。尻尾が白と黒の縞模様なのだよ。早く話してやりたい」
「まあ、縞模様なんて……」
冷静なドロシダも思わず感嘆の声を出した。
「領主様、アクリナ様は二階におられますわ」

二階に行くと、アクリナは寝台の毛布に潜り込み、横向きに眠り込んでいた。
緩く編んだ三つ編みが崩れている。目のまわりが真っ赤で、頬に涙のあとが幾筋もあった。どうも泣き疲れて眠ったらしい。
枕の麻が妙な色なので、触ったらじっとり湿っている! 
涙だ。……。

ああ、やはり一一〇〇ルーブルでもワオキツネザルを買えば良かった……、と思わなくもなかった。

ワオキツネザル authorYves_Picq