第5話 擬似餌の伯爵

領主様と女中頭のエレナが、イア対策を考えました。
結婚したくなるような独身の紳士を見れば、よろこんで花嫁修業をしだすのではないか?
領主様は、ご友人で『美男の某伯爵』をイア用の『見せ餌』として領主館に来させました。
多少反応があったようです。

4月,1831年

復活祭前の大斎たいさいの時期だ。
この期間、ひまわりの油以外の油分や肉や魚、卵などは食べない。
もっとも私は不信心者なので、かなりいい加減である。こっそり料理女に肉を焼かせ一人で食べたりもした。台所の隅で食べているところをリザヴェタに見つかった。子供たちに内緒で、二人で食べた。
復活祭当日には、大斎期間中に鶏が産み、溜まっていた卵を彩色し、司祭が聖別する。
彩色卵は領主館でも配る。菓子も卵をたくさん入れる。

我が妻の従妹イア・ドミートリエヴナのために、私は簡単な丸太小屋を作らせた。小屋の各部の寸法は決まっている。材木商も小屋用に大きさを合わせた板材を売った。慣れた者たちの手にかかれば、一日で組み立てられる。
裏庭の厩舎と、ヒローシャが自分用に立てた自分の小屋の間に建てた。
ヒローシャは寝ていても危険なものが近づけば眼が覚めるし、銃の扱いも非常に巧みだ。それに、イアの小屋は母屋の二階、西向きの窓からも見下ろせた。まあ、安全だろう。

そして、イアはいつものようにふてくされて部屋で謹慎だ。
昨日、フランス語教師のマダムが来てくれた。念のために、リザヴェタと女中頭のエレナ・ネクルィロヴァの二人で練習のようすを監視していたそうだ。
フランス語教師のマダムは、イアと少しフランス語で喋り、言った。
『マドモアゼル・イア。貴女は基礎からやり直さないと駄目です』
そのあとマダムは『ホンホンホン』とフランス風の笑いで、イアを嘲笑したという。
リザヴェタによると、『嘲笑なんてしてませんでしたわ、優しくおっしゃっていただけです』
恐らく間違いなくリザヴェタが正しい。しかし、イアにはそう聞こえるのだろう。
イアが腹立ちまぎれに紅茶茶碗を壁に投げつけて、割った。……まあ、マダムに投げつけなかったのは偉い。
リザヴェタとエレナで、慌ててマダムに引き取ってもらったらしい。そしてもちろん説教・謹慎・紅茶と菓子抜きだ。

翌日の応接間で、エレナ・ネクルィロヴァからその話を聞いた。

エレナは相変わらず、きっちりした紺色の地味なドレスで編み物をしている。困り切ったように言う。
「領主様……、イア様は、花嫁修業の目的でおいでですけれど、ほんとうに結婚なさりたいのでしょうか?」
「ああ、疑わしいね。ご両親に厄介払いされただけではないか。
大体、恋をしたことなどあるのだろうか。ほんの少し憧れるだけでもあるのか? ……どういう男が好みなのだ。エレナ、聞き出せないか」
「あたくしには無理ですわ。テレージナの奥様のほうが、イア様に懐かれておいでです」
「一緒に鍋洗いや大樽洗いを結構楽しそうにやっているようだが。なんだか、遊び相手を見つけて楽しんでいるようでもあるぞ。おまえなら、まともに話ができるだろう。リザヴェタはついカッとなってしまうらしい」

カッとなって殴りあいの夢を私はまだ捨てていない。
ああ、イアは、これを興行にして、貴婦人の、婦人闘士の戦いという見世物を仕事にしたらどうだろう。ローマ時代の剣闘士には婦人もいたのだ……。
我が国は『第三のローマ』ではなかったのか!

「結婚したいかどうかわかりませんが、あたくしのように召使いになるために生まれた方ではありません。やはり、できるものならば、それなりの方のところに嫁がれたほうがよろしいですわ」
「そうなのだが……英語で言う『motivation』……どう言えば良いか、……『誰それ様の妻になりたい』とか、『ああいう方と並んで歩きたい』程度でも良い。そういうのがないと花嫁修業にもやる気が出ないのではないかね。
……一度私に、『ヨーロッパロシヤの大領主で美男で優しくて浮気をしない男と結婚する』と手紙に書いてきた。漠然としすぎだ。本人も何もわかっていない」

エレナが少しためらいながら私に言う。
「あの、僭越でございますが……領主様、貴男様のような優雅なお方がおそばにいらっしゃっても、もう結婚なさっていて……」
「エレナ、今さらお世辞は良いよ」
「あら、本気でございます。そして、貴男様以外の紳士は、まったく身近におられない。となると、結婚といってもピンとこないのではないでしょうか」
「え、そうかね。結婚している男がそばにいると……こういう家庭を築きたいと……、……思うわけがないか……」
夫は堂々と恋人を囲い、すぐに恋人のところに逃げる。
子供はイア並みに乱暴で、生きた蛇やら殺したてのヒバリだのを投げる。
妻は華麗な領主夫人のはずだが、ただただ家事の指図が大変そうで、そのくせ夫はさして労いもしない。
これで結婚したくなるだろうか。
私とて、リザヴェタや他の家族や領民のためにイアの知らないところで色々働いているのだが、わかるわけがない。
……とりあえず、イアのまえでリザヴェタをもっと露骨に褒めちぎり可愛がろう……。ああ、するとまた、『不潔でいやらしいお義兄様』になるのか……。
どうしろというのだ。

「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。ああ、申し訳ありません。家庭の見本などということではないのです」
エレナが説明する。
「今のイア様のまわりには、独身の紳士が一人もいらっしゃいません。『誰それ様の妻になってみたら』と思うにも、なぞらえてみるお相手がいないのですわ」
エレナは編み物を続ける。毛糸の季節はそろそろ終わるが、編み物というのは熱中しだすと止まらなくなるらしい。今はレースの襟を編んでいる。
「昔お仕えしたご令嬢も、結婚なんて嫌とおっしゃっていたのに、ある殿方に夢中になった途端、変わられました」

それは私の前の妻のことだ。淑やかな人であった。
……野生生物が同じ反応をするだろうか。

エレナは続ける。
「やはり若い娘さんですから、見目の良い殿方には惹かれますでしょう。……お独りで、容姿の優れた紳士を、通りすがりにでもお見かけして、憧れたりなされば」
「そういえば、こちらにきてからイアに独身の紳士など見せていないな。独り身の男といえば、馭者の連中をこき使ってばかりだ……」
独り身のエレナのまえで口に出すのは控えるが、あれだけ暴れるのは行き場のない欲望を持て余しているのかもしれない。
私の婦人たちに対するように、寂しいときには自分で慰めてみろ、と言うわけにもいかない。いやもうあれ相手なら図解つきでやり方まで教えても良いのかもしれない。

「しかし、この近所の地主貴族の息子連中は……中身は知らないが、見た目は、美男だかゴミ屑だかわからないぞ。
……ああ、そうだ、確かブリューロフ家の次男が、士官学校に入っていた。帰郷した時に挨拶された。
凛々しい青年だった。武官は良いかもしれない。制服で魅力が三割増す」
「ブリューロフ家の次男様……。でも、今のイア様では、とても堂々とご紹介できませんわ……」
「昼餐か、晩餐に呼んで、姿だけちらりと拝ませるのでどうだ。アクリナから木苺ジャムの菓子をもらってきてデザートに出せば勝手に覗くだろう。
昨今の軍事情勢について伺いたいとかなんとか言って呼ぶのだ」

……という話をリザヴェタにするため、私とエレナは家事室に向かった。
顔の広いリザヴェタは、ブリューロフ家の奥方ともつきあいがあったはずだ。

「ブリューロフ家の次男様ですか?」
リザヴェタが言った。やはりリザヴェタも編み物を続けている。今度は子供たちの夏用の靴下を麻糸と毛糸を混ぜて編んでいる。
「その方が士官学校に行ってらっしゃったのは、三年くらい前でしてよ。
何人かの上官の奥方や令嬢と間違いを犯して、ネルチンスクに飛ばされたとか。
確かに凛々しい美丈夫でいらしたわね。殿方は少し見目よくお生まれになると、ご婦人漁りに利用せずにはいられないのかしら」

『元・色男』『元・美男』の私に対する嫌味である。……だが上官の夫人や令嬢複数はまずいだろう。もう少し上手くやれ、ブリューロフ家の次男よ。

私とエレナは、先ほどの話をリザヴェタにした。
「釣りのことはよくわかりませんけれど『擬似餌(ぎじえ)』というものかしら」
「まあ、見ても飲み込んでも、食べられないという意味では同じですね。……リーザ、擬似餌になりそうな青年に心当たりはないでしょうか」
「紳士階級の美男の若者ならば、多少の心当たりはなくはありません。でも、ほんとうにイアがその方を好きになったら困ります。
もしかしたら良い効果があるのかもしれませんけれど、相手の紳士にとんでもないことをしたら、イアの評判は地に落ちます。
恋文を書くどころか、夜中に相手のお宅に押しかけるくらいのことはやりかねないわ」

不条理ではあるが、令嬢に対するかせは多い。まわりに秘密で独身男性に文を書く程度でも、はしたない行為とされていた。
相手の家に忍び込むに至っては、もちろん論外である。
リザヴェタは溜息をついた。
「どのみち、そのうちあっという間に評判なんか落ちる気はしますけれど」
「どういう男が好みか、貴女はご存じありませんか。美男といってもいろいろ種類があります」
「知らないのです。……ああ、そうだわ」
リザヴェタは編み物の手を止め、顔をあげた。何か思いついたらしい。

「擬似餌なのですから、ぎじ……。偽物で良いのではありませんか」
「え、彫刻か人形ですか」
「まさか! 怪奇小説だか何だかの読みすぎですわ。どこが面白いのかしら。
ああ、うちの農奴や奉公人で、イアが顔を知らない相手から美男の若者を選ぶのです。そして、擬似餌になって貰えばどうでしょう。色んな種類の美男に頼めます。
うちの農奴には、磨けば美男がたくさんいますから!」
……私の先祖が、農奴のあちこちの家の先祖に手をつけたからだ、たぶん。
「ああ、リーザ。さすが貴女ですね。……それは良い案かもしれません」

エレナ・ネクルィロヴァは慎重だ。
「興味深いお考えでございますけれど、調子に乗った農奴がイア様に執心するかもしれませんわ。危険ではありませんか」
「言っておいてなんですが、わたくしもその可能性はあると思います。それにイアのほうもどう反応するか……」
リザヴェタが急に興奮して叫んだ。恐怖と怒りを一度に感じているようだ。
「わ、わたくしの従妹が、うちの大事な農奴の家に夜、忍んで行ったりしたら……。その若者の親兄弟祖父母伯父伯母甥姪もいる家に! ああ、あり得るからいや!
領主夫人の従妹が農奴の若者のところに忍んでいくなんて聞いたこともないわ! どうやって詫びたらいいの!!」
リザヴェタはどうも非常に具体的に想像したらしい。息が弾んでいる。

「リーザ、農奴だということは秘密にして、紳士だとするのでしょう」

「はい、ああ。……ですが、エレナの心配はもっともです。あんな乱暴な娘でも、いちおう綺麗な服を着ているし」
「絶対にイアを好きにならない、興味も持たない男なら良いでしょう。で、美男……フォマ・ミュリコフはどうですか」
「牧畜担当の……いつも妙に楽しそうに働いている……」
さすが我が妻はよく覚えている。
「確かに美男でしたね。
絶対にイアに興味を持たないって、決まった方がいるからでしょうか?」
「決まった人がいても信用できませんが、フォマは大丈夫です。あいつは婦人に(というか人間の雌に)興味がありません」
リザヴェタとエレナが赤面した。

リザヴェタが言う。
「まあ……そうでしたの。それで独身なのね。
……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、その……、フォマは貴男を気に入ったりいたしませんの」
「え、……あ、いや。彼に誠実な愛を捧げる一群がいまして、皆、仲が良いようです。私は関係ありません」
リザヴェタとエレナはますますいたたまれなそうにしている。

「教会の教えには背きますが……」
リザヴェタが目をつぶって厳かに言った。
「……ああ、でも、フォマの幸せを祈りますわ」

—-

というわけで、領地一の色男フォマ・ミュリコフが、
『新しい子山羊ちゃんを買ってやる』という条件で、協力してくれることになった。
イアより二つくらい年下だが、それは別に良い。問題は、いくら美男だろうと、当然だが貴族の物腰も話し方もできないことだ。フランス語もできない。
練習させるような気力もないし、少々の練習では身につかない。かつて私がご婦人に対して魅力的だったのは、物腰が洗練されていたのが大きい。
(『かつて』『魅力的だった』
忌々しい過去形よ……ああ、すべては過ぎ去りぬ)
正直にいうとフォマはたいへん賢くないので、何であろうと新しいことを覚えさせるのは難しい。
だがイア程度なら騙せるのではなかろうか。

もう、どうでも良い……。なんでも試してみるしかない。
偉大なキノコ栽培家のアクリナ・ニコラエヴナは、研究対象に対し、様々に条件を変え、辛抱強く、より良い方法を探り続けている。温度と湿度だとか、菌床の馬糞の割合だとか、菌を何曜日に植えるのが良いかとか、聖ニコラと生神女マリヤ、どちらに祈ってから植えるのが良いかとか、総当たり式だ。
我がアクリーヌに学ぶべきことは多い。

—-

数日後、雪が溶けつつあり、ところどころに春のぬかるみが現れてきたころ、フォマ・ミュリコフがどこぞの領地の若い貴族として、私を訪ねてくることになった。
歩かせるとすぐにボロが出るから、案内して応接間に通し、閉じ込めておいて帰らせる。行き帰りに鍋洗いか何かをするイアが垣間見る。
フォマはイアに紹介しない。それで良い。

馭者連中にフォマを風呂に入らせて隅々まで磨き立てさせた。そうして耕作地の中にポツンと建つ、丸太小屋の事務所に連れてこさせる。

私とエレナ・ネクルィロヴァのふたりが、事務所で待っていた。
カフタン一枚に外套を羽織っただけの姿で、フォマが聞いた。
「あの、領主様……子山羊は」
「もう買ってある。おまえがうまくやってくれたらおまえの元で飼うが、さもなければ謝肉祭の時に食べる。肉はおまえにも振る舞おう」
「だ、可哀相です……。真っ白なメスの子山羊……ですよね」
「ああ、可愛いぞ」
改めて見ると、フォマ・ミュリコフは美男だ。牧畜をしているから白皙の、というわけにはいかないが、洗ってペチカで乾かした黒い髪は艶やかだし、顔の輪郭も体型も、やや鋭く、じつに整っている。
少し大きめの刻んだような口は、男性の色気を感じさせるかもしれない。……ぼうっと、常に口を開けていなければ……なお良いのだが。
可愛い動物や食べ物のことしか考えていないことがよくわかる、鈍く楽しげな目も、優しい瞳に……あるいは、夢見るような、情熱的な目に見えるかもしれない。

エレナがフォマに私の服を着せた。ああ、まだおろしていない真新しい麻のシャツだ!
洒落者であったころを思い出し、クラバットは私が、凝った結び方をした。フリルのように見える結び方だ。
「領主様、あのう……きゅうくつで首吊りしてるみたいで……」
「我慢しろ。喋るな。子山羊のシロちゃんが欲しいのだろう。ちゃんとメスだぞ」
「子山羊の……シロちゃん。ああ、俺、頑張ります……」

リザヴェタと馭者を勤めるヒローシャが入ってくる。
リザヴェタは一瞬、あまりの変わり具合に驚いたらしい。ヒローシャもだ。
いつもは農民外套に耳当て付きのぼろぼろの帽子で、全身に牧草の藁屑をつけ、たくさんの鈴をつけた牛や豚を引いて嬉しそうに歩いている男であるだけに変わりようが凄まじい。
英国のダンディのようだ。
乗馬服の上着に、羅紗の胴衣、フリルのような白いクラバットである。シャツの立て襟が整った頬をわずかに隠し、絹の帽子をかぶるのだ。これから黒貂のついた外套まで着る予定だ。
全部私の新しい服だ!

「まあ、フォマ! 本当に素敵だわ」
領主夫人からお褒めの言葉を賜っても、フォマはまともな反応をしない。
「奥様は子山羊を見ましたか……? 可愛かったですか」
「え、ああ。貴男へのご褒美の山羊ね。わたくしは見ていないけれど……」
「母屋の応接間に待たせている」
「え、では今から……会える」
「フォマは仕事熱心ね……」
リザヴェタとエレナがうなずきあう。

私はフォマに言い含める。
「フォマ、今からおまえの名前は、アレクサンドル・ミハイロヴィチ・トルストイだ。誰がどう聞いても大貴族の名前ではないか」
リザヴェタが慌てて言った。
「『トルストイ』って、そんな実在の、ほんとうに大貴族ご一族の苗字はまずくありませんか……イアがトルストイ家に押しかけたら! ああ、イアどころか、うち自体が破滅だわ!」
「ええと、ではアレクサンドル・ミハイロヴィチ・イワノフ伯爵だ」
「イワノフでは、あまり貴族のようではありません」
「では、『ムソルグスキイ』」
「そちらも大貴族ご一族の苗字ではありませんの!」
「フォマ、とりあえず言ってみろ。おまえの名前はアレクサンドル・ミハイロヴィチ・ムソルグスキイ」
「え……領主様、アレクサンドル……? ……ミュリコフ……スキイ?」

「あー……、イワノフで良い。繰り返してみろ。アレクサンドル・イワノフ」
「アレクサンドル・イワノフ」
「よし、良いではないか。アレクサンドル・イワノフ、おまえは……いや、貴男はこれから領主館に行って、ヒローシャの馬車で外に出て、この事務所に戻るまで、イワノフ伯爵だ。喋らなくて良い。誰にも頭を下げるな!
おまえ……、いや貴男は私の年若い友人だ」
「友達ですか……? 俺が、領主様の」
「領主様ではなく名前で呼べ。名字でも父称でも良い」
「……領主様の名前……? 領主様は、領主様では?」
「知らないのか……」
悲しくなってきた。

ヒローシャが馭者を勤める馬車が迎えに行って、イワノフ伯爵をお連れする、ということにする予定だ。
アレクサンドル・イワノフ伯爵がヒローシャに訊いた。面識くらいはあるだろうが、それほど話したことはないはずだ。
「あの、ヒローシャさん……東洋人で黄色人種ですよね」
「はい、イワノフ伯爵。ですが私はロシヤ帝国の忠実な臣民です。それに『さん』はつけなくて結構でございます」

リザヴェタがさっと顔色を変えた。
リザヴェタは、ヒローシャの人種をからかう言葉を聞くと、激怒する。
しかし、アレクサンドル・イワノフ伯爵にそんな難しいことができるわけがないし、思いつきさえしないのだった。ただ、素朴な疑問をそのまま口に出したらしい。
「黄色人種って、……ひまわりみたいな色ではない……のですか」
「……え? ええ、はい。ひまわりみたいな色ではございません……」
ヒローシャはイワノフ伯爵を馬車にお連れし、馬車籠に乗せている。
「あのう、ひまわりみたいな黄色人種は……いない……?」
「さ、さあ……?」

—-

領主館に戻る。
私とリザヴェタと、家令のテレージンが、イワノフ伯爵の到来を居間で待つ。
テレージンが私にこっそり囁く。「何もあのフォマ・ミュリコフに頼まなくても……」
「あいつが一番美男だからな……」
「まあ、そうですが……」

謹慎のとけたイアはエレナ・ネクルィロヴァとともに、居間のペチカの脇のベンチに座っている。エレナが編み物を教えていた。
「こんなの退屈だわ。大樽磨きのほうがましよ」
「イア様。一度覚えれば好きなものが編めるようになりますわ。襟も、靴下も、テーブル掛けも」
「網の編み方を教えて」
「網?」
「魚を獲るときに使う網よ! マダーム・アクリーヌに網をかけて逃げないようにしてお菓子を焼かせるの!」
エレナが絶句している。
「……それでお菓子を焼いたら、網が燃えるのでは……」
ああ、ここでもかしこでも馬鹿げた話をしている。

玄関番の少年が叫んだ。
『アレクサンドル・ミハイロヴィチ・イワノフ伯爵がお見えです!』

私とリザヴェタとテレージンが、待合間から階段を降りた。
玄関間に着く。
「ほう……」テレージンが感心したように小さく声を漏らした。「立派な洒落者の紳士ですな……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。貴男がお若いころのようだ」
ヒローシャに連れられたイワノフ伯爵が間抜けに言った。
「あの……、こんにちは」

テレージンが迎えに出る。「イワノフ伯爵様にはご機嫌麗しく、ようこそ当家においでくださいました。
家令のテレージンでございます。どうぞこちらへ」

「テレージン様……?」
いつも叱り飛ばしにくる家令様が、丁重に頭を下げてくるので、イワノフ伯爵は驚きを禁じ得ないらしい。
どうせ理解できないから、『おまえはイア用の擬似餌だ』などの説明はしていない。
農奴の中でも、教育はないとはいえ、もちろん聡い者はいるのだが……ボリス・クズネツォフあたりならうまくやってくれるだろうが、残念ながらあまり美男ではない。
テレージンは賓客の外套を脱がせつつ、『喋るな』と脅している。

「久しぶりですね、イワノフ伯爵。ご無沙汰しました。こちらは妻のリザェタです。まあ、いらしてください」
リザヴェタはしとやかにただ頭を下げる。一緒に頭を下げそうになったイワノフ伯爵の肩を抱き、私は無理矢理しゃんと立たせた。
『誰にも頭は下げるな、喋るな』
私はフォマにぴったりくっつき、親友のように肩を抱いたまま、玄関間から待ち合間に上がる。

居間に入ると、婦人たちの動きが止まった。皆、領主様のご友人の若いイワノフ伯爵様を見ている。
小間使いたちから溜息が漏れた。
私はイワノフ伯爵に久闊きゅうかつじょすと、さっそく互いの興味の中心たる話題に移った。
「ええ、ビザンティン美術の魅力は、やはりあのモザイクでしょう。……飛散と統合に象徴される高い精神性……、やはり、我が国の魂のおやの国です……ああ、あの精神の運動は、我が国のイコンと……三圃式農業に明らかに受け継がれていますね……」
私は、居間のベンチで編み物をしているイアを無造作に指差した。
「あれは、妻のリザヴェタの従妹で、我が家で預かっております」
イアが編み物の手を止めて顔を上げる。イワノフ伯爵を驚いたように眺めている。見とれるというより、ただただ唖然とした表情だ。多少は気になっているのだろうか?

『挨拶しなくて良い、喋るな、子山羊ちゃんが待っているぞ』
私はフォマに囁きながら、応接間のドアを開け、イワノフ伯爵を引きずり込んだ。部屋の中に放り込み、鍵をかける。

白い子山羊が隅で待っていた。
イワノフ伯爵改めフォマ・ミュリコフは喜び、抱きしめた。よほど抱き方がうまいのか、子山羊も抱きしめ返し、フォマの胸に前足の蹄をこすりつける。私のシャツが、クラバットが!
私は長椅子に腰掛けた。疲れた。
「ご苦労だった。フォマ、一時間くらい、ここで子山羊と遊んでいて良い。そのうち小間使いが紅茶と菓子を持ってくる。食べまくって結構だ」
フォマは返事もしないで、子山羊を撫でている。

アレクサンドル・イワノフ伯爵は素人ながら、ビザンティン文化やギリシャ文化について造詣が深く、独自に研究を続けている、ということになっている。
で、同じ興味を持つ私と、久しぶりに会って、大いに語り合っている……。
さりげなくエレナがイアに噂をする予定だ。
『イワノフ伯爵は、領主様の数少ないお友達で、たまにお見えになりますのよ。お独りでいらっしゃるから、ご研究に打ち込み放題だそうですの。領主様が時々羨ましがっておられますわ』とかなんとか……。
イワノフ伯爵の潔癖さも強調する。
『ビザンティン美術に打ち込みすぎて、他のことはまったく目に入らないらしいですわ……』

私は懐中時計を見た。午後二時十分である。三時までここにいて、イワノフ伯爵を連れて出よう。
山羊が鳴いているが、もう、知ったことではない。多分、外で鳴いているのだ。
私は持って来た本数冊から一冊を取り、パラパラめくる。文字を見る前に深い溜息をついた。
ああ、イアは、イワノフ伯爵に興味を持つだろうか……。
駄目なら次は、誰かに武官の服装をさせよう。
その次は……美男の種類は他には何があるだろう。コサックの粋な若者や、アルハンゲリスク県の誠実な農奴で祖国戦争で斃れた無口で無骨な善良な色男など駄目だ。
貴顕の美男だ。思いつかない!

『だ、駄目』
外でリザヴェタが声を殺し、止めている。
『あんたなんかが近寄って良い方ではないの!』
『リーザ、黙ってよ。花嫁修業の一環よ』
私は思わず書物のページから顔を上げる。
これは、この馬鹿げた芝居にも効果があったということなのだろうか。
ノックの音とともに、ドアの向こうでイアの澄ました声がする。
「お義兄様、お茶をお持ちしましたわ」
私は、山羊と戯れるフォマの背を蹴った。腕をとって向かいの長椅子に座らせる。扉からは背中しか見えない向きだ。
『喋るな、入ってくる娘を見るな。さもなくば、その可愛い子山羊ちゃんとお別れだ。大斎期間が終わったら串焼きとして再会だ』

『串焼き。……串焼き……?』
フォマは私の言った言葉に泣きそうになりながら、長椅子に座ってじっとしている。
私は扉を開けに行く。イアが紅茶と菓子を持って立っていた。リザヴェタが後ろで怒りを押し殺した表情で腕を組み、歩きまわっているのが見える。
「ああ、イア、ご苦労」
イワノフ伯爵に興味を持っているのか?
イアが言った。
「え、山羊……?」
「山羊はビザンティン美術の重要なモチーフなのだ」
【* 多分違う】

イワノフ伯爵は長椅子に固まって座っている。
「イワノフ伯爵は、ああ、実物に当たって調査なさるのだ。ビザンティンでは山羊をどのていど写実的に描いたのか、また、題材の山羊がどんな種類なのか。素晴らしく興味深い……」
私はイアの手から盆を引き取ろうとした。
「わたくしが卓に置きますわ」
「ああ、では頼む」

イアはしずしずと卓に紅茶と茶菓子を置いた。ついでに、じっとイワノフ伯爵の端正な横顔を見ている。まあ、動かず喋らなければ、ほんとうに美男の洒落者である。フリルにしたクラバットにも負けてはいない。

「イワノフ伯爵様」
イアがいきなり呼びかけた。フォマがびくりとしている。
「イア! この方はご婦人が苦手だ。ビザンティン美術の研究に夢中で、屋敷に閉じこもって社交界にも出て来られない」
ならば何故、洒落者になったかなど知るか。
「イワノフ伯爵様」
「だから、話しかけるな!」
イアが私の言うことなど聞くはずがない。家長はすごく偉いのだが。
「イワノフ伯爵様、貴男様は婦人が苦手だそうですが、女の方と愛の営みをなさったことがありますか?」
何を訊いているのだ!

「人間の娘っ子……?」
フォマがぼうっとした声で聞き返した。
「イワノフ伯爵、無礼な質問には答えなくて結構です」
「ああ……ないです」
フォマが正直に答えた。
「どうしてでございますか」
「どうして……? え……、いや、というか、気持ち悪い……です」
私はイアの手首を掴み、扉の外に投げ出した。リザヴェタが会話を聞いていたらしい。爆発しそうな表情をしている。

とにかく扉を閉め、外に聞こえるように話す。
「ビザンティン美術の変遷はやはり、顔料の発見とアトス聖山の修行によりますね……」
自分でも何を言っているのかよくわからない。
フォマに紅茶と菓子を食べさせ、予定していた三時より少し早いが、外に送り出した。
もちろん、子山羊ちゃんも一緒だ!
イワノフ伯爵は子山羊とともにヒローシャの馬車に乗り、どこか幻の屋敷へ帰って行った。

—-
「信じられない! 信じられない! 信じられない!」
リザヴェタが居間で叫んでいる。領主夫人がそんなことをしてはいけない。「初対面の殿方に、何を訊いたと思う? ああ!」
「リザヴェタ奥様、何を訊いたのでございますか?」
リザヴェタはいちおう声をひそめて、エレナとテレージンにだけ言った。その答に、二人が呆然としている。
イアは若草色のドレスで、イワノフ伯爵にお出しした菓子の残りを食べている。酢と入り混じった木苺のジャムがたっぷり乗せられている。酸っぱい匂いがする。

……ああ、アクリナに魚みたいに網をかけて菓子を焼かせるのか……。網をかけるのは私もやってみたい。まるで、湖で女の水の精(ルサールカ)を捕まえたかのようではないか……

夢想に浸っていた私に、イアが言った。
「エヴゲーニイお義兄様、イワノフ伯爵様はご親戚ですの」
妙にしとやかである。
前向きに考えることにした。そう、イアも少しは紳士の男に興味を持ったのだ。
そのまえに今回こそはリザヴェタと殴り合いになるのではないか?
「え、あれが親戚? いや」
「あら、似ておられましたわ。並ぶと鼻の形がそっくり。イワノフ伯爵様は、お義兄様をとってもとっても薄ら馬鹿にしたみたいな方ね」
イワノフ伯爵様も駄目であった。
リザヴェタの従妹だけあってイアの目は鋭い。
フォマのミュリコフ家の先祖には、私の先祖が手をつけている。親戚といえば親戚だ。
ああ! 農奴たちは私の親戚だらけだ!

「イア、とにかく初対面の方にあんなことを訊くな」
「でも知りたかったんですもの……イワノフ伯爵様は馬鹿みたいな方でしたけれど、『気持ち悪い』とおっしゃって……あれは同感だわ。そういう方となら結婚してさしあげても良いかもしれない。
イワノフ伯爵様は馬鹿っぽくて嫌だけど! それに……お義兄様に似ているし!!」
「そういう方って、ご婦人を知らない方か」
居間で昼間から何を話しているのだろう。台所で働く料理女や、そこらへんで待機したり、卓を片づけている小間使いに申し訳ない。
「そう。そうして一生二人で清らかに仲良く暮らすの」
「え、はあ? 跡継ぎは……」
「甥とかいるでしょ」
イアは潔癖な乙女であった。

「イア、どういう男が好みなのだ?」
「美男で、ヨーロッパロシヤの大領主様で、誠実で優しくて、そういうことが気持ち悪いと思う人よ!」
美男で清い身の大領主……。それは難しい。
果たしているのか?
フォマだって、愛の対象が違うだけで、全然まったく清い身ではない。

「美男といってもいろいろあるが……どういう美男だ」
イアが乱暴に答えた。
「イワノフ伯爵様を賢くしたような方」
イアは失言をしたらしい。リザヴェタとイアが同時に気づく。
イワノフ伯爵様を賢くしたような方……。イワノフ伯爵様はお義兄様に似ていると、ついさっきイア本人が言った。
イアが動揺している……ように見える。

「……ああ、聞かなかったことにしておく。とりあえず、そういう容姿の男を探してみる」
聞かなかったのに『そういう容姿』も何もない気がするが、私も若干うろたえていた。
リザヴェタが平板に言う。
「従姉妹どうしだと好みも似るのかしらね……」

ヒローシャが戻ってきている。「イワノフ伯爵様をお送りしてまいりました……」

イアが叫んだ。
「違うわよ! お、お義兄様みたいに不潔でいやらしい人は絶対にいや。それにもっと歳が近くて! 童貞!」

リザヴェタが大声で叱りつける。
「そんなことを居間で叫ばないで! あああ! 腹がたつわ。イューカ、あんたは部屋で謹慎してなさい」
「イワノフ伯爵様は怒ってらっしゃらなかったわよ! うすら馬鹿っぽいけど、交尾が気持ち悪いっておっしゃるのは、正直な方よ!」
交尾とは的確な表現である。が、淑女の使う言葉ではない。
リザヴェタ奥様が怒鳴った。「交尾って、あんたは!」

ヒローシャが恐ろしげにリザヴェタ奥様とイアを窺っている。
私はもしかすると、イアはヒローシャがお気に入りなのかと思っていた。しつこく絡んで馬鹿にするのは、興味があるからだろう。
私は……なんというかとにかく疲れた。ああ、イワノフ伯爵様が擬似餌でよかった。
テレージンが、疲れきった私を救い出すように、穏やかに声をかけてきた。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。事務所でまた、耕作計画の続きを。この前の案では、どうも不満がある者がいるようでしてな……」
私はテレージンに感謝しつつ、二人で領主館の外に出た。

「イア様にお手をつけないでください。リザヴェタ奥様があまりにお気の毒です」
ちょっと感謝していたら、テレージンが私に指図し始めているのだった。
「テレージン、待て。何故、私がそのようなことをする前提で話を進めるのだ。いらない」
「……ああ、娘心というのはまったくわかりませんな。貴男にはずいぶん反抗していたではありませんか」
テレージンも疲れたらしい。大きく溜息をついた。

「九年置いておいて、ステパン【* テレージンの馬鹿息子】が帰ってきたらお前の家に嫁がせるか? イリーナさんと一緒に毎日大騒ぎだ」
「……勘弁してください」
「シベリヤにいたころ、リザヴェタとイアは道端で殴る蹴るの喧嘩をしたそうだ。ヒローシャが言っていた。ドレスが泥まみれになってもやめなかったとか」
「ほう、さすがリザヴェタ奥様ですな」
「私はそれが見たいのだ」
「うむ……それは。正直に申しますと、私も是非とも拝見したいものです……」
私とテレージンは、そろそろ雪が溶け、ぬかるんできた道に足を踏み入れる。事務所に向かって歩きだした。