第17話 青髭公 3 『花嫁たち』3★

チェルニャーク大佐から『夜一時、応接間にて待つ』という紙切れを渡されたリザヴェタ奥様。
大佐は堅苦しく無骨ではありますが、男性的な魅力もあります。
★ほんの少し性的な描写があります。

5月6日,1831年

ランプの火は細めてある。うす暗い部屋の広い寝台で、リザヴェタは夫と横たわっている。

寝台は広く、リザヴェタと夫とのあいだは半サージェン【* 1サージェン=約2.1メートル】近くあるのではないか。夫は麻のカフタンをひっかけ、大きな枕を抱いてとうに眠っている。
この部屋ではカフタンの背中の白さがぼんやり浮き上がるだけだ。

リザヴェタは眠れない。
チェルニャーク大佐に渡された紙片の内容を何度も思い出す。

『夜一時、応接室にて待つ。М(エム).Ч(チェー)

(……あれはやはり、逢引の誘いなのかしら。他の用ならば、昼間で良いもの)

十年前を思うと、確かに知恵の遅れた婚約者より、家に来る将校たちのほうがずっと親しみが持てた。
なかでもマクシム・イリイチは素敵だと思った……気がする。

一度、夜、陸軍将校たちの集まりの給仕だの料理の指示だの手が空き、……将校たちのかなりは飲み過ぎて眠ってしまった……疲れて外に出たことがある。

夏であったと思う。リャードフ邸の階段を降り、玄関から外に出て新鮮な空気を吸った。玄関のまえには小さな花壇がある。

寒さの強いこの地では、短い夏を過ぎると土はあっという間に凍りついてしまう。料理女だったアクリナが、シチーに入れる、良い匂いのする草をせっせと育てていた。

小声の話し声が聞こえた。リザヴェタは一瞬びくりとする。母国はとても治安が悪いのだ。ここは人が少ないのであまり気をつけていなかったけれど、修道院への巡礼者のなかには敬虔な巡礼者でありながら、機会があればすぐに強盗に変わる者もいた。

戻ろうとしたが、声は聞き慣れたものだった。
「大切なリザヴェタお嬢様!」と、声変わりしていない嬉しそうな声が聞こえた。

月は明るい。ヒローシャがリザヴェタに気づいた。
ヒローシャとチェルニャーク中尉(当時は中尉であった)がリャードフ家の三頭の馬を囲んで、話していた。

ヒローシャは十一歳か十二歳であった。まったくの子供だ。異族民で余計に幼く見えた。きらきら光る大きな黒い目だけは今と変わらない。

「リザヴェタ・フョードロヴナ。外は危ないでしょう。我が朋輩(ほうばい)の誰かに護衛をさせるべきでした」
「皆さん、お酒で潰れてしまいましたわ。誰も護衛なんかしてくださいません」
「ここは私もヒローシャ君もいるから大丈夫です。マドモワゼル」
と、チェルニャーク中尉は低い温かみのある声、何だか、よく鞣した馬の革のような声で言うのだった。

「皆様、わたくしのことを士官学校に特別入学すれば良かったのにとか、男に生まれれば良かったのにとしかおっしゃいませんわ」
「……貴女はどう思っていらっしゃるのです? リザヴェタ・フョードロヴナ」
意外なことに、そう問い返されるのは初めてであった。いつも『男に生まれれば……』といった言葉をかけられても、娘しか授からなかった父の諦めに、かすかな罪悪感を抱くだけだった。その言葉は単なる決まった挨拶のように使われてさえいた。
「……わかりません」

リザヴェタの言動は、たいてい正直だ(不正直になる必要がなければだが)。

ただ、唐突に自分の体の重みを感じた。別に太っているわけではない。
婦人には『月のもの』がある。その時は酷くだるいし、頭も痛い。処置も面倒だ。
それに自分には永久に関係ないのかも知れないが、『身籠もる』『子を産む』……そういった体の仕組み自体は、尊いのかも知れないが、やっかいに思える。

「そう、わかりません。ですが、殿方は婦人よりずっと軽々と動け、力もおありです。正直、それはとても羨ましく思いますわ」
リザヴェタはすぐ隣にいるチェルニャーク中尉の葉巻の匂いに気づいた。目の前に固い軍服の肩章の先が見える。
濃い金色の髪の太さも、少し細面の険しい頬も、軍人らしい口髭も、とにかく『男性』と感じられた。殿方の匂いは、何か違う、と思う。父の匂いと似ているが、父に対してとはまったく違う感情が起きる。

今のチェルニャーク中尉はリザヴェタのほうを向いて話しているが、もっと腰をかがめて顔を近づけて話して欲しい、手を繋いでみたいなどという気になるのだった。
チェルニャーク中尉は右手をさっと挙げた。大きな手の甲であった。指は節くれ立って長い。
この手で押さえつけられたら、逃げられないであろう。

街の一番、北の端にある、聖なる修道院から風が吹いてきて、ひねこびた針葉樹をゆらした。
チェルニャーク中尉は『若い婦人の考え』と馬鹿にせず、リザヴェタの言葉を真面目に聞いてくれた。
「なるほど、そのようにお考えになるご婦人もおいでなのですね。私は、美しく優しいご婦人たちは、身を飾るのも楽しいのであろうとしか思っておりませんでした」
「美しい方はそうでしょうけれど……」
「貴女は若くて美しくて、健康で、あのリャードフ長官の血を継いだ方ですよ! 度胸もおありだ。もっと若い時期を楽しんでください」

チェルニャーク中尉は挙げた右手で、一頭の馬の手綱を掴んだ。
「ヒローシャ」と声をかける。
「リザヴェタお嬢さんは馬にお乗りになったことがあるかね」
ヒローシャは黒い目を輝かせ、自分よりずいぶん背の高いチェルニャーク中尉とリザヴェタを見あげる。
「いいえ。ロシヤ民族の貴婦人は馬に乗らないのではありませんか?」

「君の民族はどうかね」
「……たいていの婦人は乗ります。
乗らないのは王族だけです。婦女もシタヌイ【* 民衆用のズボン。男性が穿く】のような物を穿いております。弓で狐や貂を獲ります。私の三人の姉も、祖母も曾祖母も母も叔母も従姉妹も……」
家族が恋しくなったのか、ヒローシャはかすかに涙ぐみそうになり、唇を引き締めた。リザヴェタは彼のその様子を素早く見て取る。

「ヒローシャ。わたくしがおまえの姉だと思っていいわ」
「え、あの……」ヒローシャはぽかんとしている。何を言われたかわからないようだった。
「そんな畏れ多いことをおっしゃらないでください……」

チェルニャーク中尉がヒローシャの背を乱暴に叩いた。
「ほら、勇ましいお嬢さんだ。
君の家族のご婦人たちが乗れるならば、リザヴェタ・フョードロヴナも乗れるだろう。
リザヴェタ・フョードロヴナ、貴女はご婦人の身では軽々と動けないとおっしゃった。なるほど確かに男性と女性では体のつくりが違う。それは仕方がないことです。
しかし他の物を利用すれば、軽々と動くこともできましょう。馬に乗ってみてはいかがですか」

「まあ、あの。……乗ってみたいわ」
何も考えていないのに言葉が出た。考えもしなかったことだった。
「よし。ヒローシャ君が馬を押さえていたまえ。しっかり押さえているのだぞ。君の大事なご主人に怪我などさせてはならん。リザヴェタ・フョードロヴナ、私が貴女を支えて、一緒に乗ります。その後、私は降りるので一人で少し乗ってみてください」

夜気は爽やかで、月も明るかった。
庭に入ってすぐの厩舎から、ヒローシャがいちばんおとなしい馬を引き出してくる。
黒毛の馬だ。いつもはヒローシャが御す馬車に乗っていたから単におとなしい老馬だと思っていたが、これが自分が乗るとなると、途轍もなく巨大に見えるのだった。まるで熊のようだった。

「押さえておりますから大丈夫でございます」
「わかったわ」

「やはり勇ましい。では怖がらないでください。私の言うとおりに」
「はい」
チェルニャーク中尉がさっと鐙を踏み、長い脚で軽々と馬にまたがった。
「貴女もまたがるのです」
「は、はい」
リザヴェタの、やや大柄な体に似合わぬ小さな手は既に中尉の大きな手に握られていた。

普段の、令嬢に対するときと違う、厳しい声が飛んだ。「(あぶみ)を踏んで!」
「はい!」
「体の重みを鐙にかけてまたがるのです!」
「わ、わかりました」
鐙を踏んだところで、どうして良いかわからない。よく父やヒローシャが乗るのを目にしているのだが、さして注意を払っていなかった。

掴んだ温かい手がリザヴェタの体をぐいと引っ張りあげた。「左脚を思い切りあげて、馬の背にまたがって! 私の手に寄りかかるだけでは駄目です。脚に力を入れて」

脚を広げ……淑女がこんなことをして良いのか見当もつかなかった。あまり動かない令嬢であるリザヴェタがスカートの下の左脚をあげると、めりめり言って、骨が外れるのではないかと思った。
広い鞍になんとかまたがった。

背後の中尉殿が、リザヴェタを馬に乗せたまま軽々と馬の背をまたぎ、飛び降りた。「しっかり手綱を握ってください」

「リザヴェタお嬢様……」

何故かヒローシャが感動している。リザヴェタも高揚していた。

一人で馬に乗っている!

視界が広く、思ったよりずっと高い位置にいた。リザヴェタはヒローシャも中尉も見下ろしていた。
だが怖くもある。馬の体は爆発しそうな力を秘めているようであった。それに細かく体を揺すっている。リザヴェタに乗られるのが嫌なのであろう。

「歩かせるには腹を軽く蹴るのですよ」
「え、え?」
中尉が笑った。「今日はここまでにしたほうが良いでしょう。これから、ヒローシャ君に教わって練習できますよ」
「はい……」
情けないことにこれだけでもう疲れきっていた。

右の鐙を踏み、左脚をふたたび上げて馬の背をまたぐ。馬の背骨にリザヴェタの華奢な靴とドレスの裾が引っかかった。
「危ない!」
鋭い声でチェルニャーク中尉が叫んだ。

馬が暴れ出すのをヒローシャが手綱を強く引いた。
華奢なサテンの靴が脱げた。馬の背を左から右へと乗り越え損ねて、支えている方の鐙も踏み外した。
一瞬ぞっとしたところを、チェルニャーク中尉が抱き留めた。

「ああ……しまった、……すみません。リザヴェタ」

――

それから騒ぎに気づいたらしき、父・フョードル・イヴァノヴィチ監獄長官が外に出てきた。
『馬に乗るなとは言わない。だがリザヴェタ、おまえの体力では無理だ』と告げられた。
チェルニャーク中尉とヒローシャは父にものすごく叱られていた。

……。

とても悔しかったし、残念だった。そのまえの、チェルニャーク中尉にがっしり支えられたときに思わず感じた、『ときめき』のようなものも消し飛んでしまった。

(でも、もしダニイルさん【* リザヴェタの元婚約者】がいなくて、あのころ、あの方に結婚を申し込まれていたら、わたくしは受けていたでしょうね。もう適齢期が終わりかけでしたし)

半サージェン向こうで夫が眠っている。

まさか自分が、口髭のない方(つまり武官でない人物。しかも外国かぶれの洒落者)と結婚するとは思わなかった。
リザヴェタは寝苦しい。眠るどころではない。

(チェルニャーク大佐は本当に逢引をしようというの? あの堅苦しく真面目な方が? まさかそのためにいらしたの?……まさか)

芯を絞ったランプの灯りが、夫の白いカフタンとそれに貼りついた背骨と肩甲骨の陰影を浮き上がらせる。中肉中背の夫の背幅はチェルニャーク大佐より狭い。

(裏切るわけにいかないわ)

枕元の時計はもうすぐ一時になろうとしている。大佐は応接間にいるのだろうか。

領主様が寝返りを打った。白い横顔がシルエットになり、ぼそりと呟く……「アクリーヌ」

リザヴェタは横たわったまま枕をきつく掴んだ。
……いくら約束だとはいえ……ヨーロッパロシアの大領主様(本当は中規模)でありながら、閨を共にする婦人が『二人しかいない』のは、禁欲的で慎ましい! のかも知れないけれど! 寝言は制御できないし! だからこそ聞きたい名前ではなかった。

領主様は寝苦しいのであろうか。
そのまままた転がってリザヴェタを枕のように抱いた。
驚いたことに夫は妻の名を呼んだ。「リーザ……」と呟く。「リーザ」

そして寝ながらもいつもの癖か、白絹の夜着のうえからリザヴェタの豊かな乳房にてのひらを置く。夫の左手が肩から指先まで、すべてリザヴェタの胸にかかってきて、心地よく重い。

リザヴェタは夫の背に腕をまわした。葉巻の匂いはしない。でも殿方の匂いはする。
汗と、何かよくわからない殿方の体の匂いは温かい匂いだと思う。抱きしめられると落ち着いた。髭のない頬に、みずからの頬をつける。

眠り込んだ夫に抱きしめられて幸福なはずなのに、それでもやはり眠れない。
リザヴェタの考えは、数少ない、単なる好意以上の感情を示してくれた殿方に行き着く。

(あの子……何だっけ、)

リザヴェタは考える。『あの子』と言っても、リザヴェタとほぼ同い年の青年貴族なのだが。

(……ええと、リャザンのコンスタンツィン・ダルハノフ様だわ。
爽やかで、子供のように情熱的で、初心な方だったわね。……詩人みたいに黒髪を伸ばしていてね。モスクワの貴族会館でたくさん踊って求婚された時は、とても楽しかった。求婚遊びみたいだったわ。
あんな弟がいれば良かったのに。ダルハノフ様が最初の弟で、末の弟がヒローシャなら楽しいでしょうね)

……チェルニャーク大佐にわずかな憧れや好意を抱いたことがあったとしても、五年前、リザヴェタのリャードフ家には、珍奇な来客があってすべてが変わった。
来客は、それなりに身分の高い紳士なのだが、駅長と駅の馭者たちに半ば気を失った状態で担ぎ込まれてきた。
馬をなくし、ぼろぼろの状態で自分で橇を引いて、歩いて駅までたどり着いたという。
回復して居間に現れた領主様、かつての『商人様』は、シベリヤ育ちのリザヴェタが想像もできないほど都会的で洗練された紳士に見えた。
パリかロンドンから来たと言われてもそのまま信じたであろう。

武官でない殿方は心身ともに虚弱で、せいぜい詩でも書くだけなのだと思っていた。詩心のないリザヴェタは、詩も小説も、とんでもなく馬鹿げた言葉遊びとしか考えられなかった。
リャードフ家に来たヨーロッパロシアの大領主様で、交易も行なっているという若い『商人様』は、確かに、リザヴェタの寄せ書きアルバムに、さらさらと英語の詩を書いてくれた。

しかし詩が書けるだけではない。実務の能力もあった。
決断も頭の回転も早いし、何か田舎令嬢のリザヴェタがまったく知らない洞察の力を持っているように思えた。
最初は怖かった。
実は潔癖で誠実な人物だとわかった時は(そう3日くらい信じていた……)、嬉しいとともに絶望したものである。この方はすぐに用事を済ませて、サンクト・ペテルブルクかモスクワに帰ってしまうであろう。
そして十年に一度くらい、(シベリヤに行ったことがあるな)と思い出すのだ。
父や監獄、町の修道院のことは覚えているかもしれないが、リザヴェタのことはすぐに忘れるであろう。

あの時、彼を一目見た途端、チェルニャーク大佐との淡い思い出もすべて砕け、どこかへ消滅してしまった。

夫はふたたび眠りながら、リーザ、と、とても優しい声で呟いた。嬉しかった。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……」
リザヴェタが小声で囁きかえすと、夫は言った。
「リーザ、……ルイーザ」

……今度は違う。「リーザ」ではなく、「ルイーザ」と、はっきり言った! 何それ、フランス語?

「……Ma précieuse Duchesse……(私の大切な公爵夫人)」

公爵夫人って、そんな偉い貴夫人が何で出て来るの!?
よく知らないけれど、フランスの貴婦人はみんな革命でギロチンにかけられたのではないの!【* さすがに全員ではない】

リザヴェタは泣きたくなる。それより、大きな枕を持ち上げ、全体重をかけて夫をばんばん殴りたかった。
もちろんそんなことはしない。どうも夫は長い夢でも見ているようだ。
「無理だ……コンスエロ……コンスエリート……」と夫は呟く。

コンスエロ?

……たいそう異国的な名前である。
(ずっと南の、カトリックの名前! ラテンのどこかの名前!!!) 【* たぶんスペイン辺り】

苛々してきた。
いっそ、チェルニャーク大佐のところに行こうかと思う。もう二時近い。まだ彼が応接室にいるかは疑問だけれど。

ルイーザと『私の大切な公爵夫人』とコンスエロ? ルイーザと公爵夫人は同一人物なの?
エヴゲーニイ・パヴロヴィチが一体何人……(何人では済まないのかしら)の婦人と褥を共にしたか、など考えたくない。一人一人から全部、夫の痕跡や記憶を消し去りたい……。

それなのにわたくしは夫一人しか知らないなんておかしいではないの、とリザヴェタは思う。あの、キノコ部長! アクリナだって、昔、婚約者がいたと言っていた。
『男の方はその方と領主様しか知りません……』
なんで死ぬのよ馬鹿婚約者!

夫は前に、本気なのか知らないけれど、一人なら別の男と寝てみろ、と言った。自分と比べてみろと。
なんなのその自信は!
なんだか体がうずいて、リザヴェタは身悶えした。下腹部から、体じゅうが熱い。
この人を枕で叩きまくって、起きたところを抱くように迫りたい。

「馬鹿……大嫌い」

……もしチェルニャーク大佐に抱かれたら、たぶん興奮するだろう……。

感触は忘れたが、十年前、落馬しそうになり、当時の中尉に抱き止められた時はしばらく動悸が止まらなかった。

でもチェルニャーク大佐が自分に特別な感情を抱いているとは思えない。
それならば率直におっしゃる方ではないの?
リザヴェタは考える。

うまく表現できないのだが、 マクシム・イリイチのリザヴェタに対する態度は……大佐のお心は二重硝子の向こうにでも住んでいて、窓越しに『か弱いご婦人』を見つけたから、紳士で武官であり、また、その婦人の父に恩を受けた者として、義務と礼節から親切にしている、そんな感じがするのだ。
本当には何を考えているのかわからない。

だが、リザヴェタの腰は勝手に動く。絹に刺繍をした上掛けの下で、眠る夫にしがみついた。
「……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、助けてよ」
大佐に触れてみたかった。どういうふうに『あの行為』をするのか知りたい。

夫とは匂いも違うだろう。接吻するときには口髭に触れるに違いない。
夫よりずいぶん力があるだろう。サーベルで胸元からドレスを真っ二つに切られてみたかった。
……殿方の、あのものの形や大きさというのは違うのかしら……。
よく農奴たちが冗談にしていたわよね。
違う殿方との閨の行為というのは、どう違うのだろうか? 夫は『特殊な趣味の持ち主』らしいから、何かまったく、することが違うのだろうか。

リザヴェタは好奇心が強い。おまけに夫によると『愛の行為への欲望が強い』らしい。
そんなことがわかるのならば、もっと抱いて欲しかった。だが多分リザヴェタの胸と腰の豊かな、堂々とした体は、それほど夫の好みではないのだろう。本当はあの人のようなすんなりした、なよやかな体型がお好きなのだ。

眠る夫は枕のようにしっかりリザヴェタを抱きしめ、とても愛おしく悲しそうに、呟いた。
「シロちゃん……」
……フォマ・ミュリコフに買ってあげた子山羊の名前だ。つい、くすりと笑ってしまう。

一体何を考えて眠っているのか、寝ながらシロちゃんのことを考えている夫は、やはり慕わしかった。

(今すぐ起きて、わたくしを貴男の体力の限界まで乱暴に攻め立てて、体の奥深くの快感にまで連れて行って、明日動けないくらいしてくれればもっと良いのに……)
と、リザヴェタは無茶なことを考え、また寝返りを打つ。

――

夫の寝言が止まり、ぐっすり寝始めた。
リザヴェタはろくに眠れず、朝方に少しうとうとしただけだ。

結局、応接室には行かなかった。

彼女は好奇心も強いが自制心も強い。
領主夫人のリザヴェタが、姦通の可能性のある呼び出しに応じられるわけがない。
もちろん大佐の用件はまったく違うかもしれない。

(だったら昼間お話になれば良いではないの)

夫はともかく使用人の手前、不貞を疑われるような場所に行くわけにはいかなかった。

—-

五月に入り、夜はすぐに明ける。

朝六時ごろ、居間の食卓で、何事もなかったように三人で朝食を食べた。領主夫妻と来客のチェルニャーク大佐だ。
大佐は今日は軍服ではなく、普通の紳士の、やや古めかしく野暮ったい服装であった。大佐は昨夜の呼び出しについて何も言わなかった。
イアは具合が悪いと言って自分の小屋に引っ込んでいたし、大人の客が来る時は、子供たちは乳母のヴィラが預かっている。

リザヴェタはとにかく眠かった。

茄子のジャムと山羊のチーズのかけら、それに最近フランスから入って流行し始めているマヨネーズのごたまぜに、黒パンと塩というメニューであるる。
チェルニャーク大佐は目が据わり、隈ができていた。さすがに武官だけあって、少々の寝不足程度では平気で動けるらしい。

朝食を食べ終え、紅茶を飲んでいるところに、ヒローシャがチェルニャーク大佐を迎えに来た。
大佐はヒローシャを見つけ、気さくに声をかける。

「おはよう、おお、ヒローシャか。驚いたぞ。立派になったな」

朝の光の当たる慣れ親しんだ食卓で、馬鹿でふざけた領主様の隣にいると、堅苦しいチェルニャーク大佐の気さくさはわざわざ演じているように見えた。

「高潔な大佐様、貴男様のおかげでもあります」
「すっかり大人ではないか。結婚したのかね」
「いえ、私は……、独り身を通して、生涯、領主様とリザヴェタ奥様に仕える覚悟でございます」
領主様は黙って食事をしていたが、この手の『覚悟の告白』にうんざりしたらしい。

「ああ、ヒローシャ君。大佐殿と違って、君の職務は命を投げ出すようなものではない。まったく、ない。
別に独り身でなくとも私や妻に仕えることはできるぞ。おまえの同僚のイゴールだって結婚する。
テレージンのように、ミハイルやイヴァンに仕える子供を作って、しっかり仕込んでくれたほうが助かるのだがね。
……まあ、テレージン家の馬鹿息子は馬鹿になったからおまえの息子も馬鹿になるかもしれないが」
「途中から何をおっしゃっているのかわかりませんわ」

言われたヒローシャ自身は、食卓の横に静かに控えながら、いつものように領主様の言葉に混乱しつつも、『そういう時は無視をする』という方法を発見したらしい。

「あの、大切な領主様。お茶を召し上がられたら、大佐殿を教会にご案内いたします」
「頼む。……大佐殿、農奴でいっぱいのむさ苦しい教会ですが、お許し願いたい」
「領主殿、リザヴェタ・フョードロヴナ。あなた方もご一緒に参列ください」

「え……」
リザヴェタは思わず大佐と領主様の顔をうかがう。
……領主様はパンに茄子のジャムを塗って薬味のディルをかけたところだった。
領主様は、だいぶん伸びて額を覆い始めた前髪を鬱陶しそうにかきあげた。感情は消している。
「チェルニャーク大佐殿。私は不信心者です。それに午前中は用がありましてね。女中頭が仕事中に怪我をしたので見舞いと労いに行かないとなりません」
「女中頭の怪我はひどいのですか」
「大したことはないそうです。かすり傷です」

「領主殿、なるほど、女中頭のかすり傷のほうが貴男の魂の救いより重大なわけですね」
「ええ。私はですね、近所の地主貴族からは魔女狩り研究家として有名なようです」
「……魔女狩り研究家?」
何を言っているのか理解できないようだった。まあ、普通そうだ。
領主様は落ち着いて言った。
「魔女狩り研究家でかつ、良き領主を目指す私は、神より女中頭のほうが当然、はるかに大切なのですよ。よく働いてくれる婦人ですしね」

明らかにこの紳士二人は何か微妙な敵意を持っているらしい。
チェルニャーク大佐はやはり、あまり寝ていないようだ。苛立たしげなマクシム・イリイチなど初めて見た。
領主様も隠しているが、リザヴェタには不愉快そうなのがわかる。領主になるべく育てられた彼は、他人に指図されるのが嫌いなのだ。

大佐が聞いた。
「リザヴェタ・フョードロヴナ、貴女はいかがなさいます」
「そうですわね。ええ、お供いたします」
領主様が聞いた。「昼餐はどうなさいますか」
「少し出てまいりますので、結構です。領主殿、ひとつお願いがあるのですが」
「私にできることならば、何でもお手伝いいたしましょう」
二人とも、なるべくなごやかに話そうとしているようだ。だが到底、イアの『花婿紹介装置』どころではない。

チェルニャーク大佐が言う。麻のナプキンで、口髭についた茄子のジャムを拭っている。
「以前の部下がスモレンスクに住んでおります。できれば今夕、彼に夕食と寝室をご提供願えませんか」
「もちろん構いません。おいでになるのはその方、お一人ですか?」
もうその人物が独身かどうかには興味がないらしい。
「ええ。ですが従者くらいは連れてくるかもしれません」
領主様は素っ気なく言う。「わかりました。では夕食時に」

—-

教会は領地の東南の端にある。つまり西北にある領主館からもっとも遠い場所だ。
ヒローシャの馭す馬車で、教会に向かう予定だ。玄関間を出た前庭で、ヒローシャが来るのを待つ。
チェルニャーク大佐はうつむき、リザヴェタに声も掛けない。あまり寝ていないためか昨日より老けて見える。

(昨晩、わたくしが行かなかったから怒っているの?)

ヒローシャが回してきた二頭立ての馬車に乗る。

「チェルニャーク大佐様、馬車で失礼します。貴男様はご自分の愛馬で行かれるほうがお好みでございましょう」
ヒローシャが馬車籠の扉を閉めながら言った。
「いや、何でも構わない」
「リザヴェタ奥様はたいへん乗馬がお上手になりました。普段でしたら、領地の端から端まで平気でお一人で……」

「リザヴェタ・フョードロヴナ。貴女は乗馬ができるのですね。さすがリャードフ長官の娘御ですね」
ヒローシャが怪訝な顔をした。おそらくリザヴェタ自身も同じような表情をしているであろう。

「あ、大佐様。では、籠を閉めさせていただきます」
馬車籠の扉が閉められた。

覚えていないのだわ、とリザヴェタは気づく。
初めてわたくしが馬に乗る機会を作ってくれたのはマクシム・イリイチなのに!
馬車が動きだすと、正面を見つめたまま、小声で大佐が言う。

「リザヴェタ・フョードロヴナ。昨晩は失礼しました。貴女は今や、広大な土地を持つ堂々たる領主夫人です。
なのに私は、まるで、シベリヤのリャードフ長官殿の屋敷にいるつもりになっておりました。
貴女はいつも、我々に献身的に給仕をしてくださった。
人気者のお嬢さんでした。その時の気安さでもって貴女をお呼びしてしまいました」

リザヴェタは少し考える。つまりマクシム・イリイチはあのころ、リザヴェタの提案した『作戦』を、もうまったく覚えていない。……ただの上官の娘で、気安い給仕係だとしか考えていなかったわけだ。

馬車は、領地の奥に入る三叉路に差し掛かった。農奴たちの家々の前は教会に向かう敬虔な農奴や、昨晩飲みすぎて外で倒れている農奴で大混乱であろう。馬車で通るのは難しい。
ヒローシャは馬に軽く鞭を当て、一番東側の道に入る。水車小屋をまわり、小さな水路沿いに教会に向かう静かな道だ。

大佐がヒローシャに声をかけた。
「ヒローシャ。どこか人の来ないところで停めてくれないか。リザヴェタ・フョードロヴナに話したいことがある」

ヒローシャは馬車を放牧地に乗り入れる。今日は日曜日で、農作業も休みの日だ。
「私は馬車で待っております」

ヒローシャは耳が良い。どうも大佐がリザヴェタに『言い寄る』ことはなさそうだが、何があっても呼べばヒローシャが来てくれると思うと心強かった。
大佐に礼儀正しい程度に、軽く手を取られた。わずかに凸凹のある草原を歩いて行く。

「何のお話ですの。そちらに農奴たちが休むベンチがありますわ」
リザヴェタは欧州唐檜の木陰に間に合わせに作られた、丸太のベンチを指さす。
リザヴェタはハンカチを敷いてベンチに腰掛けた。

「貴女は幸せですか。リザヴェタ・フョードロヴナ」
と、隣に座ったチェルニャーク大佐がいきなり聞くのだった。
なんだか、大佐の『あら』が見えてきた気がする。うまく言えないけれど……。

「……どうしてそんなことをお尋ねになりますの」

ひざまずくこともせずに、ベンチに腰掛けたまま、
「もしよろしかったら、私と結婚いたしませんか」
と、チェルニャーク大佐は言った。

次の回に続きます。


アイキャッチ画像
Petr Ovralov