第17話 青髭公 3『花嫁たち』4●

教会に向かう途中、チェルニャーク大佐が二人だけで話したいと言いだします。
思いがけないことを言われたリザヴェタ奥様は、激怒します。

●わりとしつこい性描写があります。

5月6日,1831年

聞き返すと、チェルニャーク大佐はもう一度言う。
「リザヴェタ・フョードロヴナ。私と結婚いたしませんか」
「マクシム・イリイチ。貴男は一生お一人でいると昨日おっしゃったではありませんか」
「はい。ですが、貴女は恩ある上官殿の娘御です。リャードフ家にお邪魔して明るく無邪気な貴女に……
(明るく無邪気?)
お会いするのが楽しみでした……不幸になっていただきたくないのです」

「あの、わたくし結婚しておりますわ」
「ご夫君の領主殿はあまり良い人物ではない……」
まあそうだけど、とリザヴェタは思う。
「人格者ではありませんけれど、領主としては頑張っておいでです」
「確かに広くよく耕された土地ですね」
「マクシム・イリイチ、父に何か頼まれたんですの?」

「いいえ、モスクワに赴任するならば、そのうち訪ねてみてくれ、とは言われましたが、それ以上のことは特に申されませんでした」
「では、何故……」
結婚を申し込むのなら、わたくしにひざまずいて愛の告白をして、生涯をともにするよう請い願うのが筋ではないの!
コンスタンツィン・ダルハノフ様は完璧にやってのけたし、あの馬鹿夫だってひざまずくくらいはしたわよ!

しかしチェルニャーク大佐はベンチに座り込んだきり、立ち上がる気配もない。
「もし、領主殿に何か不測の事態があったら、貴女は財産を守るために書類の山と格闘し、みすみすこの土地を失うことになるでしょう。坊ちゃん方にも残せず、……」

「え? ……あ、あの、つまり書類の整理ができないために、わたくしが相続を逃すとおっしゃっりたいのですか」
「ええ、あれはご婦人には荷が重い。役人の文官どもはすぐに賄賂を要求します。
私と結婚すれば、俸給がきちんと支払われます。こちらの領地に比べればまったく大したことはありませんが、ささやかな貯えも年金もあります。
私が戦死したところで、貴女が衣食住に事欠くようなことはありません。何ならヒローシャ君も雇っても良い」
「え……と、主人に万一のことがあったら、書類の山がわたくしには(さば)けないとおっしゃっているのですね。で、無一文で放り出されると。……代わりに貴男と結婚すれば、貴男の財産を継げる、と」
「はい。部下に、すべて手続きをやってさしあげるように命じています。私は貧しい育ちでしたので、その辛さは身に染みております」

それは貧しさは辛いだろうけれど……。
リザヴェタは呆然とするしかない。大佐の話は、何が前提になっているのか、さっぱりわからない。
「主人に万一のことがあっても、……もちろん領地経営は大変になりますし、農奴の生活も苦しくなるでしょう。
でもわたくしは、贅沢はできなくとも暮らしには困りません。それに書類だって、わたくしも文字くらい読めますし、家令のテレージンは書類仕事も得意です。
主人とて遺言も書いてくれておりますし、他にも相談に乗ってくださる信用のできる方だって……、かかりつけのドイツかぶれの医師をはじめいくらでもおりますわ」

牧草地に放された牛や馬が遠くに見える。白詰草が咲き、さらさら揺れていた。
フォマ・ミュリコフらしき人影が、白い山羊と遊んでいるのが見えた。
フォマはほんとうに仕事熱心ね、とリザヴェタは思う。フォマみたいな農奴をほかにやって不幸にしたくないわ。
そして『シロちゃん』と寝言で呟く夫がたいそう愛おしくなってきた。
と、同時に、リザヴェタは大佐が腹立たしい。
なんで、いったいなんで、あの人が死ぬ話なんかしているわけ!
我が家の財産でも狙っているの? さすがにそんな人ではないと思うけれど。

「……それに、マクシム・イリイチ。主人はまだ若いし、別に死ぬ予定なんか、まったく! ぜんぜん! ありません」

「あの男はご婦人を籠絡(ろうらく)する手管に長けている。婦人の身分も年齢も問わない。
リャードフ家の料理女を愛人にして貴女と一緒に連れてきたそうではありませんか。彼女のことはわずかに覚えています。
『飯炊き婆さん』と呼ばれていた、中年の婦人でしたね。若いころはきれいだったようだが。……いったい何が目的なのか……『いかもの喰い』という噂も……」

「マクシム・イリイチ! うちのアクリナさんのことまで悪く言わないでちょうだい!」
リザヴェタは思わず立ち上がって大佐を怒鳴りつけていた。
「あの人はただの料理女ではありません。
文字を覚えて、一からキノコの養殖を始めました。
リャザンの領主様ご一家があの人の養殖したキノコの瓶詰めを気に入って、大量に買ってくださっているの。他にも事業を始めてくれるかもしれないわ! 我が家の家計を潤してくれていますのよ!」
リザヴェタは立ち上がり、腹立ち紛れに華奢な靴で地面を蹴った。ヒローシャを呼ぶ。

「ヒローシャ! ハロルドを連れてきて!」
ハロルドは馬の名前だ。
遠くからヒローシャの叫ぶ声がする。「はい、リザヴェタ奥様」
間も無く、ヒローシャが手綱だけをつけた馬に乗ってくる。裸馬からひらりと飛び降りた。

「あの、鐙がございませんが……」
「支えてもらえる?」
「わかりました」
ヒローシャは腰を落とし、両手を斜めに突き出し、体の前で組んだ。
「ごめんなさいね」
ヒローシャの組んだ手に、リザヴェタは小さな足を乗せ、絹のスカートを翻し、猛々しい牡馬のハロルドに飛び乗った。鎧も鞍もないが、近いから平気だ。
腹を蹴り、馬を走らせる。振り向きざまにヒローシャに言う。
「ヒローシャ、大佐様を教会に連れて行って差し上げて!」
「はい、大切なリザヴェタ奥様」
ヒローシャはもちろん驚きもしない。が、走り去るリザヴェタとハロルドを、チェルニャーク大佐が呆気に取られて見送っていた。

—-

領主館に戻ると、玄関間のわきの小さな扉から領主様が出てきた。
この扉は、一階の洗濯場や倉庫、使用人たちの部屋に繋がっている。
「おや、リーザ。大佐殿と教会に行ったのではありませんか」
慣れた夫だが、やはり今でも美男に見える。ルイーザと公爵夫人とコンスエロのことはひとまず忘れよう。
「だってわたくしも不信心者ですもの! ヒローシャが送って差し上げています」
「ああ、そうなのですか。私はエレナに会って来ました。確かに大したことはないですが、イアには困ったものです」
夫はごく自然にリザヴェタの手を取り、弄ぶようにしながら、自分の手と一緒に背中にまわす。

領主夫妻はその状態で玄関間から階段を登っていく。
「エレナにチェルニャーク大佐殿の部下が来られると言ったら、準備をすると張り切っていましたよ。……リーザ」
夫はじっとリザヴェタの顔を見て、わずかに眉をひそめる。
「なんだかお疲れで、眠そうですね。今日の来客の準備はエレナに任せて、貴女はひと休みなさったらいかがです?」

(……なんでこんなに優しいのよ……。ちゃんとわたくしの体調にまで、気を配って……)
チェルニャーク大佐と奇妙な会話を交わした後なので、余計にそう思った。
そういえば、領主様がリザヴェタの体調や機嫌にさりげなく気づくのはいつものことだ。

「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。貴男は今日はどうなさいますの」
「今日は休みです。英国から古書のカタログが届いていますから、それでも見ようかと」
「書斎に籠られるおつもり?」
歩きながら居間に入る。小間使いのダリヤーナが頭を下げた。料理女のオクサーナも台所から微笑みながら、礼をする。すっかりリザヴェタの家だ。ここを捨てて、なんでチェルニャーク大佐と結婚しなければならないの!
『キノコ部長』の家の見張りから戻ってきたらしきクズマが大きな瓶を抱えている。
「アクリナ様から、今年の初物のキノコだそうです。是非、領主様とリザヴェタ奥様に召し上がっていただきたいとのことです!」
「嬉しいわ。お礼を言っておいてね」
今は彼女が夫の恋人だと言うことは忘れていられた。ただの我が家の大事な人とだけ思えた。

領主様が言う。「私が書斎に籠っては嫌なのですか?」
「ええ。寝室まで送ってください」

—-

主寝室に入ると、領主様はすぐさま鍵をかけた。鍵をフロックの隠しにしまい、リザヴェタを壁に押しつける。スッと伸びた背中に腕を回し、そっと接吻した。
「……な、なんでわかりますの」
「貴女が私にもたれたがっているように見えたので。なんだか、とろとろととろけそうに見えます」
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、貴男はもう、……」
「体が熱いですよ。昨夜よく眠れなかったのですか」
「ええ」
「愛しています、私のリーザ」
「嘘ばかりおっしゃらないで……」
リーザの目の位置は夫の唇のあたりだ。少し厚みのある唇が、近づいてきて睫毛に触れる。

「……大佐殿に口説かれたのですか」
「結婚を申し込まれました」
「まさか!」
さすがに領主様でも本気で驚いている。リザヴェタは優しく言いそえる。「冗談です」
「あ、ああ、そうですか。良かった……」
「良かったって。ほんとうに求婚されたら受けると思っているんですの?」
「いえ、ただ、大佐殿はなんだか私が気に食わないらしい。貴女を狙っておられるのかと……」
「貴男が堅苦しい殿方に嫌われる方だというだけではありませんの」

「リーザ、」
背中に回された手が、ドレスの上からゆっくり背骨をなぞり始めた。教会に行くつもりであったから、濃い群青の地味なドレスだ。でも袖は膨らみ、胸元にはたくさんの襞が、縦に綺麗に折りたたまれ上半身からスカートにまで伸びている。リザヴェタの豊かな胸と腰、細い胴をよく引き立てている。
夫の手が背中の釦を外していく。ドレスを脱がしかけのまま、シュミーズがまくりあげられ、敏感になった裸の尻に触れた。さらさらしたてのひらがリザヴェタの素肌をなぞっていく。
「あ、あの……昼間から」

「え? たいそう抱かれたくて仕方がないという顔をなさっています。私の体力がどこまで続くかわかりませんが」
「そんなの顔に出るんですの!」
「はい。目が潤んで……私に抱かれたいと。他の男など駄目だと」
「ど、どうしてわかるんですの」

「いえ、昨夜寝ていたら、貴女に、なんだかあちこち触られたような……珍しいから、そうなのかと」
「いや! なんでわかるの! 寝てらしたではありませんか」
「ずいぶんあちこち触れてましたね。立ち上がったものまで」
「だ、だって……不思議なのですもの。寝ておられるのに」
「リーザ、貴女は探究心が強い」
「あ、あの、殿方のあのものが皆違うって本当ですの……?」
わたくしは何を聞いているのかしら、と思うが、夫はこういう質問に平気で答える。もちろんリザヴェタを淫らだと非難したりしない。

「はい。立ち上がった状態はあまり知りませんが、
(あまり……? そういうことを知る機会が何であるのかしら)
公衆浴場などで見かけるとずいぶん違いました。大人でもミハイル(3歳)とさして変わらないような者もいますし……」
夫はゆっくりドレスの袖を抜いている。
「そうなんですの? それでは孕ませるお力が」
「どうなのでしょうね。ただそれはそれで楽しむ方法はあるようです。……貴女の夫のものは悪くありません。奥方の秘密の洞窟が、力強くよく締めつけるように」
「え……」
領主様はリザヴェタのドレスから袖を両方抜き、一気にドレスを引き摺り下ろした。

「リーザ」いつのまにかコルセットの紐も解いている。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。な、なんて手早いんですの」
胸がむき出しになり乳房の先が空気に触れる。夫の手はすでにドロワーズの中に潜り込んでいた。
「あの大佐殿より私のほうが絶対に良いです」

「なんでそんなことがわかりますの……」
「あの人は商売女しか知らないのではないかな。一方的にご婦人に奉仕されることしか知らないのですよ。まあ、初恋くらいはあったかもしれませんが」
裸の尻が冷たい漆喰の壁に押しつけられ、窓から差し込んだ昼の光が豊かな乳房の突起を照らす。
ドロワーズもすでに足元に降ろされていた。
「膠を塗ったような森が、春の光に輝いていますね」
夫がふたたび接吻する。リザヴェタが弱い、上唇の裏を舐める。夫の頑丈な指が粘土をこねるようにリザヴェタの裸体を撫でていく。

「あ……こ、こんな昼間から」
「ではいっしょに古書のカタログを見ましょう」
「いや!」熱く痺れる体の中心の穴に優しく指が入ってきて、中を探っている。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……寝台へ」
「無理です」
「無理って……」
リザヴェタの足首にはどこから出してきたのか絹のローブの帯が巻かれ、片足は扉のノブに、もう片足は柱に結びつけられ半ば開いた状態で固定されているのだった。

「なんで! いつの間に縛ったの!? 貴男の特殊な趣味なんですの!」
「あ……リーザ、貴女は私に縛られるのがお好きでしょう」
「そんなことはありません! もう、馬鹿、やめて……ふつうにしてください!」
「これがふつうです」
「嘘です!」

金メッキをした細い鎖を取り出し、豊かで重い乳房に巻きつけるのだった。鎖の両端は、リザヴェタの両の手首をしっかり結びつけている。リザヴェタはつい叫んだ。「な、なんでそんなものを持ってらっしゃるの!」

「リーザ、貴女には金の鎖が似合いそうだから、作らせました」
「も、もう……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。特殊な趣味って……ああ……もう……また、ご自分は服を着たままで、わ、わたくしだけこんな姿を昼の日光に晒して……」
「他の誰にも見えませんよ。それに案の定、貴女は金の鎖が似合います」
「なんてひどい方なのよ! みんなが教会で祈っている時間に!」
「怒る貴女は可愛い。リーザ」
領主様はリザヴェタの体をぐちゃぐちゃかき回しながら……、ああ、いや、音がはっきり聞こえる!
頰が熱い。動けないから逃げ出すこともできない。「もういや……泣きたいですわ」
「ええ? 貴女はこういうのがお好きでしょう」
領主様はリザヴェタの内腿を何度もそっとなで上げる。
「なにかもっと貴女が恥ずかしがって怒りつつ淫らになることをやってみたいのですが、思いつきませんか?」と領主様は聞くのだった。

「ご自分で考えてください!」
「リーザ、貴女はほんとうに縛られるのがお好きですね」
「あ、貴男が勝手に縛っているのではありませんか!」
金の鎖が揺すられ、乳房の突起を撫でる。「寝台へ連れて行ってください。お願い……あ、あああちょっと! な、何を入れたの!」
冷たいものが体の中に滑り込んできた。
「金の鎖を作らせた時、ついでに長くて細い棒を。『張り型』ほど太くないし、ご自分でなさる時に使っていただこうと考えました。
私からの贈り物です。貴女と私のイニシャルも彫らせました。ほんとうは金の棒が良かったのですが、経費削減でメッキです」

「も、もう何を考えているの! 特殊な趣味って……」
「敬虔な正教徒の教えどおりにしても、つまらないではありませんか」
金メッキの棒が、リザヴェタの秘密の洞窟を開き、中を探っていく。領主様は左手で妻の体を抱きしめながらまぶたや耳に接吻する。
「あ、……」
思わず溜息が漏れた。妙に感じる部分だ。二度目の快楽に連れて行ってもらう時、領主様はよく、長い指や殿方のものでそこをこすった。
「い……いや。ん……、んん。お願い……寝台に連れて行って! ……あ、入れるなら、貴男のあのものを」

「午後はゆっくり寝台でお眠りください。それまでは……貴女のこの姿はほんとうに似合うな」
『特殊な趣味』の領主様は、一歩後ろに下がって、裸形のリザヴェタと、巻きつけた金の鎖を上から下まで見る。
「画家に、この姿の絵を描かせたい。女の画家なら恥ずかしくないでしょう?」

「や、やめて!」
金の棒がひねられ、敏感な部分を刺激し、不意に抜かれた。領主様がリザヴェタをしっかり抱きしめていた。
領主様はフロックとウエストコートを脱ぎ、麻のシャツとズボンという姿だったが、ズボンをシャツに留めるスタッズを外したらしい。冷たく細い棒の代わりに、夫の温かい、硬いものがゆっくりと入ってきた。すぐ耳元で夫の荒い呼吸が聞こえる。「……体力があまり残っていなくて……」

(そういえば『キノコ部長』の家に行っていたのは金曜だったかしら)

「この前、抱きしめてくださるだけで良いと……申しあげたではありませんか。……馬鹿……」
十分濡れた洞窟の中を、夫のものがゆっくりと押し広げていく。気持ちが良かった。

—-

日曜の午後は、夫婦で寝台の上でだらしなく過ごした。こんなのは結婚して初めてかもしれない。エヴゲーニイ・パヴロヴィチは半裸で寝そべりながら英国の書店のカタログをめくっていたし、リザヴェタはただぼんやりしていた。何かせずにはいられない性質なのに。
時々、口づけをした。

リザヴェタはいつの間にか眠りに落ち、起きると夕方である。六時過ぎであろうか。日が暮れるのは九時ごろなのだが。
正装した夫が寝台の傍に立っていた。
「もうすぐチェルニャーク大佐殿と部下の方が来られるでしょう。支度をお願いします」

リザヴェタは自分の居間まで水を運ばせ、体を拭いてから、夜のドレスを着る。
化粧台に写る、満足した自分は自分なりには美しいと思った。
金色の、襞がたっぷり入ったロマンティックドレスを着て、アクセサリーをつけ終えたところに小間使いが呼びに来た。
「チェルニャーク大佐とお連れのズーリン少佐がお見えです」

主寝室の隣の妻の居間から、台所の脇に出る。女中頭のエレナ・ネクルィロヴァが台所の横から現れた。
「エレナ、もう大丈夫なの」
「はい。奥様、大したことはありません。ご迷惑をおかけしました」
エレナは怪我を隠すように、手の甲までの長さがあるドレスを着ている。
「イューカの馬鹿が悪いのよ」
「あたくしは気にしておりませんわ。ですが、領主様のお話ですと、イア様と大佐様とのご結婚はあり得ないとのことで……」
「いいのよ。大佐もなんだか変な人だったから」
二人で待合間まで行く。領主様と数人の小間使いが出迎えに立っていた。イアはさぼるらしい。

ちょうど、テレージンに先導されて、チェルニャーク大佐と連れのズーリン少佐が拍車を鳴らしながら階段をあがってきた。
金髪で厳しいチェルニャーク大佐は、ピシリとした軍服姿だ。その後を、やはり軍服姿で、もう少し歳下の、小太りの士官がやってくる。
「領主殿、こちらがズーリン少佐です。私がモスクワの士官学校にいたころ……」

モスクワ? 父の後輩でサンクト=ペテルブルクの士官学校ではないの?

一瞬、リザヴェタは思う。
チェルニャーク大佐がリザヴェタの方を向き、驚いた表情に変わる。
見ているのはリザヴェタではなく、エレナだ。
エレナが言った。「……チェルニャーク大佐は貴男様でいらしたのですか! よくおいでのお名前でございますから」
「君は、ああ……オルガさんの」
領主様がなんとも言えない嫌な顔をした。
エレナ・ネクルィロヴァは領主様の前の夫人、オルガ様の召使いで、輿入れの時、一緒にЯ家に来た。オルガ様が亡くなった後もそのままおり、今ではЯ家に忠誠を誓っている。
「はい。オルガ様の侍女でした。……貴男様はよく、男爵家に……遊びにいらしておられました。お兄様のウラジーミル様の親友で……」

領主様は一瞬のうちに色々悟ったらしい。
「チェルニャーク大佐殿、貴男が私に何か不愉快な感情をお持ちのように見えました。あれは、私の前の妻オルガ・ペトロヴナのことですか」
「オルガ殿のこともあるが、兄のウラジーミル・ペトロヴィチとは同窓です。彼はネルチンスクで事故死した」
「そうでしたね。お気の毒に」
「白々しい。ウラジーミルは勇敢で有能だった。ネルチンスクのような辺境に飛ばされるはずなどないし、ましてや不注意で事故死するようなたるんだ男ではない!」
チェルニャーク大佐は割れ鐘のような声で叫んだ。

「妹君のオルガ・ペトロヴナはたいそう可憐で美しい方であった。
私が求婚した時には結婚など早いとおっしゃった。艶やかな黒い髪で……、ほんとうに高貴で美しい方だった!
それなのに領主殿、貴男は彼女をあっさり死なせ、今度はシベリヤの田舎令嬢のリザヴェタ・フョードロヴナと結婚した。自分より劣った出自の妻は楽なのでしょう。そして、のうのうと暮らしている!」
「……我が妻を侮辱しないでいただきたい」
苛立たしげに領主様が答えた。「オルガ・ペトロヴナは確かにあまり幸せにできなかった。忸怩(じくじ)たるものがある。
だが、それはいまの我が妻リザヴェタとはまったく関係ない。私はこの生意気で賢く意地悪で、夫を平気で『馬鹿』呼ばわりする妻がたいそう気に入っている」
「愛人がいるのに?」
「妻は妻、恋人は恋人だ。二人とも愛している」 と、領主様は平気で答えるのだった。

チェルニャーク大佐は言った。「今日、ここにズーリン少佐を連れて来たのは介添人を頼むため」
小太りのズーリン少佐が一礼する。
「我が親友ウラジーミル、それに我が片恋の婦人オルガ・ペトロヴナのために、領主殿、貴殿に決闘を申し込む。明朝、六時に……」
「オルガはともかく、義兄上が私になんの関係がある」
「貴殿はウラジーミルを殺したのではないか」
「ネルチンスクにいる士官を? ネルチンスクなど行ったこともない」
「金があればなんとでもできよう!」

エレナが叫んだ。
「チェルニャーク大佐様、どうぞお許しくださいまし。
オルガ様はお気の毒でしたけれど、ご自分で神に背く行い【* 自殺】をなさったのです。
そのとき領主様はお仕事で西ヨーロッパに買いつけに行っている最中でございました!」

領主様はピリピリしている。腕を後ろにまわし、腰で組んで、感情を出さないようにしている。
リザヴェタはやっと、今朝チェルニャーク大佐に結婚を申し込まれた理由を理解した。
あれは、夫を決闘で殺すことが前提なのだ。

「決闘? ふざけないでください。そんな馬鹿なことはしません。私はこの領地を守る義務がある。だいたいオルガもウラジーミル義兄上も気の毒だが、なぜ私に決闘などと言うのです」
チェルニャーク大佐は意外そうにしている。決闘を断られるなど考えてもみなかったらしい。
無理もない。
貴族は名誉を非常に重んじた。名誉をかけて行う決闘を断るなどあり得ない。
「だいたい、貴男は武官だ。私は領主で、単に農地経営をもっぱら行う。武器を使って勝てるわけがない。……語学対決ならやっても良い」

「領主殿、貴殿は正式に申し込まれた決闘からすごすごと逃げ出すつもりか。貴殿の名誉は地にまみれるであろう!」
使用人たちも緊張している。小間使いが倒れそうになっていた。

家令のテレージンが口を出す。「……恐れながら、大佐様」
低い声で遠慮がちだが、とうとうと語る。
「現在、我が領主が命を失うわけにはまいりません。
我が主人の領内の農奴659人、家内奴隷、使用人、出入り業者、それに領主のご家族およそ700人以上の暮らしがかかっているのです。なにとぞ慈悲をお垂れください」

テレージンが床の寄せ木細工に膝をつく。
「テレージン、家令様がそんなことをしなくて良い!」
領主様が叫ぶのを無視して、テレージンは跪き、チェルニャーク大佐の足元に額を床に打ちつけた。
清国人のような、農奴が領主にするような礼だ。タタール人に支配された時の習慣が残っているのだ。

はっとしたように、女中頭のエレナも真似をする。
「オルガ・ペトロヴナの侍女よ、おまえはあの方をたいそう大事にしていたではないか」
「今はЯ家に尽くし、領主様とリザヴェタ奥様のために働いております」

リザヴェタは腹が立ってきた。……エレナに怒鳴る。
「叩頭なんてしないで! それよりエレナ、ヒローシャを呼んできて」
「は、はい」
「エレナでなくて良い」領主様は玄関番の少年に命じる。「おまえに頼む」
少年は頷き、駆け出ていく。

チェルニャーク大佐が続ける。
「家令殿、そなたは書類仕事も得意だと言う。
領主殿亡き後、跡継ぎたちを盛り立ててそなたが領地を切り盛りすれば良い」
テレージンは頭をあげた。丁重だが、わずかに挑むような口調であった。
「……恐れながら、我が(あるじ)にしかできない事柄があるのです。
主は英国商人と直接穀物の取引をします。あちらの商人にも知人が多い。高く売って、農奴の地代と人頭税を支払い、それゆえ、我が主人の領内は比較的豊かなのです。
大佐様、貴男様はお小さい時に貧しい暮らしをなさっていたとのこと。そうであれば、何卒、領主に先立たれた奥方様、お子様方のことをお考えください」

「テレージン、もう良い。私は決闘などしない。名誉などどうせもうめちゃくちゃだ」
チェルニャーク大佐が落ち着いた声で言う。
「家令殿、オルガ・ペトロヴナの侍女よ、立っていただきたい。そなたたちにはなんの罪科(つみとが)もない。卑怯なのは、そなたたちの主ただ一人」
テレージンとエレナがのろのろ立ち上がる。
「ヤクーシェフスキイ公、せめて今朝、教会に共に来て、来し方、ご家族の行く末を祈っていただきたかった」
「だから、決闘はしないと……」
「それならそれで結構です」

案の定、銃を抜きかけているのをリザヴェタは見て取った。おそらくこの家で唯一、大佐に匹敵する銃の腕を持つのはヒローシャだ。彼はまだ来ない。
リザヴェタは叫ぶ。低いヴェルヴェットのような声を張り上げた。
「マクシム・イリイチ・チェルニャーク大佐!
わたくしが貴男に決闘を申し込みます!」
使用人たちが固唾(かたず)を飲んでいる。領主様もだ。

チェルニャーク大佐がにこりともせず答えた。
「冗談はおやめください。リザヴェタ・フョードロヴナ。ご婦人と決闘ができるわけがない」
「わたくしは銃が撃てます。それは士官様に比べればお話にならないほど下手ですけれど!
婦人に決闘を申し込まれて、断るのが士官らしい振る舞いなのですか! 今日、貴男はわたくしを侮辱しました。哀れみで結婚を申し込むと言う。婦人にとて名誉はあります。
……わたくしを誰だと思っているの。
スモレンスクの大領主夫人、リザヴェタ・フョードロヴナ・ヤクーシェフスカヤに!」
「ええ……? 結婚」
領主様が唖然としている。

階段を駆け上って、ヒローシャが来た。
今まで黙って見ていたズーリン少佐が、小太りの体から想像もできないほどの早さで右腕を伸ばし、上官の銃を押さえた。
「大佐殿、領主夫人殿のお言葉はもっともです。か弱い婦女の身で、とっさにああまでおっしゃることができるのは、並大抵の方ではない。
大佐様、介添人として申しあげます。
今日のところは引き上げて、我が家にお泊りください。私と老母だけのつましい家ですが、歓迎いたします」
ヒローシャが猟銃で大佐を狙っていた。
「ああ、……」
チェルニャーク大佐が、うなだれた。

チェルニャーク大佐は一礼して言う。
「リザヴェタ・フョードロヴナの献身を見て、今日は去ります。だがヤクーシェフスキイ公、私は貴男を許したわけではない」
チェルニャーク大佐は言う。ズーリン少佐が、やはり一礼して後に続き、待ち合間から玄関間に向かう階段に向かう。

「ズーリン少佐!」
領主様が叫んだ。
「貴殿は独身か。リザヴェタ・フョードロヴナの従妹が花嫁修業中だ。気の強さはリザヴェタにも負けない!」
ズーリン少佐がわずかに笑い、さすがに軍人らしい落ち着いた声で言う。
「失礼いたしました。領主ご夫妻、それに召使いの諸君」

—-

数ヶ月後、父からの手紙でリザヴェタはチェルニャーク大佐の戦死を知った。
黒海のクリミアはロシヤ帝国が併合したが、しょっちゅうオスマントルコや元の住人であるクリミア・タタール人との小競り合いが続いていた。
モスクワからクリミアに転勤を命じられたチェルニャーク大佐は、小さな城砦から外に見廻りに出た途端、誰かに撃たれたという。

宣戦布告されたわけでもないのに、モスクワからクリミアに急に飛ばされるのは明らかに左遷だ。

リザヴェタは、オルガ奥様の兄であるウラジーミル様が、順調なエリートコースを外れ、ネルチンスクに転勤になった話も思い出した。
その地の武器倉庫で葉巻を吸い、火薬に火がまわり、焼死したという。士官学校出の有能な将校が、そのような場所で葉巻を吸うはずがない。

「偶然ですよ」と、夫は言う。
「前に確か、小間使いのダリヤーナが食器をめちゃくちゃに壊したことがありましたね。
あれも誰も悪意はないのに偶然の積み重ねであんなことになった。
意外にそのようなことは多いのではありませんか」

リザヴェタが夫にかすかな恐怖を感じるようになったのはそのころからだろうか。

『青髭公』シリーズはこれでたぶん終わりです。
何か予定と違うものになり、タイトルと内容が外れてしまいました。
少しでも楽しんでくださると嬉しいです。