第8話 小骨遊び

リザヴェタ奥様はまっすぐなご気性です。奥様を憎む使用人もたくさんいます。領主様は、奥様が洗濯女に嫌がらせを受けていることを知り、犯人探しをはじめます。なぜかイアの特殊能力が明らかに……

4月13日,1831年

その日、朝一番で私はテレージンを書斎に呼んだ。

書斎は相変わらず混乱の(ちまた)である。私は、卓を挟んで二脚向かい合わせに置いた長椅子から雑誌や本をどける。
切れ者の家令アファナシー・テレージンは悠々たる態度で長椅子に座り、長い足を組んだ。じつに偉そうであった。
赤蕪の種が届いたが、誰も栽培をしたがらないとか、もういっそ私がやろうかとか、そういった話のあとにリザヴェタのことを話した。

「領主館の使用人の婦人たちだが、やはりリザヴェタを憎む者がいるだろうか。おまえは知っているか?」
「恐らくいるであろうということは存じておりますが、誰かまでは」
「かなりひどい嫌がらせを受けている」

私は昨日リザヴェタに聞いた話をテレージンにした。洗濯物が血まみれで返ってくるといった話には、さすがのテレージンも呆気にとられていた。
「ああ、そこまでですか。まっすぐなお方ですからな……」

「もうリザヴェタへの嫌がらせに関しては、婦人は信用しないことにした。女中頭のエレナですらだ」
「それが良うございますでしょう」
私は溜息をついた。

「ほとんど母屋とは関係ない婦人ということで、昨日ドロシダに訊いてみた」
「ドロシダですか。彼女は聡いですね」
ドロシダはアクリナのところに週三回通ってくれる小間使いだ。そばかすの多い黒い髪の女で、無口で、反応は遅いが、深く考える質だ。一度、家令様に諫言までしたことがある。
私は言う。
「ドロシダは、逆に母屋の婦人たちとはさして、つきあいがないのでよくわからないそうだが……、母屋からアクリナのところに食料や薪なんぞを運ぶことがあるだろう。そういうとき、リザヴェタの悪口を聞かされたり、聞こえてきたりはするらしい」
「ふむ、主に言う者は誰でしょうか」
「何だかな……、ほとんどの者が言っているのでもうわからないらしい。ドロシダには、『領主様を焚きつけて、あの黒い服の方を奥様にしてもらって』などという者までいるらしい。使用人どうしの冗談なのかしらないが」

「はあ……。真に受けて、実際になさらないでください」
「だから、ふられたと言っただろうが。ふつう断るか? ヨーロッパロシヤの中規模領主様の令夫人になれるというのに」
「リザヴェタ奥様の日々の大変さを拝見するにつれ、断るアクリナさんが正しかったと言わざるを得ませんね」

テレージンは考え込む。
「オルガ様がおいでのときは、そういった話はまったく聞こえてまいりませんでした。オルガ様がそんな仕打ちを受ければ、おそらく私に訴えられたと思います」
オルガは前の妻だ。物憂げで儚げな人であった。
「あの人のほうが繊細で、簡単に虐めることができそうだが。家事をやらなかったからか」

テレージンはしばらく黙っていた。声を低める。
「ここだけの話にしておいていただきたいのですが……。私の評価ではありません。
リザヴェタ奥様は有能な領主夫人です。貴男様が探してこられたとは到底思えないほど、まったく希有なお方です。ただ、」
「ああ……」
何が言いたいかわかった。

「他の婦人には、外見や身分や気品や、それが貴男と釣り合っていないように見えるのでしょう」

まったくテレージンはずばりと言うものだ。

「たいていのご婦人は、『ふさわしくないのに不当にその地位を占める者』に対して容赦がないものです」
「ああ、おまえの奥方を除いてな。(婦人全部信用しないと言ったが、テレージナ夫人だけはどうやって疑えば良いのかわからない。考えを、まったく悪意なくそのまま垂れ流すご婦人なのだ)
リザヴェタが気にくわないのは仕方がない。ただ、実際に何かやる者は罰しないと……」
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。貴男みずからがもっと奥方をお立てにならないとなりません」
テレージンに、役職名『妻』との契約の話をしたら、どれだけ説教されるかわからなかった。

テレージンが言う。
「母屋の婦人たちには、リザヴェタ奥様が身近におられすぎると言うのもあるのやもしれません。
アクリナさんはほとんど姿を見せたことがないから、かえって、あの方のほうが『どこかの高位の方の未亡人が落魄(らくはく)して領主様の愛人になっている』などと噂されています」
「あの人には妙な気品があるから……。(気品と『ぼうっとしている』は紙一重なのか?) いや、アクリナのことは置いておこう。
今、おまえの素晴らしい奥方のイリーナさんが、イアを連れて領主館の仕事のすべてをやってまわっているそうではないか」
「ああ、家内でございますか。イア様には妥当なご教育です」
「イリーナさんはさすがに除外して良いと思う」
「はい。家内にはまったく裏表が……ないので……」
テレージンは少し申し訳なさそうになった。

イリーナ・テレージナ夫人がこっそり虐めだとか、そんなことができるご婦人だったら、馬鹿息子ももっと人心掌握に巧みな家令見習いになったであろうに……。

「イアとテレージナ夫人が領主館を回っているのであれば、彼女たちに犯人の目星をつけてもらいたいのだが……無理だよな」
「無理でございますね」

「私が直接乗り込んでも駄目だ。昨日、洗濯部屋に行ったが、皆よく働いてくれるとしか見えない。一部の者たちは私とリザヴェタの前で、どうも態度をまったく変えるらしい。
……母屋にあまり関係のない者で、イアとイリーナさんについて回れる信用できる聡い婦人はいないか? ドロシダは皆、顔だけは知っているし、聡いが、咄嗟の頭の回転の速さはない。
テレージン、おまえの家に小間使いがいたと思うがどうだろう?」
テレージンは書斎の空中を見ている。我が家を思いだしているらしい。
「……小間使いと下働きの娘がおります。あの娘たちの教育は家内がやりましたので、良い娘たちなのですが……なんと申しますか」
「ああ、そうか。説明してくれなくともわかった……」
イリーナ夫人の小型版みたいなのが二人できたわけだろう。

煮詰めた紅茶ポットにサモワールから湯を出して足す。
私はまた繰り返す。
「エレナ・ネクルィロヴァや料理女のオクサーナや、あのあたりは信用しているのだがな」
「ええ、私もですが、念のためです。疑ってかかるしかありません。アクリナさんでもです」
「……しかし、アクリナがやるつもりならば、領主館に『つて』がいるぞ。リザヴェタに嫌がらせをするくらいならば、私の求婚を受ければ良かったのだ」
「まあ、あの方のご気性では無理でしょうな……。ですが、たとえばクズマが勝手にアクリナさんに味方をして、まあ、クズマもそういう少年とは思えませんが……」
「そうなると男も信用できない。……意中の娘が『奥様が意地悪をする』と言えば、男の使用人も……」

ついにテレージンは私まで疑いはじめた。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。貴男がリザヴェタ奥様を追い出そうと嫌がらせをしているとか、夫婦のご遊戯ということはさすがにないでしょうな」
「……それならば、おまえを呼んで相談するはずがない。だいたい、私ならば単に離縁すれば良いだけだ」
延々同じような会話を繰り返して、イリーナさんとヒローシャ以外、誰も信用できないという結論になった。

こんな結論を出しただけでは仕方がない!

「イアとイリーナさんが『お勉強』をして回っているのは良い機会だ。さすが敏腕辣手の家令様の奥方だな」
テレージンが嫌そうにする。
「……しかし、先ほども申し上げたように、家内には探るような能力はありません。イア様も無理です。嫌がらせの標的になるだけでしょう。もう、お一方、ついて回れる方がいると良いですな」
「そうだな……」

テレージンが意外な名を出した。
「『レダと白鳥』館の女はいかがです」
『レダと白鳥』館は高級娼館だ。テレージンとて名前くらいは知っているであろうが、行こうと思えば行けなくもなかろうが、こんなときに名を出すとは思いもしなかった。
「あそこのご婦人たちはさすがに客あしらいがうまいだけあって、頭の回転が速いようですね」
「なんでそこを知っている。行ったことがあるのか」
「いや、貴男様のお父上が……パーヴェル様が、ああ、ええとですな」
「おまえが若いときに連れて行ってやったのか」
「いや、フョークラがですな……、パーヴェル様が『レダと白鳥』館に行ったら報告しろと……どの女を選んだかですとか、何時間部屋にいたか……」
「ああ? テレージン、おまえもご婦人のためにスパイをしていたのか?」
「まあ、若気の至りでございましてね……」
「まさかおまえが腰痛にもかかわらず、アクリナと浮気をして、……そしてアクリナの気持ちを勝手におもんぱかって、リザヴェタに嫌がらせを」
「いたしません。馬鹿馬鹿しい」

「『レダと白鳥』館の女なぞ駄目だ。借り切って、犯人が見つかるまで何日かかるかわからない。あの高い花代だぞ、いくらになることか」
「貴男様が女装でもなさいますか」
「やめろ」

私は適当な人材を思いついた。
「そうだ。ちょうど良い婦人がいる。彼女ならば、もぐりこんで犯人を捜せるだろう」
「ほう、どんな方です」
「領主館のような場所での使用人のありさまに詳しく、機転が利いて、聡明だ。時には思い切った大胆な罠を仕掛けることもできる」
「ほうほう。それは良いですな。どこのどんな方です。当家に来ていただけるのでしょうか」
「ああ、……エヴドキヤといって、西南のポポフ家の小間使いだ。家令のポヤルコフに聞いてみてくれ。たぶん評価は高いだろう」
テレージンは鋭い目を細め、私をじっと眺めた。
「その方は、例の『血まみれ』小間使いではありませんか」
「まあ、そうだが……そういう関係はもう……」
「いくら有能だろうと駄目です。何かで彼女がその小間使いだと知れたら、どんな事態になるかわかりません! エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、貴男は詰めが甘いのです」

延々と紅茶を飲みつつ結論が出ない……。

……私は父ならどうするか考えた。
あの野蛮なパーヴェル・アレクセイエヴィチ・Яならどうしただろうか。
その時の気分次第だろう。
気にも留めないか、逆に癇癪を起こして家内奴隷を全員、シベリヤの売春宿にでも売り払う勢いで洗濯室や台所に怒鳴り込む。無罪のものも首謀者も関わりなく一緒だ。
下手をすれば猟銃を持って、洗濯室の壁に撃ち込むだろう……。

「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ」
私がぼんやり考えているところにテレージンが声をかけてきた。
はっと目を上げると、革張りの長椅子に浅く腰をかけ、上半身を折るようにテレージンが私にむかって身を乗り出している。
私と、私の背後の机に積んだ数箱の木箱を交互に眺めている。箱にはアクリナからの手紙が入っている。
箱の中身をテレージンに話したことはないが、だいたい見当はついているはずだ。

テレージンが言った。
「貴男は、もしこれがアクリナさんに行われた嫌がらせでしたらいかがなさったのです」
「ああ……」
真剣味が足りないと言うのだろう。
アクリナならば……、その場合とにかく、すぐさま止めなければまずい。
私は猟銃を持って洗濯室に乗り込むくらいする。
変に鈍感なところもあるからまったく平気な可能性もあるが、あの臆病な女を他人の悪意に晒したくなぞない。

……リザヴェタはアクリナのように脆くはないが、だからと言って陰惨な嫌がらせを受けて気分が良いわけはあるまい。
「わかった。テレージン、ヒローシャにだけ協力を頼むことにする。
イリーナ夫人には言うな。犯人ではなかろうが、こちらが知ってることを喋ってしまうかもしれない」

—-

というわけで、
だだっ広いリネン室で、私とヒローシャはぼうっとしていた。

北棟の二階にある部屋だ。
装飾はなく、壁は灰色の石灰で塗っただけである。そこにいくつも棚があり、中央に広い木の卓がある。
二階のあちこちで使われるテーブルクロスだの手拭き類やカーテンだのや、たまに大きな絨毯、領主一家の衣類やリネン類などを仕分けして置けるようになっている。
使用人のための洗濯物は一階だ。
リザヴェタはたいてい、自分の洗濯物や主寝室のものは自分で取りに来た。
ふつうの貴婦人と違い、自分が簡単にできることは何でも自分でさっさとやるのだった。

私とヒローシャは、壁にぴったりくっついている木製の棚のひとつを動かし、その裏に隠れ、座り込んでいる。
これも領主の仕事なのだろうか……。

ヒローシャには先ほど事情を話した。
「あのご立派なリザヴェタ奥様になんということを……」
猟銃を抱え、撫でている。なんとか怒りを抑えているらしい。
「どうしてリザヴェタ奥様はご相談なさってくれないのです……」
「あの人の性質はおまえもよく知っているだろうが。私だって不満だ。たまには泣きついてきたっていいのに。
私に決して弱みを見せないようにする。ああ、いちおう夫なのに。そこまで信用されていないのか」

「信用されていない……あ、あの、私もですか」
ヒローシャが愕然としている。
夫の私を差し置いて、自分がいちばんリザヴェタに信用されていると思っていたらしい。
図々しい。

「ふん、麗しい主従惚気も終わりか。ああ、ヒローシャ君、もしや君に惚れたご婦人がリザヴェタ奥様に『やきもち』を焼いているのかも知れぬな」
「ええ……? そんな、まさか」
「洗濯女に思いを告げられたことはないのか」
ヒローシャは本当に困惑した表情になった。黒いきらきらした目で、すがるように私を見あげた。

「お三方ほどに……ですが、私が一生独り身の覚悟なのは皆様にお告げしたはず」
「ああ? 三人? 洗濯女だけで? なんでおまえがそんなにもてるのだ」
「……単に物珍しさからではないかと……」
まあ、ヒローシャがもてるのはわからなくもない。異族民への困惑や恐怖を乗り越えてしまえば、誠実だし、熊に襲われたりしたときにはたいそう頼りになりそうだし、領主夫妻の信頼も篤いし、自由民で俸給もそれなりにもらっているし、結婚相手としては悪くないだろう。
それに私にわからない魅力があるのか……も知れない。

「ヒローシャ君。なのに、せっかく言い寄ってくれたご婦人たちをお断りしたわけか。私がそのご婦人の立場ならば、リザヴェタ奥様を恨むな。
奥様のせいで、愛しいおまえが一生独り身でいるだの何だのと『ほざいて』いるわけだ。今回のことは皆、おまえのせいだ」
「まさか……いえ、ああ。あの方たちには、きつく申し上げすぎたかも知れません……もっと言いようが……ああ、ああ……。でも領主様ではあるまいし、私にどうしろと……」
「きつく言ったのか! 最低だ。せめて『とても嬉しい、貴女はほんとうに魅力的だ。だが、こういうわけで申し訳ない』くらいの答えはしただろうな」
ヒローシャが衝撃を受けている。
「そんなふうに言うものなのですか……」
落ち込みはじめた。……落ち込んでいろ。

リネン室の扉が開いた。
洗濯女たちが、大きな靱皮籠を持って次々と室内に入ってくる。籠には乾いた布類が山のように盛られていた。
「今日は久しぶりにお陽様の下で乾かせたわね」
「イア様、そのシーツは主寝室ですから、右後ろの棚に」
「わかったわ」
私は棚の裏から少しだけ顔を出して部屋のようすを覗いた。
真っ白な頭巾を被った清潔な婦人たちが、手早く作業をしている。ごく平和に、流れるように置くべき場所に洗濯物を置いている。
美しい光景ではないか。

洗濯女の誰かが軽率に漏らした。
「最近、奥様はおひとりで家事室で寝ていらっしゃるみたい」
カリンスカヤが男のような声で叱責した。
「無駄口を叩かないで! あたしたちの仕事は、領主様ご一家の内情もわかってしまう。だから、口は硬くなければ駄目!」

カリンスカヤの厳しさには惚れ惚れする。
そこに、のどかな声がした。
「あら、でもカリンスカヤさん。口が硬いほうがいいのは当然ですけれど。
奥様や旦那様が他の場所でお眠りになるなんて、よくあることですわ。
あたくしたちだって、結婚も長くなると、たまには色んな別の場所で、一人きりで寝てみたいものではありません? 木の上や、屋根の上や、馬小屋や」
イリーナ・テレージナ夫人の声がして、皆どっと笑った。……人気者ではないか。

女たちは作業を終えたらしい。次々とリネン室を出て行く。
「ちょっとわたくしは残るわ」
イアの声がした。
「では、イア様、今日のお勉強はここまでですわね。後は遊んでらしてくださいな」
テレージナ夫人の柔らかな声がする。

「何でイアが残るのだ……」
私は小声でヒローシャに囁く。ヒローシャはまだ落ち込んでいる。
イアの足音がする。木の(かかと)が、寄せ木の床を叩いて広いリネン室を横切ってくる。
「エヴゲーニイお義兄様、それにグラーシャ、何してるの」
イアの声が聞こえた。私たちは洗濯物棚の裏に隠れているのに、どうして気づいたのだ。顔を出したのも一瞬だけだ。

イアがいきなり私たちのいる棚を覗いた。
「イア様!」
ヒローシャが叫んだ。
イアは洗濯女の白い頭巾を取る。下は葉っぱ色の簡素なドレスだ。
洗濯の仕事はきついのに、蜂蜜色で目鼻立ちのはっきりした顔は平然としている。
「イア、なんでわかった」

「あら、だって、部屋に入った途端、お義兄様とグラーシャの匂いがしたもの」
「匂い? このだだっ広い部屋でか」
香水というものが最近流行しはじめているが、私はそのようなものはつけていない。
社交界に出入りしていたころはともかく、もう葉巻も吸わない。
何故、匂いがわかるのだ。
「エヴゲーニイお義兄様は、古い書物や真新しい書類の紙の匂いに、インクの匂い、紅茶とウサギと汗と土と、時々、ハンガリー水なのかしら、あれの匂いがするわ。
グラーシャ【* ヒローシャのことらしい】は馬と飼葉や藁屑、それに火薬の匂いね」

ヒローシャがイアに言った。
「あ、ああ、わかります。領主様は古い書物の匂いが特に強くいたしますね」
「わたくしが感じるのはインクの匂いも大きいわ」
こいつらは異常に鼻が良いのか……。知らなかった。
ヒローシャは猟師一族の出だから不思議ではないのかも知れないが、イアはどうなっているのだ。
リザヴェタからそんな話を聞いたことはない。

……ああ、野生動物どうしが共通の話題で珍しくなごやかに会話している。
「インクや書物の匂いがする人は、ここには他にいないからエヴゲーニイお義兄様の匂いはすぐわかるの」
「イア様、領主様はよく山羊革の手袋をなさっているから、その匂いもいたします」
「……おまえたちはそんな匂いがわかるのか? ほんとうに?」
イアとヒローシャが声を揃えた。
「え? お義兄様はわからないの」
「領主様はおわかりにならないのでございますか?」

リネン室の扉の鍵がガシャリと回った。
私は慌てて、イアを洗濯物棚の陰にひっぱり込んだ。無理矢理、私の左横に座らせる。
「何すんの……」
「ちょっと黙っていろ。調べたいことがあってここにいる」
「何なのよ」
「後で説明する」
私は左手でイアの肩を抱え、勝手に飛び出さないように壁に押さえつけた。
「やめてよ!」
私は右手でイアの、リザヴェタによく似た金泥色の厚めの唇を押さえつけた。

鍵が開き、誰か入ってくる。
一人だ。リザヴェタではない。静かな足音は民衆の履くラプチのものだ。
私は右隣にいたヒローシャに囁く。
「ヒローシャ、様子を見てくれ」
「はい」

ヒローシャが体を低くし、気配を消すようにして室内のようすをうかがっている。
「洗濯女が一人、……何か洗濯物に混ぜています」
「飛び出して捕まえられそうか」
「はい。私が行きます」
そう言う間にヒローシャが飛び出ていった。私はイアを放し、わめくのを無視してヒローシャのあとをついて棚の裏から出る。
「お義兄様、何なのよ!」

ヒローシャが女の手首を掴み、猟銃を突きつけていた。
小柄で白く太った、ぽうっとした婦人だ。まだ若い。少女と言って良さそうだ。手には布袋を持っている。
布袋から素手で泥をすくいだして、洗濯物になすりつけていた。
見覚えはある。親の代から家内奴隷で、彼女も二、三年前から働き出した。今は十三、四歳だろう。

「グルニカ、何やってんの」
イアが言った。
「え、あ……」
グルニカは猟銃を突きつけられながらも、何が起きているのかよくわからないらしい。
グルニカは卑称で、本名はアグラフェナかオグラフィナか何かだったが、皆グルニカと呼んでいた。
グルニカが泥をなすりつけている先は、婦人物の麻や絹の下着だ。
絹のコルセットやシュミーズを見て、ヒローシャは慌てて目をそらした。

「リザヴェタ奥様の下着だ。……グルニカ、何をやっているのかね」
グルニカはぼうっとしている。頬がまん丸で、目つきがうつろだ。この少女は確か白痴に近い。
とはいえ、悪心を起こすような娘ではないし、いちおう教え込んだことはきちんと覚えるので、洗濯女として、きついが単純な作業をやらせている。
この少女が自分の意志で奥様への嫌がらせをするとは思えない。

「グルニカ、どうして奥様の洗濯物に泥を塗っているのかね?」
私はグルニカの前に立った。
上半身をかがめ、グルニカと目の位置が同じようになるようにし、なるべく優しい声を出す。
「正直に私に教えてくれないかな?」
「領主様……」
「うん。私はおまえの領主だ。おまえを守るためにいるのだよ。
正直に話してくれたら、悪いようにはしない。何なら、粘土の人形をあげよう」
「粘土の人形」
グルニカが少し嬉しそうになる。

「ディムコヴォというところの名産品でね。男の子や女の子が鞦韆(ぶらんこ)に乗っている可愛い人形があるんだ。色もついている。
私が聞いたことに正直に答えてくれたら、おまえにあげるよ」

子供たちが放っている人形だ。
正確に言えば、放っておきたくて放っているのではない。
これはリザヴェタがイヴァンに土産に買ってきたのだが、ミハイルがイヴァンへの嫌がらせだかなんだかで、人形の首をへし折ってしまった。
修理すればなんとか飾れるだろう。
「鞦韆が動くんだ」
グルニカは丸い顔で私を見て、人形の話にうっとりしている。

「ヒローシャ、手を離してくれ。グルニカは良い子だ。逃げたりしないね」
「はい……」
グルニカが答える。
ヒローシャはグルニカの手首から手を離し、リネン室の鍵をかけに行った。
ついでに、鍵を持っている者でも開けられないように、荒縄をドアノブから柱にまきつけ、器用に、簡単な留め具を作った。
イアは何か妙な事件が起きていることに気づいたらしい。私の脇に神妙に立って、グルニカと私を見ている。

「答えてくれたら、ここにいるイアお嬢様といっしょにお菓子をもらいに行くと良い。
領地の西の森に、マダム・アクリーヌという、たいそうきれいな女の人がいてね。彼女のつくる木苺のお菓子は、とても美味しいのだ。
ブリンを焼いてもらいなさい。木苺や色んなジャムを載せて、好きなだけ食べて良い」
「本当に……? ブリンを好きなだけ?」
グルニカは私の話に惹きつけられている。

「うん。私はおまえの領主だからね、おまえを守るし、よく働いてくれるから、褒美に色んなものをあげる」
私は子供にするように、グルニカの頭をそっと撫でた。
「答えてくれたら、お菓子と人形だ……おまえに、洗濯物に泥を塗るように頼んだのは誰かね」
グルニカは答えない。
脅されているのか? 

「グルニカ。お菓子と人形をあげる。
もし、言ったら怖いことになるのならば、しばらくテレージナ夫人の家にいるかい?」
「あたし、テレージナ夫人、好き」
……イリーナ・テレージナ夫人は知らないうちにずいぶん人気者になったものだ。
テレージンの許可は取っていないが後でどうにでもなる。馬鹿息子の代わりに四人の無邪気な天使のような女に囲まれるテレージンも幸せ者だ!

「イア、誰かがグルニカを脅していたか?」
「わかんない。わたくしは洗濯場でしか会わないし。ただ、時々、みんながからかっているのは見かけたわ。でも、虐めとまではいかない感じだった。
脅しているのは見たことがないわね。
誰かがグルニカを使って、リーザに嫌がらせをしているってわけ? 遣り口が卑怯ね」
イアがまともなことを言っている……。
一人で暴れるイアは偉いのかもしれない……?

「グルニカ、今日は人形をもらって、マダム・アクリーヌのところでお菓子をたっぷり食べて、テレージナ夫人の家に泊まるのだ。
テレージナ夫人みたいな小間使いと下働きの娘もいる。友達になれるぞ。
楽しそうだろう?
だから、私に話してくれるか?
誰が洗濯物に泥を塗れと言ったのかい」

グルニカが言った。「……小骨」

「小骨?」
一瞬、小骨という名前の女がいたかと考えた。
イアが言った。「小骨遊びではないの。それならやってるのを見たわ」
小骨遊びは羊や牛の小さな骨を地面に立てて、やはり小骨を投げて倒す子供の遊びだ。上手く倒したほうが勝ちである。

グルニカがぽつぽつと喋る。
「負けたほうが、あたしに……奥様が喜ぶって……」
「小骨遊びをやって、負けたほうが、おまえに洗濯物に何か塗れと命じるのか」
グルニカがうなずいた。
つまり犯人は……。
「小骨遊びは誰がやるのかね」
イアが言った。
「カリンスカヤさんが帰ったら、みんながやるの」

ヒローシャが驚愕してこちらを見ている。私はヒローシャに言う。
「犯人などわからなくて良い。止められれば良いのだ」
ついでにイアに頼む。
「イア、マダム・アクリーヌのところにグルニカを連れて行ってやってくれ。いくらでも菓子を焼いてくれと」
「わたくしも食べて良いの」
「ああ」
「マダーム・アクリーヌの木苺のジャムは、微妙にハンガリー水の匂いが混じっていて、美味しいのよね」
先ほどまでならば戯言に聞こえただろうが、彼女の嗅覚の良さを実際に見せつけられると信じるしかない。
野生の生き物にはよくわからない能力があるものだ。

「でも、お義兄様、どうするの。全員を罰するの? カリンスカヤさん以外、洗濯女がいなくなっちゃうじゃない」
「どうするか知りたいか?」
「ええ」
「では、来い。これも花嫁修業だろう」

私はテレージナ夫人を探し出し、グルニカのことを頼んだ。グルニカにご褒美の人形を渡す。
それから、馭者見習いでアクリナの夜警をするクズマに、テレージナ夫人とグルニカをアクリナのところに連れて行くよう頼んだ。

—-

午後四時だ。

私はヒローシャとイアを連れ、一階の洗濯場に行った。
そろそろ今日の仕事は終わる時間だ。
洗濯場に入る。
湿気が石鹸の匂いとともにどっと襲ってくる。私は洗濯女頭のカリンスカヤに声を掛ける。
「カリンスカヤ、仕事中すまない。少し皆に話がある」
「領主様、わかりましたわ」
カリンスカヤが男のような大声で洗濯女たちに呼びかけた。
「領主様がお話があるそうよ。聞いて」
ヒローシャは私の横に立っている。婦人ばかりの部屋で居心地が悪そうだ。

私は和やかで穏やかな口調で話しはじめた。
「ああ、皆、いつもご苦労だ。
今日でイアは別のところに移る。さぞや迷惑だっただろう。ありがとう」
イアが私を睨むが、私は微笑みながら話を続ける。
(我が国では、おかしくもないのににこやかにする者は、何か隠しているのだ)

「皆に頼みがある。実は困ったことがあってな。
台所の料理女たちが、どうも奥様に嫌がらせをしているらしい。……いや、私がやっているのではない」
洗濯女たちが笑った。

「おまえたちの私室は料理女たちといっしょだろう。おかしなことがあったら、私に教えて欲しい」
湿気のなかで、白い服を着た女たちがざわつきだした。
「密告は嫌なものかもしれないが、領主として、秩序を乱す者を放っておく訳にはいかなくてな。
良い情報をくれた者には、褒賞を出す。
十ルーブル、それに、ああ、希望があれば、こちらのヒローシャ君が本気の深い接吻をしてさしあげる」
ヒローシャが怯んでいる。「領主様、冗談はお止めください……」
ヒローシャが怯む様子を見て、女たちはふたたび笑った。
十ルーブルは、家内奴隷の彼女たちには信じられないほどの大金だ。魅力的でないはずがない。

「料理女たちの嫌がらせは、奥様一人のためのシチーに油虫を入れたり、泥を入れたり、とにかくひどいらしい。偶然見つけたのだが、驚いた。妻は私を信用していないらしい。けっして私に言わない。
一刻も早く犯人を見つけて処罰したい。よろしく頼む」

私はできるだけ穏やかで楽しげな口調で続ける。
「ああ……万一希望者がいれば、ヒローシャのかわりに私の本気の接吻もありだ。
いやこれは、私のほうが金を払わないといけないのか……領主館に独り身の良い男が少なくてすまないな」
女たちはやはり笑う。
カリンスカヤが苦笑している。

しかし笑わない者もいる。なかの聡い者が気づいたようだ。
料理女たちの嫌がらせが気づかれたならば、自分たちの嫌がらせも気づかれたかもしれないと言うことを、だ。

やった女は疑心に駆られていれば良い。

「それから、グルニカは、しばらく家令のテレージン家で働いてもらう。あの家も人手不足でね」
青褪める者はますます青褪めていた。

洗濯場を出ると、イアが言った。
リザヴェタの従妹だけあって、馬鹿ではない。
「お義兄様は洗濯女を怒鳴り散らすのかと思った。あれは、お互いを疑わせるためなの?」
「うんまあ、そうだ。グルニカがいなくなるのも、脅しのひとつだ。嫌がらせを続けたいのならば、自分の手を汚さねばならない。
十ルーブルのためならば、皆、簡単に他の者を売るだろうしな」
私たちは一階の廊下を通り過ぎて玄関間に出る。

「ふうん……料理女と洗濯女が対立したりしたら困らない?」
「わからない。少なくとも、リザヴェタへの憎しみが、少しは逸れるだろう」
「リーザに腹が立つならば殴れば良いのに。まあ、ちょっと洗濯女たちにも同情するわ。
あの偉そうな女相手に嫌がらせをしたくなるのはわかるもの。殴れば良いのよ!」
「いや、家内奴隷の洗濯女たちと、従妹のおまえとでは立場が違うのだが……」

……イアよ。洗濯女たちの代わりにリーザを泥道に引き倒して、ぬかるみを転がる泥沼の殴り合いをしてくれ……。

イアが私に訊いた。「マダーム・アクリーヌのところにお菓子をもらいに行っても良い? グルニカといっしょにお菓子を食べまくるの」
「ああ。ヒローシャに連れて行ってもらえ」

玄関間から、ヒローシャとイアが外套を羽織り、出ていこうとする。出ていくまえに、イアが私に言った。
「わたくしが情報をあげても、十ルーブルもらえるの?」
「え? ああ。もちろんだ」
「エヴゲーニイお義兄様、ちょっと来てよ」

イアが私を玄関の外へと手招きする。

人気のない前庭に出る。白樺の植え込みのあたりで、イアが唐突に私とヒローシャに言った。
「料理女は知らないけれど、洗濯女の犯人は、パラーシャとヴァシリーサよ。
いつも中心になって小骨遊びをしていたの。で、突拍子もない嫌がらせを考えては、みんながそれを面白がるように仕向けてた。
グルニカがやるのを嫌がると、奥様はこういうのが好きで、喜んでいると言って。
グルニカを脅してはいないわ。ただ、優しくして、うまく操っていただけ」

私は呆れた。
「……イア」
「イア様……」
ヒローシャがまた愕然としている。
私もだ。つい怒鳴った。
「イア、なんで犯人を知っているのに言わないのだ!」
「だってお義兄様、聞かなかったではないの」
「聞かなければ言わないのか……」
「パラーシャさんとヴァシリーサさん……ああ、私がお断りした方たち……」
ヒローシャがぶつぶつ呟いている。「生神女マリヤ様、ああ、私のせいなのでしょうか」
「おまえのせいだな……マリヤ様もそうおっしゃるぞ」

イアが私に要求する。
「十ルーブルと本気の接吻」
「……十ルーブルは後で渡す。本気の接吻だそうだ、ヒローシャ君。やってあげたまえ」
ヒローシャが言う。
「……わ、私では駄目でございます。私はご婦人に対して罪深い男なのです……パラーシャさんもヴァシリーサさんも……私のせいで……」
(勝手に落ち込め。童貞同然の身のくせに)

「本気の接吻って、グラーシャよりお義兄様のほうがはるかに上手よね」
「……まあそうだろうが……」
「まあそうだろうが、だって! こういう人を鼻持ちならないって言うんだわ」

「十ルーブルと領主様から感謝状を出す」
「お義兄様はわたくしとほんのちょっと、挨拶程度の接吻をするのも嫌なわけ。へえ。へええええええ。別にわたくしはお義兄様と接吻したいわけじゃない。不潔でいやらしい人だもの!
……ただ、お義兄様はそんなにわたくしが嫌いなのね」
「はあ? 嫌いだなどと言っていないだろうが」

(さっきは結構賢いと思ったのに。何なのだこのイア論理は……)

私は言った。
「むしろ、本物の妹のように大事にしているではないか」
(……少し嘘だ)

イアが捨て鉢に言った。
「いいわよ。これからマダーム・アクリーヌを虐めて、すごくたくさんお菓子を焼かせるから!!!」
「駄目だ、あの人を虐めて良いのは私だけだ!」

イアが腰に手を当てて偉そうに立ち塞がった。
「聞いた? グラーシャ! 何なのどういうことなの。マダーム・アクリーヌはお義兄様の大事な恋人じゃないの? なのに虐めるの?」
ヒローシャが私に何か諫め言を言おうとする。
「は、はい……あの、大切な領主様……アクリナ様はお優しい良い方で……虐めるなど……そのような」

私は面倒になってきた。
「ヒローシャ、イアをアクリナのところに連れて行くのは無しだ。
私はこれから洗濯女のパラーシャとヴァシリーサを問い詰めなければならない。猟銃を持ってつきあえ。あと、テレージンを呼んでこい。
書斎で待っている」
「はい、かしこまりました」
ヒローシャは逃げるように駆けだしていく。

私はイアにも言う。
「では、イアよ。あとで十ルーブルと領主様の感謝状、さらにアクリナの木苺ジャムを届けるからな。ああ、彼女のキノコマリネもつけよう。絶品だ。
イア・ドミートリエヴナ、君の情報提供に感謝する」
「何なの! 領主様が嘘を吐くわけ! ヨーロッパロシヤの大領主様ともあろう者が、小鳥みたいに純朴な小娘との約束を平気で破るの!? 信じられない!」
どこが小鳥だ……。

私はイアの怒鳴り声を聞きながら、急いで領主館に戻った。

“The Washer Women”
painted by Abram Arkhipov(1862–1930) [PublicDomain]