第19話 ポルチャ(疫病)1

領主様がまた湖でアクリナをつれてさぼっています。アクリナに『お友達』ができたと聞いて驚く領主様。 少し長いお話の導入部分です。

7月, 1831年


1.南の湖 アクリナの友達

聖霊降臨祭、ルサールカの週(ルサーリナヤ・ニエジェーリヤ)が終わった。

魔力が高まるという夏至も過ぎた。 我が領地ではまだ、異教の呪術を信じる者たちが大勢いることがはっきりわかった。呪術を利用して、……いや信じ込んで、(それとも利用して?)残虐行為をためらわない者がいることもだ。

【参照:本編 第38話 聖霊降臨祭のルサールカ-1 】

 

7月になった。

短い夏だ。 私は領地の南のはじにある湖でボートを漕いでいた。使い古した釣り道具を腰掛けの横に置いている。つばの広いボンネットを被ったアクリナ・ニコラエヴナが私の前にいる。

 

黒いボンネットの濃い影の下で、アクリナの顔がほの白い。

「お友達ができたのですの」 と、彼女は言った。 私は思わず問い返す。
「友達? またウサギを拾ったのか? 子鹿か何か……」

アクリナは自慢げにする。彼女はとても臆病だ。友人がいるとかいたとかいう話を聞いたことがない。
「ウサギではありません。人間の、女の方ですわ」
「時々来る農奴のおかみさんのことかね」

私はごくゆっくりと漕ぎ、湖の岸から十サージェン(1サージェン=約2メートル)ほどのところまで来た。
このあたりでは鯉が釣れる。
よく晴れて空は広かった。楕円の形をした湖の、ゆるやかな岸辺は、蔦に絡まれた、高い木々の延びに延びた枝に葉、また下生えの羊歯で、濃い緑に染まっていた。
我が領地が東側にあり、そのあいだに深い森を挟んで、今では領主が不在地主となった西南の隣家ポポフ家の領地がわずかに見える。

今日は日曜日だ。仕事は休みで、信心深い農奴は皆教会に行っている。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。今年初めて木イチゴが採れました。召し上がりませんか」
アクリナは小さな木の台に手巾を敷き、黒い絹のドレス姿で腰掛けている。並の貴婦人より豪華なドレスであり、そのあたりの貴婦人など足下にも及ばないほど似合っている。
胸元の真珠の首飾りが眩しい。
だが、彼女の木の座席のとなりには、不釣り合い、かつ無造作に、白樺の靭皮(じんぴ)を編んで作った、民衆用の籠が置かれているのだった。

アクリナは細い指で、靭皮籠から赤い果物を取り出す。初物の木イチゴだ。
そして私の口元に差しだす。私は小さな粒が集まった果物を、彼女の指ごと口に含んだ。私の口の中で薄い皮が破れ、濃い汁が広がった。

アクリナは細面で整った顔だちをしていたが、髪の色も肌の色も薄く、地味で、いつも寂しそうに見える。 この女を幸福にして、常に微笑んでいられるように私の全能力をつぎこんで頑張ってみたい気もするのだが、……ああ、私は彼女が泣いているほうが好きだった!
 すがりつき、私のわずかな哀れみや赦し(何を赦すのかよくわからないが)を求める有様が!
ただただ困って、救いを求める目で私を見上げるところや、神聖な聖ニコラ様や私の怒りに触れる不埒な行為をしたのではないかと落ち込んでいるところも!

アクリナが言う。「領主様。今年の木イチゴは甘みが強うございますでしょう」
「うん……」 私はボートを漕ぐのをやめ、ぼんやりアクリナに見とれていた。 私に舐めさせた指で自分のぶんの木イチゴをつまみ、口の中に運んだ。彼女の唇は木イチゴより赤い。


「このあたりで釣ろうか」
アクリナがボートの縁に両手を置き、水の中を覗く。
「蛙はいないようですわ」
私は絹の帽子を軽く持ち上げて目をすがめ、湖の奥を覗いた。 緑の藻が揺らめいているのが見える。
数年前、ポポフ家の前領主が存命中、フランスの食用蛙を放した。
二、三年の間、蛙は大繁殖して湖を覆い尽くしていた。 農奴たちに獲らせて食べさせた。まあ良いごちそうになったのであろう。蛙はもうほとんど見かけなくなった。

アクリナのほうが私より目が良い。じっと湖中を眺めている。 「……、水の下のほうが流れが速そうです。ええ、あの。とても速そうで、それに、変です……水が……変。どろりとしてるのに。北大西洋海流……ではなくて、湧き水かしら……」
アクリナは話すのが遅い。 考えをまとめるのに時間がかかる。
もともとそういう性質だが、文字が読めるようになったことで語彙が一気に増え、考えに合う言葉を探すのが難しいらしい。

私も湖の下を覗く。 表面から数サージェンは、透明で穏やかな水である。その下、揺らめく緑の藻のさらに下のほうが濃い茶色に濁っている。黒や茶色をした、枯れ葉の破片のようなものが見える。
湖の岸では、盛りの木々はあれほど枝も葉も青々と延び広がり、枯れ葉などただ一枚もなさそうだというのに。 浮藻の下のほうが流れに引きずられ、激しく揺れていた。
アクリナの言うように、湖の表層の下に水流があるのだ。 湖底近くの水の流れは速かった。湖底の藻や泥を巻き上げて湖の中心部へと流れていく。 どこからか吹きだしているのであろうか。濃い緑の、身体に悪そうな汚れた水も混じっている。


少なくとも湖上はのどかだった。
「何だろうね、アクリーヌ。湖の下にあのような汚れた水流があっただろうか」
私は黒い麻のクラバットを緩め、フロックを脱いだ。日差しは明るすぎ、暑くなってきた。
「いえ、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、貴男様のほうがお詳しゅうございます。貴男様のご領地ですもの」

「……いや、ここはポポフ家との共有地だ。子供のころから釣りだの水遊びだのに来ているが、知らないな。小川のどこかで何かが落ちたのだろうか」
我がЯ家の領地はこの湖がもっとも南西にあたる。領地はだいたい4露里【1露里=1キロ】四方の、いびつな正方形をしていた。
正方形の北の辺は、細い(ほり)を介して県道に沿っている。
県道といっても道幅は狭く、夏草が生い茂り、轍の深い、我が国らしい道路だ。獣道とさして変わらない。

北西の隅にささやかな鉄の門があり、そこを入って、小径をしばらく進むと領主館が見える。
東北の隅には用水路と水車、東南の角にはささやかな農村教会がある。
農奴たちの丸太小屋は、だいたい領地の南側にまとまっていた。
西側は北から南まで、まっすぐ、帯状に森が続く。 アクリナの家というか小屋はその森にある。木々は主に白樺と松で、幅は一露里近くあるだろうか。 森のなかを何本かの小川が流れている。そこを越えると、西北の隣家・バシュキロフ家、西南の隣家・ポポフ家だ。


私は南の湖のうえでアクリナに話しかけた。
「小川のどこかに流木でも詰まったのではないかな。……少し移動しよう」
「はい」
オールを持ち、再びボートを漕ぎだす。私は櫂を操り、後ろ向きにボートの方角を変えながら、何気なく言った。 「そういえば、おまえに友人ができたという話はどうなった? 嘘か?」
ボートは静かに湖面で弧を描いた。


またアクリナが衝撃を受けているので、私は驚く。
「まさか。あたしが貴男様に嘘を申し上げるなんて! ……どうしてそんなにいつもいつも意地悪をおっしゃるのです?」
この程度で衝撃を受けるのか……。
「嘘をつくつもりはなくとも、夢かもしれない」
「え……あ、そうかも……しれま」 アクリナは一瞬考える。「いえ、木イチゴはその方と採ったのです。だから本当です……たぶん」
アクリナはどうしてかこういう暗示にひっかかる。
「続けてごらん」
私はボートを止めた。釣り竿に餌をつけ、糸を垂らす瞬間、水底近くを小さな鯉が何匹も横切るのが見えた。

「あ、ほんとうに釣りをなさるのですか……」
アクリナはたいそう残念そうに言った。私の緩めたクラバットをじっと見ている。
「日曜の昼間から何を言っているのだ。友人というのは本当にご婦人なのだろうな」
「……もちろんですわ。このまえの雨の翌日、あたしは西の森の奥に行きました。だって、そういう日には新しくキノコやスグリが出てきますので……」
私たちは十九世紀の今でも、食料のかなりの部分を、森で自然に成ったキノコや果実に頼っている。

アクリナがひとつの小話を続けるのはなかなか大変である。
疲れたらしい。 溜息をつき、真鍮の壺に入れてきた水を飲んだ。

我が領地では、植物好きの祖父アレクセイが小川の上流に、簡単な濾過(ろか)装置を作った。
小石をたくさん詰めた水溜めを三つ作り、そこを小川が通るようにした。原始的な装置だが、多少の汚れは取れた。
そのおかげで比較的、水が良い。

もちろん、あくまで比較的である。
生水は飲まないほうが無難だ。飲んでいるのは一度沸かして冷ましたものだ。
他の家の水はさらに良くない。

だから余裕があり、腹を壊したくない人々は果物を探して食べる。さもなければ酒を飲む。
「お友達ができたのは……」 アクリナは黙りこくり、真剣に考えている。
「ええと、雨の翌日で、水曜日でした。あたしは、北のバシュキロフ家のほうに行ってみました。あまり近づかないようにしていたのですが、煉瓦積みの……なんだか城砦(じょうさい)みたいな壁をみつけました」

「ああ、そういえばそんなものがあった」
「だから壁は境界線なのだと思って、壁の前までならば貴男様のご領地だから構わないかと」
「確かに、壁から向こうがバシュキロフ家だよ。リヴォニア戦争【1558-1583 註1】の時に作られた小さな城砦のようだ。いや、スモレンスク戦争【1662-1663 註2】かな」

西の国境の街であるスモレンスクはしばしば戦乱に巻き込まれた。
一番最近は私が14、5歳の1812年で、モスクワに進軍中のナポレオン軍がスモレンスク街道を破壊し尽くしていった。
我が領地は街道から離れていたから比較的安全だったが、敗走中のフランス兵を農奴たちがとらえ、棒や農具でなぶりながら箱柳の木に逆さに吊していたのをはっきり覚えている。

「あそこは壁が崩れるからあまり近づいてはいけない。壁の手前を小川が流れていたように思ったが」
アクリナは少し考えている。 「小川はありませんでした。窪みに木が倒れて腐っていて、キノコや木イチゴの実が成っていました」

「流れが変わったのかな」
私は今度、森の川の様子を調べさせようと思う。

アクリナがかすれた声でぽつぽつと話を続ける。
「そこに、女の方の声がしました。とても高い声でした。笛みたいに。あたしのことを『フョークラ』って呼びましたわ。 『やっぱりフョークラじゃないのさ』って。『あんたは本物の魔女だったのだね』とおっしゃいました」
フョークラは、かつて領地に住み着いていた女農奴で、魔術が使えるという噂だった。私の父の愛人だった。

「へえ、……いくつくらいのご婦人かい」
「五十歳か六十歳くらいでしょうか……」
その歳なら、確実に大きな孫かもしくは曾孫がいる。
我が国は結婚が早い。

子を産まず、結婚もしなかったアクリナは、じっさいよりかなり若く見える。
彼女は農奴の出とはいえ、ある子爵の囲われ者の娘であり、労働は比較的軽かった。
その後はシベリアの女子修道会の地下の厨房で何年か過ごした。煉瓦の壁は真夏を除いて常に、結露した水が溶けて滴っていた。
日に当たることもろくになく、時には修道女たちと共に無言の行を行いながら、コケモモ酒や修道女たちの食事を作っていた。

「あたしは、城砦の壁と倒れかけた松のあいだの窪地にいました。それで窪地の底から見上げると、サラファンに頭巾(プラトーク)を被った女の人がいました……城砦の壁の上から覗いていました。 ええと、なんだか、ふつうの農民とは少し違う姿でした」
「どう違うのだね」
「少し変に思えたのは、あの……、考えてみますと、このあたりではあまり見ない色の服を着ていたから……でしょうか。それに、ぽっちゃりしていました。イリーナ・テレージナ夫人よりぽっちゃりしていましたわ」

アクリナはぼうっとしているが、意外と観察眼がある。農奴で『ぽっちゃり』しているのは珍しい。彼らは食うや食わずだからだ。
「ふむ」
私は釣り竿をあげる。餌だけ盗られた。

「スモレンスクのサラファンは黒や赤です。若い娘さんは赤い服。でもその方は緑のサラファンに鮮やかな青い帯を巻いていました……、そう、プラトークの刺繍が変わった模様でした」
「緑は珍しい。模様というのは?」
アクリナはふたたび考えに沈み込む。「はい、……。見たことがありません。模様でしょうか。南瓜に二本の脚が生えているみたいな……、脚は片方は太くて、片方は棒の義足のような……」
まったく何が何だかわからない。

プラトークには、だいたい、スラヴの伝統的な、少々いかつい幾何学柄か、鳥や花、果物などが刺繍される。たまにキノコや松の木だ。
女たちは自分の服に自分で刺繍して身を飾る。脚の生えた南瓜を題材にしている婦人など見たことがない。
「優しそうな方でした。白髪になった髪がふわふわしていて、目は落ちくぼんで、なんだか悲しそうでしたけれど……青い目で。 その方はあたしと目が合うと、すごく驚いたようすで、フョークラかどうかと訊いて、」
その婦女が五十がらみであれば、フョークラが(比較的)若く、光り輝くほど美しく邪悪であったころのことを知っているだろう。

アクリナが言う。「あたしはフョークラではないと答えました」

「あたしは、その女の人に、この塀のこちら側は何もかもЯ家の領主様のものだからキノコも果実も採っては駄目だと言いました。 ……その方は、もちろんわかっています、とおっしゃいました。Я家の領主様には何度かお目に掛かったことがあるとも。そうしたら、あたしのことをЯ家の貴婦人かとお尋ねになるので、とんでもないと……」
「そういうときは貴婦人と答えたまえ」と、私は言う。
「領主の姉だと」
「いけません。……そんな、貴男様の神聖な血筋を汚すようなことは申し上げられません」
「神聖かどうかはともかく、確かにまずいかも知れないな。おまえの容貌なら、父とフョークラの娘だと間違えられるだろう」
フョークラは恨みを買いまくっているから、『娘』のアクリナに対して憂さをはらそうという者もいるかもしれない。

アクリナは言葉に迷いながらゆっくり喋る。 「農奴どうしだとわかると、お喋りするだけだと言って、その方は……。よろけながら塀を降りてきました」
アクリナは不安そうに訊いた。 「まずかったでしょうか」
「いや、こっそりうちの森のものを盗んでいるのでなければ別に構わない」
アクリナは安心したようだった。

「……ツェレスティナさんとおっしゃって、バシュキロフ家の農奴です。 ただの農奴ではなく、薬草を扱えるから、今のご嫡男のレオニード様やお嬢様がお小さいころには、よくお薬を煎じて差し上げて……、あの、貴男様にも、お小さいときに蛇に噛まれた傷を手当てして差し上げたそうです……。羨ましいことに……。 あたしも少し薬草のことを知っているとお答えしました。 それで、その方はあたしに、『お友達になろう』とおっしゃったのですわ!」
なんというか、彼女の純真無垢さには時々驚く。
「アクリーヌ、一度しか会っていないのにお友達なのか?」
西北の隣家のレオニード・バシュキロフ君(32歳)、すなわちそのツェレスティナという女農奴の所有者の嫡男たる紳士と、私は何千回となく会っているが、『お友達』ではない。

アクリナはきょとんとしている。 「いえ、その後もツェレスタと会いました。『ツェレスタ』と呼んで欲しいと言われたのです。 一昨日、あの、やはり同じ城砦のところです。木イチゴの白い花びらが散って、どんどん実が膨らんでいましたわ。
木イチゴの木の蔦に、変わった枝がありました。よく見ると、変種の赤い花が咲いているのです。枝変わりと言うらしいですけれど……これを挿し木したら、もしかしたら……」
アクリナは挿し木にした後の満開の花を想像している……? 
うっとりしだした。 「ああ、赤い花の話は後で聞こう。ツェーリャはどうした?」

アクリナは黒い提灯袖から伸びた、すんなりした両手を振り回し、一生懸命、話を続けた。 話が逸れそうになるのを元に戻するのは私の役割であった。慣れた。
「ツェレスティナは、二度目にいらしたときに、……木曜日でしたわ」
「先週の木曜日かね?」
「はい、そうです。ツェレスタは、あたしの服を見て、突然、怒りだしました。すごい勢いで」
アクリナは悲しげになった。
「『アクーリャ、あんたはЯ家の領主様のお妾なんだってね!』って怒鳴って……。 バシュキロフ家の他の農奴の方に、何かうかがったようです。 Я家で黒い服を着ている女は魔女で、領主様の……あの、あ」

「恋人だ」
「そうです。そうなのです。あたしは何もかも領主様のもので、領主様が黒い服がお好きだから、このドレスを着ていて、魔女ではないと言いました。
でも、ツェレスタは怒っていて、魔女だからそんなきれいな服を着ているんだ、おまえは、あの……、姿はきれいだけれど、中身は汚い、と……。色欲の悪魔に取り憑かれているのだと。 魔女だから、領主様をたぶらかして……。そんなことがあたしにできるはずがないのに」
「それは友達ではない」
私は溜息を吐く。そのように、極端から極端へと他者への評価を変え、感情を変えるのが我が国の民であった。
民衆だけではない。貴族であろうと僧侶であろうと普通だ。私のようにだらだらと心長い者は珍しい。まあ短気なときも多いが。

< p> 私はボートの縁に釣り竿を置く。元気づけようと、アクリナの背に手を伸ばし、薄い肩甲骨を撫でる。
「先週の水曜日と木曜日か……私は行けなかった。すまない」
「先々週の金曜日にいらっしゃいましたわ。それから先週の火曜日にお昼を召し上がってくださいました」
「それしか行っていないのか」
私は呟く。
それでは胡散臭い女であろうと友人にしたくなるかもしれない。


3.領主裁判

「すまなかった、アクリーヌ、先週は裁判があったのだ」
私はアクリナの背から手を離した。
「はい、お手紙で……うかがいました。裁判なんて、領主様」
アクリナは溜息をついた。
「人を完全に公正に裁くなんて、領主様の義務とはいえ、ああ、……貴男様だからお出来になることです……」

私はつい本音を漏らす。「いや、領主でも滅入るぞ……。ミュリコフ家の四男がとにかく荒っぽい若者でな。おまえも知っているだろう、フォマ・ミュリコフ」
「は、はい。動物好きの、ちょっとぼうっとした……あ、あたしより、もっとぼうっとした……」
「ああ、おまえよりぼうっとしている」
アクリナは自分がぼうっとしていることを気にしているらしい。

「あいつがミュリコフ家の本家の三男で、四男はまだ十七か。フォマ以外のミュリコフ家の男たちは気が荒くてね……。長男も次男も、今は妻子もいて落ち着いたが、手を焼いたな。 四男は、それにも増して乱暴だ。名前はイヴァンだが、皆、ヴァーネチカと呼んでいる」
「まあ……」
アクリナは懸命に理解しようとしている。
「フォマの弟のヴァーネチカが暴れ者なのですね」

「ああ、そうだ。ヴァーネチカはとにかく兄たちよりさらに喧嘩早いのだ。 別れた農奴の娘が、シシューキン家の次男の五男の……14歳くらいの子供と交際しだした」
私は裁判の話を続ける。たまには領主の仕事の一端を話しても良いだろう。

「ヴァーネチカには、何度か裁判をしている。全部、暴力沙汰だ。……月に一度、日曜に、河原の広場で格闘大会をやっている。あれの常連だ」
我が国にはそういう娯楽があった。市場や広場で腕自慢の男たちが倒れるまで殴り合い、それを見物して楽しむ。
時には死人も出る。
皇帝陛下が何度禁令を出そうと止まらない。

「格闘大会ですの……。シベリヤの市場でもやっていたようですが、怖くて見たことがありません」
「うん、おまえが見るものではない。 ただ、一応ルールもあるようだし、農奴が殺されたり不具になったりしないかぎり、領主が止められるものでもない。気の荒い連中には良い憂さ晴らしになっているようだしな」
そしてミュリコフ家には気の荒い連中ばかりいるのだ。フォマ以外……。

「楽しんでいらっしゃるのですか、あの方たちは」 アクリナがわずかに驚いていた。
「そうだろうね。……格闘大会ならまあ良い。だが、ヴァーネチカは、シシューキンの小倅(こせがれ)が、どこぞの娘と逢い引きをしている小屋に押し入って、拳一発で肋骨を砕いた」
「ええ!」
「クズネツォフ家のボリスが領主館に駆け込んで来たから、私は医師を呼ばせた。シシューキンの小倅は一晩高熱を出してね、だが、なんとか助かった」
「あ、安心いたしました。シシューキンの息子さんに薬草を出しましょうか」
「いや、14歳の少年だぞ。あっという間に元気になって、もう畑に出ている。 それより、ヴァーネチカだ。娘に別れを切り出したのはヴァーネチカからだし、シシューキンの息子を襲うまえに、話し合いひとつしようとしていない。これは、娘を取り返したかったのではなく、ただ殴りたかっただけだ。同情の余地はない」

アクリナは怖そうに、じっと私を見上げていた。
「それに、やつには似たような前科が二回ある。 領主館の前の庭で裁判をした。以前のときは、今度やったら『兵役に行かせる』と言っておいた。……やつの刑罰は兵役だ。奥様がヴァーネチカの額髪(ひたいがみ)を切ってやったよ」
額髪を切るのは今度徴兵に応ずる者への目印だ。 兵役に行く男子は農奴数十人の中から選ばれる。たいてい、農奴たちが決める。当然のように、農村共同体(ミール)の中での厄介者や体力が劣って農耕が下手な者が選ばれる。

兵役期間は一生だ。
体力のないものばかりが集まる軍隊では意味がない。ヴァーネチカの荒っぽさは、我が国の軍にも役立つであろう! 存外、出世だってするかもしれない。

「……ヴァーネチカは、一生、どこかで兵隊さんになるのですね」
アクリナは寂しげだ。彼女の婚約者は遙か昔に、兵隊に行き、ナポレオンのフランス軍のために殺された。
私は一瞬、アクリナの非難を恐れた。

「先週はそんなことをやっていた。……おまえに会えなくてすまない」
今度はアクリナがみずから、私のウエストコートにもたれかかってきた。涙ぐんでいる。
私は彼女の薄い肩を取り、顔を上げさせた。泣きかけたアクリナはまぶたがうっすらと石榴の実の色に染まり、美しい。……。だから、アクリナが泣くのが好きなのだ!

「どうした? ヴァーネチカが可哀相なのか」
「いえ、ヴァーネチカはきっと兵役で活躍しますわ。……ただ、ツェレスタが……」
「ツェレスタ? 新しい友だちの?」 「旦那様はずいぶんまえに亡くなり、一人息子が……あの、あまり頭が良くなかったので、農村共同体の集会で兵役に行くことになったそうです。今年で十年で、27歳になるはずだけれど、気が弱い子なのに、ってツェレスタは大泣きして……」

『大泣き』とは聞くだけでうんざりする。「大泣き? それはいつだ?」 アクリナが答える。「水曜日。会った当日です」
会った当日に、『お友達になりましょう』と言い、息子の愚痴を言って泣きだす。
次に会うと非難しまくる。まあ、我が国では珍しくない類だ……が、アクリナとつきあわせたい婦人ではない。

<@>「その婦人は、おまえにあまり良い影響を与えなそうだ。私がもっと来るようにする」
「貴男様のお仕事はたいそうお忙しいではありませんか。ご迷惑でなければ、もっとお手紙を書いても良いでしょうか」
「ああ、もちろん。私はおまえの手紙が好きだ。……そうだ、読みたい本はあるかね? 届けさせる」

「聖アクリナ様の聖人伝はありますでしょうか。できれば絵入りのものが」 アクリナの名前の元になった聖女だ。十二歳で致命【殉教】した。敬虔なアクリナらしい選択だ。
「それから、……コトシヒン? コトシーヒン、という昔の偉い外交官の方が書いた、『アレクセイ・ミハイロヴィチ(1629-1676)の治世中のロシアについて』(じっさいには1840年出版)……という本が出る予定だと聞きました。読んでみたいです。……アレクセイ様は、ピョートル大帝のお父様のツァーリ様でございますよね」 ……、我がアクリーヌは、知らないうちにずいぶん物知りになっているのだった。


私はそれほどアクリナを放っていたろうか。ほぼ毎日、手紙を読んでいたから、彼女の気配だけはいつも感じていた。
申し訳なさとともに、もっと変な輩が「友だちになろう」だのと、アクリナの寂しさにつけ込んでくるのではないか? 私が、確実にアクリナに会う日を決めるか?
それとも、イアに買ってやったように、子犬を買ってやるか? 犬が怖いアクリナでも、あの犬のようなスピッツならば大丈夫だろう。少なくともアクリナを罵る『お友達』などよりはるかに良い。


今の私は、日曜日の晩餐は必ず家族で取ることにしている。
その後は、翌週の領地での作業計画を立てる。
また土曜日の晩には、明日こそ教会に行き、奉神礼に出席し農奴たちに『領主様は敬虔で高潔なお方だ』と思わせようと誓って、寝台に入り必ず寝過ごすのだった!
今朝も寝過ごした。

最近の領主館は、イアにスピッツの仔犬を買ってやってからさらにうるさい。
膝くらいの高さのジャーマン・スピッツの雄だ。ふわふわした長い毛で、腹は白、全体はショウガ色、毛先の一部は燃えるようなオレンジをしている。
飼い主たるイアにイヴァン・スサーニン【皇帝を守るために命を懸けたといわれる農民】もかくやという忠誠心を抱いている。

先日、奥様の従妹であるイアに、馭者見習いのくせにクズマが怒りの声をあげた。
これはイアが厩舎に座り込んで馬に仔犬をけしかけ、馭者たちの仕事を邪魔していたからだ。
「いい加減にしてくれよ! 領主様と奥様の馬だぞ。奥様がどれだけ馬を大事にしているか、従妹のあんたなら、よく知ってるだろ!」
「リーザ奥様の相手をしてくれるのは、馬くらいだもんね」
「ああ? なんてことを言うんだよ! あんなお優しい……お優しくはないけれど……、ご立派な奥様に!」

クズマが声を荒げ、厩舎の奥にいたヒローシャがびくりとしてイアに諫言(かんげん)を申し上げようとしたところ、 小さな塊が、クズマにさっと飛びついて右腕の骨をがりがりと齧った。イアの子分のスピッツである。

確かになかなか可愛いし、賢い犬である。番犬としても役立つだろう。
皆が居間に集って仔犬を撫でまわす。
我が嫡男のミハイルは仔犬に乗ろうとし鞭を振り回す。
リザヴェタが叱りつけ、イヴァンは怯えて泣き、使用人の子供たちも集まってくるし、料理女はこっそり調理クズをやる。
あげくのはてに、喜ぶ仔犬をイアは、ハーメルンの笛吹き犬のように走らせ、子供たちがぞろぞろついてばたばたと居間を走り回るのだ!

……というわけで、私は朝から自棄(やけ)になり、アクリナのところを訪れ、南の湖へ釣りに引っ張り出した。
皆、とうに気づいていると思うが、釣り自体よりぼうっとするのが目的だ。

私はアクリナの肩甲骨を右手で支え、上半身に覆い被さり、ボンネットの縁をあげた。そっと接吻する。
先ほどの木イチゴの酸っぱい味がする。
「そんな無礼な女のことは忘れてしまえ。イリーナ・テレージナ夫人もいるし、ほかに婦人の友人が欲しければ探そう」
(だがそれはイアの仔犬を探すのとは訳が違う……どんなご婦人ならばアクリナの友人になれるのだろうか。キノコ好きのご婦人?)

「ツェレスティナだったか? その女をヒローシャかクズマに追い払わせようか?」
アクリナは私から顔を放す。頬が赤い。物欲しげなように見える。
「いえ、あの、仲直りしたのです」
「仲直り?」
「はい」
アクリナは、はだけかけた皇帝様式のドレスの胸の紐を結び直した。

私はドレスの上から彼女の脇腹を撫でる。
「金曜日と土曜日は怒鳴られた後だったので、城砦の近くに行くのはやめました。それで、一日じゅう、採った木イチゴでジャムを作っていました。それにキノコの世話と。 ……そうしたら、ええと、土曜日に、いたのです。キノコの小屋の裏に、ツェレスティナが。あの、木の壁に手をかけて……。立っていました」
勝手に入ってきたのか、という言葉を私は飲み込んだ。言ったらアクリナは、続きが話せなくなるであろう。

「あの人はあたしをみつけて、嬉しそうに『仲直りしましょう』と言ったのです。そう言うために、申し訳ないと思いながらもЯ家の領地に入って、あたしを探したそうです。 あたしも『ではまたお友達に戻ったのですね』と答えて……ツェレスタは大喜びして、あたしに抱きついて、」

「……アクリーヌシュカ。なあ……」
「あの、ツェレスタは悪い人ではないのですわ。ただ、あたしが貴男様の物だと言うことを知って、何か『おこぼれ』が欲しくなったのだと思います。 貴男様の物だから何も差し上げるわけにはいかないのですけれど、あたしはツェレスタを家に入れて、お茶を出しました。
申し訳ありません。全部、貴男様の物だから、お茶といっても、すごく薄くしました。 ……あの人は、あたしの服や靴や、家具をいろいろ褒めていましたけれど、何も欲しがったりはなさいませんでした」

人の良いアクリナも、馬鹿ではない。 「貴男様にいただいた、あたしの薬草棚を見て、ツェレスタは、あたしの知らないことをいろいろ教えてくれました。悪い人ではないのですわ。ただ、貧しいだけなのです」

とはいえ、貧しいだけの悪い人ではない人々が、何の屈託もなく物を盗み、人を殺し、婦女やあるいは少年に不貞な行為を強要するのが我が国だった。

アクリナに友人がいれば良いとは思う。私がツェレスティナと会って、本当に善良な女ならば、いっそ金を渡して『アクリナの友人』という仕事をやらせるか? ……とはいえ、アクリナに会うために森の家まで来るとは図々しすぎる。

「私は子供のころ彼女に会ったわけか……覚えていない」
「貴男様でも覚えておられないこともあるのですね」 アクリナがようやく微笑んだ。
「お友達などいりません。テレージナ夫人が時々いらしてくださいますし、Я家の農奴の婦人も何人か手伝ったり、薬をもらいに来たりしてくれます。あたしは人が苦手ですし……。 それに、貴男様がおいでで、いつも、ご領地ごと、あたしを包み込んでくださっています」

竿が引いた。そのまま何かの魚が餌ごと湖のなかに連れて行った。 「先々週の金曜日だと。それではおまえが欲しくなるわけだ」
「あ、あの……」
アクリナは、口づけをしてくださいまし、と言い、もだえる。

私は湖の岸辺を見回した。 誰もいない。 私はアクリナのボンネットを後ろに跳ねあがらせ、ボンネットを留めたリボンが食い込んだ喉元に口づけする。
アクリナの背中の隠し釦を手探りした。アクリナが仰向けに倒れた。
「エ、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。あ、あたしを罰してください。あたしは甘い言葉に釣られて貴男様のご領地に外の人を連れてきてしまいました。申し訳ございません。ああ、……。 罰を、な、何でもしてくださいまし……」

「何でもって、皆、教会に行っている時間に?」
私は、私のついた膝の下に横たわる女の、黒い薄絹の胸元を下げた。ああ、いまだにこの瞬間は嬉しくて仕方がない。
「先ほどの木イチゴよりきれいだな」
白くなめらかで、だが少しざらつく肌の柔らかな膨らみの先端にある石榴色の突起が私の指に挟まれ、揉まれて、尖ってきている。

私はアクリナの唇に口づけする。
「……こんなところで、こんなことをして良いのでしょうか」
アクリナが自分が誘ったくせに聞く。「誰もいない。全部脱がすからね」

「ええ? そんなの無茶ですわ」……といいつつ、嬉しそうに見える。「ほんとうに、昼間なのに……全部、あ、貴男様の前に……あたしなんかの」

「ああ、全部だ。ドレスも下着も靴も脱がす。夏の昼間だ。何もかもよく見えるだろうよ」
「いや……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……」
「私に服を剥ぎ取られたくて仕方がないのだろう?」
アクリナの三つ編みを結い上げた、白っぽい髪のピンと紐を外した。 小舟の底に藁色の髪の毛が広がる。

…………。

「領主様! バシュキロフ家から使者が来ました。これからレオニード様がいらっしゃるそうです!」
すごい勢いで、二十サージェンも向こうの艀に、黒馬が現れた。
ヒローシャが私たちに叫んだ。

私は舟べりから外に見えないように、アクリナの白く蠱惑的な撫でたくて堪らない身体をボートの底に押しつけた。
アクリナがむき出しの両腕を上げ、顔を覆った。
私は岸に怒鳴った。「ああ、……すぐ行く!」 こんなことばかりだ! だいたい何故ここにいるとわかるのだ!
「……来週の月曜日、ああ、つまり明日の夜、行くからそれまで我慢してくれ……」
「わかりましたわ……」

続く予定です。時間がかかりますがお許しください。進行状況は『雑 -作者からお知らせなど』のページでご覧ください。


  • 註1
    リヴォニア戦争 リヴォニア(現在のエストニア、ラトヴィア)を巡る、ロシア・ツァーリ国とポーランド・リトアニア合同、スウェーデン帝国らの争い。このころのポーランドは強国でした。 戻る
  • 註2
    スモレンスク戦争 ポーランド・リトアニア共和国からスモレンスクを取り返すための戦争。失敗した。 戻る
 
街で行われた拳闘のようすです。

街で行われた格闘のようすです。16世紀モスクワでの格闘の想像図。

レールモントフの物語詩『皇帝イヴァン・ヴァシリエヴィチと彼の親衛隊、そして商人カラシニコフの歌』 イラストレーション  イヴァン・ビリビン (1876–1942) [PublicDomain]