第19話 ポルチャ(疫病)3*

領主様とセミョーノフ医師は、レオニードに連れられて、一番疫病が激しいという場所に連れて行かれます。そこでバシュキロフ家の農奴たちに会いますが、彼らは奇妙な行動をしています。
魔女のツェレスタが現れました。……
(なんというか、普通の小説です。)
*少々残酷でグロテスクなシーンがあります。

5.森の墓地

私たちは馬車に乗せられた。
私、すなわちЯ家の領主、それからバシュキロフ家当主の嫡男レオニード、セミョーノフ医師の順で馬車籠の座席に並ぶ。馭者台には、背を丸めた老馭者と、新米家令のルキヤン・ユーリエフがいる。
「馭者は年寄りだぞ」
私がそう言うと、レオニードが即座に言い返した。
「馭者がいないのだ」

「まあ、少し離れたところで降りましょう」と、セミョーノフ医師が穏やかに提案した。いつもはうっとうしい、ドイツ風に先端を跳ね上げた黒く太い口髭が頼もしく見える。

馭者はゆっくりと、二頭の馬車を歩き出させた。
呼吸によって伝染るかどうかもわからないが、セミョーノフ医師の指示によって私たちはクラバットで鼻と口を覆う。医師がいるのは心強い。特に、どうやら我が国には希有な無神論者で、人間をすべて、単なる動物としてしか見ないとなればなおさらだ。
が、結局、彼も治し方を知らない。私は暗澹(あんたん)とせざるを得ない。

バシュキロフ家の土地は、我が土地より少々高さがある。
境界になっているのは、南北に長い森だ。この森は我が家では『西の森』と呼ばれている。アクリナが住む家がある、あの森である。バシュキロフ家では単に『森』と呼んでいるらしい。

森の中には1、2サージェンの崖が続き、崖上がバシュキロフ家、崖下がЯ家である。
この高低差のため、森の中では、ほぼ我が領地に水が流れ落ちてくる。そして小川ができる。
高台にあるバシュキロフ家の領地は、ところどころに起伏がある。
耕地は平らな高台に集中していた。

馬車は、領地の真ん中を南北に突っ切る広い農道をゆっくりと走って行く。夏の耕地なのに人気がない。ヒマワリだけが道ばたに点々と咲いている。種から油を絞るのだ。空はよく晴れ、不気味なほどのどかだった。
レオニードや父上が農作業の事務所代わりに使っている丸太小屋(イズバ)が見えた。

私は数年前、リザヴェタとアクリナをこの地に連れてきた直後のことを思い出す。
前領主存命中のポポフ家に、アクリナが捕まった。境界を破ってキノコ採りをしていたためだ。罰を受けそうになり、代わりに私が鞭打たれた。
そのとき、あの小屋で休ませてもらった。とても長い、現実離れした夕焼けのなかでの出来事だった。遙か昔のように思えた。
今は初夏の青空の下だ。耕地では、青い麦が熟れつつあり、穂が傾き始めている。
実りは良いが、耕し手がいない。

それでも耕地のところどころで農作業をしている者がいる。
レオニードが悲痛な声で訊いた。
「セミョーノフ先生、彼らはどうすれば良いのでしょうか。今の時期、草刈りをしないわけにはいかない……」
セミョーノフ医師が言う。「まだわかりません。とにかく発病者との関係を訊いて……ええ、病人が家族であったり、恋人同士であったりした場合は休ませましょう」
レオニードはうなずく。
憔悴した彼を笑うのは簡単だが、うちの領地の農奴に伝染したら困るのだ。他人事ではまったくない。

馬車は、領地中央をまっすぐ走る道を東へと外れた。道は細くなっていく。森が見えてきた。我が家から見ると西の森だ。
小径の脇に、いつの間にか、細い川が流れていた。

私はレオニードに訊く。
幼なじみの私は、子供のころにはバシュキロフ家の領地にまで遊びに来た。この小道も馬で走ったものであった。
「レオニード、このあたりにこんな小川があったか?」
レオニードはさすがに気の毒になるような、痛ましい表情で考え込んでいた。頭を上げる。

レオニードはぼんやり言う。
「え? ……あれ、去年はなかったぞ。流れが変わったのかな」
小径は下り坂になっていき、それに沿って小川の流れも速くなる。どうやらこの先は谷で、谷は木々に埋もれている。夏の陽光が激しいぶん森は真っ暗であった。

新しくバシュキロフ家にできた小川は、耕作に便利に違いない。農奴たちの飲み水や生活用水にもなる。領地では小川は宝物だ。

小川……ちょっと待て、午前中にアクリナが話していた、『森のなかの窪み』と、何か関係があるのではないか?
先週、アクリナは森のなかで古い城砦をみつけた。砦をつくる煉瓦の壁の崖下が、長い窪みになっており、どうも小川が干からびた跡ではないか、と言っていた。
(アクリナが訥々(とつとつ)と話す、身近な地形や植生(しょくせい)の観察は驚くほど的確であった。観察眼があるのに『人を見る目』がないのは不思議だ)

この小川は、その城砦下の小川が移動したものではなかろうか。
水流が我が領のような低い位置から、バシュキロフ家の高い位置に移動するのは奇妙ではある。

私はレオニードに声をかける。
「なあ、レオニード。森のなかにあった、うちの小さな川の流れが変わった。あとでこの小川の上流を調べさせろ」
レオニードは嫌みなのか本当に疲れているのか、聞こえよがしに溜息をつき、物憂げに答えた。「ああ、ああ、わかったよ。君は相変わらずだね。自分の物だと決めたら、絶対に手放さない」
「別に君が移動させたなどとは言っていない。冬の雪で流れが変わったのだろう」
「それで、エヴゲーニイ、どうせ君は三十年も前の地図を持ち出して、流れを戻せとでも言うのだろう。今はそれどころではない。後にしてくれないか」
レオニードは相当に苛立っている。

「……ああ、レオニード君、もちろん落ちついてからだ」
そして私は、ついうっかり、レオニードをさらに落ち込ませるようなことを尋ねた。「で、父上はいつお帰りになるのだ?」
当然ながらレオニードはさらにうんざりした表情になった。
『おまえでは役に立たない』と言っているのも同然だが、じっさい、この地の領主たるお父上のお力が必要になりそうなのだから仕方がない。
……感染しているのにまだ発病していない農奴を売るのは領主でないと無理だ。

新米家令のルキヤン・ユーリエフが溌剌(はつらつ)と答えた。
若い美男であるが、安っぽい。ついでに美男具合でも、うちの領地一の美男、フォマ・ミュリコフの足下にも及ばない。

「領主様と奥方様は、火曜か水曜にはお帰りかと存じます。Я家のご領主様」
レオニードがユーリエフ2を叱りつけた。「ルキヤン、余計なことは言うな!」
ユーリエフ2が何の屈託もなく訊き返す。「ですが、レオニード様。Я家の領主様は、貴男様の幼なじみでいらして、イア様の義理のお従兄で、ですから……先々にはご親戚にも」

私は思わずユーリエフ2に訊いた。
「はあ? 何だって? ユーリエフ2。そのようなことを許した覚えはない」

「ルキヤン! 僕の人間関係もわかっていないくせに口を出すな」
レオニードがユーリエフ2を大声で叱りつけた。彼が召使いを『注意する』ではなく、怒鳴って叱るところなぞ始めて見た。珍しい。
「Я家の領主、この男は、僕の幼なじみだが友ではない。父上の代から、境界争い好きで裁判好きだぞ! 先祖代々、女たらしか、妙な物のマニアだ。そしてこいつは全部揃っている。

10年前!

レオニードの妙にさわやかなテノールの声が、さらに張り上げられた。

馭者台の上のユーリエフ2が呆然と振り返り、老いて鈍そうな馭者までこちらを見る。

私と反対がわに座っていたセミョーノフ医師だけが、人間界のことなどどうでも良いらしく、外の小川の急流を眺めている。清流だ。

坂の下りがきつくなるに従って、幅半サージェンほどの小川の流れも速くなる。
魚が跳ねた。子狐か何かが森からさっと飛び出し、小川を横切って跳ねながら、獲っていった。
「見事だ!」と医師はひとりで叫んだ。

さて、レオニードは私を責め続ける。
「10年前だ! エヴゲーニイは近所の家の奥方を寝取って、ご亭主にばれるとしばらく国外に逃げていた恥知らずだ。しかも当時、前の奥方と結婚したばかりだったのに……」

セミョーノフ医師が口ひげをひねりあげながら言う。
「なるほど。オイゲン・パウルゼンが妙に近所の紳士淑女に嫌われているのはそのためですか! 私はそのころドイツにおりましたからな。なるほど。何事にも理由があるものですね」
「ほかにも色々、……Jeu de Vénus(ヴィーナスの戯れ)!」と、レオニードは下手なフランス語で言った。「大昔には彼も美男だった。ずいぶん有効に活用したようだ!」

大昔……。

馭者台に、馭者と並んで腰掛けていたユーリエフ2がなんだか嬉しそうに私を見ている。
「貴婦人はきっと素晴らしいでしょう。僕も一発お相手をお願いしたいものです」

「え?」
私は思わず聞き返す。ユーリエフ2は続ける。
「レオニード様、貴男様もそれくらいなさったらいかがでございましょう。イア様もきっと、貴男様に一目置くはずでございます」
言葉遣いは丁寧だが、話す内容がそのへんの居酒屋にたむろしている若い衆(わかいしゅ)と変わらない。
我が領地の荒っぽい馭者見習いのクズマ少年や、領主裁判で徴兵に送ることに決めた乱暴者のヴァーネチカ・ミュリコフだとて、こんな下品なことは言わない。(少なくとも私の前では)
ああ、実直だったユーリエフ1が見たらどれほど嘆くことか!

「……ああ、レオニード君、こいつはクビにしたらどうだ」
「後で考える。くだらないことは皆、後回しだ」

馬車が停まった。
私たちは老馭者を残し、レオニードの案内で小径をさらに下る。
石段を数段降りた。どうも古い煉瓦に、このあたりの黒土がこびりついているように見える。アクリナが言っていた城砦に続くのであろうか。

連れて行かれたのは、森が丸く開けた墓地だった。人の出入りがあったらしく、夏草が踏みにじられている。
木々を透かして、遠くに農奴たちのものであろう丸太小屋が建っているのが見える。
墓地には正教の粗末な八端十字架や墓碑代わりの石ころが並んでいる。

何かおかしい。
十字架は古いものばかりだ。伝染病が流行り、死人が出ているというのに。

セミョーノフ医師が遠くに見える丸太小屋(イズバ)の群れを指さす。
「あれが農奴小屋ですね。一番病人が多いのはどちらですか? あまり近づかないようにしてください」

レオニードが言う。「セミョーノフ先生、違います。そうではない」
レオニードが、そう言って瞼を長い手で覆う。深く呼吸してから言った。
「まず、墓地を見て欲しい」


墓地のそばには、もっとも簡素な丸太小屋(イズバ)がある。遺体を安置しておくための小屋だ。冬に死んだ者は、凍り付いた『母なる湿れる大地』に埋めることができない。

我が国の民は、大地こそが何よりも清らかで優しく偉大だと考えているから、死者の体を春まで置いておく。冬の初めの死者は死にきっていなかったから、生き返り、吸血鬼扱いされることもあった。

墓地の奇妙さの理由に気づいた。何カ所か掘り起こした跡がある。モグラではなさそうだ。
膝近い夏草が倒れ、土が盛り上げられている。
そして墓地の一番奥に、真新しい、大きな煉瓦積みの小屋があるのだ。

「あれなのですよ」レオニードの声がする。
「農奴たちが何か妙なことを始めているようなのです」
数年前、鞭打たれた背中の痛みに耐え兼ねながら目に入った夕焼けが戻ってきたかのようだった。
まだ昼間なのだが。

私がまず見たのは炎だった。
「あれは何です」
セミョーノフ医師が真新しい小屋を指さして訊いた。丸太で建てた小屋ではない。
煉瓦の真四角な小屋に見える。
確かに戸外にはあまりない。が、我々にはおなじみのものだ。

墓地の奥に、石を積んだペチカが作られているのだ。
煙突からは灰色の炭の混じった煙が立ち上り、大きな焚き口に薪が入れられ、中で炎が燃え上がっているのがうかがえる。
(にかわ)に似た甘い匂いが漂っていた。
「ペチカです」レオニードが顔をしかめた。「嫌な匂いだ」

確かに嫌な匂いだ。
ペチカの煙突に当たる部分から黒い煙が出ている。
どこから見ても農奴の、くたびれ果てた老爺がひとり、しゃがみ込んで真新しいペチカの焚き口に薪をくべていた。
レオニードが、クラバットを口に巻いた姿で、老爺に叫んだ。「アガフォン! チフスが流行っている。五十以上の年寄りは隔離小屋で温かくしていろと伝えたはずだ」【当時は50歳で年寄り】

「う、あ……レオニード坊ちゃま」
アガフォンは、ぼうっとした表情でレオニードを見上げた。
「……疫病(ポルチャ)の死者は焼かないとならないのですと」

「どういうことだ?」レオニードが老農奴に訊いた。
「……まだ、あれだけ焼くのでございます」
丸太小屋を指さす。

私とセミョーノフ医師はアガフォンが指さした小屋の扉を開けた。
そしてすぐに後悔した。粗末な麻のルバーハをまとった死骸が大量に腐りつつあった。
「オイゲン・パウルゼン! 呼吸をしては駄目です!」
遺骸は十数体だ。子供や老人が多い。いっしゅん、遙か昔の光景を思い出した。フョークラが農奴の小屋のペチカのまえにいて、赤ん坊が泣いている。たくさんの赤ん坊だ。
……

私の目のまえで、小屋の扉が閉められた。
私は言った。「……あれがつまり疫病の死者ですか」
遺体を燃やす、というのは、我が国の信仰ではつまり、基督(ハリストス)が復活したさいに、自分が戻る体がないということだ。正教徒としては、耐え難いはずだ。

「すげえ……」
新米家令のルキヤンカ・ユーリエフが呟いている。
ユーリエフ2は、ぼんやりペチカの焚き口を眺めていた。ペチカの炎の中に、幼い子供の顔が見えた気がする。ところどころで明るく炎が上がり、ルバーハだか皮膚だかの切れ端が燃え落ちていく。

遺骸を手押し車に乗せた、農奴らしい男女が来る。
いずれも三十前後の男一人と女二人である。どの農奴も疲れ切って、顔に汗で髪の毛がべったり張りついていた。
「アガフォン、また増えた」
男が怒鳴った。白い羊のような巻き毛をした、大柄でがっしりした男で、ルバーハは泥と血で汚れていた。
ずっと遺体運びをし続けているのかもしれない。

農奴は白痴に近いような者も多いのだが、焦燥しながらも知的に見える。
村落共同体(ミール)の若手の世話役か何かであろうか。緊張しているのは確かだが、比較的落ち着いて女たちを率いている。

女たちは友人同士か。
三〇前後のおかみさんが二人だ。一人は興奮して、こんな状況なのに何故か嬉しそうだ。小柄でがっしりして、丸い顔をしている。何かをくちゃくちゃ噛みながら、跳ねるようにやってきた。「大丈夫よ。ツェレスタがなんとかしてくれるよ!」

「だって、……こんなひどいポルチャは初めて……」
もう一人の女が弱々しく答える。すんなりした女で、疲れているのか息を切らし、倒れそうに見えた。赤い頭巾が外れ、薄い色の髪があらわになっていた。
彼女は悲劇に遭った女ならではの陰鬱な表情だ。口を固く閉ざしている。羊のような巻き毛の大柄な男が、彼女の背に手を置いた。亭主かもしれない。

それからまもなく、農奴たちは、野外ペチカのそばの『外国かぶれの良い格好をした紳士』である私たちに気づいた。
三人とも目を見開き、緊張して動けなくなっている。
手押し車に乗った遺骸は三人分である。老爺と老婆、そして男児が一人である。
遺骸のルバーハの破れ目から、チフス特有の赤い湿疹が見える。

レオニードが苛立たしげに農奴の男に怒鳴った。
「ティモフェイではないか。どうしてこんなことをしている?」
羊の巻き毛の大柄な男はティモフェイというらしい。

「レオニード様だ!」
レオニードはそれなりに人望がある、のだろうか? 
農奴たちは少し安心したように膝をつき、叩頭した。

「ティモフェイ、叩頭より説明してくれ。遺体を焼くなんて……」
レオニードの言葉をセミョーノフ医師が遮った。
「いや、バシュキロフ殿、これは理に適っています。伝染病なのですから、遺体から伝染るかもしれません。何から伝染るのかまったくわかっていないのですから、焼くのが一番安全でしょう」

レオニードがセミョーノフ医師の言葉を受け、農奴のティモフェイという男に尋ねた。
「誰が考えた?」
「ツェレスティナでございますよ!」やけに陽気な女が叫んだ。「バシュキロフ家の魔女の!」
「あ、ああ。ツェレスティナか……」
レオニードの態度が柔らかくなった。ツェレスティナについて、医師と言葉を交わしている。
「魔女ですか。つまり、薬草使いなのですかな」
「そうです。先生、簡単な病や怪我などならば、僕の一家も世話になります」
「意外とそういうご婦人たちが上手い対応策を知っていたりするものです。そう思いませんか、Я家の領主殿、オイゲン・パウルゼン」

私が隣の領主だとわかったらしく、農奴たちが再び(ひざまず)き、私に叩頭する。
ツェレスティナというのは、午前中にアクリナが話していた『新しいお友達』だ。妙なところで活躍している。

私は、死体が焼けて焦げた皮が剥がれていくのを見るのにうんざりしてきた。そこから桃色の肉が見えてきてすぐに黒くなる。
19世紀とはいえ、私は野蛮な辺境国の領主だし、14,5歳のときには、ナポレオン軍の敗走も見た。
だから死体が怖いというわけではないが、まあ嬉しくはない。山羊のシロちゃんやスピッツ犬の黄色ちゃんを見ているほうがよほど胃に良い。吐きそうだ。煤もひどい。

匂いに釣られてか、狐や野犬、イタチの類いまで集まってくる。
我が領地でも、死人が出たら同じような対策を採るべきか。純粋に疫病対策としては良いのだろうが……。

「ツェレスタ!」
陽気な女農奴が叫んだ。
ペチカの裏はさらに下りになっており、階段があった。私は階段に、ぽっちゃりした女が隠れているのに気づいた。
ツェレスタ……なのだろう。ぽっちゃりしているどころか、あちこちの肉が垂れた不健康な太り方だ。農奴でこのような体型になるのは珍しい。
目も頬も垂れ、笑ったような目鼻立ちになっている。だが落ちくぼんだ目の底にある青い瞳は冷たく悲しそうだった。

アクリナが言うように、優しそうに見えるのは確かだ。
緑の服は着ていない。アクリナは、彼女の頭巾の模様が変わっていると言っていた。青い布に、刺繍がされていた。四角い渦巻きがふたつ繋がっている模様が列なっている。どうも、清国(しんこく)の模様のように見える。

「Я家の領主様でございますの!」
ツェレスタが突然、叫んだ。技巧を凝らしまくって訳がわからない気の狂いそうな音になったフルートみたいな声だった。
ツェレスタは太っているのに、妙に俊敏に私のそばに走り寄ってきた。足下に跪き、何度も頭を地面にぶつけた。
涙まで流している! まるでオペラ歌手のようにわめき出す。

「おお、Я家の偉大な領主様! 申し訳ございません。申し訳ございません! あたしは知らずに、貴男様の大事な、お美しいお方に馴れ馴れしく近づいてしまいました。
あたしのような無知な卑しい女がお美しいあの方に近づき、貴男様はさぞやお怒りでございましょう!
ああ! Я家の領主様! 申し訳ございません」

『お美しい大事な方』はアクリナだろう。アクリナはツェレスティナに二度目に会ったとき、私との『不貞な関係』を罵られたと言っていた。
バシュキロフ家の魔女が、頭を打ちつけ続ける。それに連れて動く背中を見下ろしていると、牛の胃を膨らませきった物体が跳ねているようである。昔、葬式の時に雇われたという『泣き女』とはこのようなものであろうか。

「……何故、それほど謝る?」
という私の声はツェレスティナの詫びの大声にかき消されるのであった。
「Я家の領主様、ああ。ああ! あたしが貴男様のお美しい大事なお方の、恐れ多くも『お友達』になろうと試みたことを、その不埒さと思い上がりを何卒(なにとぞ)お許しください!
貴男様は、貴族であり、生まれながらに『殿方』という優れた性質をお持ちのお方です。貴男様の、男性の限りない尊さとお力を、お慈悲へと注いでくださいますよう! 老いた女農奴にすぎないあたしをお許しくださいませ!」

ここまで謝られると皮肉か何かかと思われてくる。しかも絶対に心にもないことを言っているのだ。

ツェレスティナはこのように奴隷のような(奴隷だが)言葉を続けながら、私のまえで頭を地面に打ちつけ続けた。……そんなことをされてもまったく嬉しくないし、慈悲の心も起こらないのだが。……

「やめてくれ。ツェレスティナだったな」

「ツェレスタ。もう良い」
レオニードが地面に膝をつき、泣きじゃくるツェレスティナの腕を取った。
「……レオニード様」
「ツェレスタ、こいつは僕の幼なじみだ。僕たちが子供の時、蛇に噛まれたこの男をおまえは薬を煎じて助けてやったね。嫌みなやつだが、農奴に訳もなく乱暴はしないよ」
「ああ、レオニード様……」
安芝居のようにレオニードの麻のシャツにすがりつく。

「さあ、立ってくれ。……セミョーノフ医師、遺体は彼女が言うように焼くのでよろしいか」
セミョーノフ医師が黙ってうなずいた。

バシュキロフ家の領主館に戻ると、私たちはポポフ家の家令ポヤルコフに迎えられた。
陰気な小男だが、さすが長年、ブラック領主であるポポフ家の家令をやってきただけある。
玄関間の扉の開け具合、フロックの脱がし具合、すべてが完璧だ。

私は居間のテーブルに着いた。テーブルクロスは真新しい。
いつものバシュキロフ家のように、あちこちの花瓶に見事な薔薇がたっぷり活けられている。
留守のうちにポヤルコフがやらせたに違いない。
白と金桃色のナポレオン様式の壁紙のまえに、大理石の台のうえに中華風の花瓶が置かれ、色とりどりの薔薇や菫、アクセントのシダの葉が明るさを振りまいている。
まったくいつものバシュキロフ家以上だ。

ポヤルコフは小間使いに命じ、人数分の紅茶を持ってこさせる。「皆様、どうもお疲れのご様子でございますね」
続けて小間使いに指示する。「アナスタシア、甘めのジャムをたくさん用意してください」

「さすがだな、ポヤルコフ。小間使いの名前まで覚えたのか……」
私は疲れきりながら、ポヤルコフを褒めた。
「いえ、Я家の領主様。御宅のテレージンのほうが私より若く、機敏かと存じます」
「テレージン? あいつはご主人様に説教するのだぞ。私のことを『語学がやたらにできるだけのぼんくらの元・色男』呼ばわりした」
信頼できる雇い人と(私の雇い人ではないが)、くだらないやりとりをすると落ち着いてきた。桃のジャムの甘さが身体に沁みてくる。
ルキヤン・ユーリエフはポヤルコフが指図して出された紅茶に、苺のジャムをたっぷり入れて飲んでいる。
ポヤルコフがやったのが、こいつの仕事なのだが。

レオニードが私に訊いた。
「ツェレスティナが言っていた、君の『大事なお美しいお方』というのは、アクリナさんか」
「ああ、多分。アクリナも彼女に会ったと言っていた」
「ツェレスタがアクリナさんに何をしたのかい?」
「いや、別に。会って、薬草の話をしたらしい。薬草が使える女どうしで友達になるそうだ」

「ああそうなのか。ツェレスタも寂しいのだろう」と、レオニードは言った。
「僕たち一家も、農奴たちも、彼女の薬草にはずいぶん助けられた。もっと何とかしてやりたいのだが……この騒ぎが収まってからだ。セミョーノフ先生、後はどうすれば良いのでしょう」

医師は、じっと考えながら低い声で忠告をする。
老人や子供の致死率が高いのだから、体力がないものが死ぬのだろう、農奴たちに栄養をつけさせろ、ジャムを配れ、と言う。もっともだ。
『ツェレスティナさんのやっていた遺体を焼くのは良い対策だろう』、とも言った。
……私は、セミョーノフ医師は理知的で有能ではあるが、理知的すぎ、我が国の民衆の非合理さとはまったくかけ離れた思考のなかに住んでいることを忘れていた。

ツェレスティナの話が出たついでに、私はレオニードに訊いた。
「変わった女だな。頭に巻いていたのは清国の模様の布ではないか?」
「うん、一人息子が徴兵に行っていてね。清国との国境あたりにいるらしい。一度、誰かに代筆してもらって清国の土産物を送ってきた」

「徴兵に送るのに、一人息子は避けるのではないか?」
私が徴兵に行かせることにしたヴァーネチカ・ミュリコフは四男だ。
レオニードは紅茶を飲む。
「……農村共同体(ミール)で決めてしまった。
息子は少々頭が足りなくてね、邪魔にされていたのだ。ツェレスタは可哀相だよ。亭主も祖国戦争【1812年ナポレオンのロシア侵攻。ロシア側の呼称】で死んでしまったし」
それはアクリナの許婚と同じだ。


続きます。