第19話 ポルチャ(疫病)4

バシュキロフ家の魔女ツェレスティナは、疫病対策として『遺体を焼く』よう、他の農奴に命じていました。バシュキロフ家から帰ろうとした領主様は、西南の隣家「ポポフ家」の有能な家令ポヤルコフに、バシュキロフ家の探検に誘われます。そこで領主様が見たのは、妙な動物の骨と、烏にも見える、得体の知れない空を飛ぶ生き物でした。

1831年7月,日曜日

6.バシュキロフ家の領地探検

甘い果物ジャムの入った紅茶を飲むと落ち着いてきた。
私の向かいに座ったレオニードはがっくりと首を垂れている。
セミョーノフ医師が、レオニードを『レオンハルト殿』とドイツ語で呼んだ。
レオニードが顔を上げ、きょとんとしている。

「え、レオンハルト? 何です、それは」

医師としては、レオニードを慰め奮い立たせているつもりらしい。
「レオンハルト殿、できることはやりましょう。よりによってバシュキロフ家に貴男しかいないときにポルチャが広まったのは不幸なことですが、チフスはペストと違って、必ずしも罹患(りかん)した全員が死ぬわけではありません」

セミョーノフ医師は、ユーリエフ2に馭者を呼ばせる。
馭者に、医師宅の使用人に薬を持って来るように指示している。さらに婚約者で看護の勉強をしているドイツ人の令嬢まで手伝いに呼ぶつもりらしい。
「ご令嬢をこんな場に呼ぶなんて……」
と、レオニードは呟いていたが、医師は平気で言うのだった。
「何、シャルロッテは若くて頑丈です。チフスに(たお)れることはありません」

私はヒローシャを帰してしまい、馭者もおらず馬車もない。バシュキロフ家の馭者はあちこちに出ているらしい。
すかさずポヤルコフが言った。「Я家の領主様、馬車がないのではございませんか? 粗末な車でよろしければ、私が乗ってきた、当家の馬車でお送りいたします」

ポポフ家の馬車……小さな馬車籠で、一頭立ての馬車に同乗し、バシュキロフ家の領主館を出た。砂利が妙に白く見える。
馬車籠は狭く、ポヤルコフと並んで座ると座席がきつい。ポヤルコフの汗の匂いがする。

「Я家の領主様」ポヤルコフは禿げかけた頭の汗を拭く。「むさ苦しくて申し訳ございません」
私は、戻ってまず何をするべきであろうか。隔離をうまくやったかどうかの確認、それに、体力がつきそうな食物の配布……。あとはどうする。医師を呼んだところで今以上の手立てはない。
私はポヤルコフの言葉にぼんやり答えた。
「……いや、助かるよ」

ポヤルコフが落ちくぼんだ目を見開いた。とつぜん、老け込んで縮んだ背が伸び、大量の物事を見事にさばいていく、有能で機敏な家令の姿が現れた。「Я家の領主様」

「それででございますね。Я家の領主様、先ほどの小川の上流のようすを拝見させていただくのはいかがでございましょう。
あの、流れが変わったという小川でございます」
さすが老練な家令だ。ポポフ家の財産をきっちりと把握し、変化を見逃さない。
「それは良いな。思いつきもしなかったよ」

ポヤルコフが何の淀みもなく語りだす。急いでいるときのテレージン以上の早口だ。……まぶしい。(私は本来は実務に向いていないのだ!)
「あの小川はЯ家の崖の麓を通って、当家とЯ家の境で、当家のほうに流れこんでおりました。
それがどうも、近ごろでは水量も少なく、ほとんど水の流れない日も多いのでございます。(あるじ)の財産の川が、バシュキロフ家の領内で流れを変えているとなると、大事(おおごと)でございます」

「……主はアレクサンドル殿の甥御か。レフ・ポポフの弟であったな」
「さようでございます。主人は首都サンクト・ペテルブルクの官庁で、皇帝陛下のおん覚えもめでたくお勤めなさっております」
私は、(レフ・ポポフの弟ならば『ぼんくら』なのではなかろうか)という言葉を飲み込んだ。
そう思っていても、ポヤルコフは忠義者であるから、不在の主人を褒めまくることであろう。

ポヤルコフが馭者に呼びかけた。「『ポポフ-バシュキロフ街道』を逸れて、東北の森へ行ってください」
ポポフ家では、アクリナの住む『西の森』を、『東北の森』と呼んでいるらしい。

『ポポフ-バシュキロフ街道』というのは、先ほど私たちが、農地を南へと向かった広い道だ。
人気のない耕地を通り、馬車が先ほどより手前の曲がり角で東へと曲がった。
Я家では『西の森』、バシュキロフ家では『森』、ポポフ家では『東北の森』と呼ばれる、あの森へ入っていく。三っつの領地にまたがる森だ。
車輪は、下生えの羊歯を踏みながら、松と白樺の道を抜けていった。

「ポヤルコフ、あの小川の源流を知っているかね」
「ドニエプル川の支流のひとつでございます。
小川のことは今年の春から気になっておりましたので、私は、先日、バシュキロフ家や貴男様のЯ家の前を通る街道に沿って、小川の様子をうかがってまわりました。
あの小川の上流で、街道と交差している部分は変わっておりませんでした」
ポヤルコフは有能だ。
「ふむ。では、バシュキロフ家のどこかで異変があったわけか……」

馭者の大声がした。「家令様、あれはリュボヴ川の上流ではありませんか」

「え、あの川は『リュボヴ川』なのか」
ポポフ家の、……恐らく、先々代の当主アレクサンドル・ポポフがそういう名前にしたらしい。リュボヴはアレクサンドルの奥方の御名だ。英語でLOVEという意味だ。

「素晴らしい名前だな。リュボヴ様はお元気か」
「はい。貴男様がお訪ねくだされば、たいそうありがたく存じます」
馬車が停まった。私とポヤルコフは馬車から飛び降りた。よろけるポヤルコフのフロックの背を、つまんで起こした。今、一瞬忘れていたが、こいつはもう若くないのだ。
「お隣の領主様、恐れ入ります」

馭者の大男ものそのそと着いてくる。
ポヤルコフが「Я家の領主様だ」というと、馭者は平伏せんばかりにお辞儀をした。
「あ、あ、ああ! ただのそのへんの、威張り腐って、ドイツ人みたいに(我が国では外国人はたいてい『ドイツ人』と呼ばれる)、ひげを剃って、変な格好をした糞貴族かと思ったら……、貴男様は、いつぞや反乱の時に、アレクサンドル様の甥のくせに全然似ていない、馬鹿で駄目な跡継ぎをやっつけてくださったという……」
「しっ!」
ポヤルコフが叱った。
「何もなかったのだ。あのとき、レフ様は銃の暴発で亡くなった」

「……反乱か。あの後は平和か」
ポヤルコフが答えた。
「はい。ご助力に感謝いたします。フィラートを覚えておいでですか」
「農奴の若い長老候補だったな。頭のいい男で、徴兵帰りで、コサック気取りの……」
「さようでございます。彼が協力的なので助かっております」
【コサック:騎馬の得意な軍事共同体。民族ではなく、ロシア系の逃亡農奴やモンゴル系遊牧民の子孫など、様々な者から成り、独特な文化を持っていた】

「ちょっと待て、フィラートは徴兵から帰ってきたのか? あれは一生だろう」
「はい。さようでございます。フィラートは血気盛んな若者でしたから徴兵に行きたがりました」
私はホホール【コサックは額の髪を一筋長く伸ばした。その髪のロシアでの蔑称】を伸ばし、肝の据わった面構えの農奴の青年を思い出した。

我が家のヴァーネチカ・ミュリコフもそうだが、気性が荒く、力もあり、胆力や知力もある農奴の若者は、徴兵に行きたがるのかもしれない。農奴として、生まれた土地で地主の命ずるまま畑を耕し続けるよりも、あちこちの土地を旅して、命がけの冒険をするほうが楽しいと思う者はたくさんいることであろう。

馭者の大男が、リュボヴ川の清流の脇を先導していく。
森の中には細かな起伏があり、そのたびにリュボヴ川は左右に振れたり、小さな滝になったりした。
すぐ脇を細い小径がかろうじて通っている。通ってはいるのだが、道のあちこちに人の頭ほどもある岩が転がっている。

馭者は、長い松の枝があると、枝を持ち上げて私とポヤルコフを通した。
ポヤルコフが言葉を続けた。
「フィラートが清国との国境で軍備についたころ、アレクサンドル様が郷庁に掛け合って強引に連れ戻しました。
フィラートは有能ですし力もありますから、領地に必要でございました。アレクサンドル様は徴兵にはもっと薄鈍(うすのろ)を送れとお命じになりまして、代わりに頭が弱く、嫌われ者の若者を行かせました」

いったん徴兵に出したのに連れ戻すとは無茶なことをするものだ。
強引で自分勝手なアレクサンドル・ポポフらしい。
我が国の軍隊のことなどより、まず自分の領地か。ああ、……。

「清国にいたのか」
「はい、国境地帯にいたようでございます。清国の王族の出身地を満洲(マンジュリヤ)というそうですが、その地の平原を馬で走ったなどと自慢しておりました」
『清国』がやたらに出てくる。
「清国か……」
大陸の端にある東洋の帝国だ。
広大な我が国は、太平洋のそばで国境を接している。いさかいは時折あっても、いちおう国境に関する条約は結ばれている。

「何年前だ。スモレンスクから清国まで行くというのは珍しい」
スモレンスクはロシアの西の端にある。極東は遙か彼方である。
兵隊に取られたところで、軍務につくのはせいぜい黒海方面や西のポーランド立憲王国(我が国の衛星国家)あたりだ。
「フィラートが今、三〇前ですから、十年ほど前でしょうか」

ツェレスティナの息子は二十七歳だ。
我が国では、古来、十五歳で成人と見做される。もっとも、我が領地では、徴兵には十五歳すぐでは役に立たなかろうと、一七、八の者が行った。

アクリナの話では、ツェレスティナの息子も清国に送られたのではないか?
フィラートとツェレスティナの息子、この二人が、同じ時期に清国に行っている。
十年ほど前であろうか、確か、1820年に清国の皇帝が変わった。(道光帝)
前の皇帝のときには、各地で妙な宗教の反乱が起きていた。
また、ここ何年も、イギリスはアヘンを清国に売りつけ、皇帝周辺の者までアヘン漬けになっているという。

我が国はそのころ、混乱状態の清国に狙いをつけていたのかもしれない。イギリスが清国に対し、交易をし、無茶な要求を出しているのに、満洲(マンジュリヤ)のすぐとなりの我が国が傍観しているとは考えにくい。

マンジュリヤは毛皮のよく獲れる土地である。
さらに南下して『山海関(さんかいかん)』を越え、キタイ(中華)本来の領地である、『万里の長城』という要塞の内側すら得られるかもしれない。
ついでに不凍港もだ。
ネルチンスク条約(1689年)で定められた国境を越え、我が正教の皇帝陛下が、我が国の領を増やそうとしてもまったく不思議ではない。

ヨーロッパロシアの中規模領主の私は、そこまでの事情は知らない。マンジュリヤには以前、反乱を起こした者たちの残党がいまだに巣くっており、時々、騎馬軍団となって彼の地の善男善女を相手に略奪をほしいままにすると聞いたこともある。
どちらにせよ、フィラートには血がたぎる冒険の場かもしれないが、頭も身体も弱いというツェレスティナの息子には向いていなそうな土地である。

「家令様、お隣の領主様!」
馭者が太い声で叫んだ。私は左脚の太腿の傷のため、ポヤルコフは年齢のせいか馭者はずいぶん先を行っていた。馭者が『リュボヴ川』を指さす。
私の横で涼しげに流れる川の先を、巨大なものが覆っている。

「おお」とポヤルコフが呟く。「倒木ではございませぬか」

太い松の幹が、川に橋のように横たわっていた。黒土が挟まった根が宙に伸びていた。
「あのせいで流れが変わったのか?」
松の幹は鱗に見える。魚の腐りかけた嫌な匂いがしてきた。ああ! 倒木に()き止められて、魚の死骸が腐っているに違いない!!

「倒木にしては変でございますぜ」
馭者が言う。
私とポヤルコフは馭者からかなり遅れて、倒木の箇所に着いた。
小さいが深い水たまりができていた。
案の定、大きな鯉が半身を何かに食われていた。水たまりには、他にも死んだ魚が何十匹もふやけているし、そこにさらに川藻が絡まり、小蠅が大量に飛び回っていた。
倒木や何かの山にぶつかり、水流がねじ曲がっている。
ここまでリュボヴ川は、バシュキロフ家の領主館のある北から、南へと流れていた。少し先に我が領地との境の崖が見える。

この地点までは、去年と変わらない。

去年までの川は以下のように流れていた。
バシュキロフ家東端の崖が、我が領地との境だとは前にも書いた。崖のバシュキロフ家側は、曲面になっている。
小川が土地を削り、崖に天然の堤を作っていたのだ。小川は、数十サージェンのあいだ、崖のすぐ上を流れたり、崖から離れたりしながら、バシュキロフ家の土地を流れた。
やがて崖から滝となって落ち、我が領土に流れこんだ。

去年まではそうだった。
だが、今では、この倒木と魚の死骸やら何やらのせいで、流路はかつてとは異なる方向へと折れた。流れは、崖とは反対のほうへと向かっていく。

「ここは、うちのどのあたりだ?」
私は水流に濡れた黒土に足を取られながら、倒木の堰のすぐ脇を越え、キノコやベリー類のよく生えた豊かな森の奥へと踏み込もうとした。

倒木の下にさらに何かの骨が見える。
猪か、もしかしたら熊であろうか。かなり前に死んだらしい。人より遙かに大きな背骨が剥き出しになり、藻の混ざった水に洗われている。
骨と木の枝と魚の死骸でできた堰であった。鳥の死骸まで混じっている。ここの魚の死骸でも狙いに来て、水の流れに巻き込まれたのか。

ああ、こういうのは先ほどの墓地でもう十分だ。
私はやっと気づいた。今日の午前中、アクリナと南の湖で見た湖水の底の汚れた水流は、このリュボヴ川の動物の肉だの魚の死骸だのや、あまり考えたくはないが、焼いた遺骨が混ざっているのではなかろうか……。

崖の下を見ると、右側……つまり南にわずか数サージェンのところに古い煉瓦の壁が崖にへばりついているのが見える。あれは16世紀か17世紀の戦争の遺物だ。
つまり、アクリナが先週、あの崖の下でツェレスティナと会ったという城砦である。
城砦の下を流れていた川は、もちろん干からびている。

「倒木の何がおかしいのかね?」と、馭者に聞くポヤルコフの声が聞こえる。
「はあ、あのう、根っこが空に向かって広がってるじゃありませんか」
馭者は、宙を向いた根の複雑な絡み合いを指さしていた。
ポヤルコフが答えた。「ああ、風か雨か重みか、それで倒れたのではないかね」

私は堰の部分に戻る。
「家令様、ですが、根っこの足が斧で()られているんでございますよ……。伐り口が妙にきれいでさあ」
「誰かがわざと伐ったのだろうか。……Я家の領主様」

ポヤルコフが私を見る。「こちらをご覧ください」
老松の複雑な根は、何十本にも分かれ、入り組んでいる。合間に黒土や枯れ葉が詰まっていた。巨大な黒い塊である。
だが塊のそこここで、人間の、細いご婦人の胴ほどもある根が伐られ、馭者の言うとおり、伐り口は白々と輝いている。この切り口の滑らかさは馭者の言うとおり、非常に滑らかであった。

「何で伐ったと思う?」
私は馭者に訊いた。
「おれにはわかりません。斧か、鎌か……」
「馭者、道具はともかく、誰かが伐ったと思うか」
「へえ、Я家の領主様。人の手で伐ったには違いありません。あのう、Я家の領主様……」
「何だね」
「前におまえ様が、農奴の妾のかわりにアレクサンドル様に鞭打たれたというのは……」
ポヤルコフが黙らせようとした。
「ああ、まあ。うん、本当だ。……だが、そのご婦人は、私の妾ではなく、大切な恋人である」
「へえ。女農奴がですか」
私は少々大げさに答えた。
「ああ。身分は関係ない。朝も夜も、幻のように彼女の姿が浮かび、離れなかったのだから仕方がない。そして我が気丈で賢い妻も、私は二人とも深く愛している。
……もちろん、我が領の他の女農奴たちがどれほど美しかろうと、『つまみ食い』したりはしない。彼女たちには聖ニコラのごとく接し、遠くから花畑を眺めるがごとく、大切に見守っている。
領主とはそれくらいの節度と度量がないとできないものであるのだ」
馭者は目を丸くしている。ささやかな褒美だ。彼にも話の種ができることであろう!

激しい風が起こり、白樺の高い枝と葉が揺れた。
何か黒い生き物が滑空してくる。
腐りかけた魚の死骸を、二本の脚でがっしり掴んで飛び去った。
私は誰にともなく訊く。
「今のは何だ。烏か?」
(わし)の類いか。退治させなければならないかもしれない。とにかくヒローシャに調べさせよう。農奴たちや、アクリナが襲われるかもしれない。

「はて……」ポヤルコフが空を見渡す。もう、先ほどの黒い生き物は見当たらない。
馭者が真面目に言った。
「あの、レーシー(森の精)ではございませんか」
「馬鹿なことを申すな。レーシーはもっと大きく、空は飛ばない」
ポポフ家の熟練の家令たるポヤルコフも、もちろんレーシーを信じているのだった。

7. Я家の領主館

その夜の夕食後、我が家の奥方と我が腹心の者たちを集めた。我が妻リザヴェタ、家令のテレージン、女中頭のエレナ・ネクルィロヴァ、馭者で『何でも係』のヒローシャである。
テレージンとヒローシャは、当然、我が家の農奴で感染の危険がある者の隔離を終えていた。

「我が家からは、一人の犠牲者も出してはなりませんわね……」
我が妻たる領主夫人が(おごそ)かに言った。
あれほど男性に対して卑屈であったツェレスティナには、このような言い方は決してできまい。もちろん立場が違うのだが。

リザヴェタは、日曜の夜の正装姿である。
細いウェストと豊かな胸を強調するロマンティックドレスは深い黄色だが、黄金に見えた。濃茶色の、漆を塗ったように太く、量の多い髪を流行に従って三つに分け、焼き(ごて)で巻いている。それだけでは足りず、鼈甲のスペイン櫛で余った大量の髪を留めている。
濃い眉の下の、力の強い目が、まっすぐ私を見た。彼女は頼もしい副官であるが、私を試すようにも見えた。

「そうです。チフスですから、対策によって犠牲者を減らすことはできるはずです」
原因のわからない黒死病と呼ばれるペストであると、罹患するとほぼ間違いなく死に至るが、チフスはそうではない。

私はその場で昼間の話をした。
バシュキロフ家で『農奴の墓地』で遺体を焼いていることや、それをツェレスティナという『魔女』の女農奴が指図していることなどである。

「……遺体を焼くのは疫病(ポルチャ)の処置としては正しいと、セミョーノフ医師は言っておられましたが……」
リザヴェタは眉をひそめ、考えているようだった。奉公人たちも思い思いに考え込んでいた。

遠くを見るように言う。「そう、そうかもしれませんね……」
低く、ヴェルヴェットに似た滑かな声である。この声を聞くと私はもちろん、誰も彼も落ち着くようであった。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、わたくしの父が長官を務めていた監獄がありますわね」
シベリヤの獄である。リザヴェタの実家であるリャードフ家は、その監獄の隣にあった。
リャードフ家の小さな庭は料理女のアクリナが丹精した、良い匂いのする花々が並んでいたが、監獄の塀で花の列は断ち切られていた。
塀の向こうには、十数人が一部屋に詰め込まれた部屋部屋が列なっているのが見えた。

「監獄でも遺体をそう処置しておりました。冬になると、やはり時たまチフスが起きることがありました」
「ああ、……」リザヴェタは令嬢の時期を、そのような痛ましい場のそばで過ごしてきた。嫋やかな貴婦人のはずなのに、『遺体を処置』などという言葉を平気で使う妻に、私は改めて驚嘆する。
「リーザ、それはやはり医師の指示ですか」
監獄には医師が二人ほどいると聞いた。
「いいえ、焼くようになったのは、キノコ部長……、アクリナさんが来てからです」

「ほう」テレージンが偉そうに呟いた。
意外な名前が出た。ヒローシャがわずかに緊張している。
「そうね、わたくしがあちらの方と会った年の……」隣の私を見る。「五年前に来ましたから、1821年かその次の年くらいですかしら。あの人が薬草をよく使いますのは皆さんご存じでしょう。
アクリナさんは北の方の出身で、やはり冬の疫病はひどいものでした。あの方の母親が、遺体を焼くように提案して、そのようにすると、病は下火にはなったそうですの。治まるとまではいかないようですが」

「アクリナさんはぼうっとしているようで、意外と物知りですから。ねえ、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ」
「ええ、そうですね」
嫌みなのかもしれないが、よくわからない。単なる事実でもある。

「お亡骸(なきがら)を焼くのでございますか」
意見を求められなければ、ほとんど発言せず、じっと聞いているのみのエレナが呟いた。「なんだか恐ろしうございますわ」
敬虔な民衆は、基督(ハリストス)復活の際、戻ってくる身体がないことを恐れる。多少大きな教会の地下には、不朽体(ふきゅうたい)といって、聖人の身体を木乃伊(みいら)にしたものが残っており、信仰の的となっている。
ハリストス云々ではなく、我が民衆には、遺体をすぐそばに取っておきたいという願いがあるのかもしれない。

テレージンが言った。
「アクリナさんと、ああ、バシュキロフ家の、そのツェレスティナという女農奴ですか。二人とも薬草が使えるわけですね。
で、ございましたら、その方たちは、ほかにも対策をご存じなのではありませんか」

豪奢な出で立ちのリザヴェタが、テレージンに答える。
「キノコ部長……、アクリナさんはどうかしら?
結婚前、リャードフ家にいたとき、昼間の家のなかには、わたくしとあの人、他には何もわからない下働きの娘くらいしかおりませんでしたわ。
ですから、五年間、ふたりで色々な話をしました。
疫病については、他には特に何も言わなかったわ。
あの人は無口ですから、話をするにはこちらから聞き出さないと駄目です。監獄の疫病のときには、ずいぶん尋ねましたが、それ以上のことは知らないそうでしたよ」

疫病のために、アクリナの母は死んだ。
リザヴェタは残酷なことを聞いた。が、知らなかったのだから仕方がない。残酷なのは、そのように、無口なりに仲睦まじい主従を、妻と恋人として、同じ敷地に住まわせている私であるのだ。

「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ」
テレージンの声がすぐ耳元でした。私ははっと我に返る。感慨だの罪悪感に引きずられている場合ではない。
「しかしそのツェレスティナという女はあまり性質(たち)が良くなさそうですな」
「バシュキロフ家一家には信頼されているようだ。一時期、レオニードの乳母までやっていたらしいから、特にレオニードは信用している。どうしてそう思う?」

「いや、妙な婦人でしょう。立場もわきまえず、アクリナさんにいきなり『友達』になろうと言って、そして翌日にはああ、貴男の……貴男のことで怒りだす。瞭然ではありませんか。そのくせ実際に、今日の昼間、貴男に会うと、叩頭してお世辞を申しあげて……」
意外にもリザヴェタがツェレスタをかばった。「確かに、テレージンの言うとおり性質の悪い女かもしれませんが、それなりの理由があるのかもしれないわ。それだけ殿方に媚びへつらうのは……まるで命乞いみたいに……」

『命乞い』という言葉にリザヴェタは自分で驚いたようだった。
「それだけの訳があるのではないの?」
「そうかもしれませんが、リザヴェタ奥様。事情はどうであれ、今の人柄は、あまり信用してはならなそうに思われます」
テレージンが言うことは正しい。
「そうかもしれませんけど、その(ひと)の意見も、聞くだけ聞いてみたほうが良いのではないかしら。バシュキロフ家一家が信用しているのでしょう?
あの、アクリナさんは農奴だと思ったから地が出たのかもしれないけれど、私たちには礼儀正しく振る舞うのではない? まあ、命が惜しければ、我が家の農奴を全滅させるような嘘は吐かないでしょう」
リザヴェタが令夫人とは思えない乱暴な事柄を、しとやかな口調で話している。

しかし、ツェレスタがアクリナと初めて会ったとき、その時のアクリナは貴族か、裕福な商人の妻や娘しか着られない『きれいな服』を着ていたはずだ。農奴には見えないであろう。
ポポフ家の馭者も私とアクリナのことを知っていた。ポポフ家と同じように、バシュキロフ家の奉公人や農奴の間に、私に農奴の恋人がいることが知れ渡っている可能性もある。

ツェレスティナは、アクリナが私の恋人だと知って近寄ってきたのかもしれない。理由は、首飾りや指輪でもくすねるつもりあたりか。
だとしたら何故、二度目に会ったとき、アクリナに対して、『私の恋人である不貞な女』だと怒りだしたのか?
自分が貞淑な婦女だと思わせ、信用させるため? ……いや、感情にまかせて動く我が国の人々には理由などないのかもしれないが……。

「ああ奥様、その女農奴が辛い目に遭ったのは確かでしょう。同情すべきではあります」テレージンとリザヴェタが話している。「亭主は早く亡くなり、一人息子が兵役に連れて行かれたのでしたっけ。ただ……」
「え、一人息子は徴兵に出さないのではありませんか?」
「バシュキロフ家の農奴は農村共同体(ミール)の力が強いのです」

私はテレージンに訊く。
「テレージン、ポヤルコフもそう言っていたぞ。どういう意味だ? 『バシュキロフ家は農村共同体(ミール)の力が強い』」
テレージンは鋭い顔つきをわずかにしかめた。領主のくせにこの意味もわからないのか、という顔だ。
ヒローシャは護衛も兼ねて、入り口の厚い木の扉の前に立ち塞がり、エレナはテレージンの横に腰掛け、時折、誰彼の紅茶茶碗を取り、サモワールから湯を足した。

農村共同体(ミール)の力が強いというのは、彼らが自分自身で決められる事項が多い、ということです。バシュキロフ家の方々は鷹揚(おうよう)でございますから、お許しになっています。先代の家令ユーリエフも少々気を揉んでおりました」
私はユーリエフ2のふざけたようすを思い出した。

「そうですな。例えば、農村共同体(ミール)での強い者たちが、自分たちで決められることは何もかも決めてしまうということがあります。
例えば、領主が裁判で決めれば問題にならないことも、農村共同体(ミール)のなかで決めれば、不満が出やすいのです。
なるべく彼らより身分の高い者が決めれば、偉い方が決めたから仕方がないと納得しやすい。特に、徴兵に送る者を選ぶというような、彼らにとって重要な事柄は」

私は答えた。
「ああ、代わりに領主が恨まれれば良いからな」
テレージンが生真面目に言う。
「いえ、冗談ではございません。規律正しい領主が超然と対応すれば、尊敬が得られます。我が国の民衆は、支配されることに慣れております」

「ところが、同じ農村共同体(ミール)の中で、力がある者とない者の恨み合いは、酷いことになります」
「ツェレスティナは苦労したでしょう。婦人は、農村共同体(ミール)の話し合いに参加できないのではなかった? それで一人息子は頭が弱いのでしたね」
リザヴェタが言った。
考え込んでいる。彼女は推論して事実を導き出すのが得意だ。(ときどき間違うが)
リザヴェタのその冷静な知力には、私も、テレージンもエレナも一目置いている。ヒローシャなどは全面的にひれ伏している。

「頭の弱い息子が農村共同体(ミール)の話し合いに参加して、大して村の役に立たないから、徴兵に送られた。自分の知らないところで決められた。……それはツェレスティナは恨むでしょうね」
リザヴェタは言った。
「可哀相に。でも、どうなのかしら。そのツェレスティナの性格ならば、何か農村共同体(ミール)に仕返しをしたいと思いそうね。会ったことがないからわからないけれど」

リザヴェタは考え考え続ける。「ああ、待って。その代わり、彼女は領主一家の信頼がある。それを使って何かしようと考えるかもしれない……。でも、何を? 少しは他の農奴より贅沢が出来るかもしれませんけれど」

私はエレナに話しかけた。「エレナ、君がもしツェレスティナの立場だったらどうする? 遠慮しなくて良い」
エレナは少し困ったように、きつく編み込んだ頭に手を触れた。
「領主様、あたくしは奥様のように想像力豊かではございません。でも普通の女でしたら、息子に帰ってきてくれることを望むのではないでしょうか」
「うん。なるほど……」
故アレクサンドル・ポポフが自分の農奴フィラートを郷庁に掛け合って、無理矢理、徴兵から連れ戻した話を思い出した。
とはいえ、穏やかなバシュキロフ家一家がそのような強硬手段を取るとは思えない。
「家内もそれを望むでしょう」
テレージンも言った。獄中にいるステパンのことを思い出したのであろう。

リザヴェタは話すのをやめた。(あで)やかに笑う。彼女はどんどん艶やかになっていく。
「もうやめますわ。会ってもいないのに、臆断(おくだん)してはいけないわ」

とりあえず、翌日は我が家の農奴に体力をつけさせるため、ジャムを配ることと、バシュキロフ家に行くのを禁止することくらいしか決まらなかった。

まだまだ続きます。