第19話 ポルチャ(疫病)5

隣家バシュキロフ家で広まっているチフス。
チフスは冬に流行するものなのですが、今は夏です。
バシュキロフ家では、頼りない領主代理のレオニードと新米家令のかわりに、
『魔女』ツェレスタことツェレスティナがどうやら病人を仕切っているようすです。
領主様は、ツェレスタがどこか変だと思っています。ツェレスタのことを知っていそうな、村の老女に話を聞きに行きます。

7月, 1831年

夏は午前3時ごろから明るい。
翌日の月曜日、私は六時に起きて朝食を取り、領地を騎馬で一回りした。空中に、巨大な積雲の底がいくつも浮かんでいる。青空に山が浮かんでいるようで面白い。七月の、朝七時の森や耕地はたいそう爽やかである。
耕地にはぽつぽつと農奴が出ているが、年寄りや子供の姿はない。チフスが広まっていことを改めて思い出し、私はどんよりとした気持ちになる。

鋤を持ったニキータ・ザレスキイがルバーハから厚い胸をはだけて、小麦畑の草を採っていた。
私に気づいて膝をつく。
「お、おはようございます、領主様。貴男様に、聖ニコラ様のお恵みが……」
私は馬上から尋ねた。
「ご苦労だな。ニキータ・ザレスキイ。祖母君と息子殿は隔離したかね」
彼は嫁を五月か六月に亡くしている。正確に言うと、姑が、他の女たちを誘って殺した。

「……はい。昨晩、なんとか」ニキータは大柄で力もあるが、少々鈍重だ。「……あの、隣の疫病(ポルチャ)は……いかがなすったので……」
「昨日の夜に使いがきた。発病した者から死者が出たが、それより増えてはいないそうだ。叩頭はもう良い。立ちたまえ」

ニキータは立ち上がる。白樺の靭皮で無骨に編んだ帽子と、破れたルバーハという姿だ。
汗ふきに、何年も前に、我が奥方様が配った布巾を腰に掛けている。
ズボン(シタヌイ)の膝に着いた泥を払おうともしない。汚れているのに慣れすぎているのだ。
もう少し、ましな服を着せなければと思う。今年の冬に配った羊毛は、彼のところまで行き渡ったであろうか。

「そうでございますか……良うございました」
私はふと思いついた。
「おまえの祖母はこのあたりの噂話に詳しいな。バシュキロフ家の魔女という女を知っているのではないか? ツェレスティナというのだが」
ニキータの祖母はお喋りで愚痴の多いザレスカヤ夫人である。彼女はフョークラを深く恨んでいる。それならば近隣の『魔女』である、『ツェレスティナ』のことも知っているかもしれない。

「え、……おれは知らないのですが……いつも色々な女の名前を出しては、罵っていますから」
私は思わず笑いそうになる。「おまえも大変だな」

ニキータは祖母とは逆に、無口だ。「……ツェレスタ……? ですか……存じません」
「そうか」私は馬の腹を軽く蹴って出そうとした。
「おまえは今、ツェレスタと言ったな」
「へえ」
ツェレスティナは『ツェレスタ』と呼ぶようにアクリナに言った。愛称ならたいてい『ツェーリャ』だ。だいたい、ツェレスティナという名前の農民自体が少ない。
ということは、ザレスカヤ夫人はツェレスタを知っているのだろう。

「ニキータ、具合が悪くなったらすぐ休めよ。おまえのような頑丈な者にまで倒れられたらたまらない。夕方にまたジャムを配らせる」
ぼそぼそとニキータは答えた。
「……へえ、ありがとうございます」

夏は夜が短いから寝不足になる。
私は水車の脇を通り、領地の三叉路まで戻る。三叉路の真ん中の道を馬で走り抜けた。領地で一番高い、箱柳の木は初夏の葉でいっぱいである。暑くなってきた。
そのまま三叉路の真ん中の道を南に進み、村の集会所になっている丸太小屋(イズバ)の手前で馬を止めた。
隔離された年寄りと子供たちがここで休んでいるはずだ。
そばの納屋に馬を繋ぐ。

丸太小屋に近づいてくと、赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
私はフロックの埃を払った。こんなことをしても無駄かもしれないが、昨日バシュキロフ家に行った私がチフスの感染元になるわけにはいかない。
丸太小屋の窓は冬の寒さに備えてごく小さく、このような晴天の朝でも室内は暗いであろう。

「うちに帰って息子の朝ご飯の支度をするんだよ! さっさと家に帰しとくれ!」
丸太小屋の中から、老女の『きんきん声』が聞こえた。
「領主様の命令だって言ってるだろ!」
狭い窓の外から言い返している声はクズマだ。
「本当かどうかわかりゃしない。おまえみたいな小僧っ子の言うことがどうして信じられるもんか」
「昨日の夜、テレージン様が伝えたじゃないか」
クズマの声も喧嘩腰になってくる。

「テレージン、って馬鹿ナーチャのことだね。馬鹿ナーチャとあの猿みたいな下男(テレージンとヒローシャのことらしい)が、昨日突然、ここに閉じこもっていろと命令してさ。ナーチャなんてフョークラの使いっ走りを喜んでしてた、ただの色呆けの餓鬼じゃないか……」
「誰のこと言ってるんだかわかんねえよ! だから、領主様が言ったんだよ」
内部から、扉をどんどん叩く音がする。
「叩くなよな! 凶暴なバーブシュカ(婆さん)だな……」

「あ、領主様。おはようございます」
クズマは私をみつけると、扉の中に聞こえよがしに言った。「領主様がお見えになったぜ!」
「嘘をつくんじゃないよ! あたしたちが疫病だっていうなら、領主様が近づくもんか」
どこから聞いてもザレスカヤ夫人の大声だ。声だけで疲れてくる。

私はクズマに訊く。
「ずっとこんな調子なのか?」
「はい。俺が来たのが六時ごろですが、わめきどおしです」
今は七時半だ。元気なことである。
「見張りをつけて正解だったな。クズマ、交代の者が来る予定は?」
「イーゴルさんがもう少ししたら来ます」

「ザレスカヤ夫人! 領主だ」
私はドアを開けた。窓が少ない、暗い丸太小屋のなかに農奴の赤ん坊や子供、年寄りが数十人いる。
「騒ぎ通しならば、おまえは一人でどこかに閉じ込めるぞ」
ザレスカヤ夫人の険しい顔が、なんというか、機械のように、荷物や井戸水を汲み上げるための、吊り台の丸太が持ち上がるみたいに、私に向けられた。暗い中で、老婆の落ちくぼんだ目は緑色に光っていた。
「おまえたちは足りないものがあれば、見張りの若い者に言ってくれ」
私はクズマを呼び、イーゴルと交代する前に、隔離された子供と老人に必要な物を訊くように命じた。
それから、ザレスカヤ夫人に声をかけた。
「ザレスカヤ、ちょっと外に出てくれ。聞きたいことがある」

私はザレスカヤ夫人を外に連れ出した。
白髪をプラトークで覆って、きつく閉じた口には、彼女の気の強さと頑迷さがそのまま現れている。
手は鶏の脚のようにひびだらけになり、妙な方向に曲がっていた。その手で杖を支いているのだが、指の動きはぎこちない。
思っていたより大柄だ。大柄なニキータの祖母なのだから、そうだろう。
フョークラや、1768年生まれの私の父よりやや若いはずだから、年齢は60歳ほどであろうか。農奴で60歳まで生きる者はそうとう丈夫である。
とはいえ、数年前に見たときより縮んでいる気がする。

私はザレスカヤ夫人を丸太小屋の横にあるベンチに座らせた。少し離れて、並んで腰掛ける。
鶏が近くを歩き回っていた。
「領主様があたしなんぞに何の御用です」
外見に比べて、頭ははっきりしている。

私はなるべく優しい声を出した。
「訊きたいことがあるのだ。おまえくらいしか知らないのではないかな」
彼女の曲がった手に10コペイカの小銭を二枚置いた。ザレスカヤ夫人は、ぎこちない手つきで、サラファンの隠しに小銭をしまった。
「いつも世話になるね。バシュキロフ家のツェレスティナという女を知っているか?」

「ツェレスタ? ツェレスタがどうかしたんでございますか?」
「ああ、やはり知っているのか。どうしたというか、バシュキロフ家の疫病で、病人の手当てを手伝っているようだ」
指揮を執っていることまでは言わないほうが良さそうだ。
「精のつく薬草などを知っているらしいから、我が領内でも教えてもらいたいと思ってね。だが、どういう人物かわからないとまずいだろう。おまえに訊いて良かったようだ」

ザレスカヤ夫人は目を剥いた。必死で私に訴える。
「領主様、御領地に入れたりしてはなりません! あの女は腹黒いのでございます。バシュキロフ様のご一家がお優しいのを良いことに、お館に入り込んで! きっと何か盗んでいるんでございますよ。あんなに太るほど食べ物があるなんておかしいじゃありませんか」
やはり知り合いだ。

私はツェレスタを褒めることにした……ザレスカヤ夫人は反発するに違いない!
「しかし老女の一人暮らしだし、薬草の知識もある。まあ、バシュキロフ家の人たちならば親切にするだろうね。それに村の百姓たちにも信頼されている。食べ物を持って行ってやる者もいるのだろう」
「ですから皆、騙されているんですよ!」
ザレスカヤ夫人はむきになって叫んだ。彼女は誰かが『良い目』を見ているのは、『何か陰謀を使っているからだ』と考える。訊いても無駄そうだ。

「騙されているって、何を? 騙すと言ったってたいしたことも出来まい。それに、薬草の知識は確かなようだが」(と、アクリナが言っていた)

「あの女は一人じゃありません。息子が兵隊から帰ってきているんです!」
「徴兵された一人息子が?」
「ええ、そう自慢していましたよ。誰も知らないけれど、プラーシャが戻っているってね。キタイから魔法の食べ物を持って帰ってきたんだって。だから食べ物には困らないって」
プラーシャはプラトンの愛称だ。プラトン……古代ギリシャの哲学者とは、頭が弱いらしい息子には皮肉な名前だ。

「……プラーシャが彼女の息子の名前なのか? 戻るって、兵役で行ったのだろう。帰れるはずがない」
「きっと脱走したんでございます!」
「頭が弱いのでは無かったのかね」
私は途方もなく時間を無駄にしている気がしてきた。ザレスカヤ夫人は続ける。

「頭が弱くたって、逃げられないこともないでございましょうよ。母親が魔女なんだから、力を貸すことだって……。ええ、領主様。どうか魔女となどお付き合いなさらないでください。貴男様のような尊い身分の方がフョークラだのツェレスタだのに関わるなんて! 領主様! パーヴェル・アレクセイエヴィチ!」
「……パーヴェルは父だ」
まさか我が父がツェレスタに手を出しているのではあるまいな。徴兵に行った息子は我が異母弟か?

「ああ、新しい領主様になられたのでしたっけ。……お名前を忘れました。でも、魔女ならば魂だけ呼び戻すことだって出来るはずでございます」
「名前はエヴゲーニイ・パヴロヴィチ・Я。どうせ忘れるのだろう。構わないがね」
私は黙って考える。「……どうして、プラーシャが帰ってきたと言うのかね。ザレスカヤ、おまえは何か証拠を見たのか」

ザレスカヤは一気にまくし立てた。「引っ越したんでございます。他の農奴に訊いても引っ越し先がわからない! そんな馬鹿な話がありますか」
「本当か?」
ザレスカヤ夫人は言う。バシュキロフ家の地下にでも住み込んでいるのかもしれない。だがそれならば、他の農奴も知っていよう。

まあ、ザレスカヤを避けただけかもしれないが。
「領主様、貴男様は、向こうの農奴があたしに隠したと思っているね」
ザレスカヤ夫人は鋭い。
「……まあ、そういう可能性はあるな……とは思ったが。他には、どうしてプラーシャが帰ってきたと思う理由はあるのか? ただ引っ越しただけでは」
「引っ越したのは七、八年前でしょうかね。それからでございますよ! なんだか変わった持ち物が増えて、扇というのでございますか。あれや、緑色の石や、赤い紐を組み合わせた飾りや、変わった模様のプラトークをして……。あんなのはトルコ人も持っていません。キタイ人の持ち物でしょう! そして、そのころからぶくぶく太り始めたんです」

「おまえは物知りだな……」
ツェレスティナの持ち物は、確かにキタイのもののようである。モスクワでキタイの商人が売っているのを見たことがある。
農奴の一婦人が、いくら息子がキタイに兵役に出されたと言っても、それほどキタイの物品を手にできるだろうか?
「もう良い。ご苦労だった、ザレスカヤ」
ザレスカヤ夫人を隔離小屋に戻すのに、また一悶着あった。


私は領主館に帰ろうとして、また三叉路まで戻り、思いついてアクリナの森の家に向かう。朝八時過ぎだった。これほど早く彼女の家を訪ねるのも珍しい。

逢い引きをしに行くわけではない。
若く細い白樺が数本生えた前庭で、アクリナが、靭皮で編んだ大きな帽子を被り、丈の高い香草のディルの草むらに座りこんでいた。
ディルは花が咲きかけていた。茎の先端がいくつにも分かれ黄色い小さな花が咲く。

アクリナはしゃがみ込んだまま茎を一本一本、顔に近づけ、真剣に匂いを嗅いでいる。小さな芋虫をみつけては、細いひとさし指で弾き飛ばしている。
ああ、アクリナは黒い豪華な絹のドレスを着て、こういうことを真剣に行う姿が似合う……。
馬の足音にも気づかなかったようだ。
「おはよう、アクリーヌ」
声をかけるとアクリナは何故かは知らないが雷に打たれたように驚き、私を見上げた。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ! あ、貴男様は今日の夜に来られるのでは……ですから、一番良い匂いのディルを……」

「差がわかるのか?」
「え、おわかりにならないのでございますか?」
(この言葉は前にも聞いたことがある)
アクリナは剪定用の鋏で、ディルを三本切った。「これが今朝一番良い香りです。二番目はこちらで……、明日まで待ったほうが香りが強くなるとは思いますが、貴男様が夕方いらっしゃるので早めに切りました」
アクリナが私の目の前に突き出したディルのつぼみの匂いを嗅いだが、差があるとはまったくわからない。……まあ、アクリナは料理女であった。匂いがよくわかるほうが良いのであろう。

アクリナは立ち上がり、ディルを持って私と共に玄関に向かう。アクリナはいつも私が命じるように、扉の鍵を開けた。
玄関間でアクリナが言う。
「領主様。もしや何か、差し迫ったご用事がおありでしょうか。疫病(ポルチャ)のことでございますか?」
「ああ」
私はアクリナの靭皮の帽子を脱がせた。

朝のアクリナは、まだきちんと髪を結い上げておらず、細面の顔の両脇を彩る、藁色の三つ編みを胸乳の下まで垂らした姿だ。しかしアクリナを鑑賞している場合ではない。
アクリナが先導して、居間兼食堂に入る。すんなりした体に身につけた、黒い絹のエンパイアスタイルのドレスの裾が揺れる。私は後を歩きながら、彼女の背中の開きやうなじの白さをぼうっと眺めた。
朝のお祈りの後なのであろう、居間は乳香の、樹木と柑橘類の混ざった匂いがする。木の床に点々と散らばった兎の一羽を抱きあげると、食卓に座る。

引き出しがたくさんついたアクリナが管理する薬棚(作らせたのは私だが、中身は謎だらけだ)や、小さな本棚に並んだキノコの図鑑や聖人伝、我が国の古い昔話を絵入りで印刷した『ヤロスラヴナの嘆き』、(にかわ)を重ね塗った漆器のスプーンなどを見つつ、兎を撫でていると、私は自分がずいぶん疲れていることに気づいた。

薬棚の上に薬瓶を入れた棚があり、そこにある振り子のついた金色の置き時計が八時を打った。
やはり後でバシュキロフ家に行ってみたほうが良いだろう、と私は考える。レオニードとあの新米家令ではうろたえるだけだろう。そのあいだに、ツェレスタが迷信に満ちた、害悪になる対策を取ったらまずい。もっとも、私が行っても役に立つわけではないのだが。
アクリナが紅茶を入れに台所に入った。
私は台所に向かって声をかける。

「アクリーヌ。少し教えてくれ。シベリアのリャードフ家にいたとき、監獄で疫病が流行ったそうだね」
「……はい。何度も起きました」
台所からアクリナの声がする。「グルニカ、領主様にそのジャムを持って行って差し上げてちょうだい」
「はい、アクリナ様」
下働きの少し頭の足りない、大柄で太った体に不釣り合いに、十歳くらいに見える童顔の少女が、銀の皿に載せたジャムを持って来た。「領主様、ヒマワリの種のジャム」
「グ、グルニカ。領主様には、『ジャムでございます』って言うのよ……」
アクリナが慌てている。
「グルニカ、しばらく外に出ていてくれ。森でベリーでも取ってきなさい。つまみ食いして構わない」
「は、はい。領主様」

グルニカが出て行くと、私は話を、シベリアの監獄での疫病に戻した。
「アクリーヌ、おまえが助言したそうではないか。遺体を焼くようにと」
「はい……。母が色々なことを知っておりましたので」
アクリナは私に紅茶を入れる。自分の分も持ってきて、テーブルの反対側に座った。

私が訪れた目的が逢い引きだの情交だのではないことがわかっているらしい。憂鬱そうに私を見上げ、真剣に聞いている。

アクリナの母と父は、アクリナがごく幼く、記憶も残っていないころ、仲間とともにシベリアの極寒の地で自給自足に近い生活を送っていた。その生活がどれくらいの期間続いたのか私は知らないが、何度も病が襲ったことであろう。
「バシュキロフ家の疫病(ポルチャ)が、酷い状態でね。……それで、ツェレスタが遺体を焼くように農奴たちに命じたという。おまえと同じ対策を知っていたわけだ。だからアクリナ、おまえも他にも何か知っていたら教えて欲しい」

アクリナはしばらく考えている。
「……母が言ったことが全部正しいのか、あたしにはわかりません。あの、でも、他に変わったことはございましたか」
私は昨日ポヤルコフと小川の流れを調べたこと、途中で大木が切られて小川に嵌まり、水たまりができ、(ふな)や鯉の死骸が浮いていたことを話した。

「セミョーノフ先生にもわからないことが、あたしに……」アクリナは消え入りそうな声で呟く。
「おまえは『何もかも私のもの』だろう。だから、おまえの知恵も私のものだ。知っていることは些細なことでも全部言え」
「え、……はい」
「……判断は私がするから」
「はい。……ありがとうございます。お隣の農奴のことまでお気にかけるなんて、なんて貴男様は……御心の広い、偉大なお方なのでしょう! まるでラドネジの聖セルゲイ様のような……」

ラドネジの聖セルゲイは、深い森であった我が国に修道院を建て、どんどん開拓していった聖人だ。

「ラドネジの聖セルゲイみたいに、バシュキロフ家の農地を開拓して我が家の畑にしてやりたいものだね。……いや、うちにチフスが広まったら困るだけだ」
私を聖人に例えるのはバチ当たり極まりない。

アクリナは考え込み、迷っている。彼女は、実際より自分の能力をはるかに低く考えている。自分の知識も意見も、そのようなものはすべてゴミ同然だと信じ切っていた。だから、口に出してはいけないと思っているのであろう。
私は卓の上のアクリナの手を握り、安心させようとした。「何でも良いから、話してみなさい」

「……夏にチフスが流行るのが不思議ですわ。母は……」
アクリナは遠くを見ている。あまり思い出したくないらしく、なんだか表情が苦しそうになる。
「母は……」
アクリナの表情は変わらないのだが、ただ、青灰色の目から、春のつららが溶けるように、涙がぼろぼろ流れてきた。

「いい、思い出さなくて良い」
「え、どうしてですの」
私が手巾で涙を拭くと、アクリナは初めて自分が泣いているのに気づいたようだった。
「どうして……泣いてなんかいるのでしょう……」
アクリナは呆然としている。

「もう良い。思い出そうとするな」
私はテーブルを回ってアクリナの隣に座り、肩を抱いた。
「駄目です。少しでも、貴男様のお役に立たないと……母は」
アクリナはこの心地よい初夏なのに寒さに襲われたようにガタガタ震えだす。
「冬はいろいろな生き物が集まってくるから……村の一軒一軒を回って寝床の敷布(しきふ)を集めて。あ、あたしにも手伝わせて、吹雪の中を、冷たい池で洗濯したのです。農奴だから敷布がない家も多かったのです……どの家にも、鼠がたくさんいました。猫は皆、食べてしまった。
とても手が冷たかったし、村の人は誰も手伝ってくれなかった。あたしとお母さんが敷布を盗もうとしていると……、でも母はこれで少しは良くなるから見ていてって」
ぼろぼろ泣きながら上の空で話し続ける。

「もう止めろ」
私はアクリナの二の腕を摑んで揺さぶった。アクリナははっとした表情で私を見た。「どうして泣いているのでしょう。何も悲しくないのに。貴男様がいらして、貴男様の御領地に住まわせてくだすっているのに」
「うん……おまえは、アクリーヌ、もう何ひとつ悲しい目にあってはいけない。おまえが泣くのは私がいじめたときだけで良いのだ」
「……はい」
アクリナは私の麻のシャツの袖にしがみついていた。私はアクリナの三つ編みにした髪を撫でながら、考えた。

敷布を洗う……。
ただでさえ洗濯は辛い。農奴たちはたとえ敷布を持っていても、農作業で疲れ切り、敷布の洗濯など十年に一度すらしないのではないか。冬となればなおさらだ。氷の浮いた……あるいは氷を割って行う洗濯はさぞ辛かっただろう。
アクリナの母のマトロナはそれが役に立つことを知って、敷布を洗った。私も農奴たちに命じて敷布を洗わせれば良いのか?
チフスは冬だから流行る、……敷布……。
アクリナが私に体をこすりつける。柔らかく、三日月のように細いのに、私の二の腕に彼女の腕が強く絡みついてくる。初夏の暑さのなかでも、触れられる絹の服の冷たさと彼女の体温の低さ、それに体の温かさが混ざる。心地よい。
私は溜息を吐き、アクリナに絡みつかれていた。

私は南国にいたころ暑い夏に触れられるのが嫌いだった。暑いではないか! だが今は心地が良かった。

アクリナが手を放した。「領主様……申し訳ございません。もうすっかりふだんのとおりでございます」
私は彼女のガラス茶碗に紅茶を入れ、サモワールから湯を注いだ。
「も、申し訳ありません。貴男様に」
「もう少し絡んでいてくれ。気持ちが良い」
アクリナは言われたとおり、再び私の二の腕に絡みつく。私は彼女の頭を、私の肩にもたれかからせる。
マトロナが敷布を洗わせた目的が聞きたいが、これ以上アクリナに過去を思い出させ負担をかけたくなかった。

それにマトロナの対策と現在の状況には決定的な違いがある。
バシュキロフ家の場合、夏なのにチフスが流行っているということだ。

私は考える。マトロナが敷布を洗ったのは、当然汚れを落とすためだろう。汚れは、なんだか知らないが病気の原因に関わる物だ。……農奴の敷布が汚れているのはいつものことで、夏のほうが汗や農作業時の泥などがついて余計に汚いのではなかろうか。
しかし夏にはふつう、チフスは発生しない。
冬に敷布につく病気の原因だか、『原因の関係の何か』は、敷布が温かいから集まってくるのではないかと思う。
だとすればそれは生き物だ。

今回、夏にチフスが流行したのは、夏にその生き物が発生したから、であろうか?
私は絡みつくアクリナの温かさを感じる。夏に触られるのが嫌いだったのに、今は心地よい。私と同様、夏にもかかわらず、なんらかの心地よさが、バシュキロフ家に『チフスのもとになる生き物』を呼び寄せているのであろう。
それはあの水流の変化に関係あるのか?
あの水たまりに浮かんだ魚の死骸を食べれば腹を壊しそうではあるが……。あの水たまりや新しい水路が、冬に敷布に集まった生物を再び寄せ集める効果があったのか?
春から初夏にかけては、雪解け水による水たまりはどこにでもある。

仮説が多すぎる。
アクリナにもう少し訊いたほうが良い。
私は彼女の重みを右腕に受けながら、考えた。もし、質問を続けることによって彼女がまた過去に取り込まれたら。あとで看病するし、いくらでも埋め合わせをするつもりだ。だが、戻ってこれなかったら、と考えたらぞっとした。
しかし、このままでは農奴たちはどうなる。
全員死んだらアクリナを連れて住み込み家庭教師に戻れば良いのだという自暴自棄な考えも浮かぶ。今の私ならば、もう少し俸給が貰えそうな、大学のギリシャ語講師もできるかもしれない!

……いや、何故隣のバシュキロフ家の疫病で、我が領の概ね善良な農奴が痛めつけられねばならない。
だから、今聞いたアクリナの話から理由を考えるのだ。領主の仕事だ。
その生物は、冬に温かいところに集まる習性がある。
どの程度の温度がその生物にちょうど良いのか? たいていの夏には発生しない。だが、子孫を残しているのだから、夏も何らかの形で生き続けているのだろう……。


扉のノブをまわす音がした。乱暴に右左にノブを動かす。
当然鍵はかけてある。
私にしがみついて放心していたアクリナが、急にふだんの状態に戻った。「え、……どなたでしょうか」
アクリナは立ち上がり、目元をぬぐいながらドアに向かった。
扉が激しく叩かれている。
私は考えを中断されたことに苛立った。あんなに扉を激しく叩くのは何かまずい事態が起きたのか。

「ああ、アクーリャ! あんたのところに来てあげたわよ!」
女の甲高い声が大きく叫んだ。
玄関を見ると、ぽっちゃりした女がアクリナの背に両手を回し締め付けている。ツェレスタだ。
「ツェレスタ。今は駄目です……」
「あんたとあたしの仲で駄目なんてあるかい。今夜やるよ。オパヒヴァニエの儀式だ……あんたも手伝うんだ」
「え、……あの、あれは後家さんでないと……」
「あんたも後家だろう」

「違います。……あたしは領主様のもので……」
「亭主がいただろうに!」
「許婚だっただけですわ」
「じゃああんたは、ずっと独り身なわけだね」ツェレスタの話し方は自信たっぷりで、人の考えを誘導する力がある。アクリナではひとたまりもなかろう。

「独り身では……ありません。領主様がおられます」
アクリナの声が自信がなさそうに変わっていく。
「あのお方には奥方様もお子様もおられるそうじゃないか」ツェレスティナが嘲笑うように言った。「取ってしまえば良いんだよ。お子様はまだお小さい。あんたに懐くだろうよ……レオニード様だって、あたしに懐いてくださった。子供は可愛いよ。男の子は特に可愛い」
「ふざけないで」
「結婚式をやってやろうか?」
「え……?」

私は膝の上に座っていた兎を床におろした。木の床を兎が叩く。
ツェレスタが奥をのぞき込んだ。好奇心に満ちた目だ。が、私と目が合うと恐怖に打ちのめされた表情に変わる。
「Я家の領主様!」

続きます。