第15話 ロマの占い女2 隠者のカード

占い女に、アクリナと領主様の相性は『最高』と言わせようとする領主様。
単にアクリナの機嫌を取り、彼女の精神を安定させるための試みなのですが、占い女の天幕はなかなか本格的?です。
……作者は私事で少々疲れておりまして、ずいぶん時間がかかってしまいました。
どうでもいいお話ですが、漫才を楽しんでいただければ幸いです。

5月1日,1831年

私はフォン・リンネフスカヤ夫人こと、アクリナ・ニコラエヴナを連れて占い女のいる天幕に向かった。
地面は泥沼だが、野生化したゼラニウムの良い匂いがする。
占い女がいるのは広場の北の端で、露店も、ロマの楽団の音楽も聞こえなくなってくる。
市場の買い物客もここにはほとんどこない。
広場と隣の牧草地との境界に、冬菩提樹の高い木が枝を跳ね広げつつ枝垂れ、新しく鮮やかなハート形の葉が開いていた。
空は薄い水色であった。暑くもなく寒くもなく、気持ちがほどけるような天気である。クラバットの麻(あまり糊を付けていない)が、ゆるく吹き寄せる風にひらめき、顎に当たるのが心地よい。

私はステッキを時々つきながら、母上の春外套を着た淑女をゆっくりと案内していく。
人混みをはずれ、占い女の天幕のほうへと向かう。

「一年中このような天気なら良いのにな」
私はアクリナに言う。アクリナのレースの手袋が私のフロックの肘にかかっている。かつては水仕事で赤く膨れ、ひび割れていた手は、今では白く柔らかい。私の肘にかかる力が強くなる。

アクリナは私を見上げ、ほんとうに小声で言う。
「……そうですけれど。そうなったら、アフリカはもっと暑くなって、アフリカの人たちが焼け死んでしまうのではないでしょうか……」
論理的な気もする。「ああ、そうかもしれない。おまえは賢い」
「ナイルパーチが、蒸し焼きになってしまいます」
ナイルパーチはナイル川で採れる魚だ。図鑑で見て気に入っているらしい。
私の肘に置いた手にいっそう力が入る。
「蒸し焼き……あ、あのエヴゲーニイ・パヴロヴィチ。正教徒なのに占いなどをしたら、地獄で蒸し焼きになるのではないでしょうか……」
振り向いて顔を見ると蒼白だ。
「あ、あたしは構いません。貴男様が蒸し焼きになったら、どうすればよいのでしょう」

「どうすればって、蒸し焼きになってしまったら、もうどうしようも……」
ああ、なんと答えれば良いのだ。
アクリナは合理的で非常に賢い部分があると同時に、身についた民衆の信仰と正教の教えを自分でものすごく悲観的に解釈して、なんというのか、自分で自分に鞭打つような考えに溺れてしまうことがある。
賢い猟犬どうしを掛け合わせていくと、賢いが不安に満ちた犬ができ、生きていけないほどであったという話を思い出した。

「私は蒸し焼きにならない」
とにかく重々しく断言することだ。アクリナの涙に潤んだ瞳が、私を注意深く見上げている。
「聖ニコラ様もロシヤの民の占い好きには呆れておられるが、お心の広い方である。ロシヤの民全員を蒸し焼きにするようなことはないのだ」
「……はい」
アクリナはまだ震えている。

「アクリーヌ、占いの結果が怖いのだろう」
アクリナがびくりとした。「ど、どうして、それが……」
ああ、こんなに簡単に彼女の考える事柄が読めるのに、まだ理解できない箇所がたっぷりある。
「私は優れた領主だ。おまえの考えくらい簡単に見通せる。だから、何度も言ったように占いはおまえに良くない」
「はい……貴男様は、聖ニコラ様が遣わしてくださった、あたしの導き手でございます。
先日よくよく考えてみました。貴男様のほんとうのお姿は大天使では……厳しく罰を与え悪魔や魔女を打ちのめす……」
アクリナは潤んだ目で私を見上げ、畏まり怯えつつも、微妙にうっとりしながら言うのだ。
こういう趣味なのか。……じっさい、こういう趣味なのだ。私ごときを神聖視し、厳しく指導されることで得体の知れない罪悪感を一時なりとも埋める。ついでにそれに情欲も被る。

「アクリーヌ」
私は肘にかけられたアクリナの手に手を重ねる。
大天使……。
背中に翼が生えていたら重いであろうなと思う。かつてポーランドの貴族(シュラフタ)には有翼重騎兵という騎兵がいた。背中に二本の長い棒を立て、棒にはびっしり羽をつけ、集団になって敵を攻める。ポーランドとスウェーデンとの戦いでは、スウェーデン軍はかなり苦労したようだ。あれは重そうだ。

「ああ、アクリーヌ。別に私には『正体』などなくて、ただの領主で……」
アクリナが私を大天使だの聖ニコラだのと信じたがるのも『面白いから良いか』、とも思うが。
アクリナは私をすがりつくように見上げている。イコンに祈るときの表情だ。いや、微妙に違う。そこには恋する乙女のような含羞(はにかみ)がある。……いや違う。
崇敬と法悦の表情とともに、彼女の石榴の実の色の唇は半ばうっとり開き、青灰色の瞳は潤み、涙がこぼれた。私をじっと見上げている。
私は手巾を出して彼女の涙を拭く。
親しみ? 敬愛? 媚び? 欲望?
いや、なんだかわからない。

同じ敷地に住み、しょっちゅう会っているのに、私と会った貴重な瞬間を逃すまいとでもいうように、このあとすぐに別れるとでも言わんばかりに寂しげで、うっすらと微笑む顔には諦めも混じっているように見える。
「『正体』はなくても、領主様。貴男様は偉大な御方です……」
この表情がとても痛々しく可愛らしかったので、私はつい、母上の藤色の外套の上から彼女を抱擁した。
「駄目ですわ」
すんなりした肩に頭を乗せた。母上の外套だ。
母上がこの外套を着ておられたときの私は、胸元くらいまでの身長しかなかった。もう少し長生きしてくださったならば、私がパーヴェル(私の傍若無人な馬鹿父)から守って差し上げたのに……。いや、あのころは外国に行きたくて仕方がなかったし、美しいご婦人たちに次から次へと夢中になり……ああ、無理だ。
アクリナの胸元の絹の飾り紐の束が私の無骨な手に当たる。飾り紐の奥、何枚もの布越しに、すんなりした体のわりに豊かな乳房の重みを手のひらに受ける。

私はアクリナに、私をどう見てもらいたいのだろう。
ただの私は『領主の座を若干重荷に思っている領主』で、とはいえ、領地がきちんと治まっていることに満足しているし、改革案はいくらでも思いつく。
領地や農奴、あるいは領主一家や使用人を富ませることができそうな案を思いつけば、テレージンやクズネツォフ家の祖父と息子のような有能な人物に囲まれていることに感謝しつつ、改革に熱中する。(ヒローシャ? 警備役と憂さ晴らしの相手としては有能だ)

私生活では『特殊な趣味』の持ち主で、願いといえば、もう少し学問をしたかったことくらいだ。
私は気まぐれに、アクリナに対して普通の恋人のように、領主とその農奴の愛人そのままに、あるいは教師や司祭のようにふるまう。厳しい教師や、特殊な趣味の教師、あるいは甘い教師いずれもだ。
「『相性が最悪』であろうと私はおまえを捨てない。安心しなさい」
「はい……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。ありがとうございます……。あたしはどうやってご恩返しをすれば良いのか」
私はアクリナから体を離し、手首を掴んだ。
「ふん、あれだけ体を好きなようにされて、まだ足りないということか」
「……は、はい。まだ足りのうございます。もっと乱暴に、色々なすってくださいませ」
アクリナは正直だ。

牧草地と冬菩提樹の間を流れる小さな水路に、露天商のおかみさんがブリンなぞを盛る木の皿を洗いにくる。
私とアクリナをこっそりうかがい、「きっと別れ話よ」と囁きあう声がこえる。
私は彼女たちに怒鳴る。
「ご婦人方、友人の細君をご案内しているのだがね。私はЯ家の当主だ。うち相手に商売をしたくないのか」

「領主様、そんな酷いことをおっしゃらないでください。あの方たちにも悪気はないのですわ」
「民衆を導くのも貴族の義務でね。下卑た想像などされたくない」
私はアクリナの手首を掴んだまま、水路の脇に盛んに生えたタンポポに囲まれた細道を、早足で歩く。
アクリナの足に合わせていない。振り返ると、息を切らせながらも笑顔を見せるのだ。媚びるわけでもなく、ただ私と歩くのが楽しいらしい。
ああ、可愛いではないか……。4人の婦人との褥などより、こうやってアクリナと二人で歩くほうが今の私にははるかに幸福だった。幸福とは、ほとんど考えてみたことがない言葉だ。

冬菩提樹の下に、占い女の天幕が立っていた。
円錐形で正面から見ると三角だ。高さは一サージェンと少々であろうか。こういう天幕は、貧しい農奴の小屋にもよくある。
恐らく中央に柱が一本あり、そこに何本かの細い木材を立てかけたものだろう。
農奴の天幕と違うのは、藁束や麻布の代わりに、波打ちながら光る赤いビロードの布がかかっていることであった。

「きれいですわ……」天幕の前に立つと、震え声でアクリナが言った。
「そうか……?」
赤い布には、ガラスのビーズやフリル、金箔の混じった飾り紐や釦、硝子のかけらなど、安くてピカピカ光るさまざまな小物が縫いつけられていた。申し訳ないが、我が国のイコンを思い出した。
アクリナが、エスコートしている私の肘にしがみつく。やはり怖いらしい。
腕から震えが伝わる。細い横顔は蒼白だった。

私は丁重に言う。「フォン・リンネ夫人。怖くはありませんよ」
「どんな恐ろしいことを言われるか……そう思いますと……」
ああ! だから占いはアクリナに良くない! 私は嫌いだ!
占いというのは、根拠も何もないの勝手に作った妙な理論から妙な結果を引き出し、人を神経衰弱にする!

「アクリーヌ。止めて、宿屋に行くか?」
「宿屋って……あの」
「たまには場所を変えるのも悪くない」
アクリナが誘惑に駆られている。母上の外套の下ですんなりした体がもだえている。
「う……」
頬を染めて私をちらちら見あげる。(元・色男の私に、いまだに魅力を感じてくれているとは物好きである)
哀願するように私を見上げる様子にはやはり惹かれる……しかし、私は領主である。ここまで大金をかけて場を用意して、一時の情欲のためにぶち壊してどうする。
それにアクリナはどうせまた『相性が最悪』に悩みだすのだ。

「アクリーヌ。領主として命じる。
残念だが、やはり今日、宿屋は駄目だ。……ああ、星占いは大雑把すぎる。ほんとうに相性を見てもらうならば、こういう専門家(買収済み)に頼まないとならない。
ずいぶんびくついているではないか。占いはやはりおまえの心身に悪い結果をもたらす。
良い結果だろうと悪い結果だろうと、今日で最後だ」
「はい……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ」
「結果の如何に関わらず、領主の私がおまえに格別に慈悲を垂れ、(もう)を開き、臆病な魂の救済に力を入れていることはおまえでも理解できていると思ったのだがね」
「領主様。もちろんでございます。貴男様にお会いしなければあたしは今ごろどこまで堕落していたか……」
堕落?
いやたぶん、リザヴェタに仕え続け、二人で平和にシベリヤのリャードフ家を守っていたと思う。

「貴男様がいらっしゃらなければ、あたしはどれほど愚かで淫らで……」
「……え? 淫らになったのは私のせいだと思うぞ」

「まさか。貴男様が……あたしの淫らさを罰してくださるから……今程度で済んでいるのです」
アクリナは少々ためらってから、思い切ったようすで言った。
「貴男様が止めてくださらなければ、きっとあたしは……素裸に外套を羽織った姿で道に立ち、い、行きずりのどんな殿方にでも身を任せていたに違いありません」

私は呆れるほかない。
「おまえには絶対に無理だ。あれだけ人見知りするくせに。
いいか、見知らぬ男に抱かれるには『声をかける』『話をする』『どこでやるか相談する』これらをしなければならないのだぞ」
「……て、手紙で……」
「文字が読める男が、わが国にどれだけいると思っているのだ」
アクリナはがっくりしている。

アクリナはラヴェンダー色の母上の春外套を胸元で抱くようにして、私を見上げる。
「あたしは、貴男様と婚配機密の礼に与っておりません。身分も育ちも年齢も容貌も、何もかも貴男様にふさわしくありません。
でも……ですから、占いで良い結果が出て欲しいのは、正教徒としては間違っていても、異教の精霊たちに祝福してもらいたいという、あたしのわがままなのです」

「おまえは私の異教の妻か……」
それも悪くないと思った。異教……キリスト教が到来するまえの雷神ペルーンや、母なる湿れる大地の女神モコシュ、そのような大物でなくとも森の精のレーシイや川や池の精霊ルサールカに祝福されれば良い。

異教の妻という言葉を、アクリナが慌てて否定する。
「違います! あたしは単に、ただ貴男様のものなだけです」
「もし私が回教徒ならば四人まで妻を迎えて良いのだ。領主様なら四人妻がいなければ恥だぞ。おまえは第二夫人だな」
「ええ! では、第三夫人と第四夫人は……あたしはベールをかぶらないと」
アクリナと話していると、どんどん脱線していく。

「ただのものの例えだ。もしそんな事態になれば、第三夫人と第四夫人は、気の毒な境遇の寡婦で、Я家の役に立つ婦女に名のみ頼むよ。それで良いだろう」
「才のある寡婦の方ですのね……なんて貴男様のお好きそうな……」
「ひとりは、そうだな。寡婦ではないが、うちの女中頭のエレナ・ネクルィロヴァあたりに頼むか」


そのころ、領主館で、小間使いたちに号令をかけて、まっすぐ行進させたり、頭の下げ方のチェックをしていた女中頭のエレナ・ネクルィロヴァは、ふと唐突に回教徒の生活に思いを馳せた。しょっちゅう戦争しあっているといっても、平和な時にはオスマン帝国から来た商人を見なくもない。
もし自分が後宮(はーれむ)というところで働くとしたら、やはり女中頭になって、同じようなことをしていそうだと思った。
そうなったら、領主様が皇帝(するたん)というものになるのかしら、と、正教徒としては言語道断かつ、慈悲深い主人に対して背徳的な想像をしてしまったことに愕然とした。何度も打ち消そうとしたが、いったん思いついたイメージは簡単には消えなかった。
アラビアふうの白布を被った主の像が脳裏から離れない。
彼は『エレナ、私はメッカに巡礼に行かねばならない』と言った。
「領主様、恐れながら、もう放浪はおやめになったのではございませんの。奥様もお子様もおいででございますわ」
『放浪ではない。我が信仰の聖地へ祈りに行くのだ。……おまえも行くか?』と主が言った。
エレナは倒れそうになった。


「ああ、それでだなアクーリャ、もう一人はどこかの商人の寡婦で、できれば英語もできる婦人だ。それならば我が第二夫人もお許しくださるだろう。
第三夫人と第四夫人には、お手に接吻しかしないからな!」
アクリナが言う。「……回教の旦那様方は、奥様を等しく愛さなければならないとうかがいました」
何故かアクリナは時々、難しいことを知っている。「お手に接吻だけでは駄目なのです……」

「……では、5人で……」
そう言いかけて、私もアクリナも絶句した。
5人……。4人の婦人を私一人で満足させる……?
五年、いや十年前ならともかく……。快楽の予感より戦慄が襲ってきたのが情けない。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、あの、ご無理はなさらないほうが……」
「『やきもち』も妬かれなくなったのか」
アクリナが慌て答える
「い、いえ! 貴男様が四人の女の方を一度に我がものになさろうと、貴男様のご身分とお立場ならば当然です。……相手にしていただける婦人は幸運です……でも、」
必死で、私の男性としての力を褒めようとしているようだ。
「あ、……あの、お疲れかと思ったのです」
私はアクリナの肩に腕を回し、溜め息をついた。ああ、面倒な用事が次々浮かんでくる!
「そうだな。一月くらい寝つくかも……」


天幕の入り口に丸木の椅子を置き、座長がぼんやり座っている。彼にはもう暑いのだろう。
よれよれの英国ふうのシャツを胸まで開き、ぶ厚いハムのような胸に、歌姫が持つ孔雀の羽の扇で風を入れながら、ぶつぶつ呟いていた。
「予約がある……」
並びかける農民や商人を、ハエでも散らすように、孔雀の扇を振って追い払う。

「座長」
私は声をかけた。
座長が振り向き、私を認めると、天幕の中に声をかけた。
「パンナ!」
恐らく中にいる占い女の名であろう。
そから座長は早口で、天幕の隙間から中の者に話しかけている。

アクリナが私に聞く。
「なんておっしゃっているのです?」
「ロマ語かな。私にはわからない。どうもハンガリー語も混ざっているようだ」

「貴男様にわからない言葉……」
アクリナはまた絶句する。唇を噛みしめている。
私が彼女に会って以来、使う機会がありながら、まったく理解できないと言った言語は、このロマ語が初めてかもしれない。私は『外国語が馬鹿みたいにできるだけのぼんくらの元・色男』なのだ。
今までそのような話をしたことはないが、アクリナは私の語学力を頼りに思っていてくれたのであろう。
だからなのか知らないが、信じられないほど怯え始めた。

「アクリーヌ」私は小声で囁く。
ロマ(ツィガーン)の芸人たちを見たことがないのか」
「……アルハンゲリスクで赤く塗った馬車を見たことがあります。とてもきれいでした。でも芸は知りません」
芸人一座はシベリアにはそれほど行かないだろうし、リャードフ家に勤める前にアクリナがいたのは女子修道院だ。
たぶんロマの一座は、修道院には興業に行かないであろう。
まあ我が国の修道院だから、悪気もなく院長自ら芸人を呼んで歌ったり踊ったりしかねないのだが。

座長の体は半ば天幕の入り口の掛け絨毯のなかに消えている。にやにや笑いながら、天幕のなかへと手招きする。「どうぞ、旦那、奥様」
唐突にアクリナが聞いた。
「座長様、貴男は正教徒ですの?」

座長はしばらく考えてから答えた。
「……もちろんでさあ」
正教徒だから善人とはらないのだが、というより、国内から出たことのないアクリナを酷い目に遭わせた人物のほとんどは正教徒だと思うのだが、それでも彼女は少し安心したようだった。

芸は見たことがあっても、占いの天幕に入るのなど私も初めてだ。
入り口を覆う重い掛け絨毯をめくると、内側は赤い地獄に見えた……思ったより中は広い。一サージェン(約2.1メートル)四方より広いようだ。
天幕に入ってすぐ右手に、三、四人座れそうなベンチ、天幕内の中央には、炎があがっているかのように、真っ赤に塗られた柱が幕を支えていた。
その柱を挟んで、一人掛けの安楽椅子、二脚の背が見える。
テントの一番奥には低い小箪笥があり、その上に猫やネズミの毛皮を縫い合わせたクッションが敷いてある。太った婦人が膝をたてて座っていた。

彼女の服も真っ赤だった。口の端に重そうな銀のパイプをくわえている。おかげで厚い唇の片端だけ垂れて膨らんでいた。白髪交じりの灰色の髪を半ば赤いスカーフで覆い、残りは三つ編みにしていた。山羊のひげのようだった。
着ているのは、カフタンにルバーハ、それに幾重にも重ねたスカートのようだが、すべて真っ赤に染めている。
三つ編みの髪にも首回りにも、指先にも飾りものだか幸運のお守りだかが、じゃらじゃらと通してあった。大きな二枚貝がそのまま髪に挿されているのには驚いた。
占い女は皺だらけであった。一見威厳がありそうで、じつは臆病なようにも見える。威圧しているのだか困惑しているのだかわからない表情で、私とアクリナを見上げた。

「予約していたЯ家の者だがね」
私はステッキを置き、絹の帽子を取りながら、勝手に安楽椅子に腰かける。

アクリナは占い女よりまずともかく、天幕の中に混沌と飾られた、異教の霊的な小物たちに心を奪われている。
アクリナの情緒の安定のためとはいえ、私は占いが嫌いである。
しかし、この天幕内の装飾は興味深かった。異教の大博物館だ。
まったくのところ、異教の魔女の小屋そのものだ。
ああ! 私はこのような小屋を、我が臆病な魔女たるアクリナに贈りたい! あの占い女の座っている場所にもっと良い椅子を置くのだ。
(基本的には皇帝様式で座面に赤いヴェルヴェットを貼り、背もたれの頂上には象牙を彫った頭蓋骨を二つ並べ、目にはガーネットをはめ込み、手すりや脚には蛇とウサギを彫り込む)
その椅子に、黒いドレスのアクリナを、魔女の女王のように座らせるのだ!
ああ、そして私は彼女の前にひざまずき、使い魔たちに囲まれ、黒いスカートから覗いた魔女の白い足に接吻し、爪が赤く染められていることに気づく……ああ、我が少年時の夢よ!

ああ、ええと、
ここは移動式の天幕だ。
床板も真っ赤に塗られている。
天幕を支える中央の柱から、縄が四方に張られ、アングロサクソンのお守りである干からびた『ウサギの足』(ウサギは豊穣の女神の変化とされた)やら、やはり豊穣を願う、恐らくローマ起源であろう『男性特有の器官』に翼のついた青銅の彫刻、エジプトの亜流か『邪視』避けの目の形の陶器の板、邪霊を払うための小さな鈴の束、猿の胎児(人間かもしれない)のミイラ、薬草、干からびたニンニクと唐辛子の束、その他なんだか知らないがいろいろある。
人間はこれほどまで迷信に満ちているのだなと、私の冷静な部分は憂鬱になった。

また、簡単に組み立てたり分解したりできそうな小棚もある。
ここにもどこかで拾った貝殻やヒトデ、悪霊を祓う鮫の歯だの熊の爪だの、ガラスのかけら、人形、などが、ぎっしり乗せられている。
アクリナは、ウサギほどの大きさの人形のガラスの目に、惹きつけられていた。
木を削って目鼻も真っ白に塗った人形だ。髪の毛も藁色の麻糸で、アクリナの髪に似ている。
ガラスの目は真っ赤だった。ドレスは意外と凝っている。そこに長い釘が何本も刺されていた。誰かを呪っているのであろう。あるいは呪いも引き受けるという看板だ。
罰当たりにも、その横に聖ニコラのイコンが立てかけてあるのだった。

「予約の……Я家の貴人たち」
パンナという太った占い女が言った。
インド人のようにも見える。皺だらけの茶色い肌は垢なのか日焼けなのかよくわからなかった。
ごてごてした指輪がたくさんはまった手で安楽椅子を指さす。アクリナがはっとしたように、壁の棚のお守りたちから目を離し、天幕の中央に向かってきた。

占い女がアクリナに言う。
「ご妻女、安心おし。あたしは正教徒」
どう見てもこの各地の迷信を集めたたお守りの群れが正教徒のものとは思えないのだが、アクリナは安堵のため息をついた。

アクリナもおずおずと私の隣、安楽椅子の一脚に座る。
「ご妻女、外套はお脱ぎ!」
急に占い女が訛のあるロシア語で怒鳴った。
シンバルを叩いたようなすさまじい声だ。

アクリナがびくりと震え、ほんとうにわずかに椅子から飛び上がった。彼女は衝撃を受けると、肉体にもはっきりとした兆候が現れる。
「……ご妻女って何ですの」
アクリナが、ハアハア息を継ぎながら私に聞いた。
私はアクリナの耳許で囁く。
「『奥様』の古めかしい呼び方だ。結婚しているかどうかなど言わなくて良いからね。ただ私とおまえの相性を見てもらうだけなのだから」
アクリナはいったん座ったのだが、占い師に言われたとおり、また立ち上がり、我が母上の春外套を脱いだ。

百合のような、わずかに黄みのかかった古風な皇帝様式のドレスが、すんなりした体を優しく包んでいた。白いドレス姿などほとんど見たことがなかったから、新鮮である。が、やはりアクリナには黒のほうが似合った。
白いドレスは肌にとけ込んで半裸のように艶めかしく見えなくもなかったが、どちらかというと小娘の寝間着のようである。

「外套は脱いだね。ご妻女」
占い師は目の前の卓を叩いた。
「は、はい。占い師様」
「べつに占い師に丁寧に話さなくて良い」

占い女はいつも暗い天幕の中で働いていて目が悪いのかもしれない。
幾重にも垂れた『なめくじ』のような瞼を持ち上げ、目をすがめてアクリナの姿を上から下まででじろじろと眺めている。
占い女パンナの年齢は五十か六十か七十か。
馬車で漂泊する生活を続けているのだから、早く老けそうだ。砂の混じった風雨は髪も肌も痛めつけるであろう。実は案外若いのかもしれない。
私は彼女に訊く。
「マダム、私も上着を脱いだほうが良いのかね」
「旦那は良い。二人の名前と誕生日を教えておくれ」

「私はエヴゲーニイ・パヴロヴィチ・Я(ヤー)、誕生日は1月13日」
「生まれた年は何年?」
「1797年だ」

占い女は算術用のショーテ(そろばん)を取りだした。二本の曲げ木の間、横軸がいくつも並んでいて、軸に突き刺さった木製の玉を移動させて計算するのだ。
【* 日本のそろばんを縦にしたような形】
「1足す7足す9足す7足す……」
関節が太くなった頑丈そうな指で、ショーテの玉をはじき始める。

「ご妻女は」
「あの、ナディア・フォン・リンネフスカヤ……」
「ここでは本名で良い。偽名で占われても仕方なかろう。……アクリナ・ニコラエヴナ・Р(エル)。誕生日は……6月13日、1793年」

アクリナの生年月日は、彼女の母が生きているうちに娘に教えたのだが、月日を間違えている可能性も結構ある。
が、別にこの占いではどうでも良い。
「ふん」
占い女はぶつぶつ呟きながら何か計算を続けている。
「ビブロスの聖アクリナが致命した日だね」

【* 聖アクリナ(281-293年6月13日)当時禁じられていたキリスト教信者で、12歳で拷問の上、致命(殉教)。ビブロスはローマ治下にあった都市。現レバノンのジュヴェイル】

アクリナが不思議そうに私に聞く。
「あの領主様。前から疑問に思っていたのですが、貴男様のお誕生日の聖人は、ニシビスの聖ヤコブ様やアトス聖山のマキシモス・カウソカリビス様でいらっしゃいますけれど。……貴男様のお父上は、どうして聖人暦からお名前を戴かなかったのでございましょう?」
「賄賂を使えば、聖人暦に関わらず好きな名前をつけられるのだよ。ヤコブもマキシムも、それほど流行らない名前だったからではないかな」
アクリナがまっすぐに私を見る。
「では、パーヴェル様はどうして『エヴゲーニイ様』とご命名なさったのでしょう」
「さあ……?」
【* 正教暦は、各日いわれのある聖人の名が記されているカレンダー。子供の誕生日に、その日の聖人の名をとってつけることが多かった】

占い女が計算を終えたらしい。こう言った。
「旦那の運命の数は2で、ご妻女の運命数は3だよ」

私は訊いた。
「それはどういう意味なのだね?」

占い女は燭台のろうそくを一本取り、口の端にぶら下げたパイプに火を移した。吸いつけてからもったいぶって言う。
「運命数というのはね、運命を表す数字だよ……旦那の運命数2は……」
アクリナは手を膝にしっかり置き、聞こうとしている。
「ご妻女方々占って出たのが運命数2だ。旦那がご妻女の二人目の男だということを表しているのさ」
「当たっていますわ!」
驚きと賛嘆をあらわにアクリナが半ば立ち上がりながら叫んだ。ああ、呪われろ、1番目の許婚殿。

確かにこの一座の座長に、『最高の相性と言え』とは命じてあるが、『二人目』といった事実は教えていない。
ほんとうに当たるのか? ……と一瞬思うが……。
アクリナの立場なら(つまり愛人、妾一般ならば)、彼女を囲おうという男と出会った時点で、まず他の男を知らないはずはない。
かといって男の数が多くてはならない。従って『二人目』と答えるに決まっている。
それを見越して、そう言っているのであろう。

「では、あたしが3なのは……」
アクリナは……私が交際したことのあるご婦人を心の中で数えているらしい。前の妻オルガと今の妻リザヴェタ、それに恋人のアクリナで三人だ。
「フョークラと『血まみれ』小間使いが入っていません……スペインの売春宿の方も(そんなことを話しただろうか)。それに絶対にもっとたくさんの女の方がいらっしゃるはず……」

「違うよ、ご妻女。あんたから見た旦那だ。あんたから見た旦那の運命数3は至聖三者(カトリックで言う三位一体)を表す。あんたにとって旦那は神にも等しいってことだよ」
アクリナが息をのんだ。滑かな喉が緊張に引きつっている。当たっていると思っているらしい。

……アクリナが突然すさまじく、崩れ落ちるように『頭が悪くなる』ときがあるのだが、どうも信仰がらみの場合が多い。

パンナは続ける。
「そして運命数2と運命数3を足すと5だ。これは5本の指のことだ。あんたたちお二人は一つの手みたいに相性が良いようだ」

こじつければ何でもこじつけられるものだ。恐らく私は冷ややかに眺めていた。パンナは私の表情を見て取ったらしい。
「あんたがたの相性がまあ良いのはわかった。今度は『タロット』というカードを使う」
占い女はどこかから取り出したカードを取り出した。アクリナに色刷りの、凝った絵を見せる。
何色もの色を重ねた印刷物であった。民衆版画(ルボーク)より、遙かに凝っている。
「きれいですわ……」

まあそういうわけで占い女は布を掛けた卓の上にタロットを切って並べていく。シャッフルはさすがに見事なものだ。
アクリナは溜息をつく。
「こんな豪華で神秘的なカードがあるのですね……。貴男様はご覧になったことがおありですか」
アクリナが肘掛け椅子の隣から私に目をやった。卓上にはステンドグラスで作った角灯があり、黄色や青の光りが、まわりの赤い布に様々な影を映した。
アクリナの青灰色の瞳に赤みが混じり、紫色にきらきら輝いている。
「見たことはあるよ」
「やはり何でもご存じなのですね」
……フランスの売春宿で流行っていた。

売春宿以外でも見た。私は魔女マニアである。
また、かつて縁あって新大陸の怪しげな大学に行ったこともある。
そこはアメリカ合衆国東海岸のさびれた港町近くにあるムィシュカトニクスカヤ大学という。やたらに大仰な古書と変な生き物のホルマリン漬けばかりがある大学であった。そのロシヤ・スラヴ研究所に半年ほど籍を置いていた私は、魔術だの異教の秘術だのといった神秘思想を無理矢理に教えられた。
全然信じてもいないのに。

タロットはユダヤ教から派生したという噂も聞いたことがあるし、古代エジプトからあったという話も聞いた。
ロマたちはエジプトから来たと自称している場合もあるから、タロットは彼らが持つにふさわしいわけだ。
ただ、すべて噂と仮説の域を出ない。
大体、古代エジプト人だのユダヤ教徒が考えたのならば、『法王』などというカードがあるのは奇妙である。当然、考案者たちはキリスト教徒ではないのだし、ローマ法王という制度が確立したのは、紀元3世紀ではないか。

占い女はタロットを切り終えると、カードを五枚取り出し、卓の上に十字の形に伏せた。中央に一枚、四方に各一枚ずつ、である。
「色々な並べ方があるが、あんたたちの一生の相性だ。一番神聖な形に並べて占う」
「ありがとうございます。占い師様」
アクリナは、パンナが占いを続けるのを懸命に聞いている。

占い女の声はどんどん低く、小さくなる。
「十字のてっぺんがご妻女の気持ち、真下が旦那の気持ち、あとは真ん中の列に三枚のカードが並んでいるだろう。左から二人の過去、現在、未来を表すのさ」

地獄の底から這い上るオオサンショウウオのような低い声で呪文を唱えながら、パンナはカードに手を伸ばす。
一番左のカードをめくった。

カードを見た途端、私は頭を抱えそうになった。半裸の太った男で頭が山羊……どう見ても『悪魔』だ。何故、カードにいかさまを仕込んでおかないのだ!
予想通り、アクリナが悲鳴を上げた。
「あんたたちの過去のカードは悪魔。お互いに肉欲で惹きつけられたんだね」
「え、あ、あああ……」
アクリナが呆然と、当たっています……と呟く。

老女は目を伏せ、カードを指さす。目のまわりにタールを塗って、睫毛を目立たせていた。
「次は旦那、真ん中のカードをめくって」
でっぷり太った占い女が私の肘掛け椅子のほうを向いた。私はカードをめくるために卓のうえに体を乗り出し、占い女の耳元で密かに命ずる。
「当たっていようがいまいがどうでも良い。『最高の相性』を忘れるな!」

占い女は平然としている。
「旦那、早くめくっておくれ。お二人の今の状態がわかる」
私は指示されたとおり、十字型の真ん中のカードを開く。剣と天秤を持った人物の絵だ。
「『正義』の逆位置だ」
「正義……は良いですけれど、逆位置ってどういうことですの?」
「正義の逆ってことさ」と占い女のパンナはアクリナに言う。
この女は、先ほどの私の要求を聞いていたのだろうか?
「世の中から見たら釣り合わない相手どうしということだ」
アクリナがはっとしていた。ああ! 何故そういう『常識』をわざわざ言うのだ。
「わ……わかっていますわ」

それから、婦女のほうの気持ちをあらわすカードをアクリナにめくらせる。
逆さ吊りにされた男だ……。
『吊られた男』とかいうカードで、多分恋愛の占いでは『相手に束縛されて尽くすことが好き』とかそんな意味だ。妙なところで当たるものだと感慨にふけりそうになった。

パンナは何故カードにいかさまを仕込んでおかないのだ。あれだけのカードさばきなのだからたやすいだろう。
『恋人』とか何か、恋愛に良さそうなカードはたくさんあるではないか。

パンナは鮮やかな手つきでカードを操りながら、言う。
「これは……旦那が魚釣りが好きであんたを釣りの大きな獲物のように大事に思っているという意味だ」
「まあ、そうですの! 確かに領主様は釣りがお好きで……ああ、嬉しいですわ……」
アクリナはほんとうに納得し、嬉しそうだ。
海千山千の占い女は、いかさまなど使わなくともアクリナならば簡単に丸めこめると、ひと目で見抜いたのではなかろうか。

そのあと、『私の気持ち』とやらのカードは『隠者』というものであった。『隠者』……確かに社交は嫌いだがそこまで枯れきってはいない……と思う。いや私は占いを信じる者ではない。
「孤独……、一人で心の中で思う愛情だよ。肉欲はない」
なくはない。邪念だらけだ。
「え、ええ? 領主様……いえ、旦那様はあたしに飽きてしまうと」
「違うよ、以前は情欲だけだったのが、釣りをしながらあんたの心も愛するようになった」

最後の将来のカードは『月』であった。
『三角関係』『心の中』『不安』を表すカードだと聞いた。月に横顔が描いてあるのだが、その顔がたいそう不安で憂鬱そうなのだ。
そして当然、パンナの解釈は大変、アクリナに都合が良いものになるのだった。
「ご妻女、あんたの暗い心持ちを旦那が柔らかく照らして差し上げるということだろうよ」

パンナはカードの束の側面で卓を叩き、カードをしまう。
「身分が違っても、旦那は常にあんたを見ている。そしてご妻女、あんたは釣りにお供して釣り針にミミズや蛙をつけて差し上げ、献身的に尽くすのさ。あんたがたは身分が違うからこその最高の相性だ」

「はい、占い師様……エヴゲーニイ・パヴロヴィチとあたしが最高の相性……」
アクリナは嬉しそうだ。何故納得できるのか理解しがたいが、納得したらしい。
納得して安心するなら別にもう何でも良い。
私は山羊革の手袋をはずし、アクリナの藁色の髪を撫でる。細くて、癖はあまりない。彼女のウサギの毛皮を撫でているように心地よかった。

「吊られた男の絵は、いざとなったらあたしが釣り餌になって巨大なチョウザメなんかを釣れ、という意味ですのね」
「いや、アクリーヌ。もう占いはこれで最後で、今後一切、禁止だ。
領地の小娘あたりに『星占いの本』を読んでくれと頼まれたら、『領主様に読み聞かせてくださるよう頼んでおく』と伝えなさい」
「そんな。貴男様に恋占いの朗読をお頼みするなど、農奴の娘さんたちには恐れ多くて、とてもできませんわ」
「良いのだ。それでも言ってくるほど必死の娘の頼みならば聞いてやる」

私は肘掛け椅子から立ち上がった。アクリナも春外套を畳んで持ったまま立ち上がろうとする。
「占い女よ、世話になったな」
私は心づけを渡し、軽く手を挙げる。再び手袋をはめ、アクリナに外に出ようと合図した。

するとパンナが言った。ゆっくりと吐き出す。
「……旦那、ご妻女にご助言がある。しばらくのあいだ、二人きりにしてもらいたい」
「……助言というのは何だね」
「我が一族に伝わる、身分の高い殿方に愛されつづける秘訣さ。ご妻女、あんたは薬草を見ていたね」
「は、はい」
「薬草の効果的な使い方も教えよう」

「お話をうかがってみたいですわ」
アクリナが言う。私は少々心配でもあった。まさか、アクリナを攫ってどうこうということはなかろうが。
「婦人どうしの秘密の助言というやつかね?」
占い女がすかさず言った。
「あたしがどうして外套を脱いでもらったかわかるかい。旦那。ご妻女の体型を見たかった。すんなりした女にはすんなりした女なりの殿方の喜ばせ方がある。
肉感的な女には肉感的な女の……」

つまり、閨房指導をしてやろうということらしい。
「キリーナ、無理するな。外に来るのなど久しぶりだし、気疲れしただろう」
ぼそりと占い女が言った。
「このご妻女の体型ならばあそこはあれでああだろうね」
私は思わず情けない声を出した。
「え、ああ……あ」
こちらのほうが占いよりはるかに当たっている。
ああ、思い出してしまうではないか。あの、私だけの生暖かく心地よい秘密の場所、ヴィーナスの戯れの洞窟が!

気づくと私は喋っていた。
「そう、それで、今までの玄人女などよりよほどね……おまけに私に合うように何年にもわたって、獄中で匙一本で隧道(トンネル)を掘るようにだね……暗闇の牢獄だから頼りは指先だけで」
真っ赤なロマの占い天幕で私は何を喋っているのだ。

アクリナはきょとんとしている。
「旦那、あたしはね、ご妻女の魅力を増す方法をお教えしようというのだよ」
天幕の中は赤黒く、卓上に置かれた黄色や青の硝子をつないだ角灯のなかで鯨油が燃えている。占い女は角灯を持って立ち上がり、灯りで照らしながら、棚の小引き出しから何か出した。
アクリナに手招きする。

占い女は薄紙に包んだ何かを広げていた。アクリナの表情がみるみるうちに驚きと知恵の輝きに包まれた。
「まあ! 一度だけ見たことがあります。でももっと小さかったですし、色も薄かったですわ! エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。これは素晴らしいものです」
私は肘掛け椅子から立ち上がった。
アクリナの手のひらにのっているのは、何か青黒く光る甲虫であった。干してあるから脚が取れている……。
これがシチーに入っていたら嫌だ。

アクリナは興奮していた。
「博識な貴男様ならばきっとご存じでございましょう。西班牙芫青(スペインゲンセイ)の干したものですわ! 最高のあの……薬です」

私は、アクリナのさらさらした手に包まれた、薄紙の上に乗った甲虫を改めて見る。
……セイヨウハンミョウという昆虫だ。
スペインフライとも言う。
干したものには利尿効果があり、それが愛の欲望の刺激と似ているため、媚薬ともなる。前世紀の末、サド侯爵がこの薬をボンボンに入れ、娼婦たちに飲ませて有罪になった。
『生薬』というと植物を思い出すが、もちろん、動物昆虫鉱物まで含むのだ。

アクリナが夢中で続ける。「一度だけ、商人が、あたしが(まかな)いをしていた女子修道院に売りに来て……その一度しか見たことがありません」
アクリナはシベリアのリャードフ家に売られる前に、五年ほど女子修道院の賄いをしていた。
本来は修道女たちが賄いも何もかも自分たちでやるはずだが、彼女たちは素行不良の令嬢たちであった。

「女子修道院に媚薬? おまえも使ったのか」
アクリナの頬が赤くなる。
「まさか! お嬢様たちをおとなしくさせておくための方法を、修道院長様があたしにご下問になって、……あの、行商人から買ったものを粉末にしてお飲ませしたのです」

「……それは世も末の光景だな。女子修道院長も大変だ」
その粉末を飲ませて男を連れてきたのか自分たちで慰めたのか知らないが、宗教心もない若い娘が何十人も神に祈る生活を余儀なくされているわけだ。
彼女たちの欲望がたまるのは当然であろう。気の毒ではある。だいたい私が人のことを言えた義理ではない。

西班牙芫青など、私は使ったことがない。アクリナと使ってみたいという思いが沸いてくる。
「……占い女よ。売ってくれるのか?」
「ああ、一匹で十五ルーブルだね」(聖書一冊が一ルーブルである)
「高い。負けろ」

ロマの占い女がせせら笑う。
「まああ、大領主様が何をおっしゃるやら……皇帝陛下のご縁者でございましょうに!」
(違う)

「領主様、あの、あたしが申し上げることではありませんが、無駄遣いは……」
アクリナが、未練たっぷりに私に進言する。
「なあ、アクリーヌ。私が日々に満足して、仕事に身を入れれば、領地もよく治まり、収穫も増え、領民皆が幸せになるのだよ」
まあ嘘ではない。
「それに利尿作用があるのだろう。あらゆる保健のための用途に使えよう。ドクトル・セミョーノフに(使った後の)欠片でも見せてみれば、他の病人にも役に立つだろう」
「そ、そうでございますわね……」
心なしか嬉しそうに見える。

私とアクリナ、それに占い女の三人は薬品棚のまえに突っ立っていた。占い女が言った。
「スペインからロマ仲間が馬車を継いで大事に大事に運んで来たんだよ」
私一人であれば偽物かと疑うところだが、薬草に詳しいアクリナが本物だと認めているのだ。
私はアクリナに無言で手を振り、胴衣の隠しから皺くちゃのルーブル札を取り出して、ゆっくり数え、占い女に渡した。

「アクリーヌ、その虫の死骸を受け取ってくれ。加工の仕方はわかるのかね」
「は、はい、もちろんです」
「……他にもご妻女にご助言をさしあげるよ」
「ma belle dame, アクリーヌ、どうする?」
「はい。うかがいとうございますわ」
アクリナは嬉しそうに薄紙に虫の死骸を包み直し、真珠がたくさんついた、小ぶりの手鞄に入れた。
私は年老いた占い女と、嬉しそうなアクリナを交互に見た。
たまには、アクリナも『婦人どうしの話』をしたいのではないか?
「ああ。15分だけだ。私は外で待っている。15分たったら迎えに来る」

私は一人で外に出た。
「あの(ひと)を離してはいけないよ……」という、占い女の野太い声がした。
まあ身分と領地を考えればそのとおりである。
アクリナがかすれ声で何か答えているが、私は天幕を離れた。

彼女とて、たまには婦人どうしのあけすけな話をしたいであろう! アクリナには、親しい友人がいたようすはない。
そんな話はほとんどしたことがあるまい。
婚約間近の小間使いがそばにいると言っても、無口で思慮深いドロシダだ。主従二人で閨の打ち明け話などしまい。
何か『愛の技術』を教わるのならばそれはそれで楽しみだ。

外は相変わらず晴れ、冬菩提樹の大ぶりなハート型の葉が揺れ、小鳥が鳴いていた。異様な場にいたためかほっとした。
先ほどの妙な儀式のような占いの場の記憶は、現実感がなくなっていく。
私はクラバットの緩みを直した。いちおう今日は淑女のエスコートということになっていたから、昼間の正装である。白いレースのクラバットだ。

クワス売りの少年がいたから、一杯買った。
「15分くらいしたら、もう一人ご婦人が来る。彼女のぶんも買うから、そのころ、またここに来てくれ」
少年は喜んで去って行く。

私は立ったまま、泡の跳ねる琥珀色のクワスを飲み、一息ついた。膨らんだ干しぶどうが二粒入っていた。
馬鹿げた話を真面目に聞くのは憂鬱なものだ。
だが、アクリナが「私との相性が最高」だと満足したのは良かった。今後ゆっくり、占いのくだらなさを教えていけば良い。

クワスを飲み終わると、天幕近くにますます人がいなくなっていることに気づく。天幕が立っているのは、広場の北の端だ。
懐中時計を見ると、もう午後二時を過ぎている。市そのものの終わりが近い。
露天の屋根の掛け布を畳んでいる商人がちらほら見える。私は時間をつぶそうと、ゆっくりと市のほうに戻った。

変な彫刻のある館に住む、迫力のある体型のデルジャーヴィナ夫人が、下僕や侍女に巨大なナマズの彫刻を持たせて広場の南側の出口に向かっていくのが見えた。

ナマズ……。今日の占いの結果もある。近いうちにアクリナと釣りに行こう。
男の水の精(ヴォジャノイ)は巨大ナマズの姿をしているのだっけ……。蛙という説もあったな……。

私はそんな他愛のないことを考えながら、露店のひとつで、魚の干物を見下ろしていた。
「旦那様、お買い求めで?」
若いおかみさんが私に驚いたように訊いてきた。
「え、ああ。……魚は何がある?」
「いえ、旦那様がお召し上がりになるようなものはとても……」
魚の干物が並んでいるが、我が国のことであるから当然きっちり干せていない。
臓腑を抜いてきれいに洗ってから乾物にする国もあるとのことだが、我が国の誰にもそんな発想はない。いや、内臓も捨てたくないだけだろう。

「ヨーロッパウナギではないか。珍しいな」
「は、はい。……」
女は口を濁す。露天の台に載っているのは、長さ半サージェンほどもある立派なヨーロッパウナギ数匹だ。
だが形が崩れている。

私は山羊革の手袋の上から、ウナギの頭をつまんでひっくり返してみる。
「旦那様、いけません」という女の声がした。
生乾きの腹が裂け、胃袋に入っていた腐ったユスリカやイトミミズが泥土のように現れていた。
私は正気に引き戻された。絹の手巾で、魚をつまんでしまった手袋の指先を拭く。

食べたら間違いなく腹を下す。それで済めば良いが、寄生虫もいよう。体の中で増えて手足を切り落とす羽目になる者もいた。腹下しも寄生虫の害も将来のことだ、今、食べられるだけましなのだ。
「……よく火を通すよう客に言えよ」
「ええ、はい。慈悲深い旦那様。もちろんでございます」
露天から離れながら、私の思考は、異教の、現実離れしたがわから私の日常へと戻ってくる。少なくとも自分の領民があのようなものを食べずに済むようにしなければならない。それが私のやるべきことであった。
領主館に戻るまでに、きちんと領主としての私に戻らねばと思う。

「旦那」
先ほどのクワス売りの少年が来た。時計を見ると15分たっている。私は一杯買った。
アクリナがそろそろ出てくるはずだ。くだらない占いもこれで終わりかと思うと残念に思えるから妙なものだ。

占い女の天幕のなかはしんとしている。
大丈夫かと思わなくもなかった。いったい何を教わるのだ……?
相手は婦人だ。大丈夫だと思うが……、天幕の前に先ほどまでいた座長がいない。まさか座長まで一緒になって教えているのか? 閨房の術を?

占い女のパンナはエンパイアドレスの上からアクリナの体を見抜いた。
たしかに皇帝様式のドレスは薄く、ギリシャ風で、流行のロマンティックドレスより体の線が出る。だが、あんなところのことまでわかるのか。
私はアクリナのために買ったクワスを一口飲んだ。

だとしたら、脱がせたらもっとわかるのではないか……。指導するのならば、脱がせて手を突っ込んで、座長に抑えさせて……。声がしないのは、分厚いてのひらでアクリナの、私の石榴色の唇を押さえているのではないか。

私はとんでもないことをしてしまったと思う。
ただ15分であろうと、放浪の旅芸人を信用したのがどうかしている。このへんに定住している地主貴族や司祭だって信用できないというのに! というか、他の人々にとっては私もとうてい信用できない!
私は一人で呟く。
「どこかに連れて行かれたら?」
そして気づくと、ロマの楽団の演奏も終わっている。座員は見当たらない。

ヒローシャを呼ぶことを考えた。
馬車を警備人が見張っているような場所などない。馭者はずっと、広場の入り口のだだっ広い、道路だか野原だか泥沼だかわからないところに馬車を止めて待っている。
さして遠くはない。半露里と少々程度【* 500メートルほど】であろう。だが、片づけ中の商人やその荷物や、名残惜しげに交渉を続ける買い物客のあいまをつっきるには時間が惜しい。

……座長に背後から押さえられ、白い喉をそり返し、占い女に体を探られているアクリナが、……そしてその背後ではやし立てている芸人たちの姿が、あたかも絵画のように浮かんできた。
画風は『リアルなオリエンタリズム絵画』だ。要するに、トルコのハレム(実態は不明)に売られるために、歯並びだの、それから肉体のあらゆる箇所を『検品』されている白人女奴隷を想像して描いた、劣情を刺激するための絵画だ。
オリエンタリズム画家たちは副業に春画を描いていたりもする。私の頭の中で、オリエンタル絵画の売られる女奴隷の顔と体は、いともたやすく我が恋人のものに変わった。
私はクワスが入った木のカップを放り投げた。クワス売りの少年が驚いている。

「Я家の当主だ。我が友人たる淑女を迎えに来た!」
私は怒鳴りながら、ステッキで天幕の入り口の布を押し広げた。
天幕のなかの赤い空間に、黒いドレスのすんなりした女が見えた。黒いドレスの女はアクリナだ。きちんと服を着ている。
だが何か変だ。藁色の髪がほどかれている。髪は腰まである。それはいい。何か変だ。
アクリナは宙に横に浮いているように見えた。黒いドレスは私が買い与えた物ではない。彼女がいつも着ているのはすんなりした体に沿った皇帝様式の絹のドレスだ。

だが、今のドレスのスカートは、ロマンティックスタイルのドレスより膨らんでいる。いつもの服が百合のつぼみならば、今は膨らんだ松かさだ。遠目で見ると一見華やかなドレスなのだが、布は粗末でくたびれ、あちこちが裂けたり、糸が飛び出したりしている。レースに見えたのはごく雑に、薄く織った麻だ。ぼろ布一歩手前である。
淑女の着る服ではない。黒い薄布を重ねたスカートを開けば大きな、いびつな円になりそうであった。
そのスカートがひらひらと上下していた。

黒いドレスのアクリナは肘掛け椅子の座面に手をつき、何か舐めているのだった。
「そうだ……そこをもっと舌を根元までくっつけるんだよ。もっと腰を振って!」
パンナがアクリナの後ろ姿に向けて怒鳴っていた。

「何をしているのだ!」
「あの……あんなはまひ……」
アクリナは何を喋っているのかわからない声を出す。
黒いぼろドレスを着たアクリナは、先ほどの占いの最中、私たち二人が座っていた肘掛け椅子2脚の座面に両手と両膝をついて犬のように四つん這いになっている。

私は占い女のパンナに訊く。
「着替えさせたのか」
「旦那、ご妻女は黒いドレスのほうが似合う。だから」
「そんなことは知っている! アクリナを見た瞬間に誰でもわかる!」
アクリナの着ているドレスは、ドレスと言って良いのか知らないが、ロマの踊り子が着る衣装だろう。
ぼろ布に、舞台映えするように、鏡の細かなかけらなどを貼り付けていた。
アクリナの高く上げた腰が動くたびに、スカートがふわふわひらひらした。腰には真紅の柔らかな飾り帯と、小さな鈴がたくさんついた銀の鎖を幾重にも巻きつけている。そして彼女が舐めているのは……各地のお守りと魔除けのなかにあった蹄鉄だ。

「そんなもの舐めるな」
私はアクリナを椅子から引き剥がす。
「おうふはま……」
確かにボロボロの服だが、白い肌に似合う。

「蹄鉄など舐めなくて良い! おまえは娼婦ではない。愛の技術など玄人にはどうせ勝てないし……ああ、」

「おまえは私の森に住み、薬草やキノコを育てて……、とにかくあそこにいてくれれば良いのだ」
「……ほんな、あはしはああたあまい……」
彼女の出す声は蹄鉄を口につめているので、まともな言葉にならない。
「喋るな。ああ、もう」
蹄鉄だと思ったが、少々、馬の脚の裏につけるには分厚い。

アクリナがしゃぶっていないほうの、蹄鉄の先端を見て私は呆れた。С(エス)の文字のかたちをした蹄鉄の、片方の端はこんもりと半球になっていた。
半球の真ん中に筋が彫ってある。まあ男性ならば見覚えのある形だ。アクリナは別の側を舐めている。
私は怒鳴った。「吐き出せ!」
アクリナが口をさらに無理に開いた。小ぶりな前歯が『蹄鉄』に当たる音がした。

私は四つん這いになったアクリナの背を引っ張り、上半身を起きるようにさせる。

錫でできているらしき蹄鉄もどきは両側の切っ先が半球で、尾がなく、長いからだの端と端、双方が頭になった蛇かシベリアヤツメウナギのようであった。
双頭の張り型である。
アクリナが溜息をついた。疲れたらしい。瞳はうつろであった。
蹄鉄もどきは円筒を曲げた状態で、直径は……人間の男のものより少々太い。アクリナは口をせいいっぱい開いていた。
「……夜中の演し物に、女の方が二人で使って見せるのだそうですわ」
元々かすれ気味の声がさらにかすれ、はあはあ息をついている。
「お守りにもなるのだとか……」

私は占い女を怒鳴りつけた。
「淑女に何をやらせるのだ」
「淑女ではないだろうに! ああ、あんたたちの相性は最高だね、魔女と隠者でね!」

天幕の中央で支えていた柱が急に倒れた。天幕の重い赤い布が、ゆっくりと、私とアクリナにかかる。
布や棚であった折りたたみの板が手際よく畳まれていく。楽団の若い男たちや踊り子、が天幕のあちこちを抱えていた。
楽器を持っている者たちはギターやフィドルをかき鳴らした。歌を歌いだす。

占い女のパンナが私に怒鳴る。
「旦那、いいかい。あたしたちを追いかけようなんてことをしたら奥方や市長にぶちまけるよ! 最高の相性の妾さんとのことをね!」
若い座員たちが笑い、歌が遠ざかっていく。

毎夜午前0時になると、墓場から鼓手が立ち上がる
彼はあちこち歩き回り、太鼓を打ち鳴らす
太鼓は墓に眠る歩兵、軽騎兵、擲弾兵(てきだんへい)を目覚めさせる
ロシアの雪原、イタリアの野原、アフリカの草原、パレスチナの砂漠から
彼等は次々と立ち上がる……
–【* 文末参照】

媚薬になる虫の死骸、それに蹄鉄がアクリナの手元に残っていた。
私は黒いドレスのアクリナを連れて歩き出す。
「……春外套とドレスは?」
「え、あ……」
天幕とともに持って行かれたのだろう。首に掛けられていたガーネットの首飾りも見当たらない。
これが狙いだったのか。

「申し訳ございません。貴男様の、大事なお母上の御形見を……」
「いや、仕方ない。それに他にも母のドレスや宝飾類は残っているから」


「リザヴェタ・フョードロヴナの旦那様」
清楚な少女が私とアクリナを見ていた。「……マダム・フォン・リンネ……? お召し物をお替えになったのですか」
市長のお嬢さんだ。
そして市長の奥様と奥様のご姉妹、お母上、叔母上、奥様のご姉妹の御娘たちがずらりと並んでいる。
「黒いドレスの方」とひそひそと囁き交わしていた。
「リザヴェタ・フョードロヴナの旦那様には……黒いドレスのお妾が……」

市長が困った顔で、私に帽子を取った。
令嬢(10才)が、母上や叔母上、従姉妹たちに対して、毅然とした声をあげた。「お母様、叔母様方、こちらのマダムはスウェーデンからいらしたフォン・リンネ夫人です!」
まだ背の低い華奢な背中は、きっちり伸びている。その華奢な背がなんと頼もしく見えることか。
「お父様のためにも、どうぞ無責任な噂などなさらないでくださいまし」
令嬢(10歳)がどれほどのことを理解して言っているのか知らない。ほんとうにフォン・リンネ夫人だと思っているように見える。だが、すべてわかった上で、恐らくリザヴェタのために、あるいは自分の潔癖さゆえに、私たちをかばったのかもしれない。
ああ、いずれにせよ、なんと利発で心配りに優れた令嬢だ。

「ああ、マドモワゼル、貴女は素晴らしい淑女です……」
私は疲れ切っていた。
「マダムがロマの衣装を着てみたいと申されましてね」
アクリナをエスコートしながら、私は市長一族の婦人たちに帽子を取り、軽く頭を下げる。

フォン・リンネ夫人が市長の令嬢に、しどろもどろに話しかけた。
「ヤー、……ヤー、ドクトル、ダンケシェーン、オイゲン・パウルゼン・ウント・フラウ・アドラー、フロインディン」と言った。
でたらめに並べたドイツ語だが、我が国のたいていの貴婦人には、ドイツ語とスウェーデン語の区別などつかない。
ドイツ語はセミョーノフ医師が口走っているのを覚えたのだろう。すごいぞアクリエッテ……。

市長一族が去って行った後に、私はアクリナの腕を引っ張り泥道を抜けた。
ぽつんと残った馬車の馭者台にヒローシャがいた。絵入りの聖人伝を読んでいる。
私たちの足音に気づいたらしくこちらを見て、アクリナが黒いドレスを着ているのに目を留めた。
一瞬、不審げな表情をして、『またか』とでも言いたげに、わずかに口元をゆがめ、まばたきをした。理由を知りたいという気も起きないらしい。それから慇懃に頭を下げる。
「お帰りなさいませ。大切な領主様、敬虔なアクリナ様」

私はアクリナを待たせて、先に馬車のところに行く。
「ヒローシャ、おまえにこれをやろう」
私はフロックの胸元から、『お転婆な娘たち』を取り出して投げる。ヒローシャは広げて見て慌てて十字を書いている。
「こ、こんな、露骨で、あられもない……」
ジャガイモが人間の娘に見える者もいるのか。

「敬虔なアクリナ様にそんないかがわしいものを見せるな!」
ヒローシャが慌てて本をフロックに隠している。
私はアクリナを呼び、淑女のために馬車の扉を開く。「どうぞ、フォン・リンネ夫人」
私は彼女のお手を取って、フォン・リンネ夫人を馬車籠へと助け入れた。

「まっすぐ領主館に帰る」
私は絹の帽子を取る。馬車籠の窓から、馭者台のヒローシャに命じた。なんだか疲れた。
ヒローシャに聞く。
「市長のご令嬢は乗馬の会に来ているのだろう? じつに賢いお嬢さんだな。彼女を養女にできないだろうか」
「ええ? あの、市長のお嬢様でございますよね。確かに乗馬の覚えも大変早く、お子様なのにしっかりしたお方で、私も僭越ながら、いつも感心申し上げておりますが……、市長様はお嬢様をたいそう可愛がっておられますし、……リザヴェタ奥様がなんとおっしゃるか……」
リザヴェタ奥様の名前を出して、またヒローシャが落ち込むのだった。
「代わりに市長にイアをやる。ああ、それは良いかもしれない!」
ヒローシャもアクリナも私の言葉を無視した。アクリナ様に無視されるとは! 
「……あの、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。市長のお嬢様をお妾になさるのは……、さすがに。どうかと」
「妾だと? 冗談ではない。養女だ! 私がドイツ語もフランス語も英語も複式簿記も教えてやりたいだけだ! さもなければ代わりにアクリーヌとヒローシャ、おまえたちが覚えろ!」
二人が同時に答える。「いやです……」

私はヒローシャに言う。
「私を門扉のところで降ろし、領地内を遠回りしてアクリナ様を家に送れ。なるべく人目を避けろ。今日どこに行ったか訊かれたら、スウェーデンから来たご夫婦を案内していたと言え」
「すうぇーでん、……すうぇーでん、了解いたしました……」
「スウェーデンのウプサラという都市だ。ウプサラ大学の農学教授夫妻」
「ええ?! なんとおっしゃいましたか? 領主様、私にはとうてい覚えられません……」
「帳面に書け。何のために文字を覚えたのだ」
ヒローシャは恨めしげに三頭の馬に軽く鞭を当てた。

しばらく私とアクリナは無言で外の景色を眺めていた。もう三時を過ぎているが、春の終わりの太陽はまだまだ高い。
私は彼女の手に手を重ねる。
「……あの、領主様。占い女様がおっしゃっていました。占いのことはもう気にしないとお約束しましたが、ひとつだけお聞かせくださいまし」
「どうしたのかね」
「貴男様のお気持ちのカードは『隠者』で……」
アクリナはタロットカードに意味があると信じている。
「『孤独』という意味だそうですが、貴男様は孤独でおられるのですか」
「……いや、私のまわりにどれだけ人がいると思っている」

「そういうことではございません。……」アクリナは一生懸命、適当な言葉を考えている。
「まわりに人がいるかどうかではなく……、もちろんヒローシャをはじめ、貴男様をお慕いして、忠誠を誓う方もたくさんおいでですが……あの、でも」
「……無理に言葉にしようとしなくて良いのだよ、アクリーヌ」
相変わらずアクリナは、敬虔なくせに罰当たりな例を挙げる。
「貴男様のお心は、刑場に行かれたイイスス・ハリストス様のように……、あの、誰にも。誰にもわからないと……」アクリナは支離滅裂に話し続ける。「まわりの皆様も……あの、貴男様に比べればフォマが世話をしている山羊や羊のようなものです。あたしはそのなかでも一番愚かなカモか鶏ですわ。貴男様のお考えが難しくてわからなくて……、」
「フォマは何も考えていないぞ」
「ですから、……どうして良いのかわかりません。貴男様のご苦労がどのようなものなのか。お一人で何でも決めなければならなくて……。学問も、あの、同じご身分の方でも、近所の方は学問など興味のない方ばかりで、お話が合う方もおらず……」
アクリナは囁きながら泣き出す。私の気持ちを慮る婦人、しかも単に気持ちだけではなく、立場上、あるいは境遇の限界があって生じる不満まで理解したがる婦人など初めてだった。しかも、出自はただの無学な農奴の女だというのに。

「高貴な方のご苦労があたしにはわかりません……。お役に立てなくて……申し訳なくて」
「考えすぎだ。あれはただの占いで、私たちの相性は最高だと……」
「でも、貴男様は時々とてもお寂しそうです」
馬車の車輪が轍を踏んで、私たちを大きく揺らす。空には雲が出ている。その下を、翼が弧になった渡り鳥、ヨーロッパアマツバメが十数匹群れ、編隊となって飛び回っている。私は泣き崩れたアクリナの背に手を当てる。
「……おまえがいるから良いのだ」


その後数日して、アクリナは手紙に『お父上のパーヴェル様が息子の貴男様に、エヴゲーニイ様とお名前をつけた理由』を書いてきた。

将来、『スモレンスクの聖エヴゲーニイ』として正教のカレンダーに載るからです。

私に致命(殉教)でもしろというのか。


タロット占いは以下の本を参考にさせていただきましたが、本作の占い内容はでたらめです。
『この一冊で本格的にできる!タロット占いの基本 コツがわかる本』
吉田 ルナ (監修) メイツ出版
*引用した詩
『毎夜午前0時になると、……』
『真夜中の閲兵』歌詞はヴァシリー・ヴァーゼムスキイ。ナポレオンについての歌である。翻訳は以下参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/真夜中の閲兵