第12話 追跡 1『内気な青い薔薇』

仲直りした領主様とリザヴェタ奥様が領主館に戻ってきました。
イヴァン坊ちゃまを抱いた奥様はいつもよりずっと美しく、家庭の幸福を実感する領主様でしたが、
領主館に戻った途端、酔っ払った農奴が暴れています。
さらに、レオニードが遊びに来て、謹慎中のイアとともに脱走したことを知らされ、
奥様と領主様はお二人で追跡を始めます。
ダラダラ長いだけのまったりしたお笑いです。R-18場面は領主様の妄想がほんのちょっとあるだけです。

4月22日,1831年

というわけで、
私と、役職名ではなく本物の我が妻でかつ領主夫人たるリザヴェタ・フョードロヴナが、辻馬車に乗って領主館に戻ってきたのは昼食前の時間であった。
辻馬車は領主館の正面玄関の前に止まる。
私は妻の手を取り優雅に馬車から降ろす。春のぬかるみで道はひどいが、良い天気であった。
リザヴェタはいかにも血色が良く、頰は紅潮し、金泥色の唇にはさらに赤が加わり、自信に満ちている。顔立ちが変わったわけでも無いのに、やたらに美しかった。ロマンティックドレスの胸元の谷間はいっそう深く濃い影ができて、余裕を持った仕草は豪華でじつに滑らかである。
婦人のもともと持っている『美の元』とでもいうべきものを練りあげるためには、男が丁重に手を尽くさなければ駄目なのだと痛感した。
手を尽くし、肌を優しく撫で、不安と緊張を解き、観客として褒め称え、愛されていると実感してもらい、体も満足させ……あんなので良いのか知らないが。
今朝、鏡に映っていた私は逆に、やつれていた気がする。

玄関番の少年と、次男のイヴァン(一歳)を抱いた乳母のヴィラが出てきて頭を下げる。
「おかえりなさいませ」
玄関番の少年が、いつもより倍くらい美しいリザヴェタ奥様に見惚れている。低いヴェルヴェットのような声は、もうヴェルヴェットどころか黒貂のようであった。
「ヴァーニャ、ごめんなさいね。お父様もお母様も帰ってきましたよ」
イヴァンは例のようにぐすぐす泣いているのだが、リザヴェタが腕を伸ばして抱きかかえると、珍しく笑った。
微笑むリザヴェタとイヴァンは夢か聖母子像のイコンのように美しかった。私にこんなまともな妻子がいることに改めて驚く。
イタリアの売春婦の『ヒモ』か、外国の金持ちの奥方の男妾あたりになりそうな気がしていたのに。
私は、白くぽっちゃりした優しいヴィラに声をかけた。
「ああ、ヴィラ、夜も子供たちを頼んで悪かったね」
……夢のように輝く家庭の幸福と美はここで終了であった。

玄関の奥から男の野太い声と、甲高い子供の笑い声がする。それに足をバタバタ鳴らす音だ。
「ミーシャか?」
長男のミハイル(三歳)は乱暴な子である。
ヴィラは青ざめる。玄関番の少年も困ったようすだ。ヴィラが言った。
「領主様、……あの、農奴の男の方が来て、酔っぱらっているのです……で、ミハイル坊っちゃまが面白がって、お騒ぎになって」
「ああ、そうか……」

リザヴェタは美しいが、日常のごたごたに顔を曇らせた。
ふたたび家庭内の戦いを続ける決意を固めたらしい。金泥色の唇を噛む。夢のような美しさから、賢く気の強い妻の姿にあっという間に戻る。
私はリザヴェタに言う。
「少々危ないから、リーザ、貴女はヴァーニャとそこにいてください。ヴィラと玄関番の君も」
「ええ、わかりましたわ」
リザヴェタはイヴァンを抱き直し、濃い眉をひそめた。

正面玄関の観音開きの扉を開けると、何か嫌な匂いのするものが玄関間に落ちていた。
一瞬、湖の巨大な魚が腐っているのでは無いかと思った。
中肉中背で癖の強い黒髪がもつれきった三十ほどの男の農奴だ。さらにぐちゃぐちゃにもつれた髭が細い顎を半ば覆い、ひびわれた大きな唇を隠している。
三日月みたいな細い顎は農奴たちの中心になるクズネツォフ家の特徴だ。
酔っぱらいは、農民外套の前の紐をほどき、アコーディオンを持って弾いていた。寝そべって弾けるのだから大したものだ!
『ステンカ・ラージン』の曲を酔っぱらってヘロヘロの声で歌っている。
「……陽気に酔いしれてえええ」

シタヌイ【* 民衆用のズボン】の正面が濡れている……。屎尿の匂いが、我が領主館の玄関間を満たしている。勘弁してくれ。
すぐ横に、我が嫡男ミハイルが箒の柄で、アコーディオン弾きの酔っぱらいの頭をばしばし叩き、奇声をあげて笑い転げていた。

「ボリス・クズネツォフか!」私は怒鳴った。「酔って領主館に来るものではない!」
ボリスは私よりいくつか年下であろうか。農奴の長老の孫息子で、賢い男なのだ。飲まなければ……。

玄関間は広い。
観音開きの扉を開けると、まず木のベンチや飾り棚がある。
玄関から入って左側は待合間に登る階段で、一段一段に赤い絨毯が敷いてある。外套かけの扉には細かく植物が彫刻され、その右には小さな、使用人が出入りする扉があった。
玄関間の扉の上には、植物狂の祖父アレクセイがつくらせたチューリップのステンドグラス、左側の壁にかけてあるごく小さな絵は、我が父パーヴェルが何を考えたのか骨董市で買ってきた回教の細密画である。
猥画ではない。ペルシャの宮廷の執務の様子だ。遠近法を使わず、宮廷は、清国の紙を綴り合わせて作った提灯のように見える。繊細な模様が描かれ、わりと良いものだ。父に美術品がわかったのか謎だ。
その隣には、私がビザンツィン帝国の跡地をうろついていたころに手に入れた安物のモザイク画、ユスティニアヌス二世の肖像だ。鼻を削がれて追放され、黄金の鼻をつけて戻って来た……まあ、不吉な皇帝である。

床は寄せ木細工である。
凝った細工なのに、ボリスがのたうちまわったおかげで泥だらけだ!
干からびかけた沼でバタバタしているオオナマズのようで、ユスティニアヌス二世のモザイクにも泥が飛び跳ねる。
領主館に来る前にも春のぬかるみで転びまくったのであろう。
「りょ、領主様……、あいかわらず、男前で……」
「今日は、明日の聖ゲオルギウスの日の祭りの準備ではないのか。おまえがいなくてどうする」
ミハイルが『へっへっへっ』と笑いながら箒でボリスの顔を叩く。
「ああ、坊っちゃま……もっと叩いてくだせえ」
「ミハイル! 農奴は大切に……」と言いかけたが、この状態のボリス・クズネツォフなど殴って良い気がした。

私は玄関の扉を開け、外で待っていたリザヴェタやイヴァン、乳母のヴィラと玄関番の少年を呼んだ。
「ボリス・クズネツォフが酔っぱらっているだけです。危険はないので中に入ってしまってください」
ヴィラに、イヴァンとミーシャを子供部屋に連れて行かせる。
ついでにリザヴェタも奥に入るのだと思っていたが、領主夫人の我が妻は平気で豪奢なロマンティックドレスのまま酔っぱらい農奴の前にしゃがみこんでいるのであった。

「ねえボリス、何か言いたいことがあって来たの?」
「お、奥様。……きょうはあああ、と、とくに輝くように美しいですな……まったく『湿れる大地の女神』とは……奥様の……」
「お祖父様に怒られるのではないの? 明日の聖ゲオルギウスのお祭りの準備は?」
農奴たちは祭りの準備や共同での修理や作業を、酒を飲みながら行う。それで当然、飲み過ぎる。
「……それで……うちの祖父様のやつがですなあ、うん。どうもひねくれてしまいまして。話せば長いのでございますが……」
私はうんざりしながら答える。「長いのか……」

「……ああ、馭者見習いのクズマという小僧っ子は見所のある餓鬼ですな……」
酔っぱらいの話はどんどん飛ぶ。
ここで放り出すこともできるが、ボリスは若い農奴たちの指導者格だし賢い男だから、下手をすると酔ったふりをして何かを伝えようとしているのかもしれない。しかし顔を赤くして目をぎらぎらさせた有様は、『酔ったふり』ではない。
「クズマとおまえの祖父君に何の関係があるのかね」
「……クズマのせいでひねくれたと言ったでございましょう……領主様。ああ、目が回りますよ」

私は玄関間の階段の上へと怒鳴る。
「誰か水を持ってこい! 飲む水だ。大量に!」
私は長靴でボリスの背を踏みつけた。「言いたいことがあるのだろう。さっさと言え」
リザヴェタが呆れたように言う。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。農奴は大事にするのでしょう。……しかもボリスは重要な人ではありませんの」
「……おおおおお奥様にやっていただきたいです……」

「クズマがどうしたって?」
馭者見習いのクズマと農奴たちは本来あまり関係ない。仕事で顔を合わせるのは牧畜係の者くらいだ。
「いやあのクズマがですなあ、いや、あいつはなかなか見所のある小僧っ子で!
……牧畜係のフォマではない男に、夫婦が仲良くなる『技』というのを教えてくれましてね、それが瞬く間に村の連中に広がりまして……」
「夫婦が仲良くなる技?」
リザヴェタが不思議そうに訊き返す。
ボリスは酔った胴間声で続ける。
「若夫婦やら、俺のとこのような古夫婦も……しっぽり、で仲良くなりましてな、……年寄り連中は、嫁が舅姑より亭主の言うことを聞くと怒りだして……それでですな。もう死ぬのだの何のと騒ぎだして」
「ああ……」
「……領主様、クズマにあの技を教えたのは貴男様だとか。いや、さすがでございますな……外国の売春宿で流行っているとか」
リザヴェタが私に冷たい一瞥をよこす。ボリスの言葉の意味が、なんとなくわかったらしい。
そして、ああ! リザヴェタが……いつもの状態に戻っている……。

「ボリス。それで年寄りたちの願いを叶えろとでも言うのか」
ボリスはカエルのようにうつ伏せの状態から起き上がろうとしていたが、腕にまったく力が入らないようだ。
「さすが領主様! 俺が惚れた方だけのことはあります……嬶も、領主様に『あの技』を試してもらったら死んでも良いと……」
ボリスはひどいしゃっくりを始める。

「で、年寄りたちは何を求めているのかね」
ボリスはしばらく口ごもった末、弱々しく言った。
「……巡礼で」
「ああ、なるほど」
……これは少々難しい。だからこそ、ボリスも酔った状態でなければ口に出せなかったのだろう。
野蛮な制度ではあるが、農奴は領主の財産である。一番頭が痛いのはもちろん反乱だ。領主一家が殺害された事件もある。
それ以上にしばしば起こりがちなのは『逃げ出される』だ。
彼らの逃亡はつまり、労働力がなくなることである。そのために国内旅券制度があり、農奴の国内旅券の発行には領主の許可がいる。もちろん逃亡を恐れてほとんど許可しない。
とはいえ、農奴たちは敬虔な正教徒だし、とくに年寄りの農奴はずっと働いてきたのだ。
私も巡礼くらいはさせてやりたいとは思う。しかし彼らが大量に逃亡したりしたら、領地内の規律が崩れる。
リザヴェタがはらはらしながら私を見守っている。ボリスは我が民族には珍しく穏やかな性格で争いを好まないし、喜んでおどけた態度を取ってみせるが、いざとなれば農奴をまとめられる。

「……冬だな。生神女庇護祭の終わったあとだ。六十歳以上のものが十名」
「は……、はい」
ボリスも緊張していたらしい。
「巡礼というが、どこに行く気だ?」
「エ、エルサレム……」
「おまえは物知りだな。外国は無理だ! ……ああ……スモレンスクが誇る生神女就寝大聖堂はどうだ?」
「それは県内ではありませんか……」
「場所についてはもう少し考えろ。
……代わりの条件だ。ボリス、おまえは文字を覚えろ。『エルサレム』なんてよく知っていたな。……」
「へ、へえ。俺が文字ですか? もう三十過ぎですよ」
「ああ、三十過ぎから文字を覚え、書物を参考にキノコの栽培を始めたご婦人もいるのだぞ」
「はあ……すごい方もいるものですなあ……」
(うちの敷地に住んでいるのだが)

「私とて、よく働いてくれるおまえたちを、せめて一生に一度くらいは巡礼に出してやりたい。
だからな、今回のは試しだ。良いか。全員無事に帰ってきたら、二年に一度くらい、農耕の終わった冬に年寄りを巡礼に出す許可を与える。おまえたちもやる気が出るだろう。
だが、逃亡したら、領主特権を使ってどこまでも追う。残った孫子に逃げた祖父母の代金を払わせる」
「は、はい。もちろんです」
ボリスが頭を玄関の床にこすりつけて、礼をした。
「逃亡するつもりはなくても、危険な場所に行って帰れなくなることもあるかもしれない。ヒローシャをつけるか……? とにかく巡礼先については相談しろ」
ボリスは突然、感激したらしい。酔っ払ってくしゃくしゃの顔をさらに歪め、大声で泣きだした。
「はい……領主様……、一生ついていきますよ……」
私はつい、いつもの調子で優しく、子猫同士のじゃれあいのように和やかにボリスを脅す。リザヴェタが見ているのは忘れていた。
「お世辞はいらない。誰か逃亡したら、ついでにおまえの細君を寝とるからな!」
「ええ……? ひ、ひどうございます……嬶が帰ってこなかったら俺はあああ!」
リザヴェタが嫌そうに口を出す。せっかく仲直りしたのに……。
「そんなことをおっしゃらなければ、見事な裁定でしたのに……」
「ボリスはいつも『うちの嬶が領主様と褥をともにしたがっている』と『ほざいて』います。ほんとうは愛妻家なのですよ……それに身分にかかわらず、男同士で親しみを強めるのは色事の話が手っ取り早いのです。ええ、単なる社交辞令。嗜みです」
小間使いがこわごわピッチャーに入った水を持ってくる。
ホッとしたのかなんだか知らないが、ボリスは大きないびきをかいて寝込んでしまっていた。

私は玄関番の少年に言いつける。……手のあいている馭者を呼んで、一番ひどい馬車にボリス・クズネツォフを乗せ、聖ゲオルギウスの祭りの準備をしている広場に放り出しておけ。

—-
私とリザヴェタが階段を上がっていくと、微妙に雰囲気がおかしい。
居間の、長い食卓の前に立ちながら、家令のテレージンと女中頭のエレナ・ネクルィロヴァがひそひそ話をしている。
「テレージン、エレナ。どうした?」
長身痩躯の家令様と、背筋を伸ばした女中頭のエレナが、私を見て、頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
二人とも気まずげだ。珍しい。特にテレージンは領主相手にもたいそう慇懃無礼で偉そうなのに。
「テレージン、頼んだ手紙は出してくれたか?」
「夜会をお断りする手紙でございましたね。ええ。ミハイル坊ちゃんが高熱を出して行けないと書いて、イーゴルに持たせました」
「何なの……? ねえ、テレージン、エレナ。様子が変よ」
リザヴェタはずばりと聞く。食卓には新しい書物が載っている。
「それはアルバムじゃない? イアの?」
手書きの『アルバム』だ。令嬢や貴夫人が持っいる記念の『寄せ書き帳』である。私も書いた覚えがある。
今、我が領主館でアルバムを持っている令嬢といえばイアだけである。

テレージンが言った。「隣家のバシュキロフ様がおいでになりまして……」
エレナが見るからにしょげている。
「あたくしが悪いのです。レオニード・バシュキロフ様が、イア様にお目に掛かりたいとおっしゃるので、謹慎中のイア様をお部屋からお出ししました。
レオニード・バシュキロフ様ならば、真面目な殿方で、分別もおありで、何の問題もないと……」
ああ……私は目眩がした。この二人は悪くない。まさかこの前のような馬鹿で無体なことをレオニードがするとは想像もつかないであろう。
「も、もう……」
我が妻がレオニードにだかイアにだか知らないが、怒っている。

「……ああ。それでどうしたのだね」
私はテレージンとエレナに訊く。エレナが罪の意識に駆り立てられているようだ。
令嬢の貞操は絶対だ。
新床で誤魔化す方法もあるらしいのだが、独り身のエレナはよく知らないであろう。余計に申し訳なく思っているらしい。
「初めはこの食卓でおやつを召し上がったり、お喋りなさったり、レオニード様がアルバムに何かお書きになって差し上げたりしていたのですわ。
それが、いつの間にかお二人でどこかへ消えておしまいになりました。どこに行くとも誰にもおっしゃらずに!」
我が国は父権が強い。父系の子孫を間違えなく伝えるために、令嬢の貞節は守らねばならない。
それで令嬢は監視される。舞踏会には母がつきそい、変な男が近づいてこないように柄付き眼鏡で眺める。婚約でもしているのならともかく、貴族階級の独身の男女が、令嬢のがわの保護者に断りもなく二人きりで出かけるのなど論外だ。……結婚すると多少いい加減になるのだが……。

台所で働く料理女たちがこちらに注意を引かれている。よそに知られてはまずい。
「エレナ、おまえのせいではない。ああ……バシュキロフがまさかああいう男だとは私も知らなかった」
私はテレージンとエレナに、一昨日、レオニードがイアにつきまとっていた話をした。まずいところは省いたが、二人とも驚愕している。
ああ……しかし面倒だ。
我が妻リザヴェタが言った。
「アルバムを見てみましょう。レオニード様が何か書いているのならば、役に立つかも知れません」

シベリアの故郷を出て、スモレンスクに来てからのアルバムらしい。
最初のページには私が書いた記憶がある。


3月24日,1831年 エヴゲーニイ・Я記す
『スロヴェンの文字』

【* 著者注 たいへん無味乾燥な文です。読まなくても何の問題もありません】

『スロヴェンの民族は一つであつた、――ドゥナウ河に沿うて居住し、ウゴル人に領有せられたスロヴェン人がこれで、モラヴ人も、チェック人も、リャフ人も、今ルーシと呼ばれてゐるポリャーニン族も《皆スロヴェンである》。最初書物は〔ギリシャ語からスロヴェン語に〕モラヴ人のところで翻訳された。この文字がすなわちスロヴェン文字と名づけられた。この同じ文字がルーシにも、ドゥナウ河のボルガル人のもとにもあるのである。〔この先にはスロヴェンの牧師たるキリールとメフォーヂーの物語が続いてゐる〕』【* 文末参照】

「何これ……」妻が聞いた。「私のアルバムには、確か詩を書いてくださった気がしますけれど」
「イアは初対面のときひどいフランス語を話してきましたから……。我が国が『ルーシ』と呼ばれたころから続くロシア語に愛着を持ってもらいたかったのではないでしょうか」
「『ではないでしょうか』、って……ご自分がお書きになったのに」
リザヴェタは、たまたま思いついたから書いたわね、という目で見ている……気がする。
私はページをめくる。
「イアはこちらに来て間もない。アルバムに書くような知り合いはほとんどいないはずです」

それが結構埋まっているのだ。
……ミハイル(三歳)のグシャグシャの文字だか線、
イリーナ・テレージナ夫人の下手くそなキツネやタヌキやひまわりの絵と署名、
エレナ・ネクルィロヴァの描いた刺繍の図案(彼女は編み物が上手いだけあり、絵も上手いようだ。実に繊細な花と鳥の絵であった)、
テレージンの格言『若いうちから名は惜しめ』(『若いうちから評判を落とすようなことをするな』という意味のことわざ。馬鹿息子に言え)、
ヒローシャまで書いている。『しょうしんじょマリヤさまのおみちびきでイアさまがりっぱな貴夫人になりますように』
(『貴夫人』だけきちんと書いているのは貴夫人が好きだからだ。多分?)、
続いてマダーム・アクリーヌの見慣れた文字だ。
健気にイアの幸福を祈っている。『イアさまに聖ニコラさまと領主さまのご加護がありますように。いっしょう木いちごのジャムが食べられますように』

(……またアクリナのところに行けない!
領主バシュキロフ家の嫡男、バシュキール人を我が帝国に帰順させるためにたいへんな武功を立てた勇敢な先祖を持つ男、そのぼんくらの末裔レオニードの半分ジャガイモの泥人形美男のせいで! イアの髪の茶色はどんぐりっぽいが、レオニードの髪の茶色は春のぬかるみっぽい泥色だ! やつが良い歳をして突然発情を始めたせいで! 
……人類であっても発情期にはずいぶん個人差があるものだな、と妙に感心した。六十くらいで初めて発情する者もいるのであろうか)

……そのあと、いつの間に頼んだのか、プロイセン好きのセミョーノフ医師がいかめしい『ヒゲ文字』と呼ばれる書体で書いた、もちろんドイツ語のゲーテの詩がある。
ついで、フランス語を教えてくれるマダムが、さすがに美麗な文字で辛辣な箴言を引用している。
この見開きページだけ独仏の競演で見事だ。
マダムが書いたのはヴォルテールだ。

『楽天主義とは、どんな悲惨な目に遭おうとも、この世の全ては善であると、気の触れたように言い張ることなのだ!』

(令嬢に引用する言葉か……?)

 さらにページをめくると、ひときわ見事に書かれたキリル文字が出てきた。教会スラヴ語による新約聖書の引用で、基督(ハリストス)による有名な『野の百合』の説教の箇所だ。
そして……署名は…………ボリス・クズネツォフだ! !
あの嘘吐きは読み書きが平気でできるらしい!
リザヴェタが叫んだ。
「な、なに。ボリスってこんなに字が上手いの……。さっきは文字を覚えるなんて無理だって言ってたくせに!  大嘘つきではありませんの。領主が領主なら、領民も領民じゃない!」

いや、……正直な領民もいる。
「……テレージン、おまえは知っていたか?」
テレージンはアルバムをしげしげと眺めている。
「いえ、まさか。農村司祭にでも習ったのでしょうか。上手い文字ですなあ」
「次の家令はあいつにするか……実は四則演算どころか、複式簿記もできるのではないか? 人当たりも良いしな」
「それも良いかもしれませんな。しかし嘘つきなのはいかがなものか」
「馬鹿息子みたいに何でも正直に喋るのもいかがなものかと思うぞ」

一瞬、皆が呆けたところでテレージンがページをめくった。
さて貴族の嫡男として立派な教育を受けたレオニード・バシュキロフの文だ。同程度の教育を受けたのは、このアルバムに書いた中では私と、独仏のお二人だけだ。(いや、セミョーノフ医師はロシヤ人であった)

自作の詩らしい。


『麗しの我が君よ イア・ドミートリエヴナよ
凍てつくシベリヤの原野には熊あまたおり 狼もいる
危険を顧みず
ウラル山脈を越えて我がために来る
内気な青い薔薇よ
おお 未来の花嫁よ 僕は貴女のために いつも木苺を絶やさない』

ああ、読んでしまったこちらのほうが気恥ずかしい駄文だ……。
イアが内気な青い薔薇なのか……どういう腐った目をしているのだ。登場させられる熊やウラル山脈や薔薇や木苺が気の毒だ。
「詩なの?」と、リザヴェタが私に訊いた。
「多分そうなのでしょう。韻も何もありませんけれど」
幸いかどうか知らないが、リザヴェタは詩も小説も読まないし理解できない。
「……前に貴男がわたくしに書いてくださった詩のほうが良いと思いますわ」【* 本編『妻の秘密』参照】
詩など書いてみただろうか、という気がしたが、これにならさすがに勝つ自信がある。
「『内気な青い薔薇』ってイューカのことなのかしら? レオニード様がここまで判断ができないお方だなんて……あああ! ちょ、ちょっと、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。さ、探さないと……」
リザヴェタは膝が震えているらしい。しゃがみ込みかけたところを私が脇に手を入れ、支えた。
「リーザ、乗馬服に着替えてきてください。探しましょう」
「は、はい」

—-
厩舎に行くと、馭者の諸君は出払っている。
明日の聖ゲオリギウスの祭は放牧をはじめる日でもある。その手伝いに行ったのだろう。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。どこに行ったと思います?」
「レオニードがいるからわからないけれど、とりあえずアクリナさんのところでしょう。彼女の木苺のジャムがやたらに好きだから。もし何なら、待っていらっしゃいますか?」
「いえ、行きますわ。アクリナさんのところだって、今なら構わないでしょう」
「ええ」
私とリザヴェタはそれぞれ馬を走らせ、領地の奥に入る三叉路のうち、一番西の森に向かう道に入った。冬のあいだに橋が壊れたせせらぎを飛び越し、リザヴェタに合わせて少し遅めに馬を走らせる。
乗馬を始めて二年ほどで、途中、イヴァンの妊娠出産もあったから、まだあまり上手ではなかった。だが、こちらが心配して補助する段階はとうに過ぎた。もともと体を動かすのが得意なのであろう。

厩舎に着いて、馬を止める。馬から下りる仕草がなんだかぎこちなく、痛そうであった。私は自分の月毛の馬を繋ぎ、リザヴェタを馬から抱き下ろした。
「どうしました?」
「……昨日の、あの……」
リザヴェタは昨夜の数々の場面を思いだしたらしい。顔を赤らめる。
「ああ、そうか。……こでみつからなければ、馬車を出させましょう」

アクリナの森の家は、白樺の新芽に囲まれつつある。
丸太を組んだ小屋に漆喰を塗った、小さな心地良い家だ。ただ、南側に、いかにも素っ気ない丸太小屋が二軒建て増しされている。
リザヴェタが気づいた。前に一度来たことがあるのだ。「あれは、クズマが詰める詰所ですの? 二軒?」
「ああ、キノコの栽培小屋です。最初の詰所だけでは足りなくなって、もう一軒建てました」
「こんなにすごいことになっていたなんて……」
リザヴェタが感心したようにキノコ小屋を見あげている。
「はい。マリネにするとリャザンのダルハノフ家が大量に買ってくれますから、投資のしがいもあります」

私はリザヴェタを連れ、白樺の小さな前庭を抜け、アクリナの森の家の戸を叩いた。
「ああ、……アクリナ・ニコラエヴナ。こんにちは。ああ、あの、領主です。それからお客様がおいでだ」
軽い足音がする。
「は、はい。今開けますわ」
アクリナが扉を開ける。玄関間に午後はじめの陽光が差し込み、アクリナを霞のように包み込む。どうも今日の私は何もかも美しく見えるらしい。
……いつもの黒い皇帝様式のドレスだが、上半身はとてもぴったりしている。艶やかな厚地の絹と、彼女の体にはほんのわずかな隙間しかない。
長袖も腕にまとわりつくようだし、乳房の下の陰と、細い胴体を曲げたり伸ばしたりしたためにできた、ウエストを下弦の線に横切って延びる皺が、どんなにすんなりした体を引き立てているであろう。
ああ。……あああ。ドレスは腰からいっきに布の量が増え、裾は、おそらく広げて床に置くと円形になる。
黒いショールを無造作に被って顔の半分が隠れ、細面の白い顔はさらさら流れる白い砂のようだ。長い首元に石榴石の首飾りが一粒揺れている。
地味でひっそりしているが、日陰で満開になった強靱な白い蔓植物のようで、恐ろしくきれいだ。私は殴られたような衝撃を受けた。
このまま、イアなんか放ってここにいたい……。

そこへいつもより美しさが倍増している我が妻が来て、我が恋人に優しく話しかけた。
「アクリナさん。お邪魔してごめんなさい。ちょっと暑いくらいね」
アクリナはもちろん、リザヴェタ奥様を見て驚いている。
「お嬢様、い、いえリザヴェタ奥様。どうなさったのですか。あの……、とりあえず中へお入りくださいませ」
「いや、アクリナ・ニコラエヴナ。ちょっと訊きたいことがあってな」

アクリナは頭を下げる。
「はい。領主様、何でございましょう」
いちおう領主夫妻と、格の高い使用人といった態度で接しあう。夫婦でテレージン家を訪れて、テレージナ夫人に会ったらこんな感じか。
「イア・ドミトリーエヴナと隣のバシュキロフは来なかっただろうか」
「え……、はい……あの、いらっしゃいました」

半ば開いた扉から黒兎が外を覗いている。アクリナは兎を抱くと、玄関から外に出て扉を閉めた。……玄関越しに話すと家の霊が怒りだして不吉だと言う俗信があるのだ。

「来たのか! 中にいるのかね」
「いえ、もうお出かけになりました。
二時間ほど前でしょうか。来るなり、木苺のお菓子を頼まれて……あたしは大急ぎでブリンをたくさん焼きました。……たくさん二人で持って行かれました。バシュキロフ様には驚きましたわ」
こうやって、目の前にいるけれど触れるわけにもいかないアクリナは途轍もなくきれいであった。もっと一緒にいたい。このあたりを歩きまわりながら掌を弄び、話をするだけで構わない。
「……ああ、また菓子を焼かされたのか。すまない……」

「アクリナさん、イアがいつもごめんなさい。もう、子供のときと変わらないでしょう」
リザヴェタが言う。
「い、いえ」
アクリナが焦って否定している。縄で縛られて菓子を焼かされたことまであったのに。

二人ともまったく別の方向にきれいだ……ああ。ここでこの状況で『三人でこれから寝台に行こう』と提案したらリーザは本当に怒って出て行きかねない。
もちろん、昨日の今日でそんな元気はない。
だが、アクリナの肌とリザヴェタの肌を並べ、二人が羞恥に染まるのを見たい。
アクリナは泣くだろう。泣いてお嬢様のお体を隠そうとするであろう。ああ健気だ。そして二人の肌が触れ合ってしまうのだ……。

(私は何を考えているのであろう。十代の少年ではあるまいし。
それより今読みかけの『キノコの増え方』の研究書のほうがよほど興味深いではないか。また昨今の欧州情勢も気にかかるところだ!)

……しかし、偶然、触れあってしまう二人の肌という考えは興奮する。そうだ、しかもそれを外でやるのはどうだろうか?
白樺の下、私とリザヴェタは正装したままで、アクリナだけ裸体にして泣かせたい……。その姿で大理石の四阿に座らせたり、木苺を摘ませたりしたい。ああ、それで教会に入らせたらもう完全に号泣するであろう……。
やってくれるだろうか。
さすがに私の言うなりになるのが大好きなアクリナでもそれはまずい。彼女の信仰にだけは触れてはいけない。
しかし……森の奥の小川のほとりで、誰も入ってこないようにしてなら……。
そのまえに、リザヴェタが怒り狂ってヒローシャとイヴァンを連れてシベリヤに帰ってしまいそうだが。

……アクリナは何故か、私の腰骨の尖った箇所を触るのが好きだな……。
「領主様?」
我に返ると、当然のようにきちんと服を着て生真面目な表情のアクリナが、領主夫妻にぽつぽつと話しているのだった。
「領主様、奥様。でもどうしてバシュキロフ様が……。あの方は、あたしのことを汚らわしいとお思いではありませんか」
「レオニードがイアに惚れていて、何か誤解があって婚約者だと思っている。イアが頼めば何だってするだろうよ」
アクリナは、兎が驚くように驚いた。
「ええ? あの、おめでたいことなのですか……? 確かにご身分も高くていらっしゃいますけれど……でも……」
優しいアクリナにまで言われている! リザヴェタがくすりと笑った。
アクリナに身振り手振りを混ぜて話す。
「それで、止めなければならないのよ。こちらの領主様は」リザヴェタはアクリナに私を示す。「家長として領主として、ぜったいに二人の結婚を許さないそうよ。ねえアクリナさん。バシュキロフ様とイアはどこに行ったのかわかる?」
アクリナは低い掠れ声でつっかえながら話す。なんだか大昔に、リャードフ家に滞在したとき漏れ聞こえてきたリザヴェタとアクリナの会話を思いだした。

「リザヴェタ奥様、『アクリナ』とお呼びください。
……お二人がどこに行ったのかは、全然……。そういえば、バシュキロフ様がさかんに、何か贈り物をしたいとおっしゃっていましたわ」
「贈り物ね。レオニード様が考えることなら、服地屋さんあたりかしら」
「宝飾店かもしれません」
リザヴェタが叫んだ。「ああ、とにかく町ね。……それからアクリナさん。貴女はもう、我が家の大事な『アクリナさん』なの。だから、そう呼びます!
なのにごめんなさい。いっつもいっつもイアが昔と同じつもりで貴女の邪魔をしてお菓子をねだって!」
「あの……イア様はバシュキロフ様がお好きなのですか? あまり、そうは見えませんでした……。イア様は、クズマやヒローシャといるほうが楽しそうです。それに、あたしは、あの方は……領主様がお好きなのかと」
アクリナは意外と鋭い。

「いや違う、それはおまえの贔屓目(ひいきめ)だ。おまえたちに会ったころならともかく、私はもう『もてない』。イアくらいの若い娘が私などを相手にするか」
実際のところはどうだか知らない。だが、そんなことを直接言われたことはないし、例えそうだとしても、なかったことにするのだ。私はお義兄様としてイアを監督し、できるだけマシな道に押しやるだけだ。

「……すまないアクリナ、イアとレオニードを探さないとならない。いくらレオニードだっていちおう男だ。間違いが起きてからでは遅い」
「間違い……」
アクリナはぼうっと繰り返した。私がアクリナに『間違い』について語るなどどうかしている。私は彼女に、自信と確信を持って、投げつけるように『間違い』を押しつけたのだ。
「……ご令嬢は、やっぱりとてもたいへんですのね。フランス語を覚えたり、乗馬や狩猟をしたり、賭博もできなければならないし、アムール虎みたいに常に身を守る工夫を凝らして、鉄の尖ったつけ爪をつけてみたり……」
「鉄のつけ爪?」そんな令嬢は見たことも聞いたこともない。
「はい、あとは編んだ髪の毛に折れた鎌を隠したり、十字架と一緒にフォークを吊るしたりなさいますよね」
「それは武器か……?」
アクリナは、リザヴェタの実家リャードフ家に買われる前は、女子修道会の賄いをしていた。
堕落した令嬢が入るという。入所者は、一、二度『間違い』を起こした令嬢だと思っていたのだが、周りが扱いかねるような令嬢たちもいるのではないだろうか。きれいな服を着ているだけで、下品な暴言も吐くだろうし、令嬢どうしで床に転がって殴る蹴るの喧嘩もするだろう。……アクリナが知っている令嬢はそんなのばかりか。

アクリナは何か『令嬢』を誤解しているようだが、取り急ぎ妻に声を掛ける。
「リーザ、馬を出して領主館の玄関か厩舎で待っていてください。私は馭者の誰かを呼んで連れていく」
「はい」
リザヴェタが馬を引き出しているあいだに、私は素早くアクリナと手を触れあわせる。さらさらした長い指だ。耳元で囁く。
「すまない。そういう訳でまた来る。なるべく早く」
「は、はい。エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。
あの、イア様でも、バシュキロフ様ではお気の毒です。なんだか見当違いのことばかりおっしゃったり、なさったりしそうですわ。どうぞあたしのことなどより、急いで探して差し上げてくださいまし」

私は大股で……右足を若干引きずっているが、厩舎に入った。
リザヴェタの隣で、馬の手綱を取る。
リザヴェタが低い落ち着いた声で言った。昨夜はあんなに泣いていたのに。やはりたいした自制心だ。……私が悪いのだが。かすかに微笑んですらいる。これは無理して作った笑いだ。
「あら、もう良いんですの?」
「……アクリナさんによると、いくらイアでも、バシュキロフ様ではかわいそうだから早く探してあげろ、だそうですよ」
リザヴェタがほんとうに笑った。

*『ロシヤ年代記』より『原初年代記』翻訳 除村吉太郎 弘文堂書房
(本当に実在している本です。昭和18年4月刊。戦中ですが、まだ戦況はそれほど酷くないころで、紙質も良いです。『スロヴェン人』は『スラヴ人』のことだと思います。旧漢字は新字に直しました。『原初年代記』は新訳が出ております。1万七千円です……)