第12話 追跡 3 リザヴェタ奥様の事件簿

収穫がなく領主館に戻ってきた領主様と奥様とヒローシャ。
リザヴェタ奥様は、もう一度イアのアルバムをじっと見ています。
何か気になることがおありのようです。
やがてお得意の推理を始めます。

4月22日,1831年

結局、我が領主館に戻ってきた。午後三時半である。
私も妻も疲れきっていた。昼食も食べていなかったので、ヒローシャもつれて、居間に戻り、軽食を取った。
心配そうに待っていた女中頭エレナ・ネクルィロヴァに、『二人とも見つからなかった』と言ったら、失神しそうになっている。
「大丈夫だ。もしレオニードが何かしていたら、私が何とかする。なあヒローシャ君……」
リザヴェタが訊いた。「なにが、『なあヒローシャ君』なんですの?」

「身分より、イアの幸せですよ。彼が義理の従弟になるのも悪くない。異族民だろうとフョードル・イヴァノヴィチ(リザヴェタの父上)なら賛成してくれると思いますね」
「ええ? ……ヒローシャがイアと結婚してくれるの? ……身分違いでも、それなら……」
「いたしません!」
ヒローシャは泣きだしそうだ。

黒パンとシチーの簡単な食事を済ませ、紅茶を飲みながら、どこに行ったのかの話し合いが続く。
……もう書斎に籠もって一人で静かに読書でもしたい……。
しかし我が妻は嫋やかな貴婦人でありながら、疲れを知らぬ精力的な人物であった。
麻のナプキンを掛けた食卓に肘をつき、ふたたびイアのアルバムをじっと見ている。何か気になることがあるらしい。

「……何故、セミョーノフ医師の書き込みがありますの? こちらに来てから、イューカが病気をしたことはありませんでしたわね」
「ああ。前にドクトルに誘われて、イアをつれてドイツ人村に猿を見に行ったのです。なあ。ヒローシャ君」
「はい……」
ヒローシャは、また今度は、私がマダガスカル島の『ワオキツネザル』を大金を出して買おうとしたことを思いだしているらしい。いちいち何故こいつが落ち込むのだ。

リザヴェタが思い出そうとしている。
「セミョーノフ先生は、うちの敷地の教会に、4月18日の復活祭前夜の奉神礼に来ていらっしゃいましたね。じつに嫌そうに(ドイツ贔屓だから、本当はルター派にでもなりたいのだろう)、でも」
隣に座っている私にアルバムを指さした。
「書いておられるのは4月5日だし。あの方は几帳面だから、アルバムを預かって、二週間近く放っておいたりはなさらないと思いますわ」

私は言った。「ドクトル・セミョーノフに訊いてみますか?」
「……ええ。まさかイアがセミョーノフ先生を『誘惑しようとしている』とか『誘惑されそうになっている』なんてことは、ないと思うのですけれど……」
「ドクトル・セミョーノフはドイツ人の許嫁がいます。そのドイツ人村でお目にかかりました。看護婦の勉強をしている方ではないかな。
ああ、そうだ。リーザ、貴女のお知り合いではないですか。シャルロッテさんという方です」
「あら、乗馬会のシャーリャのことですの!」
我が妻は無意味に顔が広い。広すぎる。

かたわらに静かに控えていたエレナが言った。
「奥様。フランス語教師のマダムがおっしゃっていましたけれど、マダムはセミョーノフ医師とお友達で……ドイツとフランスのなんだか難しい……『てつがく』の議論をするのが楽しみだそうですの。それで、ついでに頼んだのではないでしょうか」
「なるほど、ありそうだ。それならマダムの雇い主の市長には何故頼まなかったのかな」
「マダムはあの方は学がないとおっしゃっていましたわ」
「辛辣なマダムだね」
私とエレナが話しているあいだ、リザヴェタは考えている。
もう一度最初から最後までページをめくった。

「ねえ、なんでボリスが書いているのかしら」
「クズマつながりでしょう。クズマが、ああ、農奴諸君に『夫婦和合の秘訣』を教えたと言っていたではありませんか」
「クズマがアルバムに書いていないのは、たぶん文字が書けないから……」
リザヴェタはひとりで考えている。リザヴェタはこういうことが得意だった。
ある事件が何故起きたか。どうやって起きたか。誰が犯人か。それを理詰めで考えるのだ。
……シベリヤにいたころから、時折そんな推論を披露してきた。私はその推論が正しいことが証明されるたびに感嘆してきたものである。

「ボリスとイアは知り合いね!」
リザヴェタが叫んだ。しかしこの推論は、当然すぎて全然面白くない。……いや、面白いかどうかが問題ではないのだが。
「ボリスとイアを引き合わせたのはクズマなのかしら……?」
リザヴェタが立ち上がり、西向きの裏窓に行く。出窓の窓枠に手をかけ、階下の裏庭をのぞき込む。
「クズマは今日は、キノコ部長のお宅の警備?」
「キノコ部長……?」
エレナと、いつの間にか近寄ってきたテレージンが訊き返した。私が答える。
「アクリナ・ニコラエヴナのЯ家での役職名だ。……Я家で重要な役を果たしているのだから、何か役職名をと、領主夫人が考えてくれた」
「はあ……」
私もリザヴェタとともに、裏庭を覗く。厩舎には人気がない。イアの隠れ家の丸太小屋はカーテンが閉ざされたきりだ。

リザヴェタはふたたび居間の食卓に戻る……私たち一行(領主、家令、女中頭、馭者)は、ぞろぞろついて歩く。皆、リザヴェタ奥様の名推理を待っている。
リザヴェタはアルバムを見直す。
「ねえ、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。イアが謹慎になったのは一昨日の夜ですわよね」
「ええ、そうです」
「アルバムに書かれた中で日付けが入っているのは貴男とセミョーノフ医師、それにフランス語のマダムのだけですわ。……貴男のは3月の24日で、イアが来たばかりのころね。
セミョーノフ医師とマダムは同じ日。4月5日。マダムに教授をお願いしたばかりのころだわ。で、5日にその楽しい哲学議論か何かをやったのかしら……独仏二人の組み合わせの後にボリスが書いて、今日のレオニード様の馬鹿みたいな詩になるわけね」

リザヴェタの呟きは独り言めいてくる。「マダムとセミョーノフ先生の後にずいぶん時間が空いてるわね」
私はなるべくリザヴェタの考えを邪魔しないようにしていたのだが、つい口を出した。セミョーノフ医師とともにドイツ人村に猿を見に行ったのは、4月5日より後なのだ。

「マダムもドクトルも、グレゴリオ暦で月日を数えるのではありませんか?
我が国はユリウス暦ですが、グレゴリオ暦の方が正確らしく西ヨーロッパでは十六世紀から取り入れている」
「え、まあ。ああ、そうだわ……何日違うのですか」
「時代によって差があるのです。今現在、十九世紀ですと、ユリウス暦のほうが十二日遅い。
ええ、つまりグレゴリオ暦で4月5日ならば、ユリウス暦で4月17日です。この前の金曜日ですね」
「あ……では。それならば独仏お二人が書いてから、たいして時間は開いていませんね。
マダムが来るのは最初は水曜日だったけれど、何かのご都合で木曜日に変わったのよね。
ですから、多分先週の木曜日にアルバムをマダムが預かって……、4月17日の金曜日にマダムとドクトルが哲学だかの議論をして、ついでにアルバムを書いた。
土曜の夜の復活祭前夜の奉神礼にドクトルがアルバムを持って来て、イアに返した、……というのが一番ありそうだわ」
リザヴェタはそう言いながら、イアのアルバムの隅に、4月17日から今日、4月22日水曜日までの月日を走り書きしている。

– 4/16(木) マダム来邸
– 4/17(金) グレゴリオ暦4/5 マダムとセミョーノフ医師がアルバムに書く
– 4/18(土) 復活祭前夜の奉神礼 セミョーノフ医師、真夜中に領地内の教会に来る
◎   4/19(日) 復活大祭
◎   4/20(月) 夕方レオニード様が来て晩餐会
– 4/21(火) イア謹慎
◎   4/22(水) イア謹慎からレオニード様とどこかに行く

「土曜の真夜中から日曜日の朝に掛けての奉神礼でこのアルバムが返ってきたとすると……。
◎をつけたのが、ボリスがアルバムを書ける日。4月19日の復活大祭当日か、一昨日、または今日になる。昨日は謹慎中でしたから。
復活祭の日のボリスなんて、イコン行進で酔っ払って寝ているだけじゃないの?
一昨日の20日は、そういえばイアはなんだかひどく元気がなかったわね。エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、貴男が叱りつけたとおっしゃっていましたね」
「ええ」
「あのようすではボリスにアルバムに書いてと頼むどころではなかったわ。叱りつけたのはどこで? 何時ごろ」
「……ええ、ああ。キノコ部長の事務所で会議中で……十一時ごろでしょうか」
(『役職名』は思ったより便利だ!)
「キノコ部長のお宅で会議ね……それはさぞかし重要な、我が家の今後を占う会議に違いありませんわね」
(やはりあまり便利ではないかもしれない)
「ではその前の時間かしら。復活祭の翌日なんて、ボリスは一日じゅう二日酔いね……。
アルバムに書けそうな日にはボリスは泥酔していそうで、でも今日は考えづらい。
イューカを謹慎中の部屋から出したのはレオニード様がいらしてからでしょう」

拝聴していたヒローシャが言った。
「大切なリザヴェタ奥様、恐れながら……」
緊張した声で続ける。敬愛する奥様が単に美しいだけでなく、どんどん推理を進めていくところに、畏怖すら覚えているらしい。
「どうしたの」
「今朝、バシュキロフ様がおいでになった後、私はご愛馬を厩舎に入れて手入れしておりました。すると、クズマが馬の後ろにクズネツォフ家のボリスさんを乗せてやってきて、領主館の裏口に案内して来ました」
「ええ? ヒローシャ。なんで早く教えてくれないの」
「あの……お考えを邪魔してはいけないかと思いまして」
「わかる材料は全部集めて考えないと駄目なのよ」

リザヴェタはまた考える。「でも、レオニード様がいらしているのに裏口のボリスに会いに行くわけがない……けど」
私もまた口を出す。「……でもイアです」
「そう、イューカなら平気でボリスとクズマに会いに行くわね。
レオニード様よりボリスのほうが話していて面白いですから! 下手をするとレオニード様まで裏口に連れて行って、ボリスとクズマを紹介してるわね……」

「ヒローシャ、馬車を出して。聖ゲオルギウスの祭りの広場に連れて行ってちょうだい」
「はい。ただいま。正面玄関でお待ちください」

—-

三人掛けの馬車籠に、私とリザヴェタ、テレージンに、イアをひどく心配しているエレナも乗る。ぎゅうぎゅうだが、まあ近い。
いつもの三叉路の真ん中の道を進み、今年放牧地になる予定の広場に出た。放牧地のまわりには新芽が開きかけた白樺の枝が山積みになっていた。農奴たちが総出で白樺の枝を編んでいる。
いち早く芽を出す白樺にはたいへんな生命力が宿っていると考えられた。農民は、その白樺で家畜を打ったり、編んだ白樺を家に飾って家畜や大地に白樺の生命力を移そうとする。
これはキリスト教が伝わる前からの農民たちの素朴な信仰であろう。
明日は農村司祭が家畜を聖別して放牧を始めるし、選ばれた若者が全身に白樺をくくりつけて踊ったり歌ったりする。
そして子牛を一匹(ほふ)って血を大地に垂らし(これも大地に力を与える祈りだろう)、あとは音楽とダンス、焼肉パーティーだ。

「領主様だ」
「奥様もおられるぞ」
……なんだか、領民たち皆の夫婦仲が良さそうなのは気のせいか。
「ボリス・クズネツォフはいるか!」
私は農奴たちに大声で呼ばわった。ヒローシャが馬車を止めた。
リザヴェタとエレナに手を貸して馬車から降ろす。

農奴の誰かの叫び声がする。
「ボリスは酔っ払って寝ておりますよ!」
「またか」
クズネツォフ家の長老が現れた。私を見て、雷に撃たれたようにひざまずく。
「領主様……慈悲深いエヴゲーニイ・パヴロヴィチ」
泣いている……。なんでだ。
「ボリスに聞きました。冬に、わしら年寄りを巡礼に出す許可をくださるとか……ああ! ありがとうございます。……もう、生きているうちに、わしらが聖ニコラ様にお会いできるなど……」
「……巡礼に行っても、聖ニコラ様にはお会いできないと思うぞ……。膝が痛いだろう、立ってくれ。ボリスは?」
「あの馬鹿孫はどこかで酔って寝ております」
「いや、ボリスが私に頼んだのだ。祖父母思いの良い孫だ」(嘘つきだが)
ヒローシャを牧舎に向かわせる。クズマがいるか探させるのだ。

誰かが領主様のために、酔っ払って『チョウザメの干物』みたいになったボリスを、台車に乗せて連れて来る。
「ボリス、今朝、イアのアルバムに聖書の文句を書いてやっただろう。奥様の従妹だ。どこかに行くと行っていなかったか」
「領主様は……度量が広くて、……男前で……」
「お世辞はもう良い……いつも同じ内容だし」
「いや、本当でございますよ……。隣の領主の息子様に比べると……」
「はあ? 隣の領主の息子?」

テレージンがボリスの農民外套の胸元を引っ張る。
元々の性格はともかく、テレージンはけっこう荒っぽくもある。さもないと農奴から地代を取り上げたり、賦役をやらせたりするのは到底無理だ。私のように優雅な紳士でさえ、怒鳴り散らすことができるようになった。
テレージンが問い詰める。
「ボリス! 隣の領主様のご子息を、何故おまえが知っている? レオニード・バシュキロフ様のことだな?」
「はい。赤っぽい茶色の髪で、背の高い。テレージン様より高いかな……一生懸命、イア様に良い格好をしようとしていましたな……。
俺は、隣の領主様(息子だ)がいらしているというので、頼みごとをしようと……クズマに領主館に連れて行ってもらったんですよ……」
「え、バシュキロフに頼みごと?」
「は……い」
ボリスは気分が悪そうだ。それはそうだろう。復活祭からほぼ飲み続けだ。
ボリスは家令様に首元を引っ張られながら、立ったまま吐いた。
「ボリス!」テレージンが叫んだ。テレージンのフロックの袖に嘔吐物がもろに掛かる。勘弁してくれ……。テレージンはフロックを脱ぎ、忌ま忌ましそうに馬車籠の後ろに置いた。
エレナが吐瀉物の匂いに耐えきれないのか、ハンカチで口元を押さえる。
ヒローシャが牧舎から飛び出てきた。クズマの手を引っ張っている。クズマが呆然と私たちを見た。
「領主様、奥様。それに家令様に女中頭様まで……いったいどうなさったのですか」
「ああ、クズマ。イアを知らないか」
「イア様ならあそこに。隣の領主の息子様も」

数十サージェン離れた牧草地に白樺の靱皮を編んだ敷物を敷いて、イアとレオニードが黙々と白樺のリースを編んでいた。
……。
エレナが倒れそうになっているのを、リザヴェタが支えた。「まあ、これなら良いのではない……? 領民の役に立っているし」
イアとレオニードのところに行ったが、あまり領民の役には立っていなそうだ。リースが下手すぎるし、編んだ量も、ほかの領民に当然かなわない。

「お義兄様、リーザ。何なの」
イアが平然と言う。「こんなにЯ家の偉い人たちを引き連れて」
「レオニード、君は。ああ、うちの農奴の手伝いをしてくれるのは結構だが、領主館の誰かにその旨を伝えて欲しかったね」
「え、……彼に伝えたぞ。クズマ君か」
「でも俺は、貴男様がたを馬車でお連れして、そのままこちらの牧舎にいると言ったではありませんか」
「……そうだっけ」
レオニードがぼうっと言う。レオニードだから仕方がない。イアといっしょで舞い上がっていたのだろう。
「とにかく探しまわったのだ! 街の中心の商店から、バシュキロフ家にまで行った。母上が君のことを心配していたぞ」

そこへ台車に乗せられたボリスが押して来られる。酔っ払って気が遠くなっているくせに、相変わらずアコーディオンは抱えていた。たいしたものだ。
「領主様、それから……お隣の領主の息子様。お隣の領主の息子様は……男前? ……見ようによってはまあまあ男前かもしれないが気のせいかもしれません……」
ボリスは大嘘つきかと思ったら結構正直者らしい。
「あの……その男前かも知れないお隣の領主の息子様。お願いがございまして……イア様にお取り次ぎをお願いしたのですが……」
ボリスはひざまずこうとして、台車ごと倒れた。

「……まあ、今日ふたつ目のお願いね。何なの?」
「はい、お美しい奥様……領主様のおかげで夫婦円満なわけですが……独り身の若い衆も恋人がいる者は幸せですがなあ」
「前置きは良いからさっさと言え」
「……しかし、そうするとですな、不満を持つ者もおりまして……ちょうどお隣の領主様の息子様のようにですな」

レオニードが怒りはじめた。
「僕が何をしたと言うのだ。エヴゲーニイ、君のところの農奴はずいぶん馴れ馴れしいな」
「いや。このボリス・クズネツォフは身分こそ農奴だが、読み書きはもちろんのこと、英独仏の農学雑誌を読みこなしてな。
農学の知識では私も家令様もかなわない。
私など英国の大学に二年いて、古典ギリシャ美術研究の傍らにこっそり農学部の講義に潜り込んだものだが、それ以上に先端の知識を仕入れている。
また、新大陸の大学に半年いたが、ロシア・スラヴ研究所で翻訳の傍ら、農学部にも……あそこの農学部は変わった研究をしていたが、ボリスはそれ以上に……」
「君はそんなにあちこちの学校に行っていたのか?」
「父が亡くなった後、浮かれて念願の留学をした。学問は最高の娯楽ではないか」

「で、ボリス。何なの?」
イアとリザヴェタが声を合わせて聞いた。声も似ている。レオニードが明らかに興奮している。
「へ、へい。そう、俺もЯ家のために農奴身分ながら毎日研鑽(けんさん)しておりましてな……。
ええ、農地を繁栄させるのはまったく、俺たちがです……俺たちも繁栄しなければならないわけでございますよ……。ええ、つまり、『鋤き手がいなけりゃ小麦も雑草』【* 筆者が作った諺もどき】というわけでして……」

「つまり彼は何が言いたいんだ」
「……繁栄したいのだろう」
「さすが、うちの領主様は違いますなあ。そう、繁栄でございます。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』
ほら、そう聖ニコラ様もおっしゃっております」
【* 『マタイによる福音書』(新共同訳聖書)ただしもちろん聖ニコラの言葉ではない】

私はレオニードに言った。
「……多分、君のところの農奴とうちの農奴の独り身の若い衆と娘で『出会いの会』でもしろというのだろう」
「そうです! そうでございます!」

「ボリスは面倒見が良いわね」
リザヴェタが褒めると、ボリスは有頂天になっている。
レオニードが難しい顔をした。「うん……良いことだと思うが。警備や、あとで売買の問題が出てくると……」
農奴は財産であるから、誰が嫁ぐか、いくらで取引をすることになるかで、我が家とバシュキロフ家で問題が起きかねないのは確かだ。

「そんなことは、我が辣腕の家令様に任せておきたまえ」
テレージンが嫌そうにうなずく。「まあ、お見本を見せれば、後々、エヴゲーニイ・パヴロヴィチにも、レオニード様にもお役に立てると存じますな」
「うん……だが、父も歳で腰が重くなっているからなあ」
彼は嫡男であり、我が国では家長が絶対である。レオニードがいくらいい年であっても、父上の許可を得なければならないのだ。
イアがレオニードに言った。「あら、レオニード様、お父様を説得すれば良いじゃない。それに『出会いの会』なんて、わたくしも見てみたい」
レオニードがにやけはじめる。
「そう……そうですね。イアさん。やってみます。……そしてそれは、僕たちの『出会いの会』でもあるのです……」
そしてまたレオニードなのに格好をつけている。

ボリスが酔った大声で叫んだ。(酔っていても頭が回るらしい)
「おい、皆! 隣の領主の息子様が承知してくださったぞ! お隣の連中と『出会いの会』だ!
独り者の若い衆、娘っ子たち、よっく磨き立てて相手を見つけろよ!」
万歳(ウラー)の声が響いた。
ボリスは酔っているのにまた寝ながらアコーディオンを弾きはじめた。器用な男だ。陽気なダンスの曲であった。
草の上だが、リザヴェタがレオニードに手を差しだし、ダンスに誘う。私は踊れないから。
乗馬服のスカートを翻して踊る領主夫人に拍手が送られる。領民たちが作業を中断して踊り始めた。夫婦ものは仲が良い。ああ、平和と繁栄だ。イアとテレージンが踊っている!

踊りのできない私とヒローシャとエレナの三人だけがぽつんと突っ立っていた。
ボリスはマズルカを演奏しだした。これとワルツならいちおうステップは知っている……私は山羊革の手袋を外し、女中頭のエレナ・ネクルィロヴァに手を差し出す。
「マダム・エレナ。たいそう下手で申し訳ないのですが、私と踊っていただけますか」
「は、はい……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。あたくしなんかでよろしいのですか」
「ヒローシャ、見て覚えろ。次にイアかエレナかリーザを誘え」
ヒローシャの運動の能力を考えれば簡単であろう。
「はい」

私はエレナの細い手を取り、肉のない腰に手を添えた。エレナが真っ赤になっている。私の踊りも赤面ものだ。
「エレナ、今日は心配させて悪かったね」
「いえ、あたくしが……しっかり監督していなかったから。申し訳のうございます」
かろうじて覚えていたステップもいつぞやの右足の怪我のせいでさらに踏めなくなっている!
エレナのダンスも、かつての私の妻でエレナの元主人オルガが舞踏会に出ていたころ、はるか昔の見様見真似だ。
私たちの組みあわせはさぞかし滑稽だろう!

「領主様! 次はあたしと踊って!」
農奴の娘……主婦かもしれない……が叫ぶ。
「奥様、俺と踊ってくだせえ!」という声も聞こえる。どうも夫婦では踊れなそうだ。

私はエレナを引きずりまわすように踊りながら、そっと囁く。
「……やはりレオニードは駄目だな。イアの相手にはもっと器の大きな人物でないと。……エレナ、君はどう思う」
「あの……わかりませんわ……」
「少々考えたのだが……結婚相手より前に、同い年くらいの娘さんの友達がいると良いのではないだろうか」
「は……はい。それは良い考えだと思います。領主様」

エレナは疲れてきたらしい。息があがっているし、赤面を通り越して、痩せた顔に汗がたらたら垂れていた。彼女も若くない。今日はずいぶんイアの心配をしただろうから無理もない。
「疲れたか? 休むかね」
「はい、そうさせていただきます……」
私は腕を伸ばし、お辞儀をしてエレナの手に接吻した。エレナが息を呑み、くらっと倒れかけた。ヒローシャがさっと彼女を抱き止める。
「おい、エレナ!」
「ネクルィロヴァ様!」
「どうしたの!」

—-
……
いつものようにセミョーノフ医師が呼ばれ、エレナを診察する。心労がたまっていたのと、興奮のしすぎからきたものであろうということであった。
……全部イアとレオニードのせいだ!