第2話 野生のリーザ★

到着翌日の朝から、イアは、Я家の馭者の息子とトラブルを起こします。
領主様は、ますますイアの花嫁修業に協力する気力がなくなり、『野生のリザヴェタ奥様』がいたらイアみたいではないか、などと考え始めます。
疲れてアクリナのところに逃げた領主様でしたが、夜中に何故か雪まみれのイアがやってきました。

3月,1831年

イア・ドミートリエヴナも小間使いの貧弱な少女も……名前はダリヤーナ、愛称はダーリャ……さすがにモスクワから、他家に来て疲れたらしい。夕食を済ますと早々に部屋に引き取った。
彼女たちの部屋は北棟の二間続きの部屋にした。北棟と言っても窓は南向きだし、露台もある。少々古いが、私の大伯母が使っていた化粧台も置かせておいた。

その晩、応接間に、私とリザヴェタ、家令(本物)のアファナシー・テレージンが集まった。それにヒローシャも控えている。
イアの花嫁修業の方法を考える……というより、イア対策の作戦会議だ。
テレージンが少々困惑したように言った。長身痩躯で切れ者の家令だが、領主に説教をしすぎたため、神が彼に腰痛を与えた。
「リザヴェタ奥様のお従妹様に失礼ですが……まあ、ふつうのお嬢様に見えましたが。夕食のとき、少し緊張しておられましたね」

リザヴェタがテレージンに言った。
「それは、エヴゲーニイ・パヴロヴィチが脅しをかけておいたからだわ。『今度、ヒローシャに(マカク)と言ったら直ちに放り出す』って」
「ヒローシャに『マカク』? それは……下品な令嬢ですな。……あ、ああ。リザヴェタ奥様、申し訳ありません」
「良いのよ。本当ですもの」
「あの、テレージン様、私は気にしておりません」
部屋の端から、ヒローシャの声がする。部屋を取り巻く青に模様の入った掛け絨毯のまえで、身じろぎもせずに立っている。
書斎で、私やテレージンと打ち合わせをするときは平気で長椅子に腰かけるのに、奥様のまえでは失礼だから座らないらしい。
リザヴェタがヒローシャに言う。
「ヒローシャ、おまえが気にしていなくても、わたくしが腹が立ちます。それに、花嫁修業をするなどと言っても、あの言葉遣いではどうしようもないわ」
私は溜息をついた。
「うん……そうですね」
ああ……やる気がしない……。

応接間は卓をはさんで長椅子が二脚、それに一人がけの椅子が数脚置かれている。卓の上にはもちろんサモワールが鎮座し、今日は紅茶に人参ジャムだ。
リザヴェタはまた子供たちの靴下を編みながら、話を続ける。編み物が完全に身につき、まったく話し合いや考えごとの邪魔にならないらしい。
「イアは、言葉で他人を侮って優位に立とうとします。今晩おとなしかったのは、『ヨーロッパロシアの大領主様』のお屋敷の広さや使用人の多さに驚いたこともあるでしょうね。
でもそのうち何か、侮る材料を見つけるわ。そういうところは賢いのよ。テレージン、貴男はどうしたら良いと思う? 」
「ふむ……それほど人を侮りたがるのは、何か怯えか不安でもあるのでしょうか。安心していただければ良いのかとも……。ご令嬢が、初めてご両親の元を離れて、遠くにお住まいになるのですから、不安なのは当たり前でしょう」
「……わたくしがあの娘に、もっと慕われていれば良かったのですけれど」
リザヴェタが言う。が、急に怒りがこみ上げてきたらしい。
「ああ! でも今日の態度! 下手くそなフランス語を自慢げに……可哀相に、子供みたいな小間使いにむりやり褒めさせて! ああ腹が立つわ! ああ、シベリヤにいたころなら殴ったのに」
リザヴェタが苛立ちながらぶつぶつ呟く。苛立ち、乱暴に編んでいるのに、靴下は見事に編目がそろっている。

……ああ、イアが帰るまでに一度、リザヴェタとイアの本格的な殴り合いが見たい……。
と、言うわけにもいかない。

私は領主として、リザヴェタとテレージンに言う。
「ダリヤーナか……、あの子は萎縮しているだけで別にふつうの子のようですね。服装がひどかったな。ダリヤーナはダリヤーナで、イアから離して小間使いの訓練をさせましょう」
テレージンはさすが、打てば響くように答えてくれる。
「イア様には、代わりにもっとしっかりした年上の婦人を誰かつけるのですな。人選はいかがなさいます」
リザヴェタのように、貴婦人なのに本人付きの小間使いがいないほうが珍しいのだ。

「まず、エレナ・ネクルィロヴァでしょうね。
リーザ、名前を出して申し訳ないのだけれど、エレナは、オルガ(私の前の妻)の小間使いだった婦人です。貴婦人の扱いや、ドレスの着付けだの、衣装の選び方だのに慣れています。流行には疎いかもしれませんが。
そこは服地屋のニキーチン商会のお嬢さんにでも教われば良い」
「ええ……、でも、エレナには女中頭の仕事があります。イアにかかりきりと言うわけにはいきません。
それに彼女は繊細なところもあって、下品な暴言を吐かれつづけたら滅入ってしまうわ」
「私も滅入りますよ……。ですからもう一人、お願いしたいご婦人がいるのです。暴言も、少々の悪意もまったくお気にかけない方で……」
私はテレージンを見た。勘の良いリザヴェタが、やはりテレージンを見る。
「え、まさか……」
ヒローシャだけが不思議そうにしていた。
テレージンがうめいた。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ! まさか、私の家内ですか!」

—-

……がんばれイア。

翌日、私はイア関係の雑用に追われた。
私自身が彼女の世話に関われるのは、農耕が始まる四月下旬までだ。それまでに彼女のさまざまな教師や世話係たちを決め、依頼しておく。
あとは、外の作業が終わる十月なかばすぎまではそちらにかかりきりになる。リザヴェタだって忙しく、イアの相手などあまりできないだろう。
そのあいだ、イアには少しずつ教師や世話係たちから学ばせる。見事な貴婦人になったイアを、十二月ごろに、モスクワの舞踏会か夜会に連れて行く予定だ!

というわけで、書斎で手紙ばかり書いていた。
確か、市長の令嬢が教わっているフランス語教師が、幅広い教養の持ち主で、パリの発音が身についたご婦人だそうだ。そのマダムにイアの教授を頼めるか、市長に仲介を頼む。
……街の大きな教会に『令嬢たちの交流会』があるらしいが、そこにはまだ顔を出させない方が無難だろう……。
私はイアの母君にも手紙をしたためる。到着の旨と、二人の年長の婦人に世話係兼指導係を頼むこと、フランス語の教師を問い合わせていること……などだ。
どうもこのまえ、モスクワにいたイアがあまりにも早く我が領地にやってきたことを考えると、郵便局のどこかに賄賂でも渡しているのではなかろうか。つまり、自分のことを書いた手紙が父母に届かないように……素行が伝わらないようにだ。
私は、リザヴェタの義母のリャードワ夫人にも手紙を書き、イアの母上への手紙を同封し、転送するように頼んだ。
……面倒だが仕方がない。愛する妻の従妹だ。それに、殴り合い……。

寒い日だが、雪は降っていなかったので書斎の窓を多少開けていた。
リザヴェタの声かと思ったら、イアの声が聞こえる。従妹だけあってやはり色々似ている。何も躾を受けず、ジャングルで勝手に育った『野生のリザヴェタ』がいたら、イアになるのではなかろうか。
裏庭の厩舎で、大声で怒鳴っているようだ。
なんだか私は、イアはもうこれで良いのではないかと思った。乱暴な女が好きな男と結婚すれば良いのだ。……

イアはヒローシャと、クズマに怒鳴り散らしている。クズマはアクリナの夜番をしている少年で、見習いの馭者だ。
これは少々まずい。私は書斎の窓を開けて、怒鳴りつけた。
「何を騒いでいるのだ!今から行くので三人とも動かないように」
私は書斎の窓を閉め、書斎の鍵をかける。
「くそ……」
私は大股で居間兼食堂を横切る。待合間には、見慣れない小間使いが、真新しい制服を着て、姿勢良くじっと立っていた。
「あ、君は。ダリヤーナか……」
「はい、領主様」
提灯袖の羅紗の黒いドレス、膨らんだスカートに白い前掛けを着て、嬉しそうにしている。昨日の怯えた様子がない。
「よく似合うよ。……小間使いの訓練は厳しいかもしれないが、単に厳しいだけで、君を困らせたくてやるわけではない。もし虐めなどをする者がいたら、私かリザヴェタ奥様に言いなさい」
「はい、有難うございます」
ダリヤーナは嬉しそうに、きっちりと礼をした。

私は、待ち合間から玄関間へ向かう階段を下る。昨年撃たれた右脚のせいで、階段を降りるのが苦手になった。
外套と帽子を身につけて、厩舎のところに行く。

厩舎の前で、ヒローシャとクズマ、それにイアが立っている。
ヒローシャとクズマは二人とも荷物を抱えていた。
クズマはナプキンで包み、籠に入った食物らしいもの、ヒローシャは何か黒い布だ。

「領主様! この人は誰なんですか。偉そうに、」
クズマが怒りで顔を赤くしている。
「ア、アクリナ様が、せっかくヒローシャさんに編んでくださった靴下を、この人は! 厩舎の藁の上に叩き落としたんです」
クズマは短気だし、優しい叔母に対するようにアクリナに懐いている。
ぼうっとしたアクリナを、自分が守ってやらねばという、若者らしい正義感もあるようだ。
ヒローシャはうつむき、靴下のあちこちにへばりついた藁屑を取っている。見事な出来栄えだ。黒い靴下は、膝の下まであり、足の裏や爪先の補強までされている!
要するにクズマはアクリナのところに夜の見張りに行き、朝、いつものように何か軽食をもらい、ついでに彼女がヒローシャのために編んだ靴下を預かってきたらしい。

せっかく神聖なアクリナ様が、たかだか昔の同僚であるヒローシャ君に編んでやったものに何をするのだ、とは思うが、もうイアを叱る気力もない。
ダリヤーナとなんという差だ。ダリヤーナとイアを入れ替えたらどうだという考えが浮かんだ。こんなことを思いつくのも、最近のゴシック小説流行りのせいだ……。
【* 18世紀後半から19世紀の初めにかけて、現代のホラーやSFの元祖とも言える幻想恐怖小説が流行した】

イアの強情なところは、悪い意味でリザヴェタに似ている。
もし、私とリザヴェタのあいだに娘がいたら、娘だろうと、もちろんミハイルのように乱暴だろう。きっとイアのようになったに違いないと思うと、何か愛おしい気もする……?
ついでに自分が十歳か二十歳老けたように感じた。
私は弱々しく言った。
「ああ、クズマ……この人はイア・ドミートリエヴナといって、リザヴェタ奥様の従妹で、花嫁修業にしばらくうちに滞在する。
……なんというか、粗野で乱暴な方だが、いちおうご婦人なので殴ったりしないように」
「奥様の従妹? で、でもあれは許せません。せっかくアクリナ様が!」

イアがせせら笑った。
「このマカ……マカ……『マカロニとヒローシャのグラタン』に、靴下を編んでくれる物好きな女がいたなんて!」
いちおう『マカク』呼ばわりはやめておいたらしい。マカロニとヒローシャは何の関係もない。

ヒローシャが穏やかに言った。ただアクリナに申し訳ないとだけ思っているようだ。
「アクリナ様はお優しく親切な方なので、何かのついでに編んでくださったのです。それに、仕事のお手も早いから、恐らく一日二日で編み終えられたでしょう」
「アクリナ様って……アクリナって百姓の名前じゃない。なんで『様』なの。農村共同体ミールの女長老か何か?」
イアは、料理女だったころのアクリナに会っているはずだが、覚えていないようだ。まあ、山のようにいる名前ではある。

我が恋人をイアになど会わせたくもないし、どういう立場なのか知らせたくもなかった。
「ああ、イア。……アクリナ様は農村司祭殿のお母上でな。とても思いやり深く、まったく生神女マリヤとはこのような方かと思われるばかりだ。
このクズマなど、アクリナ様のお優しさと気高さを慕うあまり、彼女が徹夜で聖堂で祈られる時には、もしや悪い流れ者などが入り込まないように、みずから護衛を買って出てくれている」
ヒローシャとクズマはぽかんとしていた。

……とはいえヒローシャは、多少は私のとっさのでたらめ話に慣れてきたらしい。
「あ、ああ、そうでございます。あ、あの……生神女マリヤ様のようなアクリナ様が、教会で、私の息災を願って編んでくださった靴下かと思うとありがたくて涙が出てまいります……」
「さすがグラタンみたいにベタベタして、すぐ感動して泣くのね」
グラタンは悪口にしても無理がある……。

私は、まだ憤懣やる方なさそうなクズマの肩を叩いた。
「ああ……クズマ、おまえの気持ちはアクリナ様にもお伝えしておく。きっと感謝してくださるだろう」
「は、はい。領主様……」
クズマは戸惑いながらも、靭皮籠の中から封筒を二通出した。
「あ、そうです。領主様、お手紙をお預かりしてきました」
「そうか、それはありがたい」
私は二通手紙を受け取る。アクリナの字だ……。少しずつ上手くなっている。下手だが。

ロシヤていこくスモレンスク県××ぐんЯ村 領主館きづけ
領主さま エヴゲーニイ・パヴロヴィチ・Яさま
おんもとへ

私は一瞬うっとりと表書きを見る。『御許おんもとへ』……なんという床しい表現であろう。……私が書くように指導したのだが……。
同じ敷地に住んでいるのに、必ずきっちり住所を書いてくるのだ。

自分の住所も書いてくる。
「ロシヤていこく (略) Яむら
西の森の道のとちゅう アクリナ・ニコラエヴナ」

今日はどんな、夢見る乙女など足元にも及ばない可憐かつ壮大な間違った信念を書いてくれているのか。
どれほど放恣な空想に身をまかせるというか、彼女の魂がどれほど妙なところに住んでいるのか、早く読みたい……。ついでに官能的なことも書いてあると嬉しい……。

私は一瞬、にやついて手紙を見ていたと思う。いちおう、絹の帽子をかぶり、山羊革の手袋を嵌め、クラバットを結んだ三十も半ばに近い立派な紳士なのに。
馭者と馭者見習いと花嫁見習いの三人は黙って突っ立っている。
私が顔を上げると、クズマは慌てて馬を繋ぎ、ヒローシャはアクリナの編んだ靴下に一礼して、外套の隠しにしまった。雪かきを始める。
私も外套の隠しに手紙二通を入れ、ついでに懐中時計を見る。十時少し前だ。イアに言った。
「そろそろ、君を……何というか指導してくれるご婦人が見える。母屋に戻ろう」

「あ、今日はブリンにリンゴのジャムだ。ヒローシャさんも食べますか? アクリナ様のジャムはちょっと酸っぱめなところが美味いんですよね」
クズマが嬉しそうに叫ぶ声が聞こえる。
【* ブリン ロシア風のクレープ】

—-

私はイアを連れて玄関間を入った。待合間への階段を登る。
「馭者も農奴も、気の荒い者がいるので気をつけるように。
皆、リザヴェタ奥様のことは慕っている。彼女が苦労して作った信頼を壊さないようにしなさい。挑発なんかしては駄目だ。ほんとうに、殴られるくらいでは済まないかもしれない」
私はいちおうイアにそう言った。
「マカ……マカロニのヒローシャのグラタンはそんなことはしないでしょ……」
「彼はリザヴェタ奥様の信望者だからな。もしあそこでクズマが君を殴ろうとしても、従妹の君を助けただろうよ。でもそんな者ばかりではない」
「ウイ、ムッシュー! ウラー! 領主様!」
イアが自棄気味で叫んだ。
「ちょっと待て。まさかヒローシャならば絶対にやり返さないから、嫌がらせをしているのではないだろうな……」
「あら、そんなことはありませんわ。マカ……グラーシャを構ってあげているだけです」

……ヒローシャは『グラーシャ』になったらしい。

召使いが私に気づき、次々と頭を下げる。イアは少し緊張しているようだった。
「リーザは誰かに意地悪をしませんの……? すごく良くできた人になったの? あの、前の婚約者をしょっちゅう怒鳴りつけていた人が」
シベリヤにいた、懐かしいダニイル君のことだ。
「今でも私に意地悪をしますよ。……どうしても誰かに意地悪をしないではおれないのならば、従姉妹どうしで意地悪合戦をしてください」
ついでに殴り合いもしてくれ……床、いや道ばたに転がって……華奢な靴で蹴りあい、絹のペチコートが見えたりする……。
少し寂しそうに、イアが言った。
「それで、皆がリーザに味方するのね……」

私は北棟の家事室の扉を叩いた。リザヴェタが扉を開ける。
リザヴェタを見るとホッとした。
確かにイアに似ているが、ずっと成熟しており、……じつは乱暴なところも意地悪なところもあるが、立派な自制心がある。リザヴェタの『生意気さ』が私は好きだった。それに、彼女の意地悪は、こちらが本気で腹をたてるようなものではない。意地悪されるのが心地良いくらいだ……?
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。皆さん、来ていらっしゃいますわ」
「はい」
私はイアを連れて家事室に入り、鍵をかける。
編み物籠を広げていたエレナ・ネクルィロヴァとイリーナ・テレージナ夫人に紹介した。

今度はイアに二人を紹介だ。まず、黒い羅紗の、襟まで詰まったドレスを着た、痩せて、きっちりした中年の婦人だ。
「こちらのご婦人は、エレナ・ネクルィロヴァ。女中頭だ」
イアが侮るネタを探している気配を探している気がする。とりあえず権威で押さえつけることにした。
「……モスクワ大公国がノヴゴロド共和国を制圧【* 1578年】したころからつづく、ある古い男爵家があってね。
エレナはそのお屋敷に子供のころから住み込んで、長年、令嬢の世話係を任されていた。令嬢は、ああ……美しい方で……髪が黒かったので……、モスクワ社交界の黒百合とうたわれた。前皇帝アレクサンドル一世陛下に所望されて、踊りの相手を勤めたこともある」

リザヴェタは『そんなことははじめて聞いた』と言いたげに私を冷たく見た。とはいえ、前の妻のことを、事細かにリザヴェタに話すわけにもいかない。

現・我が妻のリザヴェタは淡々とイアに言う……ふりをして、私に言う。
「本当に素晴らしく美しい方だったのよ。黒髪で儚げで、フランス語がお得意で、あちらの小説がお好きだったそう。
わたくしは肖像画を拝見しただけですが、ああ、もう、お美しくて心臓が止まりそうだったわ!
あれほど美しい方に匹敵する貴婦人は、こちらのエヴゲーニイ・パヴロヴィチのお母様だけではないかしら」
何か、一言一言に色々な情念が籠もっていて申し訳ないのだが、とりあえず、私はエレナに話しかけた。

「……エレナ、イアの着付けはどうだね」
「おぐしが崩れてらっしゃいますね。他にも……色々。そのドレスは、もっとずっと美しく着ることができるはずですわ」
「ちょうど良い、朝の普段着(デザビリエ)から正装に着替えるのを手伝ってもらいなさい」

厳しげなエレナの容貌とは対照的に、白いドレスでふわふわした、優しげな婦人が靴下を編みながら待っている。
ある意味、我がЯ家の最終兵器だ。まあ、ナポレオンを打ち破った焦土作戦みたいなものだ。
「こちらはイリーナ・テレージナ夫人。家令のテレージンの奥方だ。いつもは、テレージン家で家のことをなさっておいでだが、今回は特別に協力してくださる。なんというか、すごい方だ」
リザヴェタは澄ましていたのだが、『すごい方』で、わずかに微笑んだ。

イアが不思議そうにした。
「家令夫人? まず、小さな家のやりくりから覚えろって言うこと? それともわたくしに家令風情の妻になれと……」

家令風情の妻が、立ち上がり、嬉しそうにイアに叫んだ。
「初めまして。イリーナ・テレージナですわ。
ああ、なんて可愛いお嬢さんでしょう! 野暮ったくて、垢抜けなくて、頭が悪そうなのに一生懸命、無理に背伸びして……ステパンがシベリヤでお嫁さんを見つけて帰って来たら、こんな方かしら!」
これで悪意はないのだ……。
ただ思ったままを無邪気に口に出す性分なのだ。
辣腕の家令であるテレージンは、家では、この、天使のような奥方と仲睦まじく暮らしている。しかし、なるべく公の場には連れて行かないようにしているようだ。
困ったのは、イリーナ夫人のこの性質が、テレージン家の一人息子で馬鹿息子のステパンにもろに受け継がれてしまったことだ。
一見、賢そうなのに……。
父の跡を継がせ、家令にしたかったのに……。商業学校の学費まで出してやったのに……。

テレージナ夫人の言葉は、イアの従姉で、同じくシベリヤ出身のリザヴェタに対しても無礼なのだが、リザヴェタはもうすっかり慣れている。

イリーナ・テレージナ夫人は続ける。
「イア・ドミートリエヴナ。ねえ、きつい顔で怒った様子なのは、シベリヤでは、いつ熊が襲ってくるかわからないからかしら?
ずっと警戒していなくちゃ駄目なのよね」
イアは戸惑っている。……。
上品で優しそうな家令夫人が、柔らかい口調で無礼なことをどんどん言うのだから、まあそうだろう。
ついでに、テレージナ夫人の耳元に囁き、決してアクリナのことは教えないように頼んだ。

—-

年長の女たちにイアを預け、私はしばらく逃げることにした。
何故か知らないが、イアといるとひどく疲れるのだ。
本人も恐らく疲れるのだろう。侮られないように気を張って、廻りを攻撃することで身を守ろうとして……?
いや好きでやっているのか?
私にはわからない。ああ、私の『その場しのぎ出鱈目会話』は必要と趣味の両方だから、それと同じなのか?

書斎に鍵をかけて閉じこもると、アクリナの手紙を貪るように読んだ。ここ数日、イアを出迎える準備でアクリナに会うどころではなかった。私は彼女に会いたくて仕方がなくなった。
書き綴った手紙を持ち、書斎に鍵をかけ、部屋を出た。
イア関連の手紙を七通、下男に渡し、外に出た。

—-

昼前にアクリナに会いに行くことはあまりない。何か用事があって立ち寄るくらいだ。
扉を叩いて私を見ると非常に驚いていた。変わった服を着ている……黒いふわふわした毛糸で編んだ、ゆったりしたサラファンだ。
「すみません、こんな服で……。まさか貴男様が今ごろいらっしゃるなんて」
「そういう素朴な服も良いな……黒兎みたいだ」
ヒローシャが靴下を喜んでいたとか、クズマがイアが靴下を汚したのをすごく怒っていたとか話そうかと思ったが、イアの名前を思い出すだけで疲れた。
……本当にあれの結婚相手を探さねばならないのか?

私は玄関間で、外套を着たままアクリナの首筋に両腕を回し、もたれかかった。
華奢なアクリナは重そうだ。「どうなさいましたの……?」
「すまない。少々疲れた。休ませてくれないか」

私は一階の食卓の椅子を並べて、横向きに腰掛け、壁に背中をもたれさせた。足は椅子の上にだらしなく乗せ、伸ばしている。
卓の反対側ではアクリナが編み物を続けていた。
「今度は何を編むのかね」
「このサラファンの下に着る、ぴったりしたルバーハを作りますわ」
「すごくぴったりしていると良いな……。麻のルバーハみたいにふんわりしているのではなく、……体にそのまま貼りつくような。膝丈くらいで……それを着たおまえと一緒に寝たい。抱き心地が良さそうだ」
「え……、う、……わかりましたわ」
アクリナは手早く卓上に、編みかけの身頃を広げた。編み目を減らしているらしい。真剣に見ている。

「ヒローシャが靴下に感激していたぞ」
私はぼうっとしながら言う。
私がなかば寝ていて、アクリナが何か縫ったり編んだりしているこの状況は、シベリヤのリャードフ家で初めて会った時のことを思い出させた。
「迷惑そうではありませんでした?」
「いや、まさか」
アクリナはうつむいたまま、白い手を伸ばし、編み目をほどいていく。
私はアクリナを眺めた。石榴の実のような唇をほんの少し開き、真剣に編み目を数えている。時々、自分の上半身に当ててみている。
「もっとぴったりしているほうが良いな」
「ええ……? それでは寝るとき辛いです……」
私は卓上に手を伸ばし、アクリナの手首を掴んだ。アクリナは今更驚いている。
「アクリーヌ、おいで」
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……あ、あの、お疲れではありませんの」
「うん……」

「卓を乗り越えて、私のところに来てくれ」
「乗り越えるのですか? 回って行くのでは駄目なのですか」
「うん。卓に足をかけて、よじ登るところが見たい」
「そんな……あ、貴男様はあたしに、すぐに妙な格好をさせたがりますのね」
「黒兎みたいな服を着ているからだよ……」

アクリナは、編みかけのルバーハと編み針を籠に片付ける。
華奢な靴をごそごそ脱いでいる気配がする。立ち上がって、椅子に乗った。
甲の高い素足が卓に乗る。裸足だ。ヒローシャの靴下なんかより、自分のを編めば良いのに。

たっぷりした毛糸のサラファンがずれ上がり、脛と、ふくらはぎが見えた。黒く柔らかな、スカートのトンネルの中の、白い素足はなまめかしい。膝も見える、もっと奥は……私がじっと眺めていると、アクリナは顔を赤らめた。
サラファンの上から、卓に膝をつき、いざり寄ってくる。卓の隅まで来て、言った。
「貴男様のうえに降りろと……おっしゃるのですか?
椅子には隙間がありません」
私はアクリナの手首を掴み、ふたたび強く引っ張った。
「え! いや」
卓の縁から落ちてくるのを抱きとめた。毛糸のサラファンがもこもこしている。
私は横向きになったアクリナを、ただずっと抱きしめていた。
アクリナが呟いている。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、領主様……」
何だか疲れが取れるような気がする……。

—-

そのまま私はアクリナの元にい続けた。
夜中の二時ごろだった。
森の家の二階である。私は長椅子に座り、ランプをつけ、フランス語の本をアクリナのためにやさしく書きなおしていた。『マッシュルームの栽培と研究』という本だ。
……アクリナはすっかり眠っている。
私は妙な時間に眠ったので、寝られない。時折、森の松や白樺に乗った雪がどさりと落ちる音がした。

扉を叩く音がする。気のせいかと思ったが、夜警にきてくれているクズマが、詰め所の扉を開ける音がした。……母屋で何かあったのか?
私は立ち上がり、二階の、道沿いの窓まで行く。

「アクリナ様は寝ておられるよ!」
クズマの声がした。ぶっきらぼうに続ける。
「仕方ねえなあ……もう」
「クズマ、どうした?」
私は二階の窓から呼びかけた。
「あ、領主様。奥様の従妹が」
奥様の従妹……? 一瞬なんのことだかわからなかった。ああ、イアだ……。
「イアが来ているのか?」
「はい。領主様」
「領主様って……」
イアの弱々しい声がした。
「ちょっと待て、すぐに降りていく」

私はルバーハにカフタンという姿から、面倒だが、紳士らしいフロック姿に着替えた。クラバットは引っ掛けただけだ。
階下に降りて、鍵を開けた。
「何だ?」

拗ねた顔つきのイアは髪を編んでいない。水色のドレスに外套を重ねている。外套と髪には雪が積もっている。
「……何なのだ」
クズマが言った。
「誰かがアクリナ様の家の扉を叩いているから、猟銃を構えて見に来たんです。そうしたら、この人で……仕方がないので、詰所にでも連れて行こうかと」
「そうか。……まあ、二人とも入りなさい」

イアは髪はぼさぼさで、目の下には涙の跡がある。いったい何をしていたのか想像もつかない。夜釣りか?
私は一階のペチカの燠火を掻き立てた。
クズマが言う。「あ、俺がやります」
「では頼む」
私は代わりにサモワールに水を入れ、沸かした。イアに食堂の椅子に座るように言う。

「ここは何なわけ」
イアは『蓮っ葉』に言った。「『アクリナ様』って、農村司祭のお母さんじゃなかったの。夕食のとき、リーザが、領主様は徹夜で仕事だって……」
「君こそ何でこんな時間に表をうろついているのだ。この辺だって熊は出るし……、去年は隣で農奴反乱があった。娘が一人で歩くんじゃない」

アクリナが降りてくる足音がする。まあ、もうどうでも良い……。年末まで滞在するなら、いずれ知れることだ。
「え、リザヴェタお嬢様……?」
二階からのドアが開いて、アクリナの低い掠れ声がした。
アクリナのすんなりした影が現れる。あの黒兎みたいな毛糸で編んだサラファンの上に、大きなショールを羽織っている。
「リザヴェタではない。従妹だ」
イアはアクリナを見て軽い衝撃を受けている。
「エヴゲーニイお義兄様……、何、何なわけ。領地にお妾がいるの。……リーザ、『ざまあ見ろ』だわ。ヨーロッパロシアの大領主様夫人になったって……」
「リザヴェタ奥様の悪口を言うな。アクリナ様のもだ」
クズマが言った。

「妾ではない。恋人だ。だいたいのヨーロッパロシヤの大領主様には秘密の妻や恋人がいる。私はリザヴェタとこの人だけだ。ずいぶんましなほうだ」
「いやだわ……もう……ヨーロッパロシアの大領主様に嫁いでも、……お妾がいるわけ」
なにか疲れ切っていたらしい。というより、今までどこでどうしていたのだ。

「あ……イア・ドミートリエヴナでいらっしゃいますか」
アクリナが言った。
「そうよ。領主様の妾のアクリナさん!」
「恋人だと言っただろうが」
「……あの、よろしかったらブリンをお焼きしましょうか。お好きでいらっしゃいましたね」
イアはきょとんとしている。アクリナが誰だかまったく気づかないらしい。
攻撃はふたたび私に向かう。
「エヴゲーニイお義兄様」とイアは言った。
もう私は『お義兄様』なのだから仕方がない……のか。
「お仕事でなくて、きれいな女の人のところに泊まりに来ていたのね。いやらしいことをしに」
「ああ。不潔でいやらしいことをたっぷりしました……でも仕事もしていた。ふん、君に手伝ってもらうかね……。イア、紅茶を四人分用意しておいてくれ」

私は二階に行って、『マッシュルームの栽培と研究』と、アクリナ用に書いたノートを持って来た。
「フランス語ができるなら、あの人にわかりやすいように訳してあげてくれ。アクリナはロシヤ語の読み書きはできるが、あまり難しい言葉は駄目だ」
アクリナは台所で、なかば眠そうだったが……ブリン用の粉と水を素早くかき混ぜている。熟練すると二、三分で一枚焼ける。
私はイアのいれた紅茶を飲んだ。紅茶の入れ方も教えないと駄目そうだ。
イアは本を見て、言う。
「え、何、これ……」
「君は母屋から来たのか」
「え? 違うわ……『マッシュルームの……?』」
「マッシュルームはわかるのか。大したものだね。今、君のフランス語の教師を探している」

拗ねたように言う。
「わたくしを追い出すんじゃないの」
「は? いや、この程度では」
「領主様なんだから、追い出そうと思えば追い出せるでしょう」
「そうだが……」
否定してもらいたいのであろうと気づいた。
「別に追い出すつもりはない」
ほんの少しだけ、ほっとしたように見えた。テレージンが言っていたように、多分、知らない場所に来て、居場所がなくて不安なのだろう。
「わたくしが悪いことをしても?」
「悪いことをしても追い出さない。代わりに鞭打ちだ。……今まで、どこにいた?」
「内緒だわ」

アクリナがイアと私とクズマに、焼いたブリンを皿に出してくれる。「イア様は木苺のジャムがお好きでいらっしゃいましたね」
「ええ……なんで知ってるの?」
「え……?」

私はアクリナに言った。
「アクリーヌ、イアはおまえが誰だか気づいていないようだぞ」
「え、ええ! あ……、ああ! あ、あ、あたしは誰でもありません!」
イアがじっとアクリナを見た。アクリナは口元を覆い、震えだした。顔が真っ赤だ。

「エヴゲーニイお義兄様の恋人って……」
「アクリナ様、ブリンをもらってしまっていいですか? 早くもらって、また見張りに戻ります。俺は桃のジャムがいいな」
「ど、どうぞ。どんどん……食べて」
クズマは勝手にジャムを選んでブリンに塗って食べだした。ずいぶん餌付けしたようだ。

私は立ちあがり、震えるアクリナの二の腕を抱いた。
「アクリーヌシュカ、どうしてそんなに恥ずかしがる?」
「ま、まさかお気づきでないなんて……。な、なのにあたしは……自分から、……お知らせするようなことを……あ、あたしが貴男様にふ、不潔でいやらしいことをされるのがどんなに……あの、どんなに嬉しいか……」
クズマが食べているものを吹きだしそうになった。
「アクリナ様、あの……想像してしまいます。やめてください」
「ク、クズマ……ごめんなさい。娘さんのお友達もいるのでしょう。きっと、お似合いの可愛いお嬢さんね……そ、その方のことを考えて……」
私はクズマに囁いた。「……今度、何か技を教えてやる。外国の売春宿で流行っているやつだ」
「ええ? それはすごいです! 娘っ子がびっくりするようなやつですか」
「びっくりして、乱れまくって、おまえにさらに夢中になるぞ」

クズマが礼を言って、猟銃をかついで上機嫌で出て行く。
クズマが出て行くと、イアがアクリナを指差し、鋭く叫んだ。
「このちょっと酸っぱめのジャムの味……あんた、リーザの料理女ね。フョードル伯父様があんたのカーシャをお気に入りだった……。『飯炊き婆さん』じゃないの!」
「や……あ、ああ。お許しください……」

……何故、謝るのだ……。

「地味で冴えない中年女だったのに、何なの。パ、パリジェンヌみたいな(見たことはないと思う)洒落たドレスを着て、なんか若くなって……リーザは知ってるの」
「ご存知です……。申し訳ありません……あ、エ、エヴゲーニイ・パヴロヴィチ……ど、どうやってお詫びをすれば良いのでしょうか」
「詫びることなど何もない」
「でもあの、……あ、あたしは、飯炊き婆さんのアクルカ【* 卑称】のくせに……領主様に、あ、あの弄んでいただいて……」
「アクリーヌ、おまえは『飯炊き婆さん』などではない。私の恋人で、きれいで上品な、魅力的な婦人だ。きれいかどうかは私が決めると言ったろう」

「アクルカ、そうやって卑屈なふりをして自慢しているわけ。『あたしはヨーロッパロシアの大領主様の妾だ』って」
「え……、あ、自慢しているのでしょうか……」
またアクリナが他人の言葉に流されかけている……。

「自慢しているわよ! 妾だか恋人だか知らないけど、『あたしは大領主様に選ばれた女だ』って。ブリンをもう一枚ちょうだい」
「は、はい」
アクリナが台所にブリンを焼きに行く。

どうしたものか……。それよりまず、どこにいたのだ?
「イア」
私は食卓のイアの前に座る。
「アクリナは私の恋人で、君は私の妻の従妹だ。どちらが偉いのか知らないが、少なくとももう君の親戚の召使いではない。年長のご婦人をアクルカ呼ばわりするのはやめなさい。アクリナ・ニコラエヴナか、フランス語でマダムとでも呼べ。
ブリンを作ってもらいたければ、丁寧にお願いするんだ。もちろんアクリナは、断りたければ断る。
で、イア、君はここに来る前にどこにいた?」

木苺のジャムをたっぷりのせたブリンを二枚、アクリナがイアの前にそっと置いた。そのまま召使い時代のように一礼して下がろうとするので、細いさらさらした手首を掴み、強引に私の隣に座らせた。
「……エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、そんなに強く言っては……ご令嬢に」
イアは、アクリナの言葉を侮辱と受け止めたらしい。
(ああ、面倒くさい……)

イアは乱暴に返事をする。
「家令のところ」
「え、テレージンの家か」
「そうよ。夕食の後、リーザとエレナと喧嘩して、ミハイルを殴ったの。で、ミハイルが大騒ぎして。
そうしたら、イリーナ・テレージナ夫人が『とりあえずうちに行きましょう』って言うから」
「リーザとエレナと喧嘩? 殴り合いか?」
殴り合い……。
ミハイル(三歳)と殴り合いでは似合いすぎる。
エレナに殴り合いは少々気の毒だ。やはり、リーザとイアの一騎打ちでないと……。

「まさか。ただの口論ですわ。大人ですから!」
まったく大人でないし、……いや、大人でなどなくて良いから、私の前で殴り合いをしてくれ……。
「それで、家令の家に行って、客用寝室で寝てたの。そうしたら、旦那様が帰ってきて」
イアの表情がわずかに歪んだ。それでもブリンを食べ続ける。よほど木苺のジャムが好きなのか、フォークで皿をこすり、ジャムの残りをかき集めては舐めた。
「うん……それで」
「家令が奥様に、わたくしを泊めるなって叱ったの。疲れているから、家にいるときくらいのんびりしたい、あんな騒がしい娘を連れて来るなって……」

「え、テレージン様が?」
アクリナが驚いて口に出した。私は彼女の背中に軽く触れ、黙らせる。
たぶん、アクリナが疑問に思った通り、テレージンは別のことを言ったのではなかろうか。
少なくとも、イアが言ったようには言っていないだろう。だいたい奥方にすこぶる甘いテレージンが、彼女を叱るものか。
ただ、イアにはそう聞こえたのだろう……。

「それで、客用寝室からこっそり抜け出して外に出たの。寒いし、雪が降ってくるし……朝までどこにいればいいかわからなくて。
だから、お義兄様への手紙に書いてあった住所を思い出して、西の森の道の途中に来てみたのよ。教会ならちょうど良いじゃない。
そうしたら、愛しいアクリーヌシュカのところに出るなんて!」

イアは無作法にフォークをくるくる回して、床に跳ね飛ばした。驚くべきことに、慌てて食卓の下に潜り、探し始めた。アクリナが言う。「イア様、あとであたしが探しますので」
私はアクリナに、イアに探させるように囁いた。

イアが顔をあげた。アクリナは眠そうだ。
もう三時近い。
「そうだな……君がリーザやエレナと喧嘩したとき、自由に逃げられる場所を考えておこう。それでどうだ」
「ウィ、ムッシュー」
未婚のイアは、処女だろう。乱暴なくせに、昔のリザヴェタのように潔癖らしい。アクリナと二階に籠もらないほうが良さそうだ。
「今日は、……アクリナは二階で、私はこの食堂の椅子でこのまま寝る。
イアは奥に。使っていない女中部屋があるから、そこで寝てくれ。鍵もかかる」

アクリナが奥の女中部屋に行き、寝台から覆いを外し、二階から敷布を取ってきたりしている。
アクリナは眠そうだが、さすが長年の習慣できびきびと動き回っている。
私は食卓の椅子で寝ていた。我がアクリーヌが目の前を行ったり来たりする。

……何か妙だ。あの黒兎のサラファンはあんなに短かったろうか? ふくらはぎまでしかない気がする。
私は眠くなり、ぼんやりしていた。イアはとっくに女中部屋に寝に行った。
アクリナは食器を水につけたり、倉庫から、たぶんイアにあげるのであろう、木苺のジャムを出して、小さな瓶に小分けしたりと、こまごまと動いている。
サラファンの裾から白い脚が見える……? 一瞬、眠って夢を見たのか?
私の目の前を通り、アクリナが転んだ。「痛っ」

まただ。よく転ぶ女だ……。ああ、馬鹿みたいで……可愛い。
「……アクリーヌシュカ、大丈夫か?」
「はい、少し膝を打っただけで……す……」
私は立ち上がった。
アクリナは食卓のそばの床にうつ伏せに倒れている。何か妙だ……。すごく妙だ。
私は彼女の傍に膝をつき、起こそうとしてようやく気づいた。スカートがない。黒いスカートが消え、何か彼女は白っぽい。
スカートはないわけではないのだが、足首まであったサラファンが、太腿のかなり上まで減っている。
転んだ拍子に、下に着た絹のルバーハがめくれていた。
服がすべて黒いアクリナが白っぽく見えるのは……まあ、色々とむき出しだからだ。

私は居間兼食堂の床を見渡した。毛糸があちこちに引っかかって床に蜘蛛の巣のように広がっている。
アクリナはどうも、自分が編んだサラファンの、ほどけた糸に引っかかって転んだらしい。

私は倒れたアクリナを起こす。ついでに太腿と膝の裏を撫でた。
「何なのだね……」
「え、あ……」
アクリナはやっと自分の姿に気づいたらしい。慌てて絹のルバーハを下ろす。
「あ……、ど、どうして……裾もちゃんと編んだのに……」

アクリナの倒れた場所は、食卓のすぐ横だ。
卓の脚に、毛糸の端がしっかり結びつけてあった。
「イアが妙に時間をかけて、落としたフォークを探していたな……」
「は、はい……」
「ここまで気づかないのにも驚くな。それとも何かの合図かね。……まだ、足りないと」
「ち、違います……。単に……あ、あたしは……『ぼうっとして』いるだけですもの!」
アクリナは私の胸に抱きついて、怯えた猫のようにじっとしていた。


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