第18話 エルマーコフ家

イアが熱を出しました。疲れが溜まっていたようです。
いっそイアを生家に帰そうかと考える領主様。
イアの小間使いであった少女ダリヤーナを呼び、実家『エルマーコフ家』のことを尋ねます。
『イアが父上を殴った話』に呆然とする領主様とつきそいのエレナでした。

5月9日,1831年

日曜日の晩、チェルニャーク大佐が帰った。
翌月曜の午後に、雑然たる書斎で雑用の手紙を何通か書いているところに、ノックの音がした。
手紙を机の引き出しにしまい、扉を開けに行く。珍しくリザヴェタであった。リザヴェタは私の書斎に立ち入らないようにしているらしい。
私の『趣味』や『研究』(? ……何の? リザヴェタは私が何かの研究をしていると思っている)領域には立ち入らないようにしているのか、近づきたくないのかよくわからない。ドアのところで立って待っている。

「リーザ、どうなさったのです?」
廊下に出ると、リザヴェタは濃く太い眉を寄せ、暗い表情をしていた。前夜、二十年近くも武官をやってきた陸軍大佐に決闘を申し込んだ、勇ましい婦人とはとても思えなかった。
いつもよりいっそう低く静かに話す。
「お仕事ちゅうでしたの。お邪魔をしてごめんなさい」
「雑用です。大したことをしていたわけではありません」
母屋から南棟に繋がる書斎の廊下で、私とリザヴェタは静かに立ち話をする。

「イューカが熱を出しました。熱は高いようです。
今、セミョーノフ医師(せんせい)を呼びに行かせています」
「それほど具合が悪そうなのですか」
リザヴェタは黙ってうなずいた。

私は先週の金曜以来、イアがずっと怯え、生気がなかったことを思い出した。
金曜日に、彼女はアクリナの家に行き、何を考えたのか知らないが『花嫁修業』の参考と称して、私とアクリナの出会いの一部始終を聞きだした。あれに関しては、今でも冷たい怒りしか湧いてこない。

リザヴェタにとってイアは、不仲とはいえ、従妹である。叔父叔母への手前もあるはずだ。立ち居振る舞いがいつもより憂鬱そうで、鈍く重たげだ。とはいえ、あくまで冷静であった。

「隠れ家の丸太小屋(イズバ)にいたから気づかなかったけれど、どうも昨日か一昨日あたりからおかしかったようです。今日の昼、食事を運んだ料理女が不思議に思って、わたくしに伝えて、……鍵をヒローシャに壊させましたの。
エレナと一緒に中に入りました。寝台から動けない有様でしたわ」
「飲食できない状態で一日二日熱を出していたわけですか。それは良くありませんね」
自業自得だ、と思わないでもなかったが、イアをみすみす死なせるほど、私は彼女を嫌っているわけではない。
リザヴェタの従妹だから大切にすると言うのも無論ある。だがむしろ、私は上機嫌な時のイアの生意気さ、無茶な度胸や頭の回転の速さを、妹のように気に入りかけてさえいた、と思う。

「命に関わりそうな病ですか」
「大丈夫に見えますけれど、念のためにセミョーノフ医師に往診をお願いいたしました。ペストでもないでしょう。もちろん、わかりませんけれど」
セミョーノフ医師が嘆いているように、丈夫な若者が原因もわからず、対処のしようもなく、突然の病に倒れることは稀ではない。
そんな時、農奴はもちろん、貴族でさえ、医者より魔女の煎じる薬草を頼りにした。それも効かなければ、農奴たちはただひたすらイコンに祈るか、さもなければ怪しげな呪法に頼った。生贄を埋めたり、子供の臓器を食べたりといったことだ。
リザヴェタはもちろんそのようなことは全部知ったうえで、最悪の場合も冷静に想定しているのであろう。

私は手紙の続きを早く書き終えなければならなかった。それに妻の従妹とはいえ、相手は若い令嬢だ。
『いまわのきわ』ででもなければ、寝込んでいるようすを見に行くわけにもいかない。
「リーザ、ドクトル・セミョーノフに、お帰りになるまえに、こちらに寄ってもらうようにお伝えください。病状を説明してくださるように」
「……はい」
リザヴェタが静かに答える。だが、少し意外そうであった。私も行くと思っていたらしい。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ。イューカは貴男のお名前を呼んでいました」
「そうですか。リーザ、ドクトルのことは頼みます」
私は手紙の続きを書きに書斎に戻った。

それが月曜のことである。セミョーノフ医師は、シベリヤからほとんど知る人のいない土地に来て、疲れが出たのだろう、と言っていた。
処方は、滋養に良いチョコレートの粉末だそうだ。
苦味はあるが砂糖とともに湯で溶くと菓子のようだし、実際に外国では菓子に使っている。イアにはちょうど良さそうだ。

二日後には、熱も下がってきた。だが、完全には引かないようで、ずっと北棟の部屋で寝込んでいた。
私は彼女の処遇を決めかねていた。
書斎でぼんやり考え続けた。
イアには幸せになって欲しい。……私とアクリナとに害をなさないところで。
バシュキロフ家に嫁がせるか、我が領地で飼い殺しにするか。この前まで私は、イアが望ましい結婚相手を見つけられなければ、別に一生、我が領地で暮らしていて構わないと思っていた。時間はかかっても、リザヴェタの従妹だ。家事の采配も覚えるだろうし、あるいは領地のために腕を振るえるようになるであろう。たぶん。
だが、『お義兄様』の私に『恋情(???)』を持っているとなると別だ。
我が領地で飼い殺しにした場合、彼女が耐えられるのであろうか。単に発情しているだけならば玄人の美男子を買ってやる。しかし私への『恋情』……? が、憎悪に変わったらどうすれば良い。
気の強い婦人の片恋はしばしば誇りとの戦いで、相手への憎悪に変わるではないか。

いっそ、生家に戻すことも考えた。
私は、イアの生家エルマーコフ家について、ほとんど知らない。大体、リザヴェタの親戚に会ったこと自体が少ない。
特に母方の親族はシベリヤに固まっている。4500露里【* 1露里=1キロ】もあるのだ。
リザヴェタと結婚する直前、シベリヤからスモレンスクに戻るわずかな期間に、叔母上のお一人と挨拶しただけだ。

リザヴェタの亡母は三姉妹の長女であった。
ヴァルヴァーラ、アンナ、フェヴロニヤの三姉妹だ。
私がお会いしたのは真ん中のアンナ義叔母上(おばうえ)で、いつぞやリザヴェタが『この方は話がわかる』と言っていた。……リャードフ家の居間で面会したアンナ義叔母上は、やや浅黒い蜂蜜色の肌にはっきりした目鼻立ち、豊かな胸と腰とウェスト、と、面白いほどリザヴェタに似ていた。二十ばかり歳を取り、ちょっとばかり太り、ずっとおっとりしたリザヴェタといったところであろうか。
イアの母上は末の妹のフェヴロニヤ義叔母上である。彼女はさして遠くに住んでいるわけではないのに、来なかった。ただ、とにかく他人より優位に立ちたい婦人だと聞いた。

私は書斎を出た。
女中頭のエレナ・ネクルィロヴァに付き添わせ、小間使いのダリヤーナを応接間に呼んだ。
この少女はイアの侍女を一年半勤めた。

—-

ダリヤーナはついこの前、我が家の所有する食器の中から高価なものばかり三分の一を割った。その件で、同じ部屋に呼ばれたばかりだ。
ふたたび呼び出された応接間に、ダリヤーナはエレナに連れられおずおずと入ってきた。
ダリヤーナは十六、七で、顔が小さく、腕も足も細すぎる貧相な少女である。
たぶん可愛らしくもあるのだろう。(よくわからない)

エレナは野暮ったい紺のドレスに、筋張った体を包み、背筋をぴんと伸ばしたいつもの姿である。
エレナに連れられてきたダリヤーナは、まるでこれから婦人の修道女長に折檻される新米尼僧みたいであった。

私は奥の長椅子におり、エレナとダリヤーナに、手前の長椅子に座るように言った。
この応接間に呼ばれるのは二度目とはいえ、ダリヤーナはやはり緊張している。
部屋は青が主だ。カーテンや壁に掛けた毛氈(もうせん)は濃い青が主で、もちろん凄まじい唐草模様や鳥だの苺だのの模様が織り込まれている。

長椅子が三脚、暖炉、喫煙する客のための鍍金(めっき)の灰皿、簡単な食器棚と書棚、燭台などが置かれている。
天井は高い。寺院のようにドーム状に石を組んでいる。ここは曾祖父の代に建て増ししたらしい。
ダリヤーナは、曲げ木のベンチに絹のクッションを貼った長椅子に、申し訳なさそうに座る。

私は穏やかで優しい声で話す。
「ダリヤーナ、心配しなくて良い。おまえが何か失敗したわけでも何でもない。
ただ、イアお嬢さんの実家について少し尋ねておきたかったのだ」
卓にはサモワールがある。エレナが三人分の紅茶をカップ(近所の焼き物村の、青と白の素朴な茶碗)に注ぐ。

ダリヤーナが慌てて言う。高く澄んだ声だ。
「あ、あああ。エレナ様。あたくしがやります」
少し鈍いが、ダリヤーナは頑張って働こうとする。
「良いのです、ダリヤーナ。今のおまえは、領主様がお尋ねになったことにきちんとお答えするのが仕事です」
エレナの口調も仕草も堅苦しいが、優しくしようと努力しているのは、つきあいの長い私にはわかる。
が、ダリヤーナに通じているのかどうかは謎だ。

「うん。ダーリャ。あとで菓子も持ってこさせる。
エレナはこう見えて思いやりの深い婦人だ。もっと頼ったり相談したりすると良い。
エレナはな、この前など、私が疲れているのではないかと豪華な枕カヴァーを編んでくれた。驚くほど見事なレースでね。
売れば大金になるだろうに、ただの雇い主の私に贈ってくれると言う! 給金を上げてくれとも言わないで」
エレナが小さく笑った。ダリヤーナのようすはだいぶん落ち着いてきたが、まあ領主の呼び出しで、つきそいは女中頭だ。緊張は解けなそうだ。
私は紅茶を飲んだ。エレナは筋張った腕で、柔らかくダリヤーナの薄い肩を抱いた。

「……イア様が、どうかなさった……のですか?」
ごくごく小さな声でダリヤーナが聞く。
私からは目をそらし気味だ。二重硝子の窓にかかった濃紺のカーテンを透かして入る光で、ダリヤーナは青白い粘土の人形のように見えた。
この娘は素直である。外見から感情が簡単にわかる。誰かに何かしてあげたいと常に考えている娘のように見えた。それがこの前の食器大破壊を引き起こしたわけだが。

ダリヤーナは、イアに不機嫌をぶつけられたりしたこともあるだろうが、イアを憎んではいなさそうであった。虐められたりもしていないのであろう。
イアは嫌がらせや意地悪はするが……アクリナがただの料理女であったときには別に虐められたりしなかったと聞いている。
イアは立場の弱い者は虐めない。それは美点だ。
アクリナは身分こそ農奴だが、今は私の後ろ盾があり、Я家のなかではいちおう貴婦人扱いだ。
彼女の存在は、公には『ない』ことにされてはいるし、領主館では名前も出ないが。
そういう、アクリナが一種の『強者』になった状況のなかで、イアはアクリナにつきまといだした。
だが、立場の強い者に対してだとて、虐めたり暴れたりして良いわけではない。アクリナの臆病さはまったく変わっていないのだ。

私はダリヤーナに言う。
「……何軒か、名門のお宅からイアに結婚の話が持ち込まれている。イアお嬢さんも花嫁修業に励んで、見事な淑女になってきているからね」

エレナは肉付きの薄い顔で私を眺め、『ああ、またでございますのね』といった表情をした。

「……領主様、そうなのですか。う、嬉しいです」
ダリヤーナがうつむきながら、小声で呟く。
「イア様はご結婚なんて無理だって、いつも言われてらっしゃったから……」
誰にだ?

「それでね、ダーリャ。
貴族どうしだから、婚姻となると家の格式だの財産をどうするかだのと、面倒なことがある。花婿候補たちは、イアがどのような身であろうと、一刻も早く自分の花嫁に迎えたいらしいのだがね」

(そんな物好きはレオニード・バシュキロフだけだ!)

「貴族年鑑で色々と調べられるし、もちろんリザヴェタ奥様からも教えていただく。
だが、実際に仕えていたおまえからもイアの実家、エルマーコフ家の様子を聞きたい。花婿候補たちみんなが知りたがっているのだ」
ダリヤーナはぱっと顔を輝かせる。
「イア様が一番お気に入りの方は、どのような紳士なのでしょう……」

「……あ、イワノフ伯爵といってね。アレクサンドル・イワノフ伯爵。私の若い友人だ。ビザンティン美術……(ダリヤーナは知らないだろう)、いや、とにかく難しい研究をしている方だ。
美男なのに、少々不器用でね。領地の牧畜と、その研究しか興味がない。ああ、まったく、あの方が恋に落ちるとは意外であった。なあ、エレナ」

エレナは心得ているはずだが、こういう咄嗟の受け答えは苦手だ。
「え、ええ。驚きましたわ」
「エレナも何度もご挨拶している。イワノフ伯は誠実な方だと思わないか」
「ええ、それはもう……あ、あんな素晴らしい方に思っていただいて、イア様はお幸せですわ……ええ、あの、まったく、あのお方は、高貴で、美男子で、なのに気さくでいらして、……ご聡明で、ええと、外国語とかでたらめとかもお得意で……」
エレナまで緊張しだしている。まずい。それに私も出まかせ話の調子が出ない!

「ダーリャ。そういうわけだ。イアお嬢さんに、おまえが何か言ったなどとはもちろん伝えない。
イワノフ伯は、イア・ドミートリエヴナがどんな暮らしをしていたか事細かに知りたがっている。少々『お転婆』なところも気に入っていてな。
たとえ、『不良行為』や『暴力行為』をしたことがあろうと、そのまま受け止めたいそうだ」

「暴力……領主様は、イア様がドミトリー旦那様を殴ったことをご存じなのですか……?」
ダリヤーナが言った。
ドミトリーは、イア・ドミートリエヴナという父称からわかるように、イアの父上だ。
我が国は父権が強く、家長は絶対だ。男尊女卑だ。諺だって酷いものだ。『女の最上の善より、男の最悪のほうがまし』だとか。(そんなことはないだろう)

私は呆気にとられていたと思う。エレナもだ。
「……イアが、父上を殴った……? はあ?」
我が国で娘、しかも令嬢が父上を殴った話など聞いたこともない。
「ええ。あの……イワノフ伯爵様はイア様がお嫌いにならないでしょうか」
「いや、そんなことはない。親友の私が保証する。
彼はどのような……ああ、野蛮な暴力行為も受け入れ、二度としないように導くであろう。伯爵は、それほどイアを愛しているのだよ」

ダリヤーナが涙をこぼしながら、私を見あげる。
「ほんとうに……クズマの言うとおり、領主様は優しい方なのですね……」
主人思いの良い娘である。『悪い男に騙されないように気をつけろ』と忠告したくなるのだが、クズマという恋人がいるから良い……のか?
ダリヤーナは手巾で涙を拭った。
「ダーリャ、ドミトリー旦那様はどんな方なのかね」

「は、はい」
ダリヤーナは返事に困っている。やはり順序立てて説明するのが難しいのかも知れない。
「……あの、領主様とは全然違う方です……ええと……」

エレナが助け船を出した。
「ダリヤーナ、おまえはどうしてエルマーコフ家で働くことになったの? そこから領主様に説明してみなさい。あとは、領主様に聞かれたことに答えれば良いのです」
「はい……」
ダリヤーナの小間使いの制服に包まれた、細い膝がかすかに震えている。
「あ、あたくしの父が馭者だったのです。エルマーコフ家の……」
「そうか。その縁で働くことになったのだね」
「いえ。……あの、あたしは十二歳のときに、母がやっていた小間物屋の手伝いを始めました」
「母君の店の手伝い?」
「はい。あの、ほんとうに小さなお店でしたけれど、他に近所にお店はないし、……それなりに忙しかったです」

それなりに忙しい、つまり繁盛している店が家業であったダリヤーナが何故、イアのエルマーコフ家に奉公に行くことになったのだ?
「あたしの父も、馭者を引退して店を広げようと話していたのです。ですけれど……」
唐突にダリヤーナは、隣で背を伸ばして座っているエレナに泣きついた。
「エレナ様、こんなことを……領主様に」

「領主様はイア様におまえが喋ったとお話したりいたしません。率直にお話申しあげれば、イア様に良いように考えてくださいます」
エレナは微笑んで見せた……らしい。薄い唇の領端がほんの少し上がったが、慣れないためか引き()っている。

ダリヤーナは一大決心をしたようだ。前の主人宅の暗部をぽつぽつと語り出す。
「エルマーコフ家は……十年くらい前に、ドミトリー旦那様が博打でお金をすってしまったのです」
「……ああ。良くある話だ。ダーリャ、話してくれて助かるよ。続けてごらん」
「まえは農奴が50人もいる大きな領地でものすごいお金持ちだったのに、
(大きくない)
農奴も一家族が残っているだけで!
それでもドミトリー旦那様は賭場通いが止められなくて……おまけに賭場にいる、……いかがわしい女の人に、しょっちゅうたくさんお金をあげて……ますます貧乏に」
それでイアは潔癖になったのか?

ダリヤーナは泣きながら続けた。エレナが背中を撫でていた。
「あの、あたしの父が気の毒がって辞められなくなって、あたくしも店の暇を縫ってエルマーコフ家に手伝いに行くようになったのです……」
「……うん。ダリヤーナ。おまえもおまえのご両親も優しいな」
(人が良すぎる)

「お屋敷にうかがったら、イ、イアお嬢様が料理をしてらしたんです! しかも鍋にジャガイモとそのへんにある葉っぱをいれただけのシチーで……びっくりしました! 杉の針みたいな葉まで入っているんです」
「……そこまで人がいなくなったのか」
ダリヤーナはうなずいた。
「ドミトリー旦那様が料理がまずいとおっしゃると、いつもイア様は苛々なさっていました。
当たり前です。だってご令嬢なのに、包丁を持って料理をするなんて。持ち方も滅茶苦茶ですし、ジャガイモの泥も落としてないですし」
それで平気で大樽洗いやら洗濯やらをやっていたのか……?

「斧を持ってらっしゃるときもありました」
「はあ?」
「あの……まだ博打の片に取られていない土地があって、でもそこは開墾されていないので、森を斧で切り開こうとしたようです。一軒しかいない農奴の家の息子たちも連れて……でも息子たちも十歳くらいなので、一本も木が切れなかったらしいです」
「それはすごいね……さすがイアお嬢さんだ」
私はそう言って思わず溜息をついた。
二度だけ行ったシベリヤのことを思いだした。河川航路で船から眺めていると、じつに単調な景色が延々と続いていた。
開墾されてライ麦が植えられた緑の土地、まっすぐな酷い悪路、開墾されていない針葉樹林……その三種だけが延々と連なり、空ばかり広かった。
あとは、アクセントのようにぼろぼろの丸太小屋やテント、木製の教会が時たま見えるのであった。

「イアの母上、フェヴロニヤ様はどうしていらした? 貴夫人に貧乏はお辛いであろう」
「フェヴロニヤ様も同じです。……農婦みたいに天秤棒の柄杓を肩に掛けて、水汲みをなさっておられました」
それで、イアは人減らしとともに、良縁で家を復興させることを目的に、こちらに送り込まれたのか。
エレナがしんみりと聞いている。彼女の生まれも貧しかったはずだ。

ダリヤーナは興奮しだすと熱心に喋るようだ。声は小さいが、早口で支離滅裂に話す。
「フェヴロニヤ様は……、あの、二ヶ月に一度、ドレスをかき集めて、お父ちゃんに、あ、あの、あたしの父に、馭者をさせて、イア様をおきれいに着飾らせて、……」
「イアお嬢さんを着飾らせて、どこかに連れて行かせたのだね。フェヴロニヤ奥様もごいっしょに出かけたのか」
「フェヴロニヤ様も行ったり、あたしも時々、お供しました」
ダリヤーナの話し方がさらに混乱してきた。要するにフェヴロニヤ義叔母上は、イアを着飾らせて、定期的にどこかに連れていかせていたらしい。
どこに? 貧乏になった若い令嬢を着飾らせて連れて行く所といえば、……不吉な予感がする。

「ダーリャ、どこに行ったのかわかるかい」
「リザヴェタ奥様のお実家(さと)のリャードフ家です」
「え……、ああ。そうか」
もっと悲惨な想像をしてしまっていたので、拍子抜けした。

「エレナ。ダーリャに菓子をやってくれ。疲れてきたようだ。おまえも食べるといい」
「領主様はいかがなさいます?」
「紅茶を飲み過ぎたから良いよ」
エレナが出ていき、応接間に私と二人きりになったダリヤーナは固くなっている。
どうせろくでもない噂を吹き込まれているはずだ!

意外なイアの話を聞いて私も疲れた。
が、一部屋に二人でいて黙っていると、ダリヤーナは私への恐怖に襲われそうだった。なるべく優しく尋ねた。
「ダーリャ、クズマは優しいか?」
「……はい。乱暴に振る舞っているけど、あたしには優しいんです」
ああ、自慢された。
「突然、花を持ってきてくれたりするんです。
領主様に教わったと言って……贈り物だけではなくて突然馬に乗せて森の中へ連れて行ってくれたり……すごくぶっきらぼうに、どんなにあたしが好きか話しだしたり。それに、あたしのために扉を開けてくれたりするんです!」
私の『手練手管』と『単なる礼儀』初級編の一部が、間接的にこの少女とクズマ少年の若い恋人同士に役立っているらしい。
結構なことだ。

「クズマにお返しに何かあげたいのですけれど、何なら喜ぶでしょう……お金のかからないもので」
「うん、エレナにレース編みを習ったらどうかね。二人そろいの枕カヴァーを編んでみるのもいいのではないか? 結婚してからも使えるようなものを」
(別れるかも知れないが)
ダリヤーナは真っ赤になりながら答えた。「……は、はい」

エレナが菓子を持って戻ってきた。
ダリヤーナの前に皿を置く。黒スグリのジャムとサワークリーム(スメタナ)をたっぷり掛けたブリンだ。
「疲れたろう。食べてから話を続けてくれ」

—-

「……Я家では、あたしのような小間使いまで週に一、二度お菓子をくださって。すごく嬉しいです……。
イア様とリャードフ家に行くと、料理女がいて、お菓子を作ってくれました。
イア様は、前にいらしたアクリナ様のお菓子のほうが美味しいとおっしゃっていましたけれど、やっぱり夢中で食べてらっしゃいました」

「……なるほど」
私はアクリナに魅了され、彼女の何もかもを賛美しているように見えるかも知れないが、料理女としては、正直なところ、とてつもなく優れているとは思っていない。
まあ、我が国のそれなりの家庭の料理女のなかでは、並みよりやや上といったところであろうか。

ほとんどのメニューは我が領主館の料理女頭ゼルノヴァのほうが美味いし、当然だが要領も良い。大勢の料理女に流れるような指示を出せる。アクリナには絶対に無理だ。
だが、昔からある料理は手堅く美味に作るし……たまに大失敗するが……、それに香草や薬草を育てるのを好む。時々、香草を意外なものに入れて、面白い取り合わせの料理を出してくれる。
香りに敏感なイアなら私などよりアクリナの料理の良さがわかるだろう。だいたい当時のイアの境遇では、アクリナの料理など天使が運んできた晩餐同然だ。

「リザヴェタ奥様はそのようなことは一言もおっしゃらなかったが」
「だから、あの、フェヴロニヤ奥様は……、ご自分のお姉様たちにも隠しておられました。
ああ。あの、最初ドミトリー様と結婚なさったときはたいそうご自慢だったそうです。名門でお金持ちでフランス語までできるご立派な方でしたから」
(それでイアのフランス語があの程度か)
ダリヤーナが小さな頭を下げる。「領主様、エレナ様。どうか、リザヴェタ奥様にもおっしゃらないでください」
「フェヴロニヤ奥様は誇り高い方なのだね。わかった。それで、……どうしてイアは父上を殴ったのかね」

ダリヤーナが答える。だいぶん慣れてきたようだ。
「あ、あのう、たまたまあたしが手伝いに行っているときでした。
ドミトリー旦那様が、賭博で珍しくお勝ちになって、珍しく、お金をたくさん持ってらして……、イアお嬢様に『小遣いをやろう』とおっしゃったのです」
「うん」
ドミトリー殿は根っからの悪人ではないらしい。我が国の賭博好きの大半がそうであるように、しかしやめる意志はない。迷惑だ。
それで、何故殴ることになるのだ? 賭博を止めたかったのだろうか。

「イア様はお母様とごいっしょに、ちょうど水汲みをしてきたところで……あたしは洗濯をしておりました」
聞くだけで重い気分になる。
エルマーコフ家の領主館もかつては田舎なりに栄えていたのだろうが、すっかり(すす)けているだろう。
零落(れいらく)した令嬢が、水汲みまでしているとは。
あの鋭いリザヴェタにさえ気づかせなかったというのはすごいことだ。フェヴロニヤ義叔母上は異常に誇り高く、貧乏を隠す執念と努力が尋常ではなかったのだ。

ダリヤーナは長椅子にちんまり座って、上目遣いに私を見あげている。
「それで、小遣いなんていらないという叫び声が聞こえました。イア様が叫んだんです」
ダリヤーナは聞き取りにくい小さな声で、一生懸命説明する。
「水汲み用の天秤棒で、ドミトリー旦那様を殴って、あの……お金を全部わしづかみにして……。フェヴロニヤ奥様も『早く行きなさい』、とおっしゃって……あたしもなんだかわからないうちに連れて行かれて……」
「はあ……」
私とエレナはただただ呆気にとられて聞いていた。

「あたしのお父ちゃん……、馭者が、馬車を用意して待っていて、乗れと言いました。
父がイア様とあたしをモスクワまで送ってくれました。それで、イア様はフェヴロニヤ奥様のお名前を使って、ご自分で、リザヴェタ奥様に手紙を書きました。
……そうしてЯ家に花嫁修業に来ることになったのです」

―-

聞いているだけで疲れた。
「ダリヤーナ、ありがとう。もう良いよ」
ダリヤーナが一礼して、食器を持って立ち上がる。
「あ……あの、イア様がイワノフ伯爵様とご結婚なさったら……あのう、あたしは……」
ダリヤーナはЯ家が気に入ったらしいし、恋人のクズマもいる。
「ダーリャ、おまえは我が家に一生仕えることになっていたね」
ダリヤーナは顔をほころばせ、深々と頭を下げて出ていった。

私はエレナに言う。
「要するに、自分の才覚と母上の協力でうちにたどり着いたわけか。たいしたものだな」
「お恥ずかしいことにまったく気づきませんでした。リザヴェタ奥様と仲がよろしいならまだしも、ほんとうに思い切ったことをなさるお嬢様ですこと」
「うん。レオニードがぼんくらだろうと、バシュキロフ家に嫁ぎたがるのも当然か……」
アクリナに木苺の菓子をあれだけねだったのも、子供のころ、二ヶ月に一度リャードフ家を訪ねたときに出された味が忘れられなかったのだろう。欲しくて欲しくて仕方がなかったのか。

私は溜息をつく。
「生家に返すわけにはいかないな」
あまり困った行動をするようなら尼僧院に入れてやる。
「エレナ。ダリヤーナに付き添ってくれてありがとう。今日のところはもう良い。イアは熱は下がったのか」
「まだずるずると、微熱が続いていらっしゃるようです」
私は奥の長椅子から立ち上がった。エレナが先に立ち、応接間の扉を静かに開けた。

—-

応接間は待合間のかたわらにあり、待合間から階段を降りて一階に出ると玄関間だ。玄関間からやたらに元気な少年の声が聞こえる。
『玄関に馬車をまわしました!』
クズマの声だ。馭者見習いだが、最近では一頭立てか二頭立ての馬車ならば、こいつが御すこともある。
『ありがとう。今、そちらに向かってらっしゃるわ』
リザヴェタ奥様の低いヴェルヴェットのような声だ。
来客がいるなどという話は聞いていない。誰が来て帰るのだ?

私とエレナは応接間から出た。エレナが鍵をかけてくれている。
待合間には、応接間の扉から数サージェン離れたところに、リザヴェタとイア、それに驚いたことに黒いドレスのアクリナがいた。
リザヴェタが何かアクリナに礼を言った。アクリナの答える声が聞こえた。
「……また明日も菩提樹(ぼだいじゅ)の葉とスイバを持ってまいります」
どちらも解熱効果のある薬草だ。

アクリナは私に気づかず階段を降りようとしていた。
居間でミハイルがイヴァンを泣かす、いつもの大騒ぎが始まる。リザヴェタは慌てて居間に戻っていく。彼女も私に気づいていないらしい。

待合間に残ったのは、イアと私、それに鍵をかけ終えたエレナ・ネクルィロヴァだけだ。
階段を降りようとしているアクリナの後ろ姿だけが見える。
私はアクリナに声をかけようとして、イアのようすのおかしさに気づいた。

イアは寝間着にローブを羽織った姿だ。髪は結っていない。ひどく険しい目でアクリナの背を凝視していた。恐ろしく強い目だ。民衆が『邪眼』と呼ぶのはこういう目つきなのであろう。
アクリナはいつものように黒い絹の皇帝様式のドレスで、肩甲骨の途中まで襟ぐりが開いている。肩にショールを掛けていたが、隙間から見える肩甲骨の影は白くなまめかしい。
もちろんいつものように無防備だ……。

イアが歯を噛みしめている。
アクリナの背の、すぐ後ろにいる。イアは葉っぱ色の絹のローブから両手を持ち上げた。両腕が肘まで剥き出しになった。ダリヤーナに言われてみれば令嬢にしては逞しい腕だ。その腕の先の、両のてのひらがアクリナの背に触れようとしていた。
エレナが呟いた。「イア様……?」

私はイアが今している行為が、何を企図しているのか悟った。「やめろ……」
イアは何か気配を感じたらしい。ちらりと振り向く。私と目が合った。
イアはぐったりと両手を下ろす。

『クズマ、助かります』
アクリナは何も気づかず、階段を小走りに降りていった。
掠れ声でクズマに声をかけているのが聞こえる。

私はイアのそばにゆっくりと歩いていく。イアの耳許で囁く。
「何故、途中で止めた?」
イアは平板に答えるのだった。
「だってお義兄様が見てたじゃない」
「私が見ていると何故止めるのだね」
イアは目をすがめて私を見あげた。病の後のためか、いつもの精力がない。微熱で顔は赤らみ、腫れぼったい。

いかにも力のない声で呟いた。
「……お義兄様に嫌われるから……」
「ああ。そうだ。それさえわかっていれば良い。見ていないところでも同じだ」
イアは黙ってうなずく。
私はイアの手を軽く握った。身長のわりに小さな掌は、まだ熱かった。
イアはすぐさま手を離した。

「……お義兄様、お願いをしても良い?」
うつろな声でイアが言った。
「何だね」
「……犬を買って。子犬。わたくしにだけ忠実な犬に育てるの」
「ボルゾイは駄目だ。(アクリナが怖がる。しかも高い)……リャードフ家にいたようなスピッツくらいなら良い」
「ああ、ナタリア義伯母様が飼っていたあの犬ね。そう、あんなのが良いわ」
「今度、ヒローシャに探させよう。この季節ならそろそろ子犬が生まれてくるはずだね」
「嬉しいわ。お義兄様」
イアは全然嬉しくなさそうにそう言い、そのままふらふらと北棟に向かう。

リザヴェタが居間から軽やかに戻ってきた。泣きわめくイヴァンを抱いている。
「エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、エレナ。応接間にいたんですの」
「はい。エレナと少々相談事がありましてね」
「いま、キノコ部長……(やっぱり変だわ)、いえ、アクリナさんがイアのために熱の下がる薬草を持って来てくれましたの。セミョーノフ医師も薦めてくれた薬草です。
アクリナさんは裏口から来て、裏口から帰ろうとするんですもの!
冗談ではないわ。ちゃんと表玄関からクズマに馬車で送らせることにしました」

私は泣きわめくイヴァンの頭を撫で、さらに泣き声が響き渡った。元気で良いのか……?
私はイヴァンの声に負けないよう、大声で叫ぶ。「奥様、さすがですね」
「エレナと相談って何でしたの?」
「今日は貴女の誕生日ではありませんか。【『アクリナが領主様に怒られるだけのお話』参照】
なのに、エレナに聞いたら、もう献立を決めてしまったそうではないですか。普通の日と同じに。……せめて貴女のお好きな赤ワインでも開けましょう」

「まあ!」
イヴァンの頬を自分の頬にくっつけながら、リザヴェタが心底驚いたように言う。
「わたくしの誕生日なんて忘れていました。そういえば三十歳になりました。エヴゲーニイ・パヴロヴィチ、貴男のお好きな年齢にようやく達して嬉しいことですわ!」
本気で言っているのか、嫌味なのかよくわからない。

……そして私は妻への贈り物の用意をし忘れたことに気づいた。


水汲みのようす。Alexey Venetsianov (1780–1847)
“Meeting at the well”[PublicDomain]